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    2026年9月22日

    歴史・事件王室・制度人物

    連載「大英博物館物語」全 2 回 の第 2 回

    ロゼッタ・ストーンは1801年、降伏したフランス軍から取り上げられた——側面には今も「英国陸軍が捕獲」の文字 第2回

    1799年、ナポレオン軍がエジプトの砦の壁から掘り出した石は、2年後の降伏協定で英国のものになった。メヌー将軍は「これは私の私有財産だ」と抵抗し、英軍の大佐はフランス兵の嘲笑を浴びながら砲車で石を運び出した。連載「大英博物館物語」の第2回は、ロゼッタ・ストーンが戦利品としてロンドンに着き、フランス人に解読され、いま返還を求められるまでを追う。

    ロゼッタ・ストーンは1801年、降伏したフランス軍から取り上げられた——側面には今も「英国陸軍が捕獲」の文字 第2回

    大英博物館でいちばん多くの人が見に来る展示品は、ガラスケースの中の灰色の石板だ。見学者は正面の文字ばかり見るが、左の側面には白く書き込まれた英語が、薄れながら残っている。「CAPTURED IN EGYPT BY THE BRITISH ARMY IN 1801(1801年、英国陸軍がエジプトで捕獲)」。右の側面には「PRESENTED BY KING GEORGE III(国王ジョージ3世寄贈)」。この石は、学者が発掘したものでも、商人から買ったものでもない。戦争に負けた側から、勝った側が取り上げたものだ。第2回は、その受け渡しの現場を中心に追う。

    1799年7月、砦の壁から出てきた石

    紀元前196年の布告は、なぜ3種類の文字で書かれたのか

    1799年7月15日とされる日。ナイル・デルタの港町ラシード——フランス人は「ロゼッタ」と呼んだ——の近くで、フランス軍の兵士たちが古い砦を補強するために壁を崩していた。そこから、文字の刻まれた石板が出てきた。工兵将校のピエール=フランソワ・ブシャール中尉が、これはただの石材ではないと気づく。

    前年の1798年、ナポレオンはエジプトに侵攻していた。軍には151人の学者・技術者からなる「科学芸術委員会」が同行している。石の知らせはカイロに新設されたエジプト学士院に届き、7月19日の会合で報告された。報告者は、3種類の文字が同じ文面の3つの版ではないかと、正しく見抜いていた。9月、占領軍の官報『クーリエ・ド・レジプト』はこう書いた。「この石は象形文字の研究にとって大きな価値がある。ひょっとすると、それを理解する鍵になるかもしれない」。

    石は、もとはもっと大きな石碑(ステラ)の一部だった。高さ112.3センチ、幅75.7センチ、厚さ28.4センチ、重さ約760キロ。刻まれているのは紀元前196年3月27日、メンフィスに集まった神官たちが出した布告で、即位1周年を迎えた13歳の王プトレマイオス5世を神として祀ることを定めている。上段は神聖文字(ヒエログリフ)14行、中段は民衆文字(デモティック)32行、下段は古代ギリシャ語54行。

    なぜ3通りなのか。答えは布告自身に書いてある。この決定を「神聖な文字と、土地の文字と、ギリシャの文字で」硬い石に刻み、国じゅうの神殿に立てよ、と。王家はアレクサンドロス大王の後継者のマケドニア系で、役所の言葉はギリシャ語。神々に向けてはヒエログリフ、人々に向けてはデモティック。そしてギリシャ語なら、19世紀の学者にも読めた。そのことが、1400年以上だれも読めなかったヒエログリフへの手がかりになる。大英博物館によれば、同じ種類の布告を刻んだ石はこれまでに29点見つかっていて、うち22点はエジプトに残っている。

    フランスの学者たちはさっそく、石の表面にインクを塗って紙を押し当て、刷り物をつくった。石そのものを版木にしたのである。刷りはパリへ送られ、1801年にはフランス学士院に届いていた。石が英国のものになる前に、中身はもうフランスに渡っていた。これがのちに効いてくる。

    「これは私の私有財産だ」とメヌー将軍は言った

    1801年、アレクサンドリア降伏協定の第16条

    1799年8月、ナポレオンは軍を置いてフランスへ帰った。後を継いだクレベール将軍は1800年6月14日にカイロで暗殺され、指揮はジャック=フランソワ・メヌーに回る。メヌーはエジプトでイスラム教に改宗してアブダッラーと名乗り、エジプト人の妻をめとっていた。息子は1800年7月、ロゼッタで生まれている。石が見つかったとき、たまたまロゼッタにいて知らせを受けたのもメヌーだった。

    1801年3月、英国軍がアブキール湾に上陸し、21日のアレクサンドリアの戦いでフランス軍を破る。メヌーは石をはじめとする古代遺物を抱えてアレクサンドリアに立てこもった。包囲の末、8月30日に降伏を申し出る。条件を詰めた降伏協定は9月2日に発効した。署名したのはメヌー、英国の陸軍司令官ハッチンソンと提督キース、そして英国と組んで戦ったオスマン帝国の海軍総司令官(カプダン・パシャ)である。

    争いになったのは第16条だった。「アラビア語の写本、彫像、その他フランス共和国のために集められた収集品は、公共の財産とみなし、連合軍の将軍たちの処分に委ねる」。

    フランス側は、収集品はすべて学者個人の私物だと言い張った。博物学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールは、渡すくらいなら自分たちの手で燃やすと英国側に迫っている。そうなれば、あなたもアレクサンドリアで図書館を焼いたと歴史に書かれるだろう、と。古代のアレクサンドリア図書館の焼失になぞらえた脅しだった。

    結局ハッチンソンは、昆虫や動物の標本は手間をかけて保存してきたのだから学者の私物とみなしてよい、と折れた。ただし古代遺物とアラビア語の写本は譲らない。するとメヌーは最後に、ロゼッタ・ストーンは自分個人の財産だと言い出した。強いられるなら、ほかの持ち主たちと同じく従うほかないが、と付け加えて。

    英国側に渡された遺物の目録には、1点ずつ持ち主の名前が書き込まれていた。石の欄はこうだ。「黒い花崗岩、三つの碑文あり、メヌー将軍所有」。目録を手渡したのは学士院の書記代理だった。本来の書記である数学者ジョゼフ・フーリエは、病気で伏せっていた。

    フランス兵の嘲笑の中を、「悪魔の荷車」で

    ターナー大佐の証言と、食い違うもうひとつの証言

    石を英国まで運ぶ役を任されたのは、英軍のトムキンズ・ヒルグローヴ・ターナー大佐だった。のちに少将になった彼は、ロンドン古物協会(Society of Antiquaries)にあてた手紙で、受け渡しの一部始終を書いている。手紙は1811年、協会の紀要『アーケオロジア』に載った。

    ターナーが初めて石を見たのは、アレクサンドリアのメヌーの屋敷だった。石は柔らかい綿布と二重のむしろで丁寧にくるまれていた。ところが遺物が英国のものになると知れ渡ると、覆いは剥ぎ取られ、石は表を下にして投げ出された。ほかの遺物を守っていた上等な木箱も壊された。

    ターナーがこれをハッチンソンに伝えると、将軍は砲兵の一隊と、その力の強さから「デビル・カート(悪魔の荷車)」と呼ばれていた砲車を貸してくれた。その晩ターナーはメヌーの屋敷へ行き、狭い路地に手こずりながら石を運び出した。「大勢のフランス人将校と兵の嘲笑を浴びながら」。運んだ砲兵たちは大いに満足して働いた、とターナーは書く。彼らはアレクサンドリアに入った最初の英国兵だった。

    石がターナーの家にあるあいだに、フランスの学者たちが型を取らせてほしいと頼みに来た。ターナーは傷をつけないことを条件に許した。学者たちは型をパリへ持ち帰り、発見当時に刷り物をとるために塗った印刷インクをきれいに落として、石を返していったという。

    ただし、この話には別の版がある。ケンブリッジの学者エドワード・ダニエル・クラークの記録では、フランス学士院の会員でもある将校が、クラークと、エルギン伯の秘書ウィリアム・リチャード・ハミルトンらをこっそり連れ出し、メヌーの宿舎の裏通りで、荷物のあいだに敷物をかぶせて隠された石を見せた、となっている。フランス兵に見つかると持ち去られるのではないか、と案じてのことだった。どちらの話が正しいのか、今もはっきりしない。最後に石を運んだのがターナーの砲車だった、という可能性はある。

    ターナーは手紙の結びで、石をこう呼んだ。「英国の武勇の誇らしい戦利品——スポリア・オピマと言ってもいいほどだ——無防備な住民から略奪したのではなく、戦争の巡り合わせによって名誉ある形で得たもの」。スポリア・オピマとは古代ローマで、一騎打ちで倒した敵の将から剥ぎ取った武具を指す。ターナー自身が、これを戦利品だと書いていた。

    床が抜けるので、庭の仮小屋に置かれた

    「黒い玄武岩」と呼ばれた灰色の石

    1985年7月のロゼッタ・ストーン。専用ケースに入る前で、見学者は手すり越しに間近で見られた。1999年の洗浄の前なので、石は黒く、文字は白く見える。写真: RickDikeman / CC0
    1985年7月のロゼッタ・ストーン。専用ケースに入る前で、見学者は手すり越しに間近で見られた。1999年の洗浄の前なので、石は黒く、文字は白く見える。写真: RickDikeman / CC0

    ターナーは石と運命をともにすると決め、アレクサンドリア港で拿捕したフランスのフリゲート艦「エジプシェンヌ号」に乗り込んだ。ポーツマスに着いたのは1802年2月。船はテムズ川のデトフォードに回り、石は税関で陸揚げされた。

    石はすぐには博物館に入らなかった。ターナーの頼みで、まずロンドン古物協会の部屋にしばらく置かれ、1802年3月11日の会合で披露される。協会は碑文の石膏型を4組つくってオックスフォード、ケンブリッジ、エディンバラの各大学とダブリンのトリニティ・カレッジに贈り、4月にはギリシャ語部分の英訳が読み上げられた。石が国王ジョージ3世の名で大英博物館に寄贈されたのは、その年の7月である。左右の側面には、あの白い文字が書き込まれた。

    博物館に来てからも、居場所に困った。第1回に出てきた古い邸宅モンタギュー・ハウスの床は、ロゼッタ・ストーンや一緒に来た王の石棺の重さに耐えられない。石はしばらく敷地内の仮設の小屋に置かれた。管財人は議会に資金を頼み込み、邸宅に展示室が増築される。1834年には、新しい建物の彫刻展示室へ移った。

    長いあいだ、ロゼッタ・ストーンは「黒い玄武岩」だと思われていた。英国に来てから、読みやすいように文字の溝に白いチョークが詰められ、見学者の指から守るために表面にカルナウバ蝋が塗られた。これが石を黒く見せていたのである。1999年の洗浄でチョークと蝋を落とすと、本来の濃い灰色と、結晶のきらめき、左上を走るピンクの筋が現れた。石は花崗閃緑岩で、アスワン近くの石切り場のものとよく似ていた。この洗浄も展示室の中で行われ、作業のあいだも石は見学者から見えていた。

    展示のしかたも変わった。台に斜めに載せられ、長く覆いが無かったが、触らせないための係員がいたにもかかわらず、1847年には保護の枠が必要になっていた。2004年からは、エジプト彫刻展示室(4号室)の中央の専用ケースに収まっている。覆いの無かった時代の姿は、啓蒙ギャラリー(1号室)の複製で見られる。こちらは触ってもよい。

    読み解いたのは、フランス人だった

    トマス・ヤングとシャンポリオン、1822年9月27日

    石は英国のものになった。けれど読むための材料——刷り物と型——は、すでにパリにもあった。

    最初にヒエログリフに切り込んだのは英国人だった。トマス・ヤング。医師で、光が波であることを示した物理学者で、王立協会の外国書記。1814年にこの石の研究を始め、フランスの東洋学者シルヴェストル・ド・サシの助言に従って、楕円の枠(カルトゥーシュ)に囲まれた文字に目をつけた。ギリシャ語の本文に出てくる王の名「プトレマイオス」が、ヒエログリフでは枠の中に音で綴られているのではないか。ヤングはそれを確かめ、ヒエログリフとデモティックのあいだに80ほどの似た字形を見つけて、1819年、『ブリタニカ百科事典』の長い項目「エジプト」にまとめた。ただ、そこから先へは進めなかった。

    先へ進んだのは、フランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンだった。少年のころから、古代エジプト語の子孫であるコプト語を学んでいた。彼を支えた一人が、前の節で病に伏せっていた学士院の書記フーリエである。フーリエはのちにグルノーブルのあるイゼール県の知事になり、若いシャンポリオンを後押しした(11歳の少年に自分のエジプトの収集品を見せた、という逸話もあるが、真偽ははっきりしない)。

    1822年、シャンポリオンはフィラエ島のオベリスクの写しからクレオパトラの名を読み、ロゼッタ・ストーンの外国人の名と合わせて、音を表すヒエログリフの一覧をつくる。9月14日、アブ・シンベル神殿の写しでラムセスとトトメスというエジプト人の王の名まで読めたとき、兄のもとへ駆けつけて「わかったぞ!(Je tiens l'affaire!)」と叫び、そのまま気を失った、と伝えられている。9月27日金曜、彼はパリの碑文・文芸アカデミーで発見を発表した。聴衆の中には、ヤングがいた。その内容をまとめたのが、アカデミーの書記ダシエにあてた『ダシエ氏への手紙』である。

    そこから先は、英仏の意地の張り合いになる。英国では、シャンポリオンはヤングの成果を盗んだという批評が出た。ヤングは1829年、シャンポリオンは1832年に死んだが、争いは終わらない。ウェストミンスター寺院にあるヤングの記念碑には、彼が「幾時代にもわたってエジプトのヒエログリフを覆っていた闇を、初めて貫いた」と刻まれた。1970年代の初め、大英博物館の説明パネルに並んだシャンポリオンの肖像がヤングより小さいとフランス人の来館者が苦情を言い、英国人の来館者は逆だと苦情を言った。肖像は同じ大きさだった。

    返してほしい、と言われ続けている

    1917年の地下、1972年のパリ、2025年のギザ

    1802年から今日まで、ロゼッタ・ストーンが大英博物館を離れたことはほとんど無い。第一次世界大戦末期の1917年、ロンドンへの空襲を恐れた博物館は、石をほかの貴重品とともに避難させた。行き先はホルボーンにある郵便専用地下鉄の駅で、地下15メートル。石はそこで2年を過ごした。戦時のほかに館を出たのは一度だけで、1972年10月の1か月間、パリのルーヴル美術館で『ダシエ氏への手紙』と並べて展示された。発表から150年の記念だった。英国軍がフランス軍から取り上げた石が、フランス人の解読を祝うために、一度だけパリへ行ったことになる。

    いまロゼッタ・ストーンは、大英博物館でいちばん多くの人が見に来る展示品だ。その写真の絵はがきは、数十年にわたって館でいちばん売れた。碑文をあしらったマグカップも、ブックエンドも、USBメモリも売られている。

    そして、返してほしいという声が続いている。2003年7月、エジプト考古最高評議会の事務局長だったザヒ・ハワスは、石を「エジプトのアイデンティティの象徴」と呼んで返還を求めた。2005年、大英博物館は実物大のグラスファイバー製の複製をエジプトに贈り、それはラシードの博物館に置かれた。2009年にハワスは、永久返還の要求を取り下げる代わりに、ギザに建設中の大エジプト博物館の開館に合わせて3か月だけ貸してほしいと持ちかけている。2022年には、ハワスが呼びかけた返還の署名が10万筆を超えた。

    大英博物館の答えはこうだった。エジプト政府から正式な返還要請は受けていない。1801年の協定には、エジプトの代表も署名している。ここで言う代表とは、英国と組んで戦ったオスマン帝国の提督のことだ。当時のエジプトは、オスマン帝国の属州だった。加えて1963年の大英博物館法は、管財人が収蔵品を手放すことを厳しく制限している。

    大エジプト博物館は2025年11月1日に開館した。ロゼッタ・ストーンはそこに無い。エジプト学者ジョン・レイはこう書いている。「いつの日か、この石が大英博物館で過ごした時間は、ロゼッタにあった時間より長くなるだろう」。

    ――次回。1816年、議会はエルギン伯から、アテネのパルテノン神殿の彫刻を3万5000ポンドで買い取る。伯爵が運び出しに使った額の半分にも満たない値段だった。その彫刻の船積みを監督したのは、アレクサンドリアでロゼッタ・ストーンを押さえた、あの秘書ハミルトンである。

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    大英博物館|ロンドン観光スポット

    大英博物館

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