ロンドLogoJUST RONDON - ロンドン観光・旅行・現地ガイド
    ロンドLogoLive.Love.London. - 最強ロンドンガイド
    • 旅行プランを作る
    • 今週のロンドン
    お問い合わせサイト概要利用規約プライバシーポリシーTop Pageへ

    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

    1. Home
    2. /観光
    3. /美術館ナビ
    4. /大英博物館
    大英博物館

    The British Museum

    大英博物館

    常設展 無料
    目安 2時間

    本日:10:00–17:00

    Great Russell St, London WC1B 3DG

    地図で見る公式サイト

    ロゼッタ・ストーンに触れれば言語がざわめき、パルテノンの大理石は帝国の傲慢を光らせる。ここは人類史そのものの倉庫だ。

    About

    どんなところか

    ロンドン中心部に佇む大英博物館は、1759年に開館した世界最大級の博物館で人類史の宝庫です。

    所蔵品はおよそ800万点。古代エジプトのミイラやロゼッタストーン、ギリシャのパルテノン神殿彫刻など、歴史の教科書で見たことのある本物が目の前に現れます。

    しかも、常設展は無料で公開されており、世界中から訪れる人々が気軽に人類の歴史と文化に触れることができます。無料とはいえ、その質と規模は圧倒的で、一日では見尽くせないほどの展示品が並びます。

    館内を歩けば、5000年を超える人類の記憶が国境を越えて集まっていることに気づくはず。

    世界一周旅行をするように、エジプトから中東、アジア、アメリカ大陸まで、文化や文明が一堂に会する光景は圧巻です。

    知的好奇心と感動を同時に満たすこの場所は、ロンドン滞在中に外すことのできない必訪スポットです。

    Must See

    これだけは見て帰りたい

    大英博物館を短時間で回るなら、まずこの3つ。 展示室の番号は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 1

      ロゼッタ・ストーン

      Room 4(エジプト彫刻ギャラリー)

      紀元前196年、プトレマイオス5世を讃える布告を3種類の文字で刻んだ石碑。同じ内容がギリシャ文字でも書かれていたことが、それまで誰も読めなかったヒエログリフ解読の鍵になりました。展示ケースの前は常に人だかりなので、開館直後が狙い目です。

    2. 2

      パルテノン神殿の彫刻

      Room 18

      アテネのパルテノン神殿を飾っていた大理石彫刻群。専用の広い部屋に、神殿の壁面と同じ配置で並べられています。馬の首の血管や、風をはらんだ衣のひだまで彫り出されていて、紀元前5世紀の技術とは思えません。

    3. 3

      グレート・コート

      中央ホール

      2000年に開かれたヨーロッパ最大の屋根付き広場。2エーカーあり、サッカー場より広い空間です。ガラス屋根は3,312枚のパネルでできていて、同じ形のものは一枚もありません。中央の円形建物は旧大英図書館の閲覧室で、かつてブラム・ストーカーやコナン・ドイルが通っていました。

    Route

    着いてからの歩き方

    大英博物館に着いたら、この順に見ていくと迷いません。 展示室の番号や配置は改装で変わることがあるので、当日は館内の案内で確認してください。

    1. 到着

      北側のモンタギュー・プレイスから入る

      入口は正面のグレート・ラッセル通りと、北側のモンタギュー・プレイスの2か所です。正面は団体客とスクールツアーが集まって手荷物検査の列が長くなりがちですが、北側は同じ検査を受けながら待ち時間が短く済むことが多く、段差もありません。館の案内でも北側が推奨経路とされています。

    2. 見どころ

      グレート・コートは通過点として使う

      入るとまずガラス屋根の大広間に出ます。ここは展示室ではなく交差点で、東西南北すべての翼に分かれる起点です。人だかりを写真に収めたい気持ちは分かりますが、先にロゼッタ・ストーンへ向かい、帰りに撮るほうが空いています。中央の円形建物は旧大英図書館の閲覧室です。

    3. コツ

      エジプトとギリシャは開館直後に回す

      ロゼッタ・ストーン(Room 4)とパルテノン神殿の彫刻(Room 18)は館内で最も混む2室で、昼前には展示ケースの前が二重三重になります。この2つを先に見て、空いてくる午後に他の地域を回すと、同じ滞在時間でも見える量が変わります。

    4. 見落としやすい

      上階のミイラより静かな部屋がある

      多くの人が上階のエジプトのミイラへ直行するため、同じ階の中東・アッシリアの浮彫やサットン・フーの埋葬品は比較的静かです。7世紀の兜や金細工が数十センチの距離で見られる部屋が、ほとんど並ばずに入れることも珍しくありません。

    5. コツ

      金曜の夜は人が引く

      金曜だけ20:30まで開いていて、最終の入場枠は19:00です。夕方以降は日中の団体客がいなくなり、同じ展示室が別の場所のように空きます。ただし北側のモンタギュー・プレイス側は閉館前に早く閉まるので、帰りは正面へ誘導される前提で動いてください。

    Artworks

    見どころ作品

    人頭有翼獣(雄牛とライオン)

    人頭有翼獣(雄牛とライオン)

    作者不詳 — 紀元前865〜860年頃

    **この二体は、必ずセットで見てください。片方だけでは意味が半分になります。** 紀元前9世紀、アッシリア王アッシュールナツィルパル2世の王宮、その私室と宴会場の入口を守っていた守護霊像です。人間の頭、鳥の翼、そして——**片方は雄牛の身体、もう片方はライオンの身体。** **なぜ組み合わせが違うのか。** 雄牛は大地に根ざした力、耐える強さ、豊穣を意味します。ライオンは攻める力、王の獰猛さ、敵を裂く牙です。**守ることと、襲うこと。** 門の左右に性質の異なる守護者を配し、あらゆる方向からの脅威に備える——それがこの組み合わせの意図です。片方だけでは「守り」しか成立しません。 **頭部を見てください。** どちらも人間の顔で、髭は幾何学的に編み込まれ、冠には角がついています。メソポタミアでは**角の数が神格の高さ**を表しました。人間の理性と、神の権威と、獣の膂力。**この存在は、王宮に入ろうとする者が持ち得ないものだけで構成されている。** **次に、脚を数えてください。** ここでも脚は5本です。正面に立てば二本脚で静止し、横から見れば四本脚で歩き出す。門に近づく人と、通り過ぎる人で、見える姿が違います。**動く人間を前提に彫られた立体**です。 **表面の楔形文字も探してみてください。** 胴体や脚の間に、王の名と業績を記した銘文が刻まれています。彫刻でありながら文書でもある。「これは誰の宮殿か」を、像そのものが宣言しています。 **そして、この像が置かれていた場所を想像してください。** 王の私室と宴会場の入口です。つまり、これを日常的に見上げていたのは招かれた廷臣や使節でした。豪華な宴に向かう途中、人は必ずこの超自然的な門番の下をくぐる。**もてなしと威圧が同じ動線に組み込まれている**設計です。 同種のペアはニューヨークのメトロポリタン美術館にも収蔵されており、アッシリア王宮では**護衛像は必ず対で設置する**のが原則だったことが分かっています。ここで二体並んで見られるのは、その原則を体感できる貴重な機会です。

    アルテミドロスのミイラ(彩色スタッコケース)

    アルテミドロスのミイラ(彩色スタッコケース)

    作者不詳 — ローマ時代、AD 100-120

    **上半分と下半分で、文明が違います。** そこがこの展示品の全てです。 **まず、顔を見てください。** 描かれているのは、黒い巻き毛の若い男性。眉は太く、目は大きく、頬に陰影があり、唇はわずかに開いている。**驚くほど生々しい、一人の個人の顔**です。これは**ファイユム肖像**と呼ばれる、ローマ帝国時代のエジプトで作られた板絵の肖像画です。蜜蝋に顔料を溶かして描く**エンカウスティック**という技法で、油絵の発明よりずっと前に、これほどの立体感が実現されています。 **髪型に注目してください。** 前髪が額へ向かって梳かし下ろされている。これは**トラヤヌス帝の時代(紀元2世紀初頭)にローマで流行した髪型**です。属州エジプトの人物が、帝都の流行を追っていた。年代を特定する手がかりでもあります。 **そして、そのすぐ下を見てください。** 肖像の下から足元までは、**完全に古代エジプトの世界**です。金箔を貼りつけて表された図像が並びます。 - **アヌビス**(山犬の頭を持つ神)がミイラに付き添う場面 - **ライオン形の寝台**に横たわる遺体と、それを守る女神たち(イシスとネフティス) - **ホルスとトト**がオシリスの神器を挟む場面 - 頭頂には**翼のある太陽円盤**、足元にはサンダル **紀元2世紀のローマ人の顔をした男が、紀元前3000年から続くエジプトの来世へ送り出されている。** ローマに支配され、ギリシャ語を話し、ローマ風の身なりをしながら、死に方だけはエジプト式を選んだ人々がいた——その混淆が、一体の中で目に見えます。 **なぜ写実的な顔が必要だったのか。** 死後の世界で本人が本人だと認識されるために、顔が要ると考えられていました。エジプトの伝統的な棺には様式化されたマスクが載りますが、ローマ期の人々はそれを**実物そっくりの肖像画**に置き換えた。**認識されるための顔**という機能は同じで、様式だけが変わっています。 **胸のギリシャ語銘も見てください。** 「**ΑΡΤΕΜΙΔΩΡΕ ΕΥΨΥΧΙ**(アルテミドロスよ、さらば)」と読めます。死者への別れの定型句です。ただし**綴りに誤りがある**ことが指摘されており、ギリシャ語文化がこの地域にどの程度浸透していたかを考える材料になっています。 **中身も調べられています。** CTスキャンにより、**頭蓋に放射状の亀裂**が確認されました。生前の外傷か、防腐処理の過程で生じたものかは決着していません。ホワラ出土、資料番号 EA 21810。彼の名はアルテミドロス、それだけが確かです。

    ルイス島のチェス駒

    ルイス島のチェス駒

    作者不明 — 12世紀頃

    **まず、駒の顔を見てください。笑ってしまいます。** 800年前の中世の彫刻というと厳粛なものを想像しますが、この駒たちは違います。**女王(クイーン)は頬に手を当てて、げんなりした顔をしている。** うんざりしているのか、頭痛なのか、退屈なのか。中世の美術で、こんなに人間くさい表情はまず見つかりません。 **そして、ルーク(城)を探してください。** ここが最大の見どころです。**盾の上端を歯で噛んでいる兵士**がいます。目を剥き、盾にかぶりつき、今にも飛び出しそうな顔。これは**ベルセルク**——北欧の伝承に登場する、戦闘中に理性を失って猛り狂う戦士です。「バーサーカー」の語源になった存在が、チェスの駒として彫られている。 **駒の構成も見てください。** 王、女王、司教(ビショップ)、騎士(ナイト)、ルーク、そしてポーン。現代のチェスとほぼ同じ編成ですが、**ビショップが司教冠をかぶった聖職者の姿**をしているのが北欧的です。インドから伝わったチェスがヨーロッパに入ったとき、駒は現地の社会構造に翻訳されました。象は司教になり、戦車はベルセルクになった。**この駒一式は、ヨーロッパ社会の縮図そのもの**です。ポーンだけは人間の形をしておらず、素っ気ない小さな墓石のような形。身分の低い歩兵に顔は与えられませんでした。 **素材にも注目を。** ほとんどが**セイウチの牙**で彫られています。当時のヨーロッパで象牙は極めて高価な輸入品でしたが、北大西洋のセイウチ牙は北欧の交易網で手に入りました。おそらく制作地はノルウェーの**トロンハイム**。それが、はるか西のスコットランド・ルイス島の砂丘から出てきたのです。**北海を越える中世の交易ネットワーク**が、この小さな駒に刻まれています。 **さらに、色。** 現在は全部が白っぽく見えますが、**もともと一方の陣営は赤く染められていた**ことが分かっています。白対黒ではなく、白対赤のチェスでした。 発見は1831年。砂丘から93点がまとめて出てきましたが、なぜそこに埋まっていたのかは不明です。交易商人が隠したとも、難破船の積荷とも言われます。現在は大英博物館に82点、スコットランド国立博物館に11点が分蔵されています。

    イースター島のモアイ像

    イースター島のモアイ像

    作者不明 — 1250年頃〜1500年頃

    **この像には名前があります。ホア・ハカナナイア。** 「盗まれた友」あるいは「隠された友」と訳されます。1868年、イギリス海軍の測量船トパーズ号の乗員が、イースター島(ラパ・ヌイ)の集落からこの像を運び出し、ヴィクトリア女王に献上しました。名前は、その経緯を島の人々がどう受け止めたかを、そのまま伝えています。 **まず、正面から。** 突き出した額、深く落ち窪んだ眼窩、細く長い鼻、前に突き出た唇、そして異様に長い耳。これは風景を彫ったのでも神を彫ったのでもなく、**亡くなった有力者そのもの**です。モアイは祖先の像で、島の内陸を向いて立ち、村と子孫を見守っていました。 **眼窩の奥を見てください。** 今は空洞ですが、儀式のときには**白いサンゴと赤い火山岩で作った目**が嵌め込まれました。目が入った瞬間、モアイは単なる石から祖先の力が宿る器になる、と考えられていた。**目を入れることが、像を「起動」させる行為**だったのです。 **そして——必ず、背面に回ってください。** ここがこの像の核心です。大英博物館は、背中が見えるように展示しています。 背中一面に、**後から彫り込まれた線刻**があります。鳥の頭を持つ人間の姿が二つ。これは**タンガタ・マヌ(鳥人)**で、後年の島で行われた**バードマン儀礼**の図像です。ほかにも櫂のような形、犬か海獣のような形が刻まれている。 **この背中は、島の歴史の転換点そのものです。** 巨大なモアイを作り続けた祖先崇拝の時代が終わり——森林の枯渇と資源の危機があったと考えられています——島の人々は新しい信仰へ移りました。毎年、断崖から海へ飛び込み、沖の小島から最初の**アジサシの卵**を持ち帰った者の主人が、その年の指導者となる。それがバードマン儀礼です。**古い神の背中に、新しい神が彫られた。** 一つの像の上下で、島の宗教が入れ替わっています。 **素材にも触れておくと、** この像は多くのモアイに使われた凝灰岩ではなく、より硬く重い**玄武岩**製です。彫るのに桁違いの労力がかかる。それだけ重要な像だったということです。 **返還について。** ラパ・ヌイの人々と、統治するチリ政府は、この像の返還を大英博物館に正式に要請しています。島の人々にとってこれは展示品ではなく、まだ帰っていない祖先です。

    うずくまるヴィーナス像

    うずくまるヴィーナス像

    作者不明 — 2世紀頃

    **この像は、あなたが来たことに気づいた瞬間を彫っています。** 女神が入浴の最中に、身をかがめ、片手を胸に、もう片方の手を身体に添えて、上体をひねっています。**誰かの視線に気づき、身を隠そうとした一瞬**です。彫刻はふつう永遠の姿を刻むものですが、これは**中断された動作**を刻んでいます。 **まず、まわりを一周してください。** これはどの角度から見ても成立するように彫られています。前からは隠す仕草、横からは背中と腰のねじれ、後ろからは張りつめた背筋。**正面という特権的な視点がない。** 古代ギリシャ彫刻が到達した、三次元を三次元として構成する技術の到達点です。 **次に、身体のひねりを追ってください。** 膝は片方に向き、腰はねじれ、肩は逆へ回り、首はさらに反対を向いている。**身体が螺旋を描いています。** この動きが、うずくまった姿勢に緊張と生気を与える。じっと止まっているのに、動き続けているように見えるのはこのためです。 **そして、視線の構造に気づいてください。** 女神は隠そうとしている。ということは、**見ている側が「覗いている」立場に置かれる**。鑑賞者は、意図せず侵入者にさせられます。神聖な存在を、日常のもっとも無防備な瞬間に捉える——この落差が、この主題が古代から繰り返し複製された理由です。 **制作の事情も知っておいてください。** 現在ここにあるのは**紀元2世紀のローマ時代の複製**で、原作は紀元前3〜2世紀のギリシャ彫刻です。**原作は失われています。** ローマ人はギリシャの名作を熱心に模刻し、邸宅や浴場を飾りました。皮肉なことに、**この複製文化のおかげで、失われたギリシャ美術の姿が今日に伝わっています。** 同じ主題の複製は地中海世界の各地から出土しており、ヴァチカン、ルーヴル、ナポリなどにも所蔵されています。**それだけ多くの富裕層が同じ像を欲しがった**ということでもある。古代のベストセラーです。 **なお、頭部は後補の可能性が指摘されています。** 発掘された断片を継ぎ合わせ、失われた部分を後世の彫刻家が補うのは、18〜19世紀の収集では普通に行われていました。古代彫刻を見るときは、「どこまでが古代か」を疑う目も持っていると面白くなります。

    追悼用トーテムポール

    追悼用トーテムポール

    作者不明 — 1850年頃

    **大英博物館で、首を最も大きく反らすことになる展示品です。** 高さおよそ**12メートル**。グレート・コート脇の階段室を貫いて立っており、**一階から見上げ、階段を上りながら各部を間近で見ていく**という、館内でも珍しい鑑賞の仕方ができます。ぜひ上まで上ってください。 **まず、下から順に読んでください。トーテムポールは「読む」ものです。** - **最下部**——神話上の海の存在「**Man-Underneath**」が、鯨を捕らえている場面。海の力そのものです。 - **その上**——母ビーバーと子ビーバー。氏族の名と、家系の継承を表します。 - **上部**——ワシ、あるいは雷を呼ぶ伝説の鳥**サンダーバード**。天空の力です。 - **頂点**——鋭い嘴の鳥。氏族の伝承に登場する特別な存在です。 **これは装飾ではありません。** ヨーロッパの貴族が紋章で家系を示したのと同じように、**モチーフの積み重ねが氏族の歴史と権威を語る文書**になっています。読める人には、誰の家系で、どんな出来事を経てきたかが分かる。 **素材と技術を見てください。** 一本の**レッドシダー**(ベイスギ)から彫り出されています。継ぎ目はありません。この木は北米北西海岸に育つ巨木で、まっすぐで割れにくく、腐りにくい。斧と手斧(アッズ)だけで、これだけの深浮彫を成立させています。 **これは誰のためのものか。** カナダ・ブリティッシュコロンビア州の**ニスガ族**、イーグル・ビーバー氏族の酋長**ルーヤアス**を追悼するために、19世紀半ばに建てられました。**墓標ではなく、記念碑**です。故人の地位と氏族の物語を、村に立ち続けることで語り継ぐ。 **立てる行為そのものが儀礼でした。** 完成したポールを起こすには、数十人から数百人規模の人手が要ります。縄と足場を使い、共同体が総出で引き起こし、その後に大規模な饗宴(**ポトラッチ**)が開かれる。**彫ることではなく、皆で立てることが完成**だったのです。 なお、ポトラッチはカナダ政府によって1885年から1951年まで法律で禁止されていました。トーテムポールの制作と建立の伝統も、その間に大きく断絶しています。**この一本が彫られた頃には当たり前だった営みが、その後、法によって止められた**——展示を見上げるとき、その時間差も一緒に見えているといいと思います。

    閲覧室

    閲覧室

    不明 — 1879頃

    **『資本論』は、この部屋で書かれました。** グレート・コートの中央にある円形の建物。1857年に完成し、1997年まで大英図書館の閲覧室として使われていた空間です。展示品ではなく**部屋そのものが見どころ**という、館内でも特異な存在です。 **まず、天井を見上げてください。** 直径**42.6メートル**のドームが、柱一本なしで架かっています。これはローマのパンテオンにほぼ匹敵する規模で、完成当時は世界最大級のドームの一つでした。鋳鉄の骨組みという当時の最新技術で実現しています。頂部の天窓から光が落ちてくる設計です。 **次に、床の配置を想像してください。** かつて**38本の長机が、中央から放射状に**並んでいました。車輪のスポークのような形です。最大**302名**が同時に着席でき、**そのうち2席は当初、女性専用として確保されていました。** 女性が学問の場に入ることが例外だった時代の名残です。 **壁を見てください。** 円周に沿って書架が積み上がり、その総延長は**40キロメートル**を超えました。ただし、本を自分で取ることはできません。中央のカタログで書名を探し、請求票を書いて提出し、**最大1時間待って**受け取る。持ち出しは一切不可でした。 **そして、照明。** ここはロンドンの公共空間の中で、**比較的早い時期に電気照明を導入した場所の一つ**です。それ以前は自然光とガス灯に頼っていたため、冬の夕暮れや、あの有名なロンドンの濃霧の日には、**読書を中断して帰るしかありませんでした。** 電気が入ったということは、霧の日でも本が読めるようになったということです。 **誰がここにいたか。** 利用者の名簿は、そのまま近代史の索引になります。 - **カール・マルクス**——亡命後、ここに通い詰めて『資本論』を執筆 - **ウラジーミル・レーニン**——「ヤコブ・リヒター」という偽名で登録 - **モハンダス・ガンディー**、**シルヴィア・パンクハースト** - **オスカー・ワイルド**、**ブラム・ストーカー**(『ドラキュラ』の資料調査) - **アーサー・コナン・ドイル**、**ジョージ・オーウェル**、**ビアトリクス・ポター** **革命家と小説家が、同じ机で、同じ請求票を書いていた。** 思想の異なる人間が一つの屋根の下に集まる装置として、この部屋は機能していました。 **訪問のヒント:** 毎週火曜の**11:00と12:00**に、ボランティアによる**20分間のツアー**が行われています。各回定員20名の先着順で、事情により中止されることもあります。部屋の使われ方や著名な利用者について解説が聞けるので、タイミングが合えば参加する価値があります。

    ヒントン・セント・メアリーのキリスト像(モザイク中央円盤)

    ヒントン・セント・メアリーのキリスト像(モザイク中央円盤)

    作者不詳 — 4世紀頃

    **このキリスト像は、床に敷かれていました。** 人が踏むところにキリストの顔がある——それが、この作品の最大の謎です。 1963年、イングランド南部ドーセット州の小村ヒントン・セント・メアリーで、鍛冶場の敷地を掘っていた作業員がモザイクの床を掘り当てました。4世紀のローマ時代の邸宅(ヴィラ)の床です。 **まず、中央の顔を見てください。** 若い男性が正面を向いています。髭はなく、髪は短い。**これは、現存する世界最古級のキリスト像の一つ**と考えられています。 **なぜキリストだと分かるのか。頭の後ろを見てください。** 「**P**」の縦棒に「**X**」が重なった記号があります。これは**キ・ロー(Chi-Rho)**——ギリシャ語で「キリスト(ΧΡΙΣΤΟΣ)」の最初の二文字を組み合わせた、初期キリスト教の徽章です。ローマ皇帝コンスタンティヌスがこれを軍旗に掲げてから、キリスト教徒であることを示す記号として広まりました。 **顔の左右を見てください。** **ザクロ**が描かれています。実が割れて種が覗く果実は、地中海世界で古くから**不死と再生**の象徴でした。ここではキリストの復活を指しています。 **しかし、周囲も見てください。** 同じ床の他の区画には、**ベレロフォンが天馬ペガサスに乗り、怪物キマイラを退治する場面**が敷かれています。完全にギリシャ・ローマ神話の題材です。四隅には風の神々らしき人物も配されている。 **つまりこの床では、キリストと異教の神話が同居しています。** 4世紀のブリタニアは、キリスト教が公認されて間もない過渡期でした。この邸宅の主は、新しい信仰を受け入れつつ、古い神話の教養も手放していない。**怪物を倒す英雄ベレロフォンを、悪を打ち破るキリストの寓意として読む**解釈も当時からあり、二つは矛盾なく並べられたのかもしれません。 **そして、床であることの問題。** 教会の指導者たちは、聖なる像を踏まれる場所に置くことを繰り返し戒めていました。にもかかわらずこの家の主はそれを敷いた。**信仰を誇示したかったのか、床装飾の一部としか考えていなかったのか。** 部屋の使い方すら分かっておらず、礼拝空間だったという説も、単なる食堂だったという説もあります。 ローマ帝国の辺境の島で、私邸の床に、世界最古級のキリストの顔が敷かれていた——この不思議さが、この展示品の価値です。

    二頭の蛇

    二頭の蛇

    作者不明 — 15〜16世紀頃

    **照明の下で、青が燃えて見えます。** 500年前のアステカの職人が貼りつけたトルコ石が、今も一片も色褪せていません。 **まず、全体の形を見てください。** 中央から左右へ、二匹の蛇が身をくねらせて向かい合い、それぞれの端で口を開けています。**二つの頭を持つ一匹の蛇**とも、**絡み合う二匹**とも読める形。W字に波打つ胴体が、静止しているのに動いて見えます。 **次に、表面に近づいてください。** 約**2,000片**のトルコ石が、木の芯(スギ材)の上にモザイクとして貼られています。一片一片は爪の先ほどの大きさで、微妙に色が違う。職人はそれを、蛇の胴の起伏に合わせて濃淡を配置しました。松脂を接着剤にして、この量を手作業で並べています。 **口の中を見てください。** 歯と歯茎には**赤い貝殻**(スポンディルス貝)が使われ、青の中で血のように鮮やかに浮かんでいます。鼻先にも同じ赤。そして眼窩は空洞ですが、かつては**黄鉄鉱**の球が嵌め込まれ、金属質の光を放っていたと考えられています。**青・赤・金の三色**で構成された装身具でした。 **蛇の意味を知ってください。** アステカにおいて蛇は、羽毛の蛇の神**ケツァルコアトル**と結びつく神聖な存在です。ケツァルコアトルは風と知恵を司り、人間に暦と農業を授けた創造神でした。この胸飾りをつけた人物は、その神の力を身に帯びていたことになります。 **素材そのものが権力です。** トルコ石はアステカ帝国の領内では採れず、はるか北方(現在のアメリカ南西部方面)から交易と貢納で運ばれてきました。**帝国が支配した広大な範囲を、身につけて示す**——この胸飾りは装飾品であると同時に、政治的な地図でもあります。 **なお、この品には有名な仮説があります。** 1519年、アステカの王モクテスマ2世がスペインの征服者**コルテス**を迎えたとき、贈り物としてトルコ石のモザイク細工を渡したと記録されています。この胸飾りがその一つではないか、という説です。確証はありませんが、もし本当なら、これは**帝国が滅びる直前に、滅ぼす相手へ手渡された品**ということになります。 アステカのトルコ石モザイク細工で現存するものは**世界に25点前後**しかなく、その大半がここ大英博物館にあります。

    ロゼッタ・ストーン

    ロゼッタ・ストーン

    作者不明 — 紀元前196年頃

    **世界でいちばん有名な「石」です。** そして、この石が持ち込んだのは知識ではなく、**失われた声を取り戻す鍵**でした。 古代エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)は、4世紀を最後に読める人が絶え、**1400年以上まったく解読できませんでした。** ピラミッドも神殿も墓も、壁一面に文字が刻まれているのに、誰にも読めない。人類は、目の前にある巨大な文明の記録を、ただ模様として眺めるしかなかったのです。 **石の表面を上から下へ見てください。** 文字が三段に分かれています。 - **上段**(欠損が大きい)=ヒエログリフ。神殿と王のための聖なる文字 - **中段**=デモティック(民用文字)。日常の事務に使われた崩し字 - **下段**=古代ギリシャ文字 **そして、三つとも同じ内容です。** ここが決定的でした。ギリシャ語は当時のヨーロッパの学者なら誰でも読める。つまり、**答えの分かっている問題**が手に入ったわけです。 **上段の楕円の輪を探してください。** ヒエログリフの中に、いくつかの記号を囲む細長い輪(**カルトゥーシュ**)が見えます。ここに王の名が入る、という推測から解読は始まりました。1822年、フランスの**シャンポリオン**が「ヒエログリフは絵文字ではなく、音を表す表音文字でもある」と見抜いた瞬間、エジプト三千年の記録がいっせいに読めるようになりました。エジプト学という学問が、この石から生まれています。 **内容そのものは、拍子抜けするほど地味です。** 紀元前196年、少年王プトレマイオス5世の即位を祝い、神官たちが王への優遇を確認した**免税に関する布告**。要は役所の公示文です。歴史を変えたのは中身ではなく、「同じ文章が三種類の文字で書かれていた」という一点でした。 **石の側面にも注目を。** 白い塗料で英語の文言が書き込まれています。「Captured in Egypt by the British Army 1801(1801年 英国軍がエジプトにて捕獲)」。1799年にナポレオン軍が発見し、フランスが敗れた後にイギリスが接収した経緯が、石そのものに記されている。**遺物であると同時に、戦利品でもある**ことを隠していない展示です。 なお、エジプト政府は近年、この石の返還を公式に求めています。展示ケースの前に立つとき、その議論も一緒に見えているほうがいいでしょう。

    パルテノン神殿・東破風彫刻

    パルテノン神殿・東破風彫刻

    作者不明 — 紀元前438–432年頃

    大英博物館で最も美しく、最も議論を呼んでいる展示室です。**紀元前5世紀のアテネ人が実際に彫った大理石**が、目の前に、ガラス越しですらなく置かれている。 **まず、衣の襞(ひだ)を見てください。** 座り込む女神たちの衣は、身体に濡れたように貼りついて、その下の脚のかたち、腹のやわらかさ、体重のかかる方向まで透けて見えます。石を彫って、**布が濡れているという状態**を表現している。この「濡れた衣(ウェット・ドレイパリー)」の技法は、古代ギリシャ彫刻が到達した頂点の一つです。触れれば冷たい大理石だと分かっているのに、目は柔らかい肉と布を見てしまう。 **次に、馬の頭を探してください。** 破風の端に、月の女神の馬車を引く馬の頭が残っています。口を開け、鼻孔を膨らませ、目を剥いて、**疲れ果てている**。一晩空を駆けて、今まさに地平の下へ沈んでいくところです。神話の場面を、これほど生々しい疲労として彫った例はほとんどありません。 **そして、首がないことに気づいてください。** ほとんどの像は頭や腕を失っています。これは風化だけが原因ではなく、1687年、この神殿がオスマン帝国の**火薬庫**として使われていた時にヴェネツィア軍の砲撃を受け、大爆発を起こしたためです。神殿建設から2100年後の出来事でした。 **破風(ペディメント)とは何か。** 神殿正面の、屋根の三角形の部分です。東破風にはアテナ女神が父ゼウスの頭から生まれる場面が彫られていました。地上から十数メートル上、しかも見上げる角度で、彫刻は背中側まで丁寧に仕上げられている。**誰にも見えない部分まで彫った**という事実が、この仕事が人に見せるためではなく神に捧げるためだったことを物語ります。 **収蔵の経緯について。** これらは19世紀初頭、オスマン帝国駐在の英国大使**エルギン伯**が神殿から取り外し、イギリスへ運んだものです。「エルギン・マーブル」という通称はここから来ています。ギリシャ政府は長年にわたり返還を求め続けており、アテネには受け入れ先となるアクロポリス博物館が2009年に開館しています。**この彫刻が今どこにあるべきかは、まだ決着していません。** 見どころであると同時に、現在進行形の問題でもあります。

    ラマッス(コルサバードの門を守る人頭有翼雄牛)

    ラマッス(コルサバードの門を守る人頭有翼雄牛)

    作者不詳 — 紀元前8世紀頃

    **この像には、脚が5本あります。** 数えてみてください。 これは彫刻家の失敗ではありません。**正面から見ると、二本の脚で直立して静止している。横から見ると、四本の脚で堂々と歩いている。** 一つの像で「立つ」と「歩く」を同時に成立させるため、共有する前脚をもう一本足したのです。門をくぐる人は、近づくときに静止した守護者を見上げ、通り過ぎるときに歩き出す姿を見る。**動く鑑賞者を前提に設計された彫刻**です。紀元前8世紀の話です。 **次に、頭部を見てください。** 人間の顔に、丁寧に編み込まれた髭。かぶっているのは**角のついた冠**で、メソポタミアでは角の数が神格の高さを示しました。人間の知性、雄牛の力、鳥の翼、そして神の角。守るために必要なものを全部乗せた、合成された存在です。 **そして大きさを体感してください。** 一体でおよそ**16トン**。大英博物館の展示品でも最重量級です。これがアッシリア帝国の首都コルサバード(現在のイラク北部)の城門に、対で据えられていました。門をくぐる外国の使節は、この巨大な生き物に見下ろされながら王に謁見しに行くことになる。**建築そのものが威圧装置**でした。 **像の背後の壁面も見てください。** 別の超自然的存在が、バケツと松かさ状の道具を持って液体を振りまいている場面が彫られています。ラマッスを清める儀礼です。守護者もまた、清められる必要があった。 **輸送の話も知っておくと面白い。** アッシリア人はこれを一体まるごと運びました。1849年にイギリスが持ち出したときには、それができず**4つに切断**しています。切り分けられた石はいかだでチグリス川を下り、バスラから船に積まれ、インド・南アフリカを回ってロンドンへ運ばれました。 なお、コルサバードやニムルドの遺跡は2015年以降、過激派組織によって大規模に破壊されました。**現地に残っていた同種のラマッスの多くは、もう存在しません。** ここにある像が、結果として貴重な現存例になってしまったという事実も、この展示の一部です。

    リンドウ・マン

    リンドウ・マン

    - — 紀元前2年〜紀元119年頃

    **2000年前に殺された男が、皮膚と髪と爪を残したまま横たわっています。** そして彼が**どう殺されたか**は、驚くほど詳細に分かっています。 1984年、マンチェスター近郊リンドウ・モスの泥炭地で、機械が泥炭を切り出していたときに人間の脚が出てきました。当初は警察が捜査に入りましたが、放射性炭素年代測定の結果、鉄器時代の遺体と判明します。 **まず、なぜ残ったのか。** 泥炭地の水は強い酸性で、酸素がほとんどありません。腐敗を起こす細菌が生きられない環境です。骨は酸で溶けやすい一方、**皮膚や髪や内臓は驚くほど良く残る**。彼の指の爪は手入れされ、口髭と顎髭は刈り揃えられていました。**肉体労働をしていない、身なりを整えた男**です。 **次に、彼の死に方を見てください。** 法医学的調査で判明した外傷は一つではありません。 - 頭頂部への**強打**(斧か棍棒によるもの) - 首に巻かれた紐による**絞殺**の痕。首の骨が折れている - 喉への**刺し傷** **打たれ、絞められ、刺されている。** どれか一つでも致命傷になり得ました。この「三重の死」が、儀礼的な人身供犠だったのではないかという説の根拠になっています。ケルト社会には三の数を重んじる宗教観があり、複数の神に同時に捧げるために三通りの殺し方をしたのではないか——確証はありませんが、単なる殺人や処刑にしては手が込みすぎています。 **そして、最後の食事。** 胃の内容物から、**焼いた無発酵のパン**が見つかりました。さらに**ヤドリギの花粉**も検出されています。ヤドリギはケルトの祭司ドルイドが神聖視した植物でした。偶然混入した可能性も残りますが、儀礼説を後押しする材料として議論され続けています。 **展示の前では、彼の姿勢を見てください。** 身体は潰れて平たくなり、片方の腕が身体の下に折り込まれている。裸で、身につけていたのは**キツネの毛の腕輪**ひとつだけでした。 25歳前後、身長1.73メートル。名前は分かりません。博物館では「リンドウ・マン」と呼ばれています。

    ゲベレインの男性

    ゲベレインの男性

    不明 — 中期先王朝、紀元前3500年頃

    **大英博物館で最も古い「人間」です。** そして、ピラミッドよりも古い。 彼が砂に埋められたのは紀元前3500年頃。**最初のピラミッドが建つ約1000年前**、ヒエログリフが成立する前、エジプトがまだ統一されてもいない時代です。ツタンカーメンより2000年以上、クレオパトラより3400年前の人間が、髪の毛を残したまま、そこに横たわっています。 **まず、姿勢を見てください。** 膝を抱えるように身体を折り、横向きに丸まっている。胎児の姿勢です。副葬品とともに浅い穴に置かれ、砂をかけられました。**棺も、包帯も、防腐処理も一切ありません。** **にもかかわらず、なぜ残ったのか。** ここがこの遺体の重要な点です。エジプトの人工ミイラは、ナトロン(天然の炭酸ナトリウム)で体液を抜き、内臓を取り出し、樹脂を塗って作られます。しかし彼は、**何もされていないのに保存された**。 理由は砂です。乾いた砂漠の砂が体液を急速に吸い上げ、直射日光が地表を熱し、浅い墓穴には湿気がこもらなかった。腐敗菌が繁殖する前に、身体が干上がったのです。**エジプト人が後にミイラ作りを発明したのは、この自然現象を目撃したからだ**という説があります。砂に埋めた死者が朽ちずに残るのを見て、「死後も肉体が保たれる」という信仰と技術が生まれた。**エジプト三千年の死生観の出発点が、この一体かもしれない**ということです。 **髪を見てください。** 赤みがかった髪が残っています。この保存状態のおかげで、彼は長く「ジンジャー(赤毛)」という愛称で呼ばれていました(現在の博物館は本人の尊厳を考慮してこの呼称を使っていません)。 **そして、彼は殺されています。** 2012年のCTスキャンで、**左の肩甲骨の下に刺し傷**が見つかりました。骨に達し、肋骨を傷つけている。背後から、刃物で刺されたと考えられます。傷は治癒しておらず、これが死因です。 年齢は18歳から21歳ほど。筋肉のついた健康な若者でした。**紀元前3500年の殺人事件**が、5500年後のCTスキャナーによって明らかになった——これは世界最古級の、法医学的に立証された殺人の記録の一つです。

    キュロスの円筒

    キュロスの円筒

    作者不詳(王権文書) — 紀元前539年頃

    **「世界最古の人権宣言」と呼ばれたことがある粘土の塊です。** ただし、その呼び名が正しいかどうかは、見てから判断するのが面白い。 大きさは20センチほど。楕円形の粘土に、**楔形文字**がびっしり刻まれています。紀元前539年、ペルシアの王**キュロス2世**がバビロンを征服した直後に作られました。 **まず、この文書の目的を知ってください。** これは公開された宣言文ではありません。**建物の基礎に埋めるために作られた**ものです。メソポタミアでは、王が神殿や城壁を修復するとき、自分の功績を記した文書を壁の中に埋め込む習慣がありました。読者は後世の王か、神です。**人に読ませるつもりはなかった文書**なのです。 **内容の構成を見てください。** 前半は三人称で、前王ナボニドゥスの批判から始まります。彼は神々の祭祀を歪め、民に重い労役を課した。怒った主神マルドゥクは、代わりの王を探し、ペルシアのキュロスを選んだ——**征服を、現地の神による正当な人選として説明している**わけです。 そして途中から、語りが**一人称に変わります。**「我、キュロス、世界の王、偉大な王……」。ここからは、キュロス自身が自らの善政を語る形式になります。 **彼が主張していること。** 暴力ではなく平和裡にバビロンへ入城したこと。破壊された神殿を修復したこと。**連れ去られていた神像を元の町へ返し、強制移住させられていた人々を故郷に帰したこと。** 過酷な労役を廃止したこと。 **この「民を故郷へ帰した」という記述**が、旧約聖書に記されたユダヤ人のバビロン捕囚からの解放と重なるため、円筒は特別な注目を集めてきました。1971年にはイランのパフラヴィー王朝がこれを「最初の人権憲章」と位置づけ、国連にレプリカが贈られています。 **しかし、慎重に読む必要もあります。** 現代の歴史学者の多くは、これを人権宣言ではなく**典型的な王のプロパガンダ**だと見ています。「前王は悪政を敷いた、神が私を選んだ、私は神殿を直した」という文言は、メソポタミアの王碑文の定型句そのものだからです。キュロスが実際に寛容な統治を行ったことは他の史料も裏づけていますが、この円筒自体は権力を正当化するための文書として書かれた——**そう分かった上で読むほうが、はるかに面白い展示品です。** 征服者が、征服された土地の神の名で自分を正当化する。2500年前の統治の技術が、20センチの粘土に凝縮されています。

    アメンホテプ3世 巨大頭像

    アメンホテプ3世 巨大頭像

    作者不明 — 紀元前1370年頃

    **まず、下から見上げてください。** この像は本来、見上げられるために作られています。首から上だけで人の背丈ほどあり、もとは全身像でした。エジプトの神殿の門前に据えられ、参拝者は自分の何倍もの王を見上げながら聖域へ入っていったのです。 **次に、口元を見てください。** わずかに口角が上がり、**微笑んでいます。** アメンホテプ3世の像に共通する特徴で、その治世を象徴する表情です。彼が統治した紀元前14世紀前半、エジプトは戦争をほとんどしませんでした。国庫は満ち、外交は安定し、建築と美術に莫大な資源が注ぎ込まれた。**エジプト三千年の歴史で最も豊かだった時代**の王の顔が、微笑んでいます。 **目の形にも注目を。** 切れ長で、大きく、瞼のラインが深く彫り込まれている。この様式化された理想的な顔立ちは、アメンホテプ3世の実際の容貌ではなく、**「若く完璧な王」という記号**です。彼は40年近く統治し、晩年は肥満と歯の病に苦しんだことがミイラの調査で分かっていますが、像は永遠に若い。 **素材を見てください。** 赤みを帯びた花崗岩です。極めて硬く、青銅の道具しかない時代にこれを彫るのは途方もない労力でした。しかも表面は磨き上げられ、光を反射する。**硬さは永続性の表明**でもあります。 **そして、ここが一番の見どころです——この顔は、別人に書き換えられています。** 制作から約100年後、**ラムセス2世**(諸説あり、ラムセス1世とも言われます)がこの像を自分の像として再利用しました。エジプトではこれを**簒奪**(さんだつ)と呼び、決して珍しいことではありません。新しい王が先王の像の顔を削り直し、名前を彫り替えて、自分の記念碑にしてしまう。石を切り出して運ぶより、はるかに安上がりだからです。 **顔の輪郭や耳のあたりに、彫り直しの痕跡が残っています。** 微笑む王の顔の下に、もう一人の王の顔が沈んでいる。**記念碑は永遠ではなく、上書きされるものだった**——この像は、そのことを自ら証明しています。 元はテーベ(現ルクソール)のカルナック、ムート女神の神殿の入口を飾っていました。

    バベルの塔

    バベルの塔

    不明 — 紀元前600-400年頃

    **聖書の伝説だと思われていた塔の、設計図が出てきました。** 展示されているのは、手のひらに載るほどの粘土板です。地味です。しかしこれは、**旧約聖書のバベルの塔に実在のモデルがあったことを示す一次資料**です。 **まず、粘土板の下部を見てください。** 線で描かれた図形があります。**階段状の建造物の立面図**——七層に積み上がった、ジッグラト(聖塔)の外形です。上には神殿が載っている。**紀元前6世紀の建築図面**が、そのまま残っています。 **次に、上部の楔形文字を見てください。** ここには各層の**寸法**が記されています。何段目が縦横何キュビト、高さ何キュビト、という数値の羅列です。基底部は一辺およそ90メートル、高さもおよそ90メートルと読み取れる。**30階建てのビルに相当する高さの、正方形の塔**が、平坦なメソポタミアの沖積平野にそびえていたことになります。 **この建物の名前は「エテメナンキ」。** 「天と地の基(もとい)の家」という意味です。バビロンの主神**マルドゥク**に捧げられ、新バビロニアの王**ネブカドネザル2世**(紀元前6世紀)によって大規模に再建されました。粘土板はその再建にまつわる記録と考えられています。 **そして、聖書との関係。** 創世記11章にはこうあります——大洪水の後、人類は同じ言葉を話していた。人々は「天まで届く塔を建て、我々の名を上げよう」と考え、煉瓦を焼いて積み上げ始めた。神はそれを傲慢と見て、人々の言葉を乱し、互いに通じなくさせ、人々は各地へ散っていった。 ユダヤの民は**バビロン捕囚**によって実際にこの都市へ強制移住させられ、そこで巨大なジッグラトを目にしています。**征服者の都にそびえる、天を衝く塔。** さまざまな言語を話す各地の民が集められ、その労役に従事させられていた。**バベルの物語は、この光景から生まれた**と考えるのが通説です。「バベル」はヘブライ語の「バラル(混乱させる)」との語呂合わせですが、地名としてはそのまま「バビロン」です。 **塔は現存しません。** 紀元前4世紀にアレクサンドロス大王が再建を試みましたが、瓦礫の撤去だけで頓挫し、その死とともに計画は消えました。今のイラクに残るのは、水を張った窪地と基礎の輪郭だけです。 **神話の側にあったはずのものが、寸法を持って戻ってきた**——この粘土板の面白さは、そこにあります。

    クレオパトラ:若い女性のミイラ

    クレオパトラ:若い女性のミイラ

    不明 — 紀元前後頃

    **名前はクレオパトラ。しかし、あの女王ではありません。** 古代エジプトのギリシャ系住民のあいだで、クレオパトラは**ごくありふれた女性の名前**でした。日本でいえば「花子」のようなものです。有名なプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世は、その名を持つ7人目。**この若い女性は、まったくの別人**です。テーベ出身のソテル家という一族の女性で、紀元後2世紀ごろに亡くなりました。 **まず、外側の覆いを見てください。** 全身を包む布の表面に、亡くなった彼女自身の姿が描かれています。エジプト風の装いで、来世の神々に囲まれている。**布に描かれた本人**という点が、この時代の特徴です。 **次に、包み方に注目を。** 布は幾重にも巻かれ、表面には**幾何学的な菱形模様**が組まれています。これは単に巻いただけではなく、色の違う細い帯を交差させて編み上げたもので、当時の包帯技術の最も凝った例の一つです。**死者を美しく仕上げること自体が、送り出す側の務め**でした。 **副葬品も見てください。** 棺の中には**櫛と、ビーズの首飾り**が納められていました。神々の像でも護符でもなく、日用品です。生前に使っていた持ち物を持たせている——この素朴さが、かえって胸に来ます。 **そして、ここからが現代の技術の出番です。** 彼女は**一度も包帯を解かれていません。** 19世紀から20世紀初頭にかけて、博物館はミイラを解くのが普通でしたが、それは遺体を破壊する行為でもありました。現在は**X線とCTスキャン**で、包んだまま中身を調べます。 **分かったこと:** - 死亡時の年齢は**およそ17歳** - 骨格の状態は良好で、栄養状態も悪くない - **右の胸腔に少なくとも3つの包み**——取り出した内臓を防腐処理して体内に戻したもの - **左の胸腔に長さ約9センチの物体**——布の巻き物か、小さな神像の可能性 - 全身に泥や砂の詰め物が使われ、**総重量は約75キロ** **17歳です。** 死因は特定されていません。良い家柄に生まれ、健康に育ち、丁寧に葬られた少女が、2000年後にスキャナーの中で年齢を言い当てられている。 **包帯を解かないという選択**そのものが、この展示の見どころでもあります。中身を暴かずに知る技術が、彼女をそのままの姿で保っています。

    ミイラ化:遺体保存の技術

    ミイラ化:遺体保存の技術

    不明 — 紀元前1000年頃

    **エジプト人がミイラを作った理由は、「死体を残したかったから」ではありません。** そこを取り違えると、この展示は半分しか見えません。 彼らの死生観では、人は死ぬと**バー**(個性・魂)と**カー**(生命力)に分かれ、夜ごとに肉体へ戻ってきます。**戻る先が失われていたら、その人は二度目の死を迎え、永遠に消滅する。** ミイラ化は美意識でも呪術でもなく、**魂の帰る家を維持するための、極めて実務的な保全作業**でした。 **工程を順に見てください。** **1. 洗浄。** 遺体は「**イブ**(浄めの天幕)」へ運ばれ、ナトロン溶液で洗われます。ナトロンは天然の炭酸ナトリウムで、防腐と脱脂の作用があります。 **2. 内臓の摘出。** 左脇腹を切開して、肺・肝臓・胃・腸を取り出します。取り出した内臓は防腐処理され、**カノポス壺**に納められました。 **ここで、脳と心臓の扱いの違いに注目してください。** 脳は**鼻から金属の鉤を差し込んで掻き出し、捨てられます。** 思考の器官とは考えられていなかったからです。一方、**心臓は必ず体内に残されました。** 死後の審判で、心臓は真理の女神マアトの羽根と天秤にかけられる。**心臓がなければ、裁きを受けることすらできない**——だから残す。エジプト人にとって、人格が宿るのは心臓のほうでした。 **3. 乾燥。** 遺体をナトロンで覆い、**35〜40日**かけて完全に水分を抜きます。ここが最も時間のかかる工程です。 **4. 造形。** 乾燥した遺体は痩せこけて縮みます。そこで頭蓋や胸腔に**リネンや砂、泥**を詰め、顔や手足のかたちを整える。**生きていたときの姿に近づける**作業です。表面には樹脂が塗られ、人工の目が入れられ、指には金や銀の覆いが被せられることもありました。 **5. 包帯。** ここが最も宗教的な工程です。細く裂いた布を、順序を定めて何十層も巻いていく。使われる布は**古い衣服や寝具**の場合もあれば、高位者には神殿儀礼用の上質なリネンが使われました。**布に死者の名が書かれている例**も見つかっています。包帯の合間には、決められた位置に**護符**が納められ、その都度、呪文が唱えられる。この作業は数日にわたりました。 **そして最後に、覆布(シャラウド)。** 最も外側を包む一枚で、第21王朝の例では**オシリス神の姿**が描かれています。外層は赤みを帯びた色に染められ、縦・横・斜めに色違いの帯が渡された。 **包帯は保存のためだけではありません。** 包み終えた姿は、生きていた人間の姿ではなく、**神になった存在の姿**です。マスクと副葬品を伴って、遺体は「変容した存在」へ作り替えられる。**ミイラ化の最終目的は、人を神に変えることでした。** 紀元前1000年頃、この技術は頂点に達します。展示ではその工程が、実物とともに順を追って見られます。

    ネレイド記念碑

    ネレイド記念碑

    作者不詳 — 紀元前390〜380年頃

    **神殿に見えますが、これはお墓です。** 一人の男のために、丸ごと一棟のギリシャ神殿が建てられました。 **まず、全体を見上げてください。** イオニア式の細い円柱が並び、その上に屋根が載る——アテネのアクロポリスに建っていてもおかしくない外観です。ところがこれは**ギリシャではなく、リュキア**(現在のトルコ南西部)で、**紀元前390〜380年頃**に建てられた王墓です。 **次に、柱と柱の間を見てください。** 女性の立像が配されています。**ネレイド**——ギリシャ神話の海の精霊たちです。この記念碑の通称の由来になっています。 **彼女たちの衣を見てください。** 薄い布が身体に貼りつき、脚の輪郭が透けて、裾は後ろへ流れている。**風を受けて前進している**姿です。石でありながら、動きと速度が刻まれている。海の精を配することで、この墓は海に面した地の支配者のものであることを示していたと考えられます。 **そして、基壇のフリーズ(帯状の浮彫)を追ってください。** ここに物語があります。戦闘の場面、城市を包囲する場面、降伏する者、連行される捕虜、そして饗宴。**被葬者の生涯の業績が、絵巻のように連続して彫られている**のです。 **被葬者は誰か。** 西リュキアを治めた支配者**アービナス**と考えられています。彼はギリシャ人ではありません。当時のリュキアは**アケメネス朝ペルシア帝国**の支配下にあり、彼はペルシアの承認のもとで統治する地方領主でした。 **ここが、この記念碑の最も面白い点です。** フリーズの中には、**アービナス自身がペルシア風の衣装で描かれた場面**があります。つまり彼は—— - 墓の**外観**はギリシャ神殿を選び - 墓を飾る**神々**はギリシャ神話から取り - 自分の**服装**はペルシア風で描かせ - 統治していたのは**リュキア人**の土地 **三つの文化を同時に着こなしている。** 大国のはざまで、どの権威も否定せずに全部使う。地方支配者の生き残り戦略が、建築そのものとして立っています。 **発見の経緯。** この墓は古代都市クサントスに建ち、ビザンティン時代まで残っていましたが、やがて地震などで崩壊しました。19世紀初頭に**チャールズ・フェローズ**が瓦礫の中から発見し、断片をイギリスへ運搬。大英博物館が**正面部分を組み上げ直して**展示しています。今見ているのは、瓦礫から再構成された姿です。

    主要作品の一覧を見る
    Essentials

    基本情報

    大人料金
    無料
    子ども料金
    無料
    滞在時間の目安
    2時間
    写真撮影
    撮影自由
    荷物預かり
    有料
    最寄駅
    Tottenham Court Road(徒歩5分)
    最寄バス停
    New Oxford Street(徒歩3分)
    音声ガイド
    あり / £6 / 英語・フランス語・日本語(音声ガイド)
    カフェショップWi-Fi
    Trivia

    知っていると見え方が変わる話

    入館料が無料なのは創設時からの方針

    1759年の開館当初から「すべての知的好奇心を持つ人々に無料で」公開されてきました。18世紀としては極めて異例で、当時のヨーロッパの収蔵品は王侯貴族の私的コレクションが普通だったのです。世界で初めての国立公共博物館とされる理由がここにあります。

    収蔵品は約800万点、展示できるのはごく一部

    所蔵する約800万点のうち、常設展示されているのは1%程度に過ぎません。残りは収蔵庫と研究機関にあります。「一日では回りきれない」と言われますが、実際には見えているものすら全体のごく一部ということになります。

    Access

    場所

    Great Russell St, London WC1B 3DG

    ロンドン観光ガイド

    大英博物館を観光ルートに組み込む

    周辺スポットとの回り方や、同じエリアで一緒に回れる見どころは観光ガイド側で紹介しています。

    みんなの口コミ

    大英博物館を訪れた感想や、次に行く人へのアドバイスがあれば教えてください。

    残り2000文字

    投稿は誰でも読めます。個人情報は書かないでください。

    まだコメントはありません。最初の投稿をお待ちしています。

    ほかの美術館も見る

    ロンドンには無料で入れる館が多くあります。近くの館と組み合わせて回るのがおすすめです。

    美術館の一覧へ美術館ガイドのトップへ