2026年9月28日
ハロッズを始めたチャールズ・ヘンリー・ハロッドは1836年、盗まれた干しブドウ約50キロを買い取った罪でオールド・ベイリーの被告席に立ち、7年の流刑を言い渡された。流刑を免れた彼の小さな食料品店を、息子は「現金払いのみ、配達は無料」のやり方で大きくし、1898年にはイングランド初の「動く階段」を据え付けて、上りきった客に気付けのブランデーを配った。連載「ロンドン百貨店物語」の第1回は、のちにワニも象もライオンも売った店の始まりをたどる。

ロンドンの大きな百貨店は、それぞれ違うところから生まれている。ロンドンの街並みを通りごとに記録してきた『サーヴェイ・オブ・ロンドン』は、ハロッズについてこう書いた。ロンドンの大百貨店としては珍しく、服地屋や雑貨屋からではなく、食料品店から身を起こした、と。連載「ロンドン百貨店物語」は、その食料品店の主人から始める。ナイツブリッジに店を構える十数年前、彼はロンドンの中央刑事裁判所、オールド・ベイリーの被告席に立っていた。
「今夜はこれで全部です」「それでいい」
1836年4月2日、土曜日の夜9時過ぎ。ロンドン塔のすぐ東にある一軒の食料品店を、テムズ川警察の警官たちが物陰から見張っていた。
やがて、食料品問屋の荷車が店の前に止まった。御者が荷台から袋をひとつ下ろし、店の奥へ運び込む。中身はカラント(小粒の干しブドウ)で、重さは約50キロ。本来なら、問屋の倉庫にあるはずの袋だった。
警官のひとりが客のふりをして店に入り、紅茶を買いながら耳をすませた。御者が店を出がけに言う。「今夜お渡しするのは、これで全部です」。店の主人が答えた。「それでいい」。お金のやりとりはなく、伝票も出てこなかった。
この店の主人が、チャールズ・ハロッド、37歳。のちにナイツブリッジで「ハロッズ」を開く男である。
手口は単純だった。問屋の倉庫係が、夜の荷積みのときに干しブドウの袋をこっそり荷車に紛れ込ませる。御者は配達の帰りに、それをハロッドの店に置いていく。ハロッドはそれを、相場のおよそ7割の値段で買い取っていた。御者はのちに法廷で、ハロッドの店には「何度も」運んだと認めている。
1836年5月9日、オールド・ベイリーの評決
倉庫係と御者は、2週間後に捕まった。ところがハロッドは姿をくらまし、警察が家を見張っても見つからない。つかまったのは5月2日、家に戻っていたところだった。
警官の証言によれば、ハロッドは「妻と家族のことを考えてください」とすがり、こう持ちかけたという。「20ポンド出します。逃がしてくれたら、二度とこの辺りには顔を出しません」。警官は断った。
5月9日、ロンドンの中央刑事裁判所、オールド・ベイリーで裁判が開かれた。御者は自分が助かるために、検察側の証人に回っていた。ハロッドの側からは、外科医や紅茶商など12人もの知人が、人柄は確かだと証言した。
それでも評決は、倉庫係もハロッドも有罪。刑は、ふたりとも7年の流刑だった。送り先は当時の流刑地、オーストラリアのタスマニアである。
その後のことは、ハロッドの玄孫のロビン・ハロッドが、一族の記録をたどって明らかにしている。ハロッドは流刑船を待つため、ポーツマスの監獄船に入れられた。ところが船が出る前に、体を壊したらしく、ロンドンの監獄の病棟へ移される。そのあいだに仕事仲間たちが減刑を願い出て、刑は軽くなった。ハロッドは1837年に釈放された。
一方の倉庫係は、そのままタスマニアへ送られた。刑期を終えたあとも、イギリスには戻らなかったという。
万国博覧会を当て込んだ、という創業の物語
釈放されたハロッドは、商売に戻った。1830年代半ばから、ロンドン塔の東、ケーブル・ストリートのあたりで紅茶と食料品の卸をしていた彼は、やがてシティのイーストチープにも店を出す。
ハロッズ自身は、いまも1849年を創業の年としている。この年ハロッドはナイツブリッジのブロンプトン・ロードに小さな店を借りた。2年後の1851年に、すぐ近くのハイド・パークで開かれる万国博覧会の人出を当て込んだのだろう、と説明されることが多い。
ところが、ロンドンの街並みを通りごと、1軒ごとに調べ上げてきた『サーヴェイ・オブ・ロンドン』は、1983年に出たブロンプトンの巻の脚注で、この年を疑っている。1849年はイーストチープの店を開いた年らしく、税の台帳にも商工名鑑にも、1853年より前にブロンプトンに店があった形跡は見当たらない、というのである。同書によれば、ハロッドはその1853年、フィリップ・ヘンリー・バーデンという男から、ブロンプトン・ロードに面した小さな家と食料品店を引き継いだ。当時の住所は「ミドル・クイーンズ・ビルディングズ8番地」。
万国博覧会は、1851年10月に閉幕している。台帳を信じるなら、ハロッドがナイツブリッジに来たのは、博覧会の客がとっくに引き揚げたあとだった。
そもそも、当時のこのあたりは高級な街ではなかった。同じ『サーヴェイ』によれば、店から2軒先の路地クイーンズ・ガーデンズには小さな家が数軒と大きな材木置き場があり、1886年になってもネズミがはびこっていた。店の裏手のノース・ストリートは、「端から端まで汚物の山」と言われていた。ブロンプトン・ロード沿いの店は、18世紀の終わりに建った家の前庭に、平屋の店舗を継ぎ足しただけのものだった。
その「裏手の汚い通り」は、いまハロッズの南側を走るバジル・ストリートである。巨大になった店は、ブロンプトン・ロード、ハンス・ロード、ハンス・クレセント、バジル・ストリートに囲まれた一区画をまるごと占めている。この「ハンス」は、前の連載「大英博物館物語」の第1回で見た医師ハンス・スローンにちなむ名だ。
1883年12月6日の火事と、クリスマスの注文
小さな店を大きくしたのは、息子のチャールズ・ディグビー・ハロッドだった。1841年生まれ。1860年ごろから父に代わって店を切り盛りするようになり、1864年に同業の食料品屋の娘と結婚する。店の住所が「ブロンプトン・ロード105番地」になったのも、この年のことだ。
息子が採ったのは、「協同組合式」とか「官吏ストア式」とか呼ばれたやり方だった。当時の食料品屋は、上流の家庭にツケで売るのが当たり前で、客を取るために屋敷の使用人に袖の下を渡すことさえあった。ハロッドはその逆をやった。掛け売りは一切せず、現金払いだけ。そのかわり値段を安くし、配達はすべて無料にする。貸し倒れも取り立ての手間もないぶん、薄い利幅でも商売が回る。同じ方式を採るほかの店は株式会社にして高い役員報酬を払っていたが、ハロッドは個人商店のまま続けて、そこでも経費を浮かせた。
1866年ごろに店を離れたチャールズ・ディグビーの兄弟が書き残したところでは、そのころには店頭の売上だけで週に200〜250ポンドあり、「たいへん儲かっていた」。その利益で売り場を増やし、1873年には裏に2階建ての増築をし、1879年には東隣の2軒を手に入れる。1880年代の初めに従業員は100人から200人近くに増え、1883年には食料品、酒、陶磁器、金物、文房具、香水、薬まで扱っていた。地元紙『チェルシー・ヘラルド』は、ハロッドの客は「貴族から農夫まで」いると書いている。
その1883年の12月6日、裏の増築工事の最中に火が出た。店はほぼ焼け落ち、損害は3万〜5万ポンドと見積もられた。箱詰めを済ませて発送を待っていたクリスマスの注文の品も、すべて燃えた。
ハロッドは近所に仮の店を借り、商品を仕入れ直し、詰め直して配達を始めた。その年のクリスマスの注文をひとつ残らず届けた、と伝えられる。新聞はこれを称え、記事を読んだ人々が押し寄せて、その冬は大商いになった。翌1884年9月、同じ場所に「完全耐火」をうたう新しい店が開く。この火事のあと、ハロッズは上得意の客に、初めて掛け売りを認めるようになった。
1885年3月、父のチャールズ・ヘンリーは85歳で世を去る。4年後の1889年、店は株式会社「ハロッズ・ストアーズ」になり、チャールズ・ディグビーはまもなく身を引いた。売却額は12万ポンド。後を任されたのは、ロンドン西部の大型店ホワイトリーズで支配人をしていたリチャード・バービッジだった。
上りきった客に、気付けのブランデー

バービッジのもとで、ハロッズは建物ごと生まれ変わる。1894年から1912年まで、18年かけて区画の建物を少しずつ建て替えた。土地は少しずつしか手に入らず、そのあいだも店は開け続けなければならなかったからだ。設計は地元の建築家チャールズ・ウィリアム・スティーヴンズ。外壁をドルトン社の桃色のテラコッタで包んだ、いま見るハロッズの姿は、このときにできた。ブロンプトン・ロードに面した正面と、その中央のドームが完成したのは1903年から05年にかけてである。
その工事のさなかの1898年11月16日、ハロッズはイングランドで初めての「動く階段」を客に披露した。いまのエスカレーターとは姿がだいぶ違う。段はなく、224枚の革をつなぎ合わせた1本のベルトが、斜めに上へ流れていく。手すりはマホガニーと銀張りの板ガラスでできていた。据え付けたのはピア(Piat)という会社で、特許の権利はハロッズに譲っている。
この年にはまだ、「エスカレーター」という言葉がなかった。アメリカのチャールズ・シーバーガーがこの語を商標にしたのは2年後、1900年のパリ万国博覧会のときである。
初めて乗った客の中には、上に着いたとき青ざめている人も多かった。店員が上で待ち構え、気付けのブランデーと、気付け用の嗅ぎ塩をただで配った。男性にはブランデー、女性には嗅ぎ塩だった、とも伝えられる。同じ年の12月、ハロッズは新聞にこんな広告を出した。「驚異の『動く階段』をご覧あれ。大英帝国にただ一台」。
1906年、フィラデルフィアの大百貨店ワナメーカーの幹部ジョゼフ・アペルがハロッズを視察し、首をかしげている。「ハロッズはアメリカの店とはまるで造りが違う。別々の店がアーチでつながって、横に並んでいるだけだ」。アペルは、建築法規のせいで売り場は2フロアまでしか作れないのだとも書いた。これは正確ではないが、大きな建物を防火壁で細かく仕切るよう求める当時のロンドンの法規が、店の造りを縛っていたのは確かだった。売り場の上の階は、ハロッズが家賃を取る高級アパートになっていた。アペルは内装の豪華さにも驚き、「気がつけば造作に見とれていて、商品をまるで見ていなかった」と書いている。
1898年の革のベルトは、当時の内装とともに、ほとんど何も残っていない。数少ない例外が、1903年に開いた精肉売り場だ。壁をドルトン社のタイルが覆い、デザインは陶芸家ウィリアム・ジェームズ・ニートビーが手がけた。木々の下に動物や狩人、鷹匠を描いたアール・ヌーヴォーのタイル画は、2019年に修復され、いまは食堂「ダイニング・ホール」の壁を飾っている。
店は儲かった。1890年に1万3500ポンドほどだった年間の利益は、1910年には21万ポンドを超えている。
コカイン、ワニ、象、ライオン
ハロッズの正面には、ラテン語の標語が掲げられている。「オムニア・オムニブス・ウビクェ(Omnia Omnibus Ubique)」。すべての人に、すべてのものを、あらゆる場所で。この店は、それを文字どおりにやろうとした。
1916年、第一次世界大戦のさなか。ハロッズは、前線の兵士に家族や友人が送る贈り物として、コカインとモルヒネ、それに注射器と針を詰めた小箱を売っていた。同じ年、ハロッズは老舗の薬局とともに、薬の売り方を定めた法律に違反したとして訴えられている。兵士のあいだに薬物が出回っているという報道が過熱し、その年の夏には、医療に携わる人以外がコカインやアヘンを持つこと自体が禁じられた。
翌1917年、ハロッズにペット売り場ができる。ここではしばらくのあいだ、犬や猫どころではないものが買えた。
1951年のクリスマスには、ある女優が、友人の人気劇作家への贈り物に、ここでワニを買った。
1967年11月には、インド生まれの子象が、飛行機でカリフォルニアへ送られることになった。受け取るのは州知事のロナルド・レーガン。象は、彼が属する共和党のシンボルである。この話は「レーガンが自分で電話をかけてきて、店員が『アフリカ産とインド産、どちらになさいますか』と聞き返した」という逸話つきで語られることが多い。けれど当時の報道写真の説明によれば、象を買ってレーガンに贈ったのは、亡命中のアルバニアの王族だった。
1969年には、ライオンの子が売り場にいた。オーストラリアから来た若者ふたりが買い取り、ロンドンの家具店の地下で育てる。大きくなったライオンは、映画『野生のエルザ』で知られる自然保護活動家の手で、ケニアの野に返された。1971年、会いに行ったふたりに、ライオンが後ろ足で立ち上がって抱きつく映像は、30年以上たってからインターネットで世界中に広まった。
1970年代に入ると、絶滅のおそれのある野生動物の取引を縛る法律ができ、こうした動物は売り場から消えていく。ペット売り場そのものは、2014年まで続いた。
店の持ち主も、何度も替わった。1959年、ハロッズは大手の百貨店グループの傘下に入る。1985年、エジプト出身の実業家アルファイド兄弟が、そのグループを丸ごと6億1500万ポンドで買い取り、2010年にはハロッズをカタールの政府系投資会社に15億ポンドで売った。アルファイドは2023年に94歳で死んだが、翌2024年、英BBCの調査報道をきっかけに、彼がハロッズの女性従業員らに性的暴行を重ねていたという訴えが相次いで明るみに出る。ハロッズは2025年、被害者への補償制度を設けた。
2024年、ハロッズは創業175周年を祝った。数えはじめの1849年は、ナイツブリッジの台帳にまだ店が見当たらない年である。
7年の流刑を言い渡され、地球の裏側へ送られかけた食料品屋の店は、いま「あらゆる場所で」を標語に掲げている。息子が築いたのは、ツケも袖の下も使わず、現金と引き換えに品物を渡し、どこへでもただで届ける商売だった。父の店にたびたび届いていた袋には、代金の受け渡しも、伝票もなかった。
――次回。1909年3月15日、ロンドン随一の繁華街オックスフォード・ストリートに、アメリカから来た男の百貨店が開く。セルフリッジズである。創業者は、ロンドンの人々に「買い物」そのものを楽しみとして売り込もうとした。
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