2026年9月21日
1753年1月、92歳で死んだ医師ハンス・スローンは、7万点を超える収集品を2万ポンドで国に譲ると遺言した。国王ジョージ2世は「国庫にそんな金はない」と断り、議会は宝くじで資金を集めることにする。ところが、1人20枚までのはずの券は売り出し前から横流しされ、財務省の担当者が有罪になった。連載「大英博物館物語」の第1回は、世界初の国立の公共博物館が開館するまでの6年と、開館後の「無料なのに入れない博物館」を追う。
大英博物館は入場無料で、「世界の宝を万人に」という理念の象徴のように語られる。けれど、その始まりはもっと生臭い。資金を出したのは国庫ではなく宝くじで、その宝くじは売り出し前に大口の買い手へ横流しされていた。開館してからも、中に入るには手紙で申し込み、券を受け取りにもう一度出向かなければならなかった。第1回は、ひとりの医師の遺言から、1759年1月15日の開館、そして入館券に値段が付いた時代までを追う。
7万1000点の物品、5万冊の本、12万点の植物標本
1753年1月11日、ハンス・スローンがロンドン西郊チェルシーの屋敷で死んだ。92歳だった。1660年、アイルランド北部ダウン州キリリーの生まれ。医師としてアン女王、ジョージ1世、ジョージ2世に仕え、1727年にはアイザック・ニュートンの後を継いで王立協会の会長になっている。当時の英国で、医学と博物学の頂点にいた人物のひとりだ。
屋敷に残されたものは、ふつうの遺品の規模ではなかった。大英博物館の集計で、7万1000点を超える物品、5万冊を超える本と写本、約12万点の植物標本。古代ローマの燭台、イングランドの青銅器時代の斧、ヴェネツィアのガラス、中国の多色木版画、15〜16世紀に西アフリカで彫られた象牙の角笛。エリザベス朝の学者ジョン・ディーが霊を見るのに使ったという水晶玉まであった。スローンはこれを、迷信を反証するために集めていた。1700年、風刺作家ウィリアム・キングはスローンを「好奇心が強すぎて、目の前を素通りしたものはほとんど無い」とからかっている。
この収集を支えた金の出どころも、書いておかなければならない。スローンは1687年から89年まで、英領ジャマイカ総督アルベマール公の侍医として島に滞在し、800種ほどの植物を持ち帰った。1695年に結婚したエリザベス・ラングリー・ローズは、ジャマイカの農園主の未亡人で、亡夫の財産の3分の1——土地と、奴隷にされた人々と、砂糖農園の収益——を相続していた。当時の法律で妻の財産は夫のものになり、その収入がスローンの収集を支えた。本人は自分を「プランター(農園主)」と呼んでいた。これは大英博物館自身が、いま公式に説明していることだ。
ちなみにスローンは「ミルク入りのホットチョコレートを発明した人」と紹介されることがあるが、大英博物館はこれを誤りとしている。ジャマイカでは彼が来る前から、カカオをミルクで煮た飲み物が飲まれていた。
問題は、この膨大なコレクションが死後どうなるかだった。スローンはそれを、4年前に書いた1通の文書で細かく決めていた。
管財人ホレス・ウォルポールの手紙、1753年2月14日
スローンは1749年7月20日付の遺言補足書(コディシル)で、コレクションの行き先を指定していた。まず、全体をばらさず、ひとまとめに保存すること。次に、国王か議会に2万ポンドで譲ること。支払いは死後12か月以内。それが叶わなければ同じ値段で外国のアカデミーに売り、それも断られたら遺言執行者が自由に売り払ってよい。
処分を託された管財人のひとりに、首相ロバート・ウォルポールの息子で作家のホレス・ウォルポールがいた。スローンの死から1か月後の1753年2月14日、彼はフィレンツェの友人ホレス・マンにこう書いている。
サー・ハンス・スローンが死んで、私を彼の博物館の管財人のひとりにした。博物館は2万ポンドで、国王、議会、ペテルブルク、ベルリン、パリ、マドリードの王立アカデミーに売りに出される。本人は8万ポンドの値打ちがあると見積もっていた。カバや、片耳のサメや、ガチョウほどもあるクモが好きな人なら、誰でもそう見積もるだろう!
手紙はこう続く。「国王は、国庫に2万ポンドもあるとは思えないと言って辞退された」。ジョージ2世は、評価額の4分の1の値段でも手を出さなかった。ウォルポールはさらに、管財人の最初の会合が延期されたことも書き添えている。議長役のマクルズフィールド伯(天文学者で、当時の王立協会会長)が「経度を見つけるための集まり」に先約があったから、だという。
国王が断ったあと、話を動かしたのは下院だった。3月19日、全院委員会で下院議長アーサー・オンズローがみずから提案に立つ。スローンのコレクションを買うだけでなく、1700年に国のものになりながら置き場所がなく、1731年の火事で焼損したコットン文庫と、1万ポンドで買い取るオックスフォード伯家のハーレー写本もあわせて、ひとつの「総合収蔵庫」にまとめるという案だった。コットン文庫には『ベーオウルフ』の写本、『リンディスファーン福音書』、1215年のマグナ・カルタ4部のうちの2部が含まれている。
1753年6月7日、「大英博物館法」が国王の裁可を受けた。管財人団には「大英博物館管財人(The Trustees of the British Museum)」という法人名が与えられ、条文にはこう書かれた。収蔵品への自由な出入りを、「すべての勉強熱心な人と好奇心ある人(all studious and curious Persons)」に与えること。世界で最初の、国立の公共博物館の誕生である。
ただし、この法律は博物館の金を国庫から出すとは書いていない。
胴元はカンタベリー大主教、横流ししたのは財務省の宝くじ担当
同じ法律に、資金は宝くじで集めると書き込まれた。当時の英国で宝くじは珍しい財源ではなく、ウェストミンスター橋も1740年代、宝くじの売上を頼りに建てられている。
設計はこうだ。1枚3ポンドの券を10万枚、総額30万ポンド。うち20万ポンドを1万ポンドから10ポンドまでの賞金として払い戻し、残りの約10万ポンドを博物館に回す。使い道の順番も条文で決まっていた。まずスローンの遺言執行者に2万ポンド。期限は1754年1月11日——スローンの命日からちょうど12か月で、遺言の期限にぴたりと合わせてある。次にハーレー写本の1万ポンド。それから建物の取得と改修。最後に3万ポンドを利付きで運用し、職員の給料に充てる。宝くじの管理者はカンタベリー大主教、大法官、下院議長の3人で、手当は1人100ポンドだった。国教会の最高位の聖職者が、宝くじの胴元に名を連ねたことになる。
首相ヘンリー・ペラムは、宝くじが賭博熱をあおることを嫌っていた。そこで歯止めとして、ひとりが持てる券は20枚までという上限を付けさせた。
この上限は、売り出しの前から破られていた。宝くじの受付役のひとりは、財務省の古参事務官ピーター・ルヒュープ(Peter Leheup)。1721年に財務省に入り、1752年までに首席事務官と政府宝くじの責任者を兼ねるようになっていた人物である。下院の調査委員会の報告(19世紀の宝くじ史家ジョン・アシュトンの要約による)によれば、彼は公告した受付開始より前に券をこっそり売りさばき、架空と知りながらの名義の一覧で、特定の買い手に大量の券を渡していた。とりわけ金融家サンプソン・ギデオンは6,000枚を超える券を手にし、プレミアムを付けて転売していた。上限の300倍である。そしてギデオンは、ほかならぬペラム政権に金を融通し、財政の相談に乗っていた人物だった。
1753年12月19日、ウォルポールは別の友人への手紙にこう書いている。「下院は、宝くじからあれほど金を引き出したルヒュープを、ちまちまと責め立てている」。下院はルヒュープが法律に違反し、信託を裏切ったと決議し、国王に訴追を求めた。
1755年4月19日、王座裁判所はルヒュープを3つの点で有罪とした。公告した日時より前に申し込みを受けたこと。別名義を使って20枚の上限をすり抜けるのを許したこと。予約されたまま引き取られなかった券や二重に割り当てられた券を、管理者に戻さずに処分したこと。5月9日に言い渡された罰金は1,000ポンド。ルヒュープはその場で全額を納め、職を解かれた。
スキャンダルにまみれながらも、金は集まった。次は、それで何を買うかだった。
博物館が見送った屋敷は、のちのバッキンガム宮殿
1753年12月11日、ホワイトホールのコックピットで大英博物館の管財人会が初めて開かれた。いちばんの議題は、収蔵品をどこに置くかだった。
候補はいくつかあった。ウェストミンスター宮殿の中に新築する案は、見積もり5万〜6万ポンドで高すぎる。バッキンガム・ハウスは3万ポンドで、これも高すぎるうえ場所が不便だとして退けられた。残ったのが、ブルームズベリーで長く放っておかれていたモンタギュー・ハウスである。
モンタギュー・ハウスは、のちに初代モンタギュー公となるラルフ・モンタギューの邸宅で、設計はばねの法則で知られる科学者ロバート・フックだった。完成から10年もたたない1686年に火事で大きく損なわれ、ほぼ同じ意匠で建て直されている。ロンドン屈指の私邸と言われたフランス風の館だが、博物館が目をつけたころには湿気でひどく傷んでいた。1754年6月に売買の取り決めが結ばれ、1755年4月5日に売買証書が交わされる。値段はおよそ1万ポンドだった。
見送られたほうの屋敷のその後も書いておこう。1761年、ジョージ3世は王妃シャーロットの住まいとして、バッキンガム・ハウスを2万8000ポンドで買い取る。これがのちのバッキンガム宮殿である。博物館が「高すぎる」と見送った屋敷は、「国庫に2万ポンドもない」と言った国王の孫のものになった。
そのジョージ2世も、何も出さなかったわけではない。1757年、歴代の国王が集めてきた「旧王室図書館」を博物館に寄贈した。この寄贈には、国内で出版される本を1部ずつ受け取る特権が付いていた。金は出さなかった王が、本と、本が届き続ける仕組みを出したことになる。いまの大英図書館が納本を受けているのは、この流れの先にある。
1757年には庭園が一般に開かれ、1759年1月15日月曜日、改修を終えた館内がついに公開された。スローンの死から6年。初代の首席司書(館長)は、磁気コンパスの改良で知られた科学者ゴーウィン・ナイト。部門は刊行書、写本、自然史の3つしかなかった。
1784年12月7日、ウィリアム・ハットンの30分

法律は「自由な出入り」を約束していた。けれど最初の規則を読むと、自由とはだいぶ違う。
入館したい人は、まず手紙で申し込む。書くのは名前、身分、住所、そして希望する日と時刻。申込者の一覧は毎晩首席司書に回され、認められた人はもう一度足を運んで、門番から印刷された券を受け取る。1回の入館枠に出す券は10枚まで。見学は3時間で、3つの部門を1時間ずつ、部門ごとに別の係員が案内する。大英博物館自身も、この仕組みでは事実上、つてのある人しか入れなかったと説明している。
この仕組みの中で何が起きていたかを、ひとりの男が書き残した。バーミンガムの歴史家ウィリアム・ハットンは1784年12月、ロンドン滞在中に博物館を見ようとした。聞けば、前もって手を回して券を取っておかねばならず、それも後日の分だという。そこで彼は「正しくない道」を選ぶ。翌日の券を持っている人を見つけ、2シリングで買い取ったのである。
12月7日火曜、午前11時。集まったのは見知らぬ者同士の10人ほど。一行は足早に進み、ハットンが「展示の説明はしてもらえないのか」と尋ねると、案内役の若い男は気色ばんだ。「なんですって、博物館の中のものを全部説明しろと? そんなことができるとでも? だいいち、名前を書いてあるものも多いでしょう」。
一行は黙り込み、ささやき声しか聞こえなくなった。見学は30分ほどで終わった。30日かけても見きれないはずの館だった、とハットンは書き、失ったものを数え上げている。3人の紳士との話を切り上げて出てきたこと、朝食を抜いたこと、ずぶ濡れになったこと、辻馬車に半クラウン、券に2シリング。そしてこう結んだ。ロンドンで見るもののうち、いちばん期待していたのが大英博物館だった。「うんざりさせられたのは、ここだけだった」。
1790年の入館券が残っている。名前と日時が手書きで入り、いちばん下にこう刷られている。「使用人に金を渡してはならない」。心付けは禁じられていた。券そのものに値段が付くことは、刷った側の想定の外だったのだろう。
規則はゆっくり緩んでいく。1808年には、週の最初の4日間、15人ずつ8組、1日120人が入れるようになった。1810年には月・水・金の10時から4時まで開館し、「身なりのきちんとした者」なら10時から2時までに来ればその場で入れるようになる。万国博覧会が開かれた1851年、1年の入館者は252万7216人に達した。
3つの館に分かれた収集品と、チェルシーに残った名前
モンタギュー・ハウスはやがて手狭になり、1823年から取り壊しが始まった。代わりに建ったのがロバート・スマークのギリシャ神殿風の建物で、いま観光客が列を作る正面の列柱が完成したのは1852年のことだ。
スローンのコレクションのほうは、建物以上に姿を変えた。自然史の標本は、1881年にサウス・ケンジントンで開館した新しい館へ移された。いまの自然史博物館である。本と写本は1973年、大英図書館として独立した。大英博物館法は、スローンの収集品を「ばらさず、まとめて」保存すると定めていた。その収集品はいま、3つの館に分かれている。3館に散った品々をデジタル上でつなぎ直す研究事業「スローン・ラボ」が立ち上がったのは、法律から250年以上あとのことだ。
創設者の扱いも変わった。2020年8月、大英博物館は、啓蒙ギャラリーの台座に置かれていたスローンの胸像を展示ケースの中へ移した。添えられた説明は、ジャマイカでの収集が奴隷にされた人々を搾取していたこと、収集の資金の一部が妻の砂糖農園での奴隷労働から出ていたことを記している。この展示替えには賛否の両方が寄せられた。
スローンの名前は、博物館の外にも残っている。彼が1712年に買ったチェルシーの荘園は娘たちの家に受け継がれ、その土地にスローン・スクエア、スローン・ストリート、ハンス・プレイス、ハンス・クレセントが生まれた。チェルシーの高級住宅街を歩けば、通りの名のあちこちに、宝くじの金で国に買い取られた収集品の、最初の持ち主の名前が残っている。
――次回。1802年、フランス軍から取り上げた一枚の石がポーツマスに着く。その側面には今も、「1801年、英国陸軍がエジプトで捕獲」と書き込まれている。ロゼッタ・ストーンが、どういう経緯で大英博物館に来たのかを追う。
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