マラソン42.195kmはウィンザー城で決まった——1908年ロンドン五輪、「王女のため」は作り話だった
マラソンの42.195kmという半端な数字は、1908年ロンドン五輪のウィンザー城〜ホワイトシティ競技場の一本の道から来ている。「王女が子ども部屋の窓からスタートを見たがったので距離が延びた」という有名な逸話は、五輪史研究者ボブ・ウィルコックが王室文書館と当時の新聞を洗い直して否定した。本当の理由は、人払いと、ロイヤルボックスの下の扉が使えなくなったことだった。
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マラソンの42.195kmという半端な数字は、1908年ロンドン五輪のウィンザー城〜ホワイトシティ競技場の一本の道から来ている。「王女が子ども部屋の窓からスタートを見たがったので距離が延びた」という有名な逸話は、五輪史研究者ボブ・ウィルコックが王室文書館と当時の新聞を洗い直して否定した。本当の理由は、人払いと、ロイヤルボックスの下の扉が使えなくなったことだった。
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ウィンブルドン選手権の第1回は1877年7月、ロンドン郊外のクロッケー・クラブが、芝生を均すポニー・ローラーの修理代を集めるために開いた催しだった。出場者22人、決勝の観客は1シリングずつ払った約200人、利益は10ポンド。急ごしらえで決めたコートの寸法と「15・30・40」の数え方がなぜいまも世界のテニスのルールなのか、そして初代王者スペンサー・ゴアがのちにこの競技をどう評したのかを、当時の記録からたどる。
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1914年8月、第一次世界大戦へ向かうカナダ軍の獣医ハリー・コールボーンは、オンタリオ州の小さな駅で猟師から子グマを20ドルで買い、自分の町の名をとって「ウィニペグ」と名付けた。大西洋を渡ったこのクマは戦場へは連れて行けず、ロンドン動物園に預けられる。10年後、その檻に一人の少年が駆け込んだ。名前はクリストファー・ロビン。刊行から100年を迎えた『クマのプーさん』の「ウィニー」がどこから来たのか、そしてその由来がなぜ半世紀のあいだ忘れられていたのかを、獣医の従軍日記と動物園の記録から辿る。
続きを読む →紅茶にミルクを入れるのは、カップに注ぐ前か後か。英国規格協会は1980年、6ページの規格に「ミルクを火傷させないために、先に」と書き、1999年にイグノーベル文学賞を受けた。だがこの問いは、上流階級が「MIF(ミルクが先)」と陰口をたたく階級の目印になり、統計学の教科書の一章を生み、オーウェルと王立化学会を正反対の結論に導いてきた。
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マンチェスター二大クラブ物語 第2回マンチェスター・シティの前身は、1880年に、ある教会のまわりで生まれた小さなチームである。当時の街では、少年たちのギャング団が刃物とベルトで抗争を繰り返していた。創設者は牧師の娘アンナ・コネル——と長く語られてきたが、クラブ公式の歴史家はこれをはっきり否定している。教会のチームはやがてパブで着替えるようになり、最高の世代を丸ごと、同じ街のユナイテッドに手放すことになる。
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マンチェスター二大クラブ物語 第1回世界でもっとも有名なサッカークラブのひとつは、鉄道会社の工場で働く人たちの社内チームとして始まった。日本でいえば実業団である。緑と金のシャツを着て、パブで着替え、化学工場に囲まれたグラウンドで戦った。1902年、裁判所はそのクラブに清算を命じる。救ったのはバザーで迷子になった一匹のセントバーナードだった——と、クラブは百年以上語り継いできた。
続きを読む →イギリス人の好き嫌いを真っ二つに割る茶色いペースト、マーマイト。1931年、英国人医師ルーシー・ウィルスはボンベイの病棟で、重い貧血で死にかけた妊婦たちにこれを食べさせた——吐き気を抑えるため、氷で冷やし、砕いた胡椒を加えて。正体不明の有効成分は「ウィルス因子」と呼ばれ、10年後、アメリカでほうれん草4トンから取り出されて「葉酸」と名づけられた。
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「カラスが6羽いなくなればロンドン塔は崩れ、王国は滅びる」——チャールズ2世の勅命だと、いまも塔で語られている。ところが塔の公式歴史家が千年ぶんの記録を洗っても、19世紀末より前にカラスへの言及がひとつも出てこない。塔は600年間、ライオンやホッキョクグマの飼育記録をきちんと残していた。カラスだけが、その台帳に一行も現れないのである。
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「第二次大戦中、イギリスで配給されなかった数少ない食べ物がフィッシュ&チップスだった。チャーチルがこれを『良き伴侶』と呼び、国民の士気のために守り抜いたからだ」——この話は日本語でも英語でも無数に繰り返されている。前半は事実だが、後半はおそらく作り話で、しかも本当の理由は「守られたから」ではなく「守れなかったから」だった。1942年2月3日の下院議事録には、ヨークシャー選出の議員が「工場町ではいま、フィッシュ&チップス屋のほうがパブより閉まっている」と訴える場面が残っている。
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1879年、オックスフォード英語辞典(OED)の編集主幹ジェームズ・マレーは、英語を読むすべての人に「本を読んで用例を書き送ってほしい」と呼びかけた。応じた数千人のうち、20年以上にわたって最も的確な用例を送り続けた一人は、ロンドンで見ず知らずの労働者を射殺し、犯罪精神病院に無期限で収容されていたアメリカ人の元軍医だった。しかも彼の働き方は、他のどの志願者とも違っていた。よく語られる「マレーは相手が患者だと知らなかった」という劇的な逸話が、なぜ事実ではないのかも含めて辿る。
続きを読む →ロンドンの赤い電話ボックスのあのドーム屋根には、出どころとされる場所がある。セント・パンクラス旧教会の墓地に建つ、建築家ジョン・ソーンが亡き妻のために設計した墓だ。設計者ギルバート・スコットは、競技に勝った年にソーンの美術館の理事になっている。ところが、本人が「墓を見た」と語った記録は一行も残っていない。100年間、誰も証明できないまま語り継がれてきた話を、証拠のあるところとないところに分けて辿る。
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コナン・ドイルが1887年に「221B ベーカー街」と書いたとき、その番地はロンドンに存在しなかった。ベーカー街の番地は85までしかなく、221は街路の終わりのはるか先だった。ところが1930年に街路が北へ延び、番地が虚構に追いついてしまう。そこに建った銀行は、世界中から届く手紙に返事を書くため「シャーロック・ホームズ秘書」という職を70年間置き続けた。
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