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    3. イギリス政府がパブを経営していた57年間——「一杯おごる」が犯罪になった国で、国営ビールは毎年黒字を出していた

    2026年8月23日

    歴史・事件王室・制度暮らし・技術

    イギリス政府がパブを経営していた57年間——「一杯おごる」が犯罪になった国で、国営ビールは毎年黒字を出していた

    1916年から1973年まで、イギリスには国が所有し、公務員が経営するパブが400軒以上あった。ビールは薄められ、値段は上げられ、店員には「たくさん売る動機」が意図的に与えられなかった。そして第一次大戦中の数年間、パブで誰かに一杯おごる行為は、最高で禁錮6か月の犯罪だった。すべては、ある一つの町の泥酔者があまりに増えすぎたことから始まる。

    イギリス政府がパブを経営していた57年間——「一杯おごる」が犯罪になった国で、国営ビールは毎年黒字を出していた

    パブはイギリスの私有財産の象徴みたいな顔をしている。地元の醸造所があり、家族経営の大家がいて、国家とは最も遠い場所——そういうことになっている。だが実際には、20世紀のイギリスには「国営パブ」が存在した。しかも短い実験ではない。57年続いた。国が酒場を持ち、国が酒を造り、カウンターの内側には給料制の職員が立っていた。冷戦下の東欧の話ではなく、カンブリア州カーライルの話である。

    「我々はドイツとオーストリアと酒と戦っている」

    1915年、酒が国家の敵になった

    1915年1月、当時の財務大臣デイヴィッド・ロイド・ジョージは造船業の経営者団体を前にして、いまも引用され続ける一言を放った。

    「我々はドイツ人と、オーストリア人と、そして酒と戦っている。私の見るかぎり、この中で最も恐ろしい敵は酒だ」

    政治家の誇張と切り捨てるのは簡単だが、当時の政府にとってこれは軍需生産の実務問題だった。砲弾が足りない。工場が動かない。原因のひとつとして名指しされたのが、労働者の飲酒による欠勤と作業効率の低下だった。

    同年5月、政府は 中央統制委員会(Central Control Board (Liquor Traffic)) を設置する。この組織に与えられた権限が尋常ではなかった。海軍・陸軍・軍需・輸送に関わる地域であれば、パブと醸造所を強制的に買い上げて国の管理下に置くことができた。酒の広告は禁止。営業時間は大幅に短縮された。

    イギリスのパブが昼間に閉まる「アフタヌーン・クロージング」という奇習は、実はこのとき生まれ、その後およそ70年生き延びることになる。戦時の緊急措置が、平時の常識として居座り続けたわけだ。

    一杯おごったら禁錮6か月

    No Treating Order という異様な法律

    そして1915年10月、政府は歴史上まれに見る奇妙な命令を出す。No Treating Order(おごり禁止令) である。

    内容は一行で言える。注文された酒は、それを飲む本人が支払わなければならない。

    つまり「今日は俺が出すよ」が違法になった。パブで友人に一杯買ってやる——イギリス文化の中核にある「ラウンド」を、法律が名指しで潰しにきたのである。破った場合の最高刑は 禁錮6か月。実際に多く適用されたのは店主や店員への罰金だったが、条文上は明確に犯罪だった。

    狙いは合理的ではあった。ラウンド制には、飲みたくない人間にも飲ませる強制力がある。5人でパブに入れば、原則5杯飲むまで帰れない。おごり合いを禁じれば、各自が自分のペースで止められる。当時の報道は「タダ酒目当ての寄生者の終わり」と書いた。

    日本の職場の飲み会で、上司が勝手に注文したビールが目の前に置かれ続けるあの状況を、法律で強制終了させたと考えるとわかりやすい。実際、ラウンドの断りにくさは今日のイギリスでも変わっていない。政府が刑罰を持ち出すほど、この慣習は強固だったということでもある。

    この命令は地域や業種を限って運用され、戦後まもなく撤回された。ただし、それが撤回されたころには、はるかに大掛かりな実験がすでに始まっていた。

    人口5万の町に、2万人の労働者が流れ込んだ

    グレトナの軍需工場とカーライルの惨状

    舞台はイングランド北端の町カーライル。すぐ北のスコットランド国境沿いに、政府が世界最大級の火薬工場 HM Factory, Gretna を建設したことで、この静かな町の日常は崩壊した。

    工場建設のために大量の建設労働者(navvies)が流入する。彼らは重労働に従事し、高い賃金を得て、娯楽のない土地に置かれた。結果は予測可能だった。カーライル市内のパブに労働者が殺到し、街は連日泥酔者であふれた。

    数字が事態の深刻さを示している。

    • 1914〜15年の泥酔による有罪判決:約250件
    • 1916年の泥酔による有罪判決:953件

    2年足らずで4倍近い。しかもこれは摘発された件数にすぎない。

    政府にとって、これは風紀の問題ではなく生産の問題だった。工場が動かなければ前線に砲弾が届かない。ここで政府が選んだ解決策が、イギリス史上でも突出して過激なものだった。

    説得も課税も規制もやめて、酒場そのものを買い上げる。

    1916年7月、接収が始まった。対象はカーライル市内にとどまらず、東はロングタウン、南西はメアリーポート、そして国境を越えたグレトナやイーストリッグスまで、500平方マイルに及んだ。地域の醸造所5社が国有化され、オールド・ブルワリー1社を残してすべて閉鎖された。

    カーライル市内では、118軒あったパブのうち53軒が閉鎖され、残る65軒が国の直営となった。半分近くが消えた計算になる。

    「売る気のない店員」を制度で作る

    disinterested management という発想

    国有化そのものより興味深いのは、その運営思想だ。中核にあったのは disinterested management(無利害経営) と呼ばれる原則である。

    通常のパブでは、店主は売れば売るほど儲かる。だから客に「もう一杯どうです」と勧める。この構造がある限り、いくら説教しても飲酒量は減らない——政府はそう考えた。そこで、

    • 店の経営者を、固定給の職員に置き換えた。実質的な公務員である
    • 酒を多く売っても、その人の収入は 1ペニーも増えない ようにした
    • 一方で、食事やノンアルコール飲料の販売には手数料を認めた

    つまり 「客に酒を勧める動機を、制度から消す」 という設計だ。同時に、ビールのアルコール度数は下げられ、価格は引き上げられた。

    さらに建物そのものが作り変えられていく。主任建築家 ハリー・レッドファーン が手がけた「新型モデル・イン」は、それまでの立ち飲み中心の酒場とは思想が違った。

    • 食事のできるダイニングルームを備える
    • 女性が入れる部屋を作る。当時のパブは事実上、男性の空間だった
    • ボウリング場や庭を併設し、飲む以外にやることを用意する

    「酒を減らしたければ、酒以外の時間を作れ」という発想である。この設計思想は戦間期のイギリスのパブ建築全体に影響を与え、国有化されなかった地域の民間パブにまで広がっていった。

    禁酒運動が「飲むな」と叫び続けて失敗したのに対し、この実験は「飲む理由を減らす」ほうに賭けた。そこが決定的に違う。

    戦争が終わっても、誰も返さなかった

    3つの地区と、消えなかった制度

    この国有化は、正式には State Management Scheme(国家管理制度) と呼ばれ、3つの地区で実施された。

    • カーライルおよびグレトナ — 最大規模。1921年に運営上2地区に分割
    • クロマティ・ファース — スコットランド、海軍基地の周辺
    • エンフィールド・ロック — ロンドン北部、王立小火器工場の周辺

    このうちエンフィールドは早々に、1922年に民間へ売り戻されている。つまり本来なら、戦争が終わった時点で全部終わっているはずの制度だった。

    ところがカーライルでは終わらなかった。理由は、身も蓋もないが うまくいってしまったから である。

    泥酔による逮捕は激減し、地域の評判は改善した。そして経営面では、この国営事業は 存続したほぼ全期間を通じて黒字を出し続け、利益は国庫に納められた。福祉的な目的で始めた事業が、収益事業としても成立してしまったわけだ。

    ここに、この話のいちばん皮肉な部分がある。国営パブは失敗しなかった。だから終わらせる理由が見つからなかった。第一次大戦が終わり、第二次大戦が始まって終わり、NHSが創設され、ビートルズが解散するまで、カーライルの人々は国が造ったビールを国営の店で飲み続けた。

    黒字だったから、むしろ都合が悪かった

    1971年の法律と、57年の幕切れ

    終わらせたのは、経営の失敗ではなく政治だった。

    1970年に成立したエドワード・ヒース率いる保守党政権は、国家による事業所有そのものを縮小する方針を取る。そして Licensing (Abolition of State Management) Act 1971(国家管理廃止法) が成立した。法律の名前が用件をそのまま言っている。議論の余地なく、制度を畳むための法である。

    資産は6つのロットに分けて競売にかけられ、その多くが既存の大手醸造会社に渡った。法律は1971年、カーライルの売却が完了したのは1973年。1916年から数えて57年である。

    注目すべきは、この幕切れが「赤字だから」ではなかったという点だ。むしろ黒字を出し続けている国営事業が存在すること自体が、当時の政治的な立場からすると具合が悪かった、という見方は根強い。数字の上での敗北ではなく、思想の上での撤退だった。

    そして今日。カーライルを歩くと、この57年間の物証がまだ立っている。レッドファーンが設計した重厚なパブは複数が現存し、一部は歴史的建造物として登録されている。地元では近年、この歴史を掘り起こす活動も続いていて、当時のデザインを冠したビールまで造られている。

    イギリスのパブは、伝統に守られた不変の存在という顔をしている。だが実際には、いま我々が当たり前と思っているパブの姿——食事が出て、女性が入れて、庭がある——のいくつかは、100年前に政府が「国民に飲ませすぎないため」に設計した結果だったりする。

    次にイギリスでパブに入って誰かに一杯おごるとき、思い出してほしい。その何気ない行為は、かつて最高刑禁錮6か月の犯罪だった。

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