2026年10月1日
連載「ロンドン百貨店物語」全 4 回 の第 4 回
ロンドンのピカデリーに立つフォートナム・アンド・メイソンの始まりは、1707年、アン女王の宮廷の従僕が、毎晩取り替えられる蝋燭の燃え残りを売っていたことだと伝えられる。店はやがて戦地の将校、クリミアのナイチンゲールの病院、エベレストの遠征隊にまで食料を送り、ディケンズはダービーの丘が店のハンパーで埋まる様子を書いた。連載「ロンドン百貨店物語」の最終回は、4つの店のうちいちばん古い店の300年をたどる。

第1回のハロッズは食料品店から、第2回のセルフリッジズはアメリカ人の夢から、第3回のリバティは日本の品から始まった。最終回の店は、それより100年以上古い。始まりは、宮殿の燭台に残った蝋燭の燃え残りだった。
従僕と、下宿の大家
1707年は、イングランドとスコットランドがひとつになり、グレートブリテン王国が生まれた年である。その最初の君主となったアン女王の宮廷に、ウィリアム・フォートナムという従僕がいた。
宮殿では、毎晩新しい蝋燭がともされた。前の晩の燃え残りは、まだ十分に使える。フォートナムはそれを売って稼いでいた、と伝えられる。上等な蝋燭が高価だった時代、宮殿の燃え残りは立派な売り物になった。
フォートナムが間借りしていた家の主人ヒュー・メイソンは、宮殿に近い市場で小さな店を営んでいた。フォートナムはこの大家を誘い、ふたりで食料品の店を始める。これが1707年、フォートナム・アンド・メイソンの始まりである。
店と宮廷のつながりは、孫の代にも続いた。1761年、フォートナムの孫が国王ジョージ3世の妃に仕えるようになり、宮廷との縁で店の商売は大きく伸びた。
女王からの注文「ただちにスクタリへ」
店が売ったのは、宮廷や上流の客が欲しがる品だった。旅の多い客のためには、持ち歩ける食べ物も考えた。ゆで卵をひき肉で包んで揚げた「スコッチエッグ」は、1738年に自分たちが考え出したものだと、店はいまも言っている。
19世紀の初め、ナポレオンとの戦争が続くと、店は戦地のイギリス軍の将校たちに、干した果物や香辛料、保存のきく食べ物を送った。
1850年代のクリミア戦争では、ヴィクトリア女王みずから店に注文を出している。店の記録によれば、その中身はこうだった。「スクタリのナイチンゲール嬢のもとへ、濃縮ビーフティーを大量に、ただちに送るように」。スクタリは、いまのイスタンブールの対岸にあった、イギリス軍の病院の町である。
ディケンズが見たハンパー
ヴィクトリア朝の上流の人々は、競馬やボートレースに、料理を詰めたかご「ハンパー」を持って出かけた。その中身をそろえたのが、この店である。店によれば、ハンパーが広く売れるようになったのは、ロンドンで最初の万国博覧会が開かれた1851年の人出がきっかけだった。
その1851年の5月、作家チャールズ・ディケンズは、ロンドン南郊のエプソムで開かれた競馬の大一番、ダービーを見に行った。彼が編集していた週刊誌に載った記事の、ディケンズの筆とされる一節にはこうある。
どこを見ても、馬車の屋根にくくりつけられ、御者台に陣取り、後ろに結わえられ、下にぶら下がり、窓からのぞいている——フォートナム・アンド・メイソンが見える。
記事はこう続く。「さあ、ハンパーがいっせいに開き、緑の丘にロブスターサラダの花が咲く!」。さらに、自分がダービーに馬を出すなら、その馬に「フォートナム・アンド・メイソン」と名付ける、その名ならほかの馬をみな負かすに違いない、とまで書いた。
帰り道の場面は、「フォートナム・アンド・メイソンの燃えかすに思いを巡らせながら」という言葉で結ばれる。燃えかすとは、きれいに食べ尽くされたハンパーの残骸のことである。
新しいものも、遠い土地へも
1886年、アメリカの食品会社ハインツの創業者が、見本の品を5箱携えてロンドンにやって来た。店はその見本を、まるごと引き取った。トマトケチャップをはじめ、イギリスではまだほとんど知られていなかった品々である。のちにイギリスの朝食に欠かせなくなるハインツの豆の缶詰「ベイクドビーンズ」も、この国ではこの店から売られ始めたと伝えられる。
店は、遠い土地にも食料を送った。1922年、イギリスのエベレスト遠征隊の荷物には、店の品が詰まっていた。店の記録によれば、隊はウズラのフォアグラ詰め60缶と、シャンパン48本がなければ出発できなかったという。この遠征には、2年後に頂上を目指したまま消息を絶つ登山家マロリーも加わっていた。
ピカデリーの時計と、紅茶「クイーン・アン」

いまのピカデリーの店の建物は、1926年から翌年にかけて建て直されたものだ。赤れんがに白い石を組み合わせた、18世紀風の落ち着いた造りである。
1951年、店の持ち主が替わった。役員会の内紛の末に店を手に入れたのは、カナダ出身の実業家だった。この一族は半世紀あとの2003年、第2回のセルフリッジズも買い取り、2022年まで持っていた。
1964年、新しい持ち主は、正面入口の上に重さ4トンの時計を取り付けさせた。毎正時になると時計の脇の扉が開き、18世紀の装いをした創業者ふたりの人形が現れて、互いにお辞儀をする。鳴る鐘は、ビッグ・ベンの鐘と同じ鋳造所でつくられた。
店はこれより前の1907年、創業200年を祝って、創業の年の君主の名を取った紅茶「クイーン・アン」を売り出している。日本でも手に入る銘柄で、東京の日本橋三越には、この店のコンセプトショップもある。
通りの時計が、少し違って見えるはず
これで、ロンドンを代表する4つの百貨店の始まりを、すべてたどった。
盗品の干しブドウで流刑を言い渡された食料品屋。誰にも知られていなかったアメリカ人。共同経営を断られた店員。宮殿の蝋燭の燃え残りを売った従僕。4人の創業者は誰ひとり、ロンドンの商売の本流から出てきたわけではなかった。
4つの店はいまも、自分がどこから来たのかを建物に刻んでいる。ハロッズのテラコッタの壁、セルフリッジズの「時の女王」、リバティの軍艦の木の回廊、そしてこの店の時計。連載を読み終えたいまなら、通りからそれが読めるはずだ。
毎正時、扉が開いて、従僕と大家がお辞儀をする。それを、最後まで読んでくれたあなたへの挨拶として受け取ってほしい。
連載「ロンドン百貨店物語」は、これで完結です。
記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。
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ロンドンのリバティは1875年、日本の品を売る店から始まった——軍艦2隻の木材で建てた百貨店 第3回
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