2026年9月2日
連載「東インド会社物語」全 3 回 の第 3 回
1857年5月10日、会社が作り、会社が給料を払っていた軍隊が、会社に銃を向けた。翌1858年8月2日、イギリス議会は東インド会社からインドを取り上げる。ところがそれは罰ではなかった。会社の株主には年10.5%の配当が保証され、しかもその原資はインドの歳入だった。最終回は、274年つづいた会社がどうやって清算され、どうやってロンドンの地名になったかを追う。

第1回で、この会社は居酒屋で商談する商人の集まりだった。第2回で、食卓のテーブルに載せた肘掛け椅子の前で三州の徴税権を受け取り、飢饉のさなかに配当を上げ、破産しかけて国庫に頭を下げた。最終回は終わりの話をする。ただし、この会社の終わり方には、破滅も断罪もない。あるのは償還条件だけである。
1857年5月10日、噛み切る薬包と、74個連隊のうち54個
1857年、東インド会社の軍隊は、イギリス人の兵がおよそ4万5千、インド人の兵が23万を超えていた。ベンガル・マドラス・ボンベイの三管区を合わせると、イギリス本国の常備軍より大きい。一民間企業が地球上でいちばん大きな陸軍のひとつを持っていた、ということになる。
その軍隊が、会社に反旗をひるがえす。
きっかけは新型の小銃だった。エンフィールド銃の薬包は、火薬と弾を紙で包み、油脂を塗ってある。装填するには、その紙を歯で噛み切らなければならない。1857年の初め、その油脂には牛脂と豚脂が使われているという噂が広がった。牛はヒンドゥー教徒にとって神聖であり、豚はムスリムにとって不浄である。一つの薬包が、二つの宗教を同時に踏みにじる形になった。
ここで大事なのは、実際に脂が入っていたかどうかではない。信じられた、という事実のほうが決定的だった。会社は途中から「自分で好きな油を塗ってよい」と譲歩したが、譲歩そのものが噂の裏づけとして受け取られている。第2回で見たとおり、この会社は現地の社会を統治する責任を負わない設計で百年動いてきた。噂を打ち消せるだけの信用が、そもそも蓄積されていなかった。
3月29日、カルカッタ近郊バラックポアの練兵場で、一人のセポイが上官に発砲した。4月8日に絞首刑。4月24日にはミーラトで、騎兵90人のうち85人が薬包の受け取りを拒み、5月9日に重労働刑を宣告されて鎖につながれた。
翌5月10日、ミーラトの兵は監獄を襲って仲間を解き放ち、そのままデリーへ向かう。
5月11日、デリー。彼らが担ぎ出したのは、赤い城で年金生活を送っていた82歳の男だった。ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世。第2回に出てきた、テントの中で会社に徴税権を渡した皇帝の子孫である。実権は一世紀前に失われ、彼の「帝国」は城壁の内側だけだった。それでも、反乱に旗が要るとき、インドに残っていた旗はこれしかなかった。
ベンガル軍では、正規歩兵74個連隊のうち54個が、軽騎兵10個連隊は全部が叛乱に加わった。会社が作り、会社が訓練し、会社が給料を払っていた組織が、会社の統治を否定する側に回った。第2回の言い方をもう一度使うなら、権力を最大にし、責任を最小にする設計は、こういう形で請求書を回してくる。
1857年9月のデリーと、そのあとに吹いた「悪魔の風」
デリーの奪還は、9月14日にカシミール門を火薬で吹き飛ばすところから始まった。門から赤い城までは2キロもない。そこを進むのに1週間かかっている。9月20日から21日にかけて城が落ち、市街戦は終わった。
終わったあとのほうが長い。
市内は略奪され、住民は城外の仮設の宿営地へ追い出された。皇帝はフマーユーン廟に逃れたところを捕らえられ、同行していた皇子たちは、身柄を押さえた将校の手で城門の前で射殺された。
鎮圧の過程で、捕らえた反乱兵を大砲の砲口に縛りつけ、発射して吹き飛ばす処刑が使われた。単に残酷だという話ではない。遺体が四散して埋葬も火葬もできなくなることが、刑の中身として計算されていた。来世を奪う刑である。北インドの人々は、この報復の時期を「悪魔の風」と呼んだ。
公平に言えば、残虐は片側だけのものではなかった。7月、カーンプルでは降伏した英国人の女性と子どもが殺されている。「カーンプルを忘れるな」は、そのあとの鎮圧作戦の合言葉になった。虐殺の記憶が次の虐殺の許可証になるという、いちばん古い回路がここでも回っている。
死者の推計は、イギリス側が軍民あわせておよそ6千。インド側は、反乱と、それに伴う飢饉・疫病を含めておよそ80万とされる。桁が二つ違う。
戦闘は1858年11月まで続き、正式に終結が宣言されたのは1859年7月8日だった。
そしてこの1年半のあいだに、ロンドンでは別のことが起きていた。この反乱は、会社が鎮圧したのではない。国家が鎮圧した。国庫から金が出て、本国の連隊が送られ、議会が報告を受け取った。イギリス政府にとって「インドは会社に任せてある」という建前は、この時点で維持不可能になっている。
1858年2月9日、下院に提出された請願
レドンホール街の本社には、35年勤めている職員がいた。ジョン・スチュアート・ミルである。
『自由論』を書き、『功利主義』を書き、女性参政権を唱えた哲学者は、1823年から東インド会社の本社に通う勤め人でもあった。役職はインド通信審査官。インドから届く報告を読み、返答の文案を書く仕事で、彼はこれを本業として30年以上こなしている。
1858年、会社の廃止が議会にかかると、その弁護文書を書く役が彼に回ってきた。『過去30年におけるインド統治改善に関する覚書』と、それに添える議会への請願。請願は1858年2月9日に下院へ、その2日後に上院へ提出された。
論旨はこうだ。議会が直接統治すれば、統治は良くならず悪くなる。アメリカの植民地を失ったのがその証拠である。会社はイギリスの国庫に一切負担をかけていない。そして——会社が廃止されようとしているのは、「原住民に対して寛容にすぎ、配慮しすぎた」という理由によってである。
読みながら、どうしても第2回のことを考えてしまう。1770年のベンガル大飢饉で人口の3分の1が死んだ年に土地税を10%上げ、翌年に飢饉前を上回る税収を挙げ、ロンドンで12.5%の配当を宣言した組織のことを、である。請願はそこには触れない。触れないまま、統治の穏健さを根拠に存続を求めている。
ミルを偽善者と呼ぶのは簡単だが、たぶんそれでは何も見えない。ここで起きているのは、19世紀最高の頭脳の一つが、自分の勤め先の存続を弁護する文書を、業務として、しかも誠実に書いたということである。組織の中にいる人間が、その組織の帳簿の外側を見るのは難しい。これはミル個人の欠陥というより、この連載がずっと追ってきたものの正体に近い。
請願は退けられた。ミルの職場は、この年、役所ごと消滅する。
1858年8月2日、インド統治法
1858年2月12日、パーマストン内閣がインド統治法案を提出した。2月18日、下院は318対173で可決する。会社の廃止は、事実上ここで決まった。
その翌日、内閣が倒れた。
理由はインドとまるで関係がない。パリでフランス皇帝の暗殺未遂事件が起き、爆弾がロンドンで作られたものだったため、フランス政府が抗議した。パーマストンは国外での殺人の共謀を罪とする法案で応じ、これが「外国の圧力に屈した」と受け取られて19票差で敗れる。2月20日、総辞職。ダービー伯を首相、ディズレーリを蔵相とする保守党内閣ができた。
インド法案は、提出した政権ごと宙に浮いた。
新政権の第2法案は評判が悪く、撤回される。三度目の法案がようやく通り、1858年8月2日に国王裁可を受けた。インド統治法(Government of India Act 1858)である。
同年11月1日、アラーハーバードで女王の布告が読み上げられた。信仰には干渉しない、旧支配者の権利は尊重する、反乱に加わった者にも(直接手を下した者を除いて)恩赦を与える。インドでは長く「インドのマグナ・カルタ」と呼ばれた文書である。
担ぎ出された皇帝の裁判は、1858年1月27日に赤い城で始まり、3月9日に有罪の判決が出た。10月7日の早朝、バハードゥル・シャー2世は牛車でデリーを出て、ラングーンへ送られる。1862年、流刑地で死去。332年つづいたムガル帝国は、一民間企業の後始末として終わった。
ここで見落としてはいけないのは、1858年に変わったのは所有者であって、仕組みではないということだ。徴税の機構も、軍も、地方の役人も、そのまま引き継がれた。会社の官僚はそのまま帝国の官僚になった。看板が「会社」から「王室」に変わっただけで、インドから見れば、税を取りにくる相手の名前が変わったにすぎない。
1858〜74年、年10.5%と、額面100ポンドにつき198ポンド
ふつう、統治に失敗して領地を取り上げられた組織は、罰を受ける。この会社は受けなかった。
インド統治法は、会社の株主を丁寧に保護している。株主には年10.5%の配当が保証された。そして条文が定めた原資は、インドの歳入である。会社の資本に対する配当も、会社が背負っていた債務も、まとめて「インドの収入から支払うべきもの」として付け替えられた。
意味を書き下すとこうなる。統治を取り上げられた会社の株主に、統治を取り上げた側が、インドの納税者の金で配当を払い続けた。1858年から16年間、途切れずに。
終わりは1873年に来る。東インド株配当償還法。株主は、額面100ポンドの株につき、現金198ポンド、または3%コンソル公債200ポンド、または4%インド公債200ポンドのいずれかを選べた。ほぼ倍額の買い取りである。市場でこの株が高値で回っていた——年10.5%が国家保証で付いてくるのだから当然だ——ことの追認だった。
償還は1874年の春に始まり、1874年6月1日、東インド会社は消滅した。1600年12月31日の特許状から274年。
株主は現金を受け取り、職員は年金を受け取り、誰も裁かれなかった。プラッシーの買収も、1770年の飢饉も、法廷では一度も清算されていない。第1回で見たとおり、この組織はもともと株主のために利益を上げる機械として設計されていた。その設計は、最後の最後、解散の条件においてまで貫徹した。
前年、1873年4月8日のタイムズ紙は、この会社をこう評している——「人類の全歴史のなかで、他のいかなる貿易会社も企てたことのない事業を成し遂げた。そして今後も、どの会社もおそらく企てることはあるまい」。
賛辞なのか、それとも警告なのか。150年たっても、たぶん両方である。
レドンホール街、ポプラー、イースト・インディア駅、そしてV&A
会社は消えたが、ロンドンには残った。歩いて確かめられる場所を、いくつか置いておく。
レドンホール街。1648年から会社の本社があった場所で、1726年から29年に建て替えられ、1796年から1800年に拡張された。第2回で12.5%の配当が宣言された建物である。会社の権限が国王に移ると用済みになり、1860年に明け渡され、翌1861年に売却されて取り壊された。跡地に建っているのは、ロイズ・オブ・ロンドン——配管とダクトを外側に剥き出しにした、あの1986年のビルだ。274年の本社があった土地に、いま世界最古の保険市場が入っている。
V&A。会社は1801年、本社の中に自前の博物館を開いていた。インドから送られてきた品を並べた「インド博物館」である。会社の消滅後も生き延びたが、1879年に閉館し、収蔵品は分割された。自然史の標本はキュー・ガーデンと大英自然史博物館へ、古美術と民族資料は大英博物館へ、そして工芸品の大半はサウス・ケンジントン博物館へ渡った。この博物館がのちのヴィクトリア&アルバート博物館であり、そのインド部門は1945年まで「インド博物館」と呼ばれ続けた。V&Aのインド美術のケースの前に立つとき、見ているのは会社の在庫の子孫である。
ポプラー。テムズ川の北岸、いまのカナリー・ワーフのすぐ隣に、1654年に会社が建てた礼拝堂が残っている。ブラックウォールの造船所で働く人々と、引退した船乗りのための建物だった。現在の名はセント・マサイアス旧教会。1867年から76年にケント産の石で外側を覆われたので、外から見ると19世紀の教会にしか見えない。中に入ると17世紀の柱が8本立っている。この柱は会社の船のマストを転用したものだ、という話が長く語られてきたが、裏づけとなる史料はない。1977年に教会としての役目を終え、いまはコミュニティセンターとして使われている。
イースト・インディア。会社は1803年から06年にかけて自前のドックを掘り、1806年8月4日に開いた。そこへ通じる道がイースト・インディア・ドック・ロードであり、DLRにはEast India という駅がある。ドックはもうない。駅名と道路標識だけが、船が着いていたことを示している。
そして最後の後日談。
2000年代なかば、ムンバイ生まれのイギリス人実業家が、休眠状態だった「東インド会社」の商標を買い取った。2010年、メイフェアに紅茶とチョコレートの店として復活する。彼は当時こう語っている——「かつて我々を所有していた会社を、自分が所有しているという、途方もない救済感があった」。
その会社は、2025年10月に清算人を選任した。ニュー・ボンド・ストリート97番地の店舗は空になり、賃貸に出ている。
274年かけて地球の半分を動かした会社は、いま、ロンドンの道路標識と、DLRの駅名と、V&Aの展示ケースと、空き店舗の看板になっている。居酒屋で始まった会社にしては、悪くない残り方かもしれない。ただしその名前が置いてある場所を、われわれはたいてい素通りしている。それだけが、この物語のいちばん静かな部分だ。
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破産しかけた会社を救うため、議会は茶を「値下げ」した——その7か月後、342箱がボストン湾に沈んだ 東インド会社物語 第2回
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