ジャスト・ロンドンJUST RONDON - ロンドン観光・旅行・現地ガイド
    ジャスト・ロンドンLive.Love.London. - 最強ロンドンガイド
    • 旅行プランを作る
    • 今週のロンドン
    • スタンプ帳ログイン
    お問い合わせサイト概要利用規約プライバシーポリシーTop Pageへ

    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

    1. Home
    2. /英国を読む
    3. /コラム
    4. /ロンドンのジャパン祭りの116年前、1910年の日英博覧会——記者は「こんな日本は世界中にない」と書いた

    2026年10月3日

    歴史・事件ロンドンの街王室・制度

    ロンドンのジャパン祭りの116年前、1910年の日英博覧会——記者は「こんな日本は世界中にない」と書いた

    毎年秋にトラファルガー広場で開かれるジャパン祭りは、2026年は10月4日の日曜日。その116年前、ロンドン西部で日本政府が国を挙げて開いた日英博覧会は半年で835万人を集めたが、余興場ではアイヌと台湾の人々が「村」ごと展示され、会期中には韓国併合が祝われた。現地にいた記者の報告と、いまもロンドンに残る門と庭から、この博覧会をたどる。

    ロンドンのジャパン祭りの116年前、1910年の日英博覧会——記者は「こんな日本は世界中にない」と書いた

    2026年10月4日の日曜日、トラファルガー広場は朝10時から夜8時まで日本の祭りになる。ジャパン祭り(Japan Matsuri)。入場は無料で、噴水の両側に屋台が並び、舞台では太鼓、神輿、ソーラン節、ラジオ体操、そして英国の力士たちによる相撲の実演が続く。2009年に始まり、いまでは英国最大の日本文化の祭りになった。

    だが、ロンドンで日本が自分の姿を大々的に見せたのは、これが初めてではない。広場から西へ7キロほどのシェパーズ・ブッシュで、1910年の5月から10月まで、日本政府そのものが主催者に名を連ねた博覧会が開かれていた。

    国王の死から8日後、式もなく開いた

    白い街の興行師と、日露戦争のあとの日本

    ロンドン西部、いまはBBCの旧テレビ局舎や大型の商業施設が並ぶ一帯を、ホワイト・シティという。1908年、ハンガリー生まれの興行師イムレ・キラルフィが、英仏博覧会のために白い漆喰塗りの展示館をここに建て並べた。同じ年のロンドン五輪の競技場も、その隣に造られた。白い建物の街が、そのまま地名になった。

    英仏の次に、キラルフィが目をつけたのが日本だった。外交官の陸奥広吉(陸奥宗光の長男)を通じて日本政府に共同開催を持ちかけ、政府はいったん断ったものの、1908年に外務大臣に就いた小村寿太郎が強く推して話がまとまる。

    日本の側にも事情があった。日露戦争(1904〜05年)の戦費の多くは、ロンドンとニューヨークで売った外債でまかなっていた。英国の資本と世論は、日本にとって命綱である。1902年に結んだ日英同盟は1905年に改定され、次の更新が近づいていた。日本は、自分が小さく美しい東洋の国ではなく、軍艦を造り植民地を治める近代国家であることを、ロンドンで見せる必要があった。国会は大きな予算を認め、日本からの出品者は2,000を超えた。海軍は国産の巡洋艦「生駒」をテムズ川の河口まで回航させている。

    開会は5月12日、皇太子ジョージを迎えて式を開く段取りだった。ところが5月6日、国王エドワード7世が急死する。国じゅうが喪に服し、劇場までが幕を下ろした。博覧会の開場も国葬のあとに回すと、いったんは決まった。そこへ、王位を継いだジョージ5世から、関係者が困らないよう一日も早く開けてほしいという意向が届く。開会式に来るはずだった皇太子その人である。日英の委員は協議をやり直し、一切の式典を取りやめて、5月14日に静かに門を開けた。

    大阪朝日新聞の特派員として現地にいた長谷川如是閑は、この日の記事に「静粛に開場」と見出しを付けている。日本ならまず中止になる場面で、英国は平然と開けた——如是閑はそのことに驚いている。

    軍艦の模型と、霊廟の模型

    日本政府が見せたかった近代国家の姿

    会場の日本側には、歴史宮、産業宮、芸術宮が並んだ。国宝を含む古美術、宮川香山の陶磁器や濤川惣助の七宝、絹織物、漆器。東京市は、増上寺にある2代将軍徳川秀忠の霊廟、台徳院霊廟を10分の1の大きさで再現した模型を出した。建築は東京美術学校の古宇田実、彫刻は高村光雲が監修した、精巧な縮小版である。

    如是閑が目を留めたのは、海軍の軍艦模型の前の人だかりだった。教育のある英国人でも、日本が自分で軍艦を造れることを知らない者が多く、戦艦「安芸」や巡洋艦「鞍馬」の模型の前で感心している。ただし説明札は不親切で、トン数や寸法が並ぶ下に小さく「呉にて製造」とあるだけ。日本製だと気づかずに通り過ぎる人が多い、と如是閑は惜しんだ。

    もうひとつの柱が、「東洋宮」と呼ばれた植民地の展示館だった。台湾、朝鮮、関東州、南満州鉄道。日清・日露の二つの戦争で手に入れた土地の統治ぶりと資源を並べ、日本も英国と同じく植民地を治める帝国であることを示す展示である。

    如是閑は「日本も大国になったな」と胸を張ってここを歩いていた。ところが台湾の模型の前で、身なりのよい中年の婦人から「フォルモサ(台湾)とはどこですか」とていねいに尋ねられ、すっかり拍子抜けする。むっとしながらも、もとは清の領地で日本に譲られた島だと答え、ついでに「ロンドンにもフォルモサ通りがあるのをご存じないですか」と、ロンドン通を気取って一本返した、と書いている。母国の誇る植民地は、ロンドンの婦人にとって、地図のどこにあるかも分からない島だった。

    その韓国は、会期のさなかに日本に併合される。8月22日に韓国併合条約が調印され、29日に公布された。博覧会の会場では、併合が提灯行列で祝われたと記録されている。

    6ペンスの余興場と「日本村」

    相撲は大当たり、記者は冷や汗

    政府の展示館とは別に、会場には博覧会会社が仕切る余興の区画があった。張りぼての山の間をトロッコで上り下りする山岳鉄道、巨大な鉄の腕が客を宙に持ち上げる乗り物。入場料はどれも6ペンス均一である。客を集めたのは山岳鉄道と、台湾の人々の「村」と、そして相撲だった。

    海を渡ってきたのは、京都相撲の横綱・大碇紋太郎ら35人。会場に土俵を築き、大碇は横綱の土俵入りを披露した。「余興部は矢張相撲が大繁昌」と如是閑は書いている。

    一方で如是閑を困らせたのが、会社がいちばん力を入れた「日本村」だった。和風の家並みに提灯屋、竹籠屋、木版屋、造花、象牙細工、漆器、陶器、飴細工、煎餅屋が店を開き、日本から来た職人たちが「迷惑そうな顔をして」仕事をしている。如是閑の評はこうだ。

    日本人の目からは何う考へても今日の日本を代表したものとは見えず、さりとて前世紀の日本とも思はれず、要するに日英博覧会以外にコンナ日本は世界中に之無きものに候

    いまの日本でもなければ、昔の日本でもない。博覧会の外には、世界のどこにも存在しない日本だ、というのである。如是閑の見立てでは、西洋人の多くはまだ「日本といえば小さくて美しい国」という古い思い込みから抜けておらず、会社はその「俗物の要求」に応えて、古い日本をこしらえてみせたのだった。余興のなかで「冷汗の分量」が少なくて済んだのは相撲と柔道くらいだった、とも書いている。

    大当たりした力士たちのその後は、明るくない。博覧会が閉じると、一行はパリを振り出しにヨーロッパ各地を巡業し、旅は3年半に及んだ。やがて困窮して一行は解散し、大碇はのちに南米へ渡って、1930年にブラジルで亡くなった。看板力士を失った京都相撲は、大正の初めには事実上消えていく。

    アイヌ10人、パイワン族24人

    小屋をのぞく客と、名前を書き換えられた青年

    余興の区画には、人が暮らす「村」もあった。北海道から来たアイヌの10人(2歳の幼児もいた)と、1895年から日本の植民地だった台湾の南部から来たパイワン族の24人である。彼らは会場に建てた家に住み込み、暮らしぶりや踊りを見せた。区画を仕切ったのは英国側の博覧会会社で、日本政府の展示館とは別枠の余興として組まれていた。

    如是閑は、ここでも会社を責めている。会社が契約どおりに建物や暖房を整えなかったため、村の人々はひどく難儀し、しきりに帰国を望んで、付き添いの日本人を困らせていた。暖かくなってようやく、台湾の人々は少し生き返ったようだという。付き添いの者から、日本人の見物客は「みな台北から来た人だ」と言い聞かされていたらしく、日本人が小屋に入ると懐かしがって一人ひとりお辞儀をし、日本語で挨拶する者もいた。如是閑はそれを「憫れとも何とも申様なく」と書き、こう続けた。

    之を多くの西洋人が動物園か何かに行つたやうに小屋を覗いて居る所は些か人道問題にして、西洋人はイザ知らず日本人は決して好んでかゝる興行物を企てまじき事と存じ候

    大勢の西洋人が、動物園にでも来たように小屋をのぞいている。いささか人道問題であって、西洋人はともかく、日本人は決してこういう見世物を企ててはならない、という意味である。

    会期中、パイワン族の一行のひとりで、18歳だったとされる青年が病気で亡くなった。当時の絵はがきに「ルジ・スルチャン」と記された人である。英国の埋葬記録には「Ruggi Swinehard」という別人のような綴りで書き込まれ、ハマースミスのマーグラヴィン墓地の、墓標のない共同墓に葬られた。日本の新聞は彼を女性と取り違えて報じている。この死が掘り起こされたのはおよそ100年後で、米国の歴史家が死亡証明書と埋葬記録を突き止めた。1911年1月25日には、衆議院議員の蔵原惟郭が国会でこの博覧会を批判し、日本の新聞にも「失敗だった」という論調が目立った。

    話は21世紀にも続く。2009年4月、NHKスペシャル「JAPANデビュー」の第1回がこの展示を取り上げ、「人間動物園」という言葉で紹介した。パイワン族の人々は抗議し、NHKを訴えた原告には、ロンドンへ行った男性の娘も加わっていた。2013年11月、東京高裁は「誇りを持って博覧会に出向いた人たちへの侮辱だ」として、この女性に100万円を支払うようNHKに命じた。2016年1月、最高裁はこの判断を覆し、名誉毀損には当たらないとした。

    展示された人々の子孫のなかにも、あの半年を誇りある渡航として記憶する人がいる。如是閑が見た「人道問題」と、娘が守ろうとした父の誇りは、同じ小屋をめぐる二つの記憶である。

    キューの門、ハマースミスの池、増上寺の模型

    閉幕から116年、残っているもの

    キュー植物園の勅使門。1910年の博覧会のために京都で造られ、翌1911年にここへ移された。2018年撮影。写真: JRennocks / CC BY 4.0
    キュー植物園の勅使門。1910年の博覧会のために京都で造られ、翌1911年にここへ移された。2018年撮影。写真: JRennocks / CC BY 4.0

    博覧会は10月29日に閉幕した。来場者は835万人。1851年にハイド・パークで開かれた大博覧会を、200万人以上うわまわる数だった。展示品の多くは日本へ送り返され、あるいは英国の博物館や、翌年のドレスデンやトリノの博覧会へ回された。それでもいくつかは、いまもロンドンにある。

    ひとつは、キュー植物園の勅使門である。京都の出品者の団体が、西本願寺の唐門を5分の4の大きさで写して造らせたもので、博覧会のあと1911年にキューへ移された。1994年10月から翌年11月にかけて日本の伝統技術を交えて修復され、1996年には門を囲むように日本庭園が造られた。設計は造園家の福原成雄で、開園には紀宮清子内親王が訪れている。

    もうひとつが、会場の跡に残る庭だ。博覧会には「平和の庭」と「浮島の庭」という二つの日本庭園があり、植物や庭石、組み立て前の建物が日本から船で運ばれた。浮島の庭は消えたが、平和の庭の一部はハマースミス公園の中に残っている。第一次大戦後に会場は荒れ、第二次大戦では軍に使われ、1955年に公園として開かれたころには、庭はただの石組みになっていた。百周年に合わせて2008年から2010年にかけて修復され、石橋で結ばれた二つの池と小さな滝がよみがえった。1909年に日本から運ばれた木のいくつかは、いまも生きている。公共の場所にある日本庭園としては英国で最も古いとされ、入るのに料金はかからない。最寄りはセントラル線のホワイト・シティ駅で、歩いて6分ほどだ。

    三つ目は日本に帰った。東京市が出した台徳院霊廟の模型は、閉幕後に英国王室へ贈られ、王室の収蔵品(ロイヤル・コレクション)として100年あまり英国で保管された。本物の霊廟は戦前に国宝に指定されていたが、1945年5月の空襲で焼け落ちた。模型は日本の職人の手で12か月かけて修復され、2015年4月から増上寺の宝物展示室に長期貸与されている。ロンドンに見せるために造った縮小版が、焼けた本物の姿をいまに伝えている。

    116年後のトラファルガー広場

    見せる側が入れ替わった祭り

    ジャパン祭りが始まったのは2009年、東ロンドンのスピタルフィールズ・マーケットだった。2011年はテムズ川南岸のカウンティ・ホールに移り、2012年からトラファルガー広場で開かれている。主催は英国の日本協会(ジャパン・ソサエティ)、在英日本人会、在英日本商工会議所、日本クラブの4団体で、日本大使館が支え、準備は有志の手で進められてきた。

    その日本協会は1891年にロンドンで生まれた団体で、1910年の博覧会でも、日英関係の歩みをたどる展示を出している。2018年には大使館などと組んで、ハマースミス公園の庭に門と石灯籠を据えた。116年前の博覧会と、あすの祭りの両方に名を連ねる、数少ない当事者である。

    あすの舞台は朝10時、大使らによる鏡開きで幕を開ける。帝京ロンドン学園の生徒たちや静岡・清水の神輿会による神輿、立教英国学院の生徒によるソーラン節、ラジオ体操。午後3時からの枠には、英国の相撲団体の実演が入っている。土俵に上がるのはイングランド各地の少年から年配までの力士で、英国王者も含まれる。1910年には京都から35人の力士を船で連れてきた。いまはロンドンに暮らす力士たちが、自分たちで相撲を見せる。

    行くなら、入場は無料で、予約も要らない。A4より大きい鞄や自転車、キックボードは持ち込めず、広場が満員になると、一人出たら一人入れる方式になる。最寄りはチャリング・クロス駅で、レスター・スクエア、ピカデリー・サーカス、エンバンクメントの各駅からも歩ける。

    如是閑が嘆いたのは、政府と興行会社が持ち込んだ「見せたい日本」と「見たがられる日本」が、どちらも本物の日本ではなかったことだった。あすの広場に並ぶのは、ロンドンで暮らす人々が自分たちで選んだラーメンやおにぎりや唐揚げの屋台と、自分たちで稽古してきた踊りである。それが本物の日本かどうかは、行って確かめればいい。少なくとも今度は、見せる側が、何を見せるかを自分で選んでいる。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    キューガーデン|ロンドン観光スポット

    キューガーデン

    トラファルガー広場|ロンドン観光スポット

    トラファルガー広場

    ← 前の記事

    ピーターラビットの作者ビアトリクス・ポターはキノコの研究者だった——1897年、論文は男性が代読し、やがて失われた

    感想・コメント

    この記事を読んだ感想や、関連して知っていることがあれば教えてください。

    残り2000文字

    投稿は誰でも読めます。個人情報は書かないでください。

    まだコメントはありません。最初の投稿をお待ちしています。

    ← コラム一覧に戻る