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    2026年9月30日

    歴史・事件ロンドンの街暮らし・技術

    連載「ロンドン百貨店物語」全 3 回 の第 3 回

    ロンドンのリバティは1875年、日本の品を売る店から始まった——軍艦2隻の木材で建てた百貨店 第3回

    ロンドンの百貨店リバティは1875年、日本や東洋の品を売る小さな店として、リージェント・ストリートの店の半分から始まった。きっかけは、13年前のロンドン万博に初めてまとまって並んだ日本の工芸品だった。連載「ロンドン百貨店物語」の第3回は、日本の品で始まった店が2隻の軍艦の木材で本店を建て、イタリアでは様式の名前になり、いまはその柄が日本で愛されるまでをたどる。

    ロンドンのリバティは1875年、日本の品を売る店から始まった——軍艦2隻の木材で建てた百貨店 第3回

    第1回のハロッズは食料品店から、第2回のセルフリッジズは最初から大百貨店として生まれた。今回のリバティの出発点は、日本である。正確に言えば、1862年のロンドン万博に並んだ日本の品々だった。その品々を、見に来た日本人は「古道具のようだ」とけなし、ロンドンの若い店員は夢中になった。

    1862年、ロンドン万博の日本の品

    日本人は「古道具のようだ」と書いた

    1862年5月1日、ロンドンで2度目の万国博覧会が開幕した。開会式には、ちょうどヨーロッパを回っていた江戸幕府の使節団38人が、賓客として並んだ。その中には、若き日の福沢諭吉もいた。

    会場には、日本の品を集めた一角が初めて設けられ、600点を超える品が並んだ。漆器、刀、ちょうちん、わらじ、みの。集めたのは、初代の駐日英国公使である。日本が自分で出品したわけではない。

    ヨーロッパの客はこれを大いにほめた。ところが使節団の一員は、日記にこう書き残している。会場の日本の品は古道具のようで、みな見苦しかった、と。

    同じ年、ロンドンの北西にある町の服地屋の息子が、リージェント・ストリートの大きな肩掛けとコートの店で働き始めた。アーサー・ラセンビー・リバティ、まだ10代だった。

    博覧会が終わると、店は日本の品の多くを買い取り、「東洋の品の売り場」を開いた。1864年、その売り場をリバティが任される。日本の品はよく売れ、やがて店でいちばん儲かる売り場になった。客には、ホイッスラーのような画家たちがいた。

    10年あまりたって、リバティは店の共同経営者にしてほしいと願い出た。答えは、否だった。

    1875年、店の半分から

    借りた2000ポンドは、1年半で返した

    1875年、リバティは独立する。元手は、のちに義父となる人から借りた2000ポンド。借りられたのは、リージェント・ストリートの店の、それも半分だけだった。働き手は3人。並べたのは、日本や東洋から来た飾り物、布地、美術工芸品である。

    店は当たった。1年半で借金を返し、残りの半分も借りる。当時のロンドンでは、日本や東洋の品が大流行していた。同じような品を置く店はほかにもあったが、この店はとりわけ画家や文人に好まれた。1889年、作家オスカー・ワイルドはこう書いている。「リバティは、芸術好きの買い物客が選ぶ店だ」。

    リバティは、輸入品を並べるだけでは満足しなかった。イングランド中部の染め物職人と組み、東洋の布のような淡く柔らかな色合いの布を、イギリスで染めさせる。店はこれを「アート・カラー」と名付け、やがて世界で「リバティ・カラー」と呼ばれるようになった。のちのリバティプリントにつながる、店独自の布の始まりである。

    本人の言葉が残っている。「私は、いまある流行を追わず、新しい流行をつくろうと決めていた」。

    1885年、ナイツブリッジの日本人村

    喜歌劇『ミカド』の衣装

    1885年1月、第1回のハロッズがあるナイツブリッジで、「日本人村」という見世物が始まった。大きな建物の中に日本の家並みを再現し、およそ100人の日本人の男女が暮らしながら、職人の手仕事を実演して見せる。茶屋では午後5時のお茶が飲め、日本の音楽も聞けた。開会の挨拶をしたのは、23年前の万博に日本の品を出した、あの元公使だった。2年半の会期に、100万人を超える人が訪れている。

    同じ年の3月14日、ロンドンで、日本を舞台にした喜歌劇『ミカド』が初演された。台本作者は日本人村に足を運び、村の日本人に頼んで、役者たちに日本風の身のこなしや踊りを教えてもらった。

    女性の衣装の多くは、リバティの工房で仕立てられた。生地は、どれも日本のものだった。ヒロインの恋を邪魔する年配の女性の役が着た衣装は、200年ほど前の本物だったという。リバティはその前年に、衣装の部門を開いたばかりだった。

    5月、日本人村は火事で焼け、日本人の木彫り職人がひとり亡くなった。村は建て直され、その年の12月に再び開いている。

    1889年、日本へ

    イタリアでは、様式の名前になった

    1889年の春、リバティは妻と連れ立って、初めて日本を訪れた。同行したのは、のちにロンドンで美術雑誌を創刊する実業家と、風景画家である。妻は旅先で写真を撮り、のちに写真集にまとめて出版した。

    帰国した翌年、リバティはロンドンの芸術協会で日本の工芸について講演し、こう述べている。「日本の美術が明らかにしたものは、わが国の工芸の再生に、少なからぬ力を貸した」。当時のイギリスでは、日本が急速に西洋化するなかで、あれほど愛された工芸の質が落ちるのではないか、と案じる声も上がっていた。

    店の品ぞろえも変わっていく。輸入品に加えて、イギリスのデザイナーに作らせた銀器や錫の器、家具、布地が増えた。植物のつるや花をかたどった、曲線の多い意匠。ヨーロッパで「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」と呼ばれた流れである。イタリアでは、この様式そのものが店の名を取って、「スティレ・リバティ(Stile Liberty)」、つまりリバティ様式と呼ばれるようになった。

    リバティは1913年にナイトに叙せられ、1917年5月11日、73歳で亡くなった。

    1924年、2隻の軍艦で建てた本店

    表通りは石、裏通りは木

    本店の吹き抜けのひとつ。彫刻を施した木の回廊が何層にも囲んでいる。どの部材が軍艦から来たものかは、写真からは見分けられない。2022年撮影。写真: Nick-D / CC BY-SA 4.0
    本店の吹き抜けのひとつ。彫刻を施した木の回廊が何層にも囲んでいる。どの部材が軍艦から来たものかは、写真からは見分けられない。2022年撮影。写真: Nick-D / CC BY-SA 4.0

    創業者が亡くなって5年後の1922年、新しい本店の工事が始まった。

    表のリージェント・ストリートでは、地主である王室の不動産管理団体が、建物の正面を古典様式の石造りにそろえるよう求めていた。リバティも、表通りの建物はその決まりに従った。だが裏通りのグレート・マールボロ・ストリートの土地は、店が自前で持っていた。そこに建てたのが、16世紀の町家を思わせる、黒い木組みと白い壁の建物である。

    木材には、退役した2隻の軍艦を使った。1隻は1860年に進水した、大砲121門の木造の大型戦列艦で、のちに少年水兵の練習船になった。もう1隻は1841年進水の80門艦で、海軍士官の卵を育てる練習船として使われていた。2隻は1921年、同じ解体業者に売られている。

    使った船のオークとチークは約680立方メートルを超え、甲板の板はそのまま売り場の床になった。1隻を造るのに、イングランド南部の森の樹齢100年のオークが3040本使われたという。通りに面した正面の長さは、もう1隻の船体の長さと同じである。

    店の中は、家のように造られた。3つの吹き抜けのまわりに小さな部屋を並べ、暖炉まで備えた。工事の請負額は19万8000ポンド。1875年に借りた2000ポンドの、およそ100倍である。

    屋根の上には、1620年に清教徒をアメリカへ運んだ帆船をかたどった、金色の風見が載っている。表の建物と本店をつなぐ渡り廊下の時計では、毎正時に聖ジョージと竜が現れて戦う。アーチには、こんな銘が刻まれている。「過ぎた1分は二度と戻らない。心して、何ひとつむだにするな(No minute gone comes ever back again, take heed and see ye nothing do in vain)」。

    第2回のセルフリッジズは、1909年に鉄骨で建った。その15年後、リバティは木で建てた。

    タナ湖の綿と、日本のリバティプリント

    日本から始まった店の柄が、日本で愛される

    1930年代の初め、リバティの綿の仕入れ担当者が、新しい看板の布を生み出した。エチオピアのタナ湖のあたりで育つ、繊維の長い綿を使った薄手の生地で、湖の名を取って「タナローン」と名付けられた。絹のようになめらかなこの生地に細かな花柄などを刷ったものが、いまリバティプリントとして知られる布である。

    日本とのつながりは、いまも続いている。リバティは1988年から日本に子会社を置き、リバティの名を冠した生地や製品を国内の大きな店で売ってきた。手芸店に並ぶリバティプリントの生地を手に取って、この柄がロンドンのどこから来たのかを思い浮かべる人は、そう多くないかもしれない。

    1862年の万博で、日本人自身が「古道具のようだ」と書いた品々に、ロンドンの若い店員は夢中になった。彼は日本の品を売る店を開き、やがて自分の店の柄を世界に売るようになる。その柄は、いま日本で愛されている。

    本店の建物は1972年、国の登録建造物に、上から2番目の格付けで指定された。軍艦の木で組んだ店の中は、買い物をしなくても歩いて見て回れる。

    ――次回。1707年、アン女王の宮廷に仕えた従僕が、毎晩取り替えられる蝋燭の燃え残りを売っていた。やがて彼は下宿の大家と組み、食料品の店を開く。いまのフォートナム&メイソンである。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    リバティ|ロンドン観光スポット

    リバティ

    連載「ロンドン百貨店物語」全 3 回

    1. 1ハロッズの創業者は1836年、盗品の干しブドウを買って有罪になった——ライオンも象も売った店の始まり 第1回
    2. 2セルフリッジズは1909年、店に飛行機を飾った——「買い物を娯楽に」したアメリカ人は、最後に店を追われた 第2回
    3. 3ロンドンのリバティは1875年、日本の品を売る店から始まった——軍艦2隻の木材で建てた百貨店 第3回(この記事)

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    セルフリッジズは1909年、店に飛行機を飾った——「買い物を娯楽に」したアメリカ人は、最後に店を追われた 第2回

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