2026年10月15日文ジャスト・ロンドン編集部
サンドイッチ伯爵が賭博台で発明した話の出どころは、旅行記の噂ひとつ——その本は伯爵の名を一度も書いていない
トランプの手を止めたくない伯爵が、牛肉をパンにはさませた——サンドイッチの由来として誰もが知る話の出どころは、1765年にロンドンに滞在したフランス人の旅行記の、噂話ひとつしかない。しかもその本は伯爵の名を書いておらず、それより3年早い日記には、名前だけが話抜きで出てくる。伝記作家は、伯爵が食べていたのは賭博台ではなく仕事机だったと見る。

画像: Thomas Gainsborough / Public domain, via Wikimedia Commons
名前の由来がこれほど有名で、これほど裏付けの薄い食べ物も珍しい。最古の二つの記録を並べると、一方には名前があって話がなく、もう一方には話があって名前がない。そこから、18世紀の貴族の夕食が「机で片手で食べるもの」に変わり、英国で年に数十億個が売れる商品になるまでをたどる。
「大臣は24時間、賭博台を離れなかった」
誰もが知る話は、一冊の旅行記から始まる
サンドイッチの由来として語られる話は、だいたいこうだ。第4代サンドイッチ伯爵ジョン・モンタギュー(1718〜1792)は大の賭け好きで、勝負の席を立つのを嫌い、召使いに冷えた牛肉をパンにはさんで持ってこさせた。トランプを持ったまま片手で食べられ、指も汚れない。周りの者が「サンドイッチと同じものを」と頼むようになり、料理に伯爵の名が付いた——。
この話の出どころをたどると、ほぼ一冊の本に行き着く。フランス東部トロワの文筆家ピエール=ジャン・グロスリーが、1765年のロンドン滞在をもとに書いた旅行記『ロンドン』(1770年、スイスのローザンヌで刊行)である。2年後の1772年には英訳も出た。該当する箇所を英訳から訳すと、こうなる。
英国人は物事を深く考える国民で、欲望は激しく、どんな情熱も行き過ぎるところまで持っていく。賭け事においてもまったく常軌を逸している。(中略)ある国務大臣は、公開の賭博台で24時間を過ごした。勝負にすっかり没頭し、そのあいだ口にしたのは、焼いたパン2枚のあいだに牛肉をはさんだものだけで、それも勝負の手を一度も止めずに食べた。この新しい料理は、私のロンドン滞在中に大いに流行し、考案した大臣の名で呼ばれた。
読み返すと、肝心なことが書かれていない。この本は「ある国務大臣」と書くだけで、サンドイッチ伯爵の名を一度も出していない。「大臣の名で呼ばれた」とある以上、読者が伯爵を思い浮かべるのは自然だし、実際に1765年夏まで伯爵は国務大臣(北部担当)の職にあった。ただ、書き手が見たのは「料理の流行」であって、24時間の勝負そのものではない。勝負の話は、滞在中に誰かから聞いた噂として書かれている。
この噂話がのちに伯爵の名と結び付けられ、英語圏の料理史、雑学本、観光案内へと書き写されていった。由来話として広まったものの元をたどると、外国人の旅行記に一度出てくる、名前の伏せられた逸話ひとつなのである。
1762年11月24日、若い歴史家の日記
名前は、物語より3年早く記録されていた
「サンドイッチ」という語が食べ物の名として記録された最も古い例は、グロスリーの本ではない。オックスフォード英語辞典が初出に挙げるのは、のちに『ローマ帝国衰亡史』を書く歴史家エドワード・ギボンの日記である。
1762年11月24日、25歳のギボンは、セント・ジェームズ地区の会員制クラブ「ココア・ツリー」で食事をし、芝居を観たあとでまたクラブに戻った。その夜の日記にこうある。
私も会員の栄に浴しているこの立派な集まりは、毎晩まことに英国らしい光景を見せてくれる。家柄と財産の点でこの国の第一級の人々が、おそらく二、三十人、コーヒー室の真ん中でナプキンをかけた小さなテーブルにつき、冷肉をひと切れか、サンドイッチをつまみ、ポンチを一杯飲んでいる。
ここには伯爵も、賭博台も出てこない。ただ、ギボンは「サンドイッチ」を説明抜きで書いている。クラブの仲間内では、言えば通じる語になっていたということだ。上流の紳士が夜食に頼む軽食の名前として、1762年にはすでに使われていたのである。
ここで、年代を並べてみると話が合わなくなる。グロスリーは1765年の滞在中に「新しい料理が流行し、大臣の名で呼ばれた」と書いた。だが名前はその3年前から使われていた。そして1762年11月の時点で、伯爵は大臣ではない。1751年に海軍本部の長官を追われてから1763年に呼び戻されるまで、伯爵は政府の役職を離れ、田舎の屋敷で過ごすことが多かった。
つまり最古の二つの記録は、一方に名前があって物語がなく、もう一方に物語があって名前がない。両者をつなぎ合わせたのは後世の書き手たちで、つなぎ目には3年のずれがある。
伝記作家の見立て——賭博台ではなく、仕事机
「飽くなき伯爵」は、実は懐の寂しい働き者だった
伯爵の伝記の決定版とされるのが、海軍史家ニコラス・ロジャーが1993年に出した『飽くなき伯爵』である。題名は皮肉っぽいが、中身は世間の伯爵像をひとつずつ崩していく本だ。
ロジャーによれば、伯爵は同じ身分の人並みに賭けはしたものの、のめり込む賭博師ではなかった。そもそも懐が寂しく、地位の割に大きな額を賭けた記録がない。賭けたとしても少額で、たいていはクリケットの試合のような別の楽しみのついでだった。24時間も賭博台から離れないという姿は、この人物の記録と噛み合わない。
ロジャーが代わりに示すのは、仕事机という舞台である。当時の上流社会では、一日の正餐を午後4時ごろにとるのが習わしだった。ところがこの時間は、役所の仕事のいちばん忙しい時間帯にぶつかる。伯爵は生涯に海軍本部の長官を3度務め、国務大臣も務めた。机を離れずに片手で食べられる牛肉のパンは、賭け事のためではなく、仕事のための工夫だった可能性が高い——というのがロジャーの読みだ。
もっとも、これも決定的な証拠のある話ではない。伯爵の食卓は、むしろ評判が悪かった。屋敷を訪れた友人のデンビー卿は「手の込んだ料理のいくつかは、貧相か、すっかり時代遅れになっている」と書き残している。美食家が発明した料理ではなかったらしい。
それでも賭博の逸話が定着したのには、わけがある。伯爵には敵が多かった。国務大臣として急進派の議員ジョン・ウィルクスを猥褻文書の罪で訴追したとき、かつて親しくしていた相手を訴えたとして、人気の芝居『乞食オペラ』で仲間を裏切る悪党の名「ジェミー・トゥイッチャー」で呼ばれるようになった。アメリカ独立戦争のころに海軍本部を率いていたため、海での敗北の責任も一身に負わされた。放蕩で、腐敗していて、賭博に溺れる貴族——その像に、賭博台で肉をはさんだパンをかじる姿はよく似合った。
ロジャーの本は、その伯爵を、英国で最初の近代的な海軍大臣と呼べるほど有能な行政官として描き直している。彼の長官時代に探検航海の費用を認められたクックは、1778年に太平洋で見つけた島々を「サンドイッチ諸島」と名付けた。いまのハワイである。伯爵の名は地図からは消えたが、昼食からは消えなかった。
ポーツマス伯になるはずだった
爵位の名は、王を迎えに行った艦隊の停泊地から
そもそも、なぜ「サンドイッチ」なのか。爵位の名は、イングランド南東部ケント州の港町サンドイッチから取られている。町の名は古英語で「砂地の交易地」を意味し、中世には大陸との貿易を担う五つの特権港のひとつに数えられた。もっとも港はその後、土砂で埋まり、町はいま海から3キロほど内陸にある。
伯爵家とこの町を結び付けたのは、4代前の初代伯爵エドワード・モンタギューである。清教徒革命のあと王政が復活した1660年、彼は艦隊を率いてオランダへ渡り、亡命していたチャールズ2世を英国へ連れ帰った。その功で同年7月12日に伯爵に叙せられる。
部下で遠縁でもあったサミュエル・ピープスの日記には、7月10日、爵位の文書を国王の署名に回す場面が出てくる。19世紀にこの日記を刊行した編者は、そこに注を付けている。初代伯爵は当初、別の爵位名——ポーツマスを予定していたが、急に変えた。理由は記されていないが、王を迎えに出る前に艦隊が沖に停泊していたのがサンドイッチの町で、町の有力者たちから手厚いもてなしを受けていたからだろう、と。
予定どおりなら、私たちはいま「ポーツマス」を食べていたことになる。ポーツマスの名はその後、チャールズ2世の愛人に与えられる公爵位に使われた。
ちなみに初代伯爵は1672年、オランダとの海戦で旗艦が焼き討ち船に襲われて戦死し、ウェストミンスター寺院に葬られている。海軍と縁の深い家だった。第4代伯爵が海軍本部の机に向かい続けたのも、この家の巡り合わせと言えなくもない。
劇場の前で1ペンス——ヴィクトリア朝の路上のハムサンド
貴族の夜食は、半世紀で庶民の食べ物になった
サンドイッチは、はじめは上品な食べ物だった。1770年代に版を重ねた家庭向けの料理書『婦人の手引き』には、早くも作り方が載っている。
ごく薄く切った牛肉を、薄く切ってバターを塗ったパンのあいだにはさむ。端をきれいに切り落とし、皿に並べる。子牛肉やハムも薄く切れば、同じようにして出せる。
端を切り落とすという指示が、誰のための料理かを物語っている。この本は、十数品が並ぶ夕食の献立を組めるような家庭に向けたもので、巻頭の献立表にもサンドイッチがひと品として名を連ねている。
19世紀に入ると、サンドイッチは舞踏会の夜食の定番になった。名家に仕えたフランス人の料理人は、1813年の料理書で、鶏肉やハム、子牛肉、牛タンなどのサンドイッチを並べれば、夜会の費用を4分の3も減らせると書いた。そのうえで、少し投げやりにこう付け加えている。「世の中のあらゆるもののうち、サンドイッチほど説明のいらないものはない。誰でも多かれ少なかれ作り方を知っている」。
そして1851年、ロンドンの貧しい人々の暮らしを聞き書きした記者ヘンリー・メイヒューの『ロンドンの労働とロンドンの貧民』に、路上のハムサンド売りが登場する。メイヒューによると、この商売が始まったのは11年ほど前のことだ。ウェストミンスターでコーヒー店をつぶした男が、食い扶持を探して、劇場の入口でサンドイッチを売ることを思いついた。白い前掛けと白い袖カバーをつけ、白い布をかけた盆を持つ。値段は1個1ペンス。初めは一晩に10シリング売れ、半分が儲けになった。5、6週間もすると真似をする者が現れ、本人が「元祖ハムサンドはこっちだ」と言っても客は聞かなかった。
メイヒューの集計では、劇場やその周辺の盛り場で売っていたのは70人ほど。路上で売られるハムサンドは年に43万6800個、代金にして年1820ポンドにのぼった。ただし売り手の暮らしは厳しく、雨が降れば売れず、売れ残ればパンは乾き、ハムは色が悪くなる。メイヒューに話した若い売り手は、雪の中に足首まで埋まって真夜中過ぎまで立ち、「いっそ自分が雪になって溶けてしまえたらと思った」と語っている。
伯爵の時代から1世紀足らずで、サンドイッチは貴族のクラブの夜食から、劇場帰りの商店主や事務員が路上で買う1ペンスの軽食になっていた。
1980年春、店の棚に並んだ三角形
「机で食べる昼食」が、巨大な産業になるまで
サンドイッチの歴史で、伯爵の逸話の次に大きな転機は、意外に新しい。1980年の春、百貨店のマークス&スペンサーが、包装済みの冷蔵サンドイッチを売り場の棚に並べた。三角に切った白パンをプラスチックの容器に収め、具はサーモンとキュウリ、卵とクレソンといった定番。値段は43ペンスから。同社の保存記録によれば、最初は5店舗だけの試験販売だった。
それまで英国で外で食べるサンドイッチといえば、カフェでその場で作ってもらうか、国鉄の食堂のガラス棚で端の反り返ったものを買うかだった。最初に置いた5店舗のひとつ、エディンバラ店の食品売り場の責任者は、のちに英紙の取材に「その発想自体がなかった」と振り返っている。家で作れるものに誰が金を払うのか、と店の人間も半信半疑だった。本社の指示で倉庫を小さな製造場に改装し、バターを塗る機械を入れ、夜明け前から5人がかりで作った。
売れ行きは予想を超えた。扱う店はすぐに増え、1年後には店内では作りきれなくなって、外部の3社に製造を任せるようになった。1981年にはエビとマヨネーズのサンドイッチが登場し、以後、同社でいちばん売れる具になる。1990年には英国のサンドイッチ産業の規模は10億ポンドに達し、2017年には年80億ポンド、買って食べるものだけで年におよそ40億個と見積もられている。メイヒューが数えた路上のハムサンドの年間販売数を、大手スーパー1社が36時間で売る計算になった。
この急成長を支えたのは、昼休みを短くし、机で食べる働き方だった。ロジャーの見立てが正しければ、サンドイッチは生まれたときから「仕事を止めずに食べるもの」だったことになる。伯爵が海軍本部の机でかじったかもしれない牛肉のパンと、いま英国の会社員が画面を見ながら開ける三角形の容器は、同じ目的の食べ物である。
それでも、人々が好むのは賭博台の物語のほうだ。2012年5月、ケント州の町サンドイッチは「サンドイッチ誕生250周年」を祝った。ギボンの日記の1762年から数えた節目である。会場では18世紀の衣装を着た役者たちが、伯爵が勝負を続けるために焼いたパンと牛肉を頼む場面を演じてみせた。祭りの後援者は第11代伯爵で、その8年前、2004年に息子とともにアメリカのディズニーの施設内にサンドイッチ店「アール・オブ・サンドイッチ」を開いていた。
先祖の名を冠した店は、賭博台の逸話をそのまま看板の物語にしている。噂ひとつから始まった由来話は、子孫の手で商売になり、いまも売れ続けている。
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