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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    4. /エルギン・マーブルは1816年、議会が3万5000ポンドで買った——伯爵は倍以上を使い、借金を残して死んだ 第3回

    2026年9月23日

    歴史・事件王室・制度人物

    連載「大英博物館物語」全 4 回 の第 3 回

    エルギン・マーブルは1816年、議会が3万5000ポンドで買った——伯爵は倍以上を使い、借金を残して死んだ 第3回

    1801年、駐オスマン帝国大使エルギン伯の部下は、アテネのパルテノン神殿から彫刻を外し始めた。根拠は1通の許可状で、原本はオスマン帝国側の文書庫に見つかっていない。連載「大英博物館物語」の第3回は、彫刻がロンドンに着くまでと、1816年に議会が3万5000ポンドで買い取るまで、そして「白くするために削った」1937年の事件と、いまも続く返還論争を追う。

    エルギン・マーブルは1816年、議会が3万5000ポンドで買った——伯爵は倍以上を使い、借金を残して死んだ 第3回

    大英博物館の18号室は、天井の高い白い部屋だ。壁に沿って、馬と人の行列が延々と続く。パルテノン神殿の頂上近くを一周していたフリーズが、切り取られてここにある。第1回の宝くじも、第2回の降伏協定も、200年以上前の話として読める。けれど第3回のテーマは、いまも英国の首相とギリシャの首相のあいだで議題になり、2026年秋にも新しい動きがあった。彫刻がどうやってこの部屋に来たのか、順に見ていく。

    1687年9月26日、パルテノンは火薬庫として吹き飛んだ

    エルギン伯が来る百年以上前に、彫刻の6割は落ちていた

    紀元前447年から建てられたパルテノン神殿は、女神アテナの神殿として生まれ、のちに教会になり、モスクになった。建物としては長く無事だったが、1687年にオスマン帝国とヴェネツィアの戦争がアテネに及ぶ。アクロポリスに立てこもった守備側は、パルテノンを火薬庫に使った。

    1687年9月26日、ヴェネツィア軍の砲弾が火薬に引火する。神殿の中央部は吹き飛び、内室の壁は崩れ落ちた。約300人が死に、フリーズのおよそ5分の3が落下したと見られている。勝ったヴェネツィアの司令官モロジーニは、西側の破風からポセイドンとアテナの馬の像を持ち帰ろうとした。吊り上げの途中で落として、粉々にしている。

    その後の1世紀半、残った建物は建材として持ち去られ続けた。落ちた大理石は、石灰を焼くために燃やされてもいた——エルギンの一行は、地元の住民からそう聞かされている。大理石は焼けば漆喰の材料になる。世界でいちばん有名な彫刻の破片が、モルタルになっていたわけだ。

    ここは押さえておく必要がある。19世紀に「エルギン伯が彫刻を破壊した」「エルギン伯が彫刻を救った」と言い合いになるとき、その前提として、彼が来たときすでにパルテノンは廃墟で、装飾の半分は失われていた。大英博物館はいまも「元の装飾の約50%は失われており、完全な復元は不可能だ」と説明している。争いは、残った半分をどこに置くかという話である。

    エジプトでの勝利が、アテネの許可状を生んだ

    1801年7月22日、原本はどこにも残っていない

    トマス・ブルース、第7代エルギン伯は、1798年11月に駐オスマン帝国大使に任命された。ギリシャは当時オスマン帝国領である。赴任前、彼は英国政府に、パルテノンの彫刻の石膏型と図面を取る画家を雇う費用を出さないかと打診した。本人の言葉によれば「政府の答えは、まったくの否であった」。

    そこでエルギンは自費で人を雇う。ナポリの宮廷画家ジョヴァンニ・ルジエーリを監督に、画家と製図工の一団が1800年夏にアテネへ入った。当初の計画に、彫刻を持ち帰ることは入っていない。

    風向きが変わるのは1801年である。第2回で見たとおり、この年、英国軍はエジプトでフランス軍を破った。オスマン帝国にとって英国は、領土を取り返してくれた恩人だった。エルギンの牧師フィリップ・ハントは7月1日に新しい許可状を願い出て、22日にそれを手にしている。エジプトでの勝利が、アテネの足場を開けた。

    この文書が、200年の論争の中心にある。原本はオスマン帝国側の文書庫から見つかっていない。1810年の時点ではまだアテネにあったが、1821年のギリシャ独立戦争で焼けたとみられる。残っているのは、英国大使館が作らせたイタリア語訳で、いま大英博物館にある。そこにはこうある。足場を組み、石膏で型を取り、必要に応じて発掘してよい。そして「古い碑文や像のある石片を持ち去りたいと望む場合、妨げてはならない」。

    読み方が割れるのはここだ。「石片」とは発掘で出てきたものを指すのか、建物に付いたままの彫刻まで含むのか。クレタ大学のヴァシリス・デメトリアデスは、これは勅令(フィルマン)ですらなく、大宰相代理が出した公文書(メクトゥブ)で、法的な強制力は無いと論じる。一方で、形式はどうあれ現地では従われた、という研究もある。古典学者メアリー・ビアードの整理が身も蓋もない。「文面をいくら読み込んでも答えは出ない。本部から出された指示がたいていそうであるように、正確な解釈は、現場で命令を実行する者の手に委ねられた」。

    現場で「建物から外す」と決めたのは、牧師ハントだった。

    鋸で切り落とし、船は沈んだ

    見ていた英国人学者は「略奪」と書いた

    1801年から1812年にかけて外されたものは、大英博物館の数え方でメトープ(浮彫の板)15枚、破風の像17体、フリーズ75メートル。ほかにエレクテイオンのカリアティード(女性像の柱)1体と円柱、アテナ・ニケ神殿のフリーズの板も含まれる。パルテノンに残っていた彫刻の、およそ半分だった。

    運ぶために、彫刻は建物から切り落とされた。柱頭やメトープ、フリーズの板は、たたき割るか、鋸で挽いて小さく分けられた。重さを減らすため、裏側を削ぎ落とした板もある。神殿そのものへの損傷は、元に戻せない。

    この作業を、アテネに滞在していた英国人学者エドワード・ダニエル・クラークが見ていた。第2回でアレクサンドリアのメヌー将軍の荷物からロゼッタ・ストーンを見つけ出した、あのクラークである。彼はメトープが外されるのを見て「略奪(spoliation)」と書いた。「これで神殿の形は、ヴェネツィアの砲撃で受けた以上の損傷をこうむった」。さらに、「取り外す予定の彫刻はすでに型も石膏像も取られていたのに、この破壊が必要だと言われて、心を痛めない作業員は一人もいなかった」とも書いている。(そのクラーク自身、同じ旅でエレウシスの女神像を持ち去っている。当時の英国人にとって、非難と収集は矛盾しなかった。)

    海も味方しなかった。1802年、彫刻を積んだエルギンの船メントール号が、キティラ島の近くで沈む。引き揚げには潜水夫を雇って数年がかり、費用はすべてエルギン持ちだった。

    エルギン自身の運もここで尽きる。1803年、帰国の途中でフランスに入ったところで英仏の戦争が再開し、彼は捕虜になった。解放は1806年。帰ってみると妻は親友と関係を持っており、翌年の訴訟と離婚裁判は世間の見世物になった。大使としての出費、彫刻の運搬費、裁判費用で、伯爵は借金の山を抱えていた。

    1816年、議会は3万5000ポンドで買った

    バイロンは「ハーピーの手でもぎ取った」と書いた

    1807年、エルギンはロンドンに家を買い、そこに彫刻を並べて画家たちに公開した。評判は割れる。彫刻家ジョン・フラクスマンは「イタリアの至宝より上だ」と言い、古典学者リチャード・ペイン・ナイトは「ローマ時代の後補か、二流の職人の作だ」と切り捨てた。

    もっとも強い言葉を投げたのはバイロンである。1812年の『チャイルド・ハロルドの巡礼』第2編に、こうある。「ギリシャよ、汝の壁が汚され、朽ちゆく社が英国人の手で運び去られるのを見て、涙しない目は鈍い目だ。その遺物を守るべきだったのは、ほかならぬその手だったのに」。別の連では、英国をこう呼ぶ。「大洋の女王、自由なブリタニアが、血を流す国から最後のみじめな略奪品を運び去る」「彼女は、ハーピーの手であの遺物をもぎ取った」。議会でもジョン・ニューポート卿が「我が国の代表が、トルコ人その他の蛮人ですら神聖とみなしてきたものを略奪したのだ」と非難した。

    それでもエルギンは売るしかなかった。1811年、政府の提示は3万ポンド。かかった費用の半分にも満たず、彼は断っている。

    1816年、エルギン自身の請願で下院に特別委員会が設けられた。委員会は2月から公聴会を開き、取得が合法だったか、大使の地位を悪用していないかを調べた。エルギンは「すべては白日の下で行われた。地元の当局もトルコ政府も関与していた」と証言する。委員会は彼を潔白とし、購入を勧告した。金額は3万5000ポンド。エルギンの支出は7万4240ポンドだった。

    6月7日、下院は賛成82、反対30で購入を可決する。彫刻は8月8日に大英博物館へ移された。翌1817年に「仮エルギン室」で公開されると、入館記録を塗り替える人出になった。ジョン・キーツは同じ年にこれを見て、ソネット「エルギン・マーブルを見て」を書いている。

    エルギン伯のほうは、爵位も借金も抱えたまま、債権者から逃れるためにフランスへ移り、1841年11月14日にパリで死んだ。彼が持ち帰った彫刻は、いまも彼の名で呼ばれている。

    白くするために、削った

    1937年、銅のヘラとカーボランダム

    現在のデュヴィーン・ギャラリー(18号室)に並ぶパルテノン神殿の彫刻。1819年の仮エルギン室を描いた記事冒頭の絵と比べると、展示の思想の違いが分かる。写真: Andres Rueda / CC BY 2.0
    現在のデュヴィーン・ギャラリー(18号室)に並ぶパルテノン神殿の彫刻。1819年の仮エルギン室を描いた記事冒頭の絵と比べると、展示の思想の違いが分かる。写真: Andres Rueda / CC BY 2.0

    大理石は白い、と多くの人が思っている。実際には、パルテノンのペンテリコン大理石は空気に触れると蜂蜜のような色を帯びる。そのうえ古代の彫刻には彩色があった。

    1928年、美術商で大富豪のジョゼフ・デュヴィーンが、彫刻専用の新しい展示室の建設費を出すと申し出た。彼は「大理石は本来まっさらに白いはずだ」と考えており、1932年ごろから繰り返し、館に彫刻を洗うよう求めた。

    1937年から38年にかけて起きたことは、こうだ。デュヴィーンの代理人の指示で、石工の職長アーサー・ホルコムと6人の作業員——保存修復の専門家ではなく石工の手元——が、銅のヘラと研磨材のカーボランダムで彫刻の表面を擦った。メトープは表面の約6割が削られた。デュヴィーンの職人たちは部門の鍵を渡され、学芸員の毎日の点検も止まっていた。

    1938年9月、別部門の学芸員が「フリーズの表面がどうも生々しい」と館長ジョン・フォースダイクに報告する。25日、フォースダイクは地下の作業場で、破風の太陽神ヘリオスと馬が磨かれている現場を見た。翌日には別の像も見つかる。近くに転がっていたのは、銅のヘラ7本、銅のノミ1本、カーボランダムのかけら。いずれも今日まで館の保存部門に保管されている。

    館長は作業を止め、管財人による調査委員会が開かれた。委員長はマクミラン卿、管財人会の長はカンタベリー大主教コスモ・ラング——第1回で宝くじの胴元に名を連ねていたのと同じ役職である。11月7日の内部報告書はこう結論した。「損傷は明らかであり、誇張のしようもない」。ただし公表用の文面からは、彫刻がもはや「真正の傑作」とは言えないという一節が削られた。処分は下の者に落ちる。ホルコムは解雇、部門長は健康を理由に退職、代理を務めていた学芸員は降格ののち辞職した。館は表面に「修復措置」を施して痕跡を隠し、関係文書は1990年代まで表に出なかった。

    1999年、大英博物館はこの洗浄について国際会議を開く。学芸員イアン・ジェンキンスの言葉が残っている。「大英博物館は無謬ではない。ローマ教皇ではないのだ。その歴史は、善意がときおりへまで台無しになる連続だった。1930年代の洗浄は、そのへまである」。近年の研究では、削られた量は限定的で、当時の常識の中で考えるべきだという再評価も出ている。そして皮肉なことに、最新の画像技術は彫刻の表面から古代の彩色の痕跡を見つけている。デュヴィーンが目指した「白さ」は、はじめから存在しなかった。

    その後の彫刻の居場所も落ち着かない。デュヴィーン・ギャラリーは1940年に爆撃で壊れ、22年間ほぼ廃墟のまま置かれた。彫刻のほうは1939年から、使われていないオールドウィッチ駅の地下に疎開している(第2回のロゼッタ・ストーンが第一次大戦で入った、あの郵便地下鉄と同じ発想だ)。地上に戻ったのは1948年11月、展示室が開いたのは1962年だった。

    「返してほしい」と言われ続けて、190年

    2026年、断片はアテネではなくフランクフルトへ貸し出された

    返還の要求は、ギリシャが独立した直後から始まっている。1836年、初代国王オソンがアテナ・ニケ神殿のフリーズの返還を求めた。1846年、英国は代わりに石膏の複製一式を送っている。1890年にはアテネ市が、1927年にはロンドン駐在のギリシャ公使が求め、いずれも実らなかった。1983年、ギリシャ政府は初めて「アクロポリスから持ち去られ現在大英博物館にあるすべての彫刻」の返還を正式に要求した。

    2009年、アテネにアクロポリス博物館が開館する。最上階のガラス張りの部屋には、パルテノンが見える向きで彫刻が並ぶ。ロンドンにある部分は白い石膏の複製が置かれ、失われた部分は空けてある。「ロンドンのほうが保存に適している」という理屈への、建物ごとの反論だった。

    英国側の立場も整理しておく。大英博物館は、1816年の特別委員会が取得を完全に合法と認定したと述べ、正式な貸出の要請は一度も受け取っていない、歴代のギリシャ政府は管財人の所有権を認めようとしない、と説明する。さらに1963年の大英博物館法が、収蔵品の処分を厳しく禁じている。2021年にはユネスコが英国政府に交渉を求め、2023年11月には、返還をめぐる発言を理由にスナク首相がギリシャ首相との会談を直前で取りやめた。2024年5月には、オスマン帝国を引き継ぐトルコ政府の報道官が、例の許可状について「そのような文書は把握していない」と述べ、返還を支持すると表明している。

    世論は動いている。2021年のユーガブの調査では、英国の回答者の59%が「彫刻はギリシャのものだ」と答えた。英国のものだとしたのは18%である。現在は、所有権を動かさないまま長期貸与し、代わりにギリシャから出土品を借りるという「交換」案が議論されている。

    そして皮肉な現在地がある。この彫刻がロンドンを出たのは、戦時の疎開を除けば2014年の一度だけで、行き先はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館だった。アテネではなく、ロシアである。さらに2026年9月、大英博物館はパルテノンの断片2点をフランクフルトの美術館に貸し出すと発表した。展覧会の名は「アテナ、舞台はあなたのもの——パルテノンのパズル」。ギリシャ側は、自国の断片9点の貸し出しを拒んだ。理由は、大英博物館から来る断片と並べて展示されるからだった。

    ――次回。2023年8月、大英博物館は、収蔵品が長年にわたって持ち出されていたと認める。行方不明とされた品は約1500点。疑われたのは、30年以上勤めた学芸員だった。しかも所属は、この回に出てきたギリシャ・ローマ部門である。

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    大英博物館|ロンドン観光スポット

    大英博物館

    連載「大英博物館物語」全 4 回

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