2026年10月17日文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 4件

    歴史・事件ロンドンの街王室・制度

    連載「グローブ座物語」全 2 回 の第 2 回

    グローブ座は1613年、祝砲の火で焼け落ちた——ズボンの火を瓶のビールで消した男と、議会の上演禁止令 第2回

    1613年6月29日、新作『ヘンリー八世』の上演中、王の登場を祝って放った小さな大砲の詰め物が、グローブ座の藁葺き屋根に落ちた。客は芝居に見入って煙に気づかず、劇場は1時間あまりで焼け落ちた。死者は出ず、ズボンに火がついた男は瓶のビールで消したと、外交官が甥への手紙に書き残している。劇場は1年後に瓦屋根で建て直されたが、1642年、内戦の始まりとともに、議会の命令で芝居そのものを止められた。連載「グローブ座物語」の第2回。

    グローブ座は1613年、祝砲の火で焼け落ちた——ズボンの火を瓶のビールで消した男と、議会の上演禁止令 第2回

    画像: Claes Jansz. Visscher / Public domain, via Wikimedia Commons

    前回は、シェイクスピアの一座が借地の劇場を解体し、その材木でテムズ川の南に初代グローブ座を建てた1599年までを追った。

    第2回の問いは、初代はなぜ燃え、建て直された2代目はなぜ芝居を止められたのか。火をつけたのは、豪華な演出のために撃った祝砲だった。芝居を止めたのは、内戦の始まりと、劇場をみだらな場所と見る人々の声だった。

    この回の流れ

    • 1603〜1609年 一座は「国王一座」になり、屋根付きの劇場も手に入れる
    • 1613年6月29日 上演中の祝砲の火で、グローブ座が焼け落ちる
    • 1614年 瓦屋根の2代目が建つ
    • 1642年9月2日 内戦が始まり、議会が芝居の上演を止める

    国王一座と、豪華な新作

    1603〜1613年

    グローブ座ができてから14年のあいだに、一座の立場は大きく変わった。

    1603年、エリザベス1世が死に、スコットランドから新王ジェームズ1世が迎えられる。新王はみずから一座の後援者になり、一座は「国王一座」と名を改めた。

    前回、1596年に住民の嘆願で止められたブラックフライアーズの屋根付きの劇場も、ようやく一座のものになった。バーベッジ家はこの建物をしばらく少年劇団に貸していたが、1609年ごろから一座が自分たちで使い始める。冬は屋根のあるブラックフライアーズ、夏は川向こうのグローブ座。移り先を断たれて材木ごと川を渡った一座は、10年あまりで劇場を二つ持つまでになっていた。

    1613年6月29日、グローブ座では新作が上演されていた。いまは『ヘンリー八世』の題で知られる、シェイクスピアが若い劇作家と共作したと考えられている史劇だ。当時の題は『すべて真実』だった。

    この芝居は、演出の豪華さで評判になった。外交官で詩人のヘンリー・ウォットンは、火事の3日後に甥へ宛てた手紙で、こう皮肉っている。

    並外れて華やかで、舞台に敷く筵(むしろ)にまで凝っていた。ガーター勲章の騎士たちは記章と靴下留めを着け、近衛兵は刺繍の上着を着ていた。これだけやれば、偉い人たちもじきに見慣れたものに、いや、笑いものにさえなるだろう。

    その豪華さの仕上げに、本物の大砲の音が使われた。

    祝砲の詰め物が、藁の屋根に落ちた

    1613年6月29日、火事

    問題の場面は第1幕の第4場にある。枢機卿ウルジーが館で宴を開いているところへ、仮面をつけたヘンリー8世が羊飼いの姿でやって来る。王の到着を告げる合図として、10年後に刊行された作品集の台本には、ト書きがこう書かれている。「太鼓とラッパ。小砲を放つ」。

    「小砲」と訳したのは、当時「チェンバー」と呼ばれた、祝砲や芝居の効果音に使う小さな大砲のことだ。弾は込めない。火薬を詰め、紙やぼろ布で栓をして撃つ。その栓が、燃えながら飛ぶ。そして初代グローブ座の屋根は、前回書いたとおり藁葺きだった。

    ウォットンの手紙は、そのあとをこう伝える。

    王の入場に合わせて何門かの大砲が撃たれたとき、そのうちの一門の栓にしていた紙か何かが藁葺き屋根に落ちた。初めはただの煙だと思われ、皆の目は舞台のほうに向いていたので、火は内側でくすぶり、導火線のようにぐるりと燃え広がって、1時間もたたないうちに劇場全体を地面まで焼き尽くした。

    円い劇場の屋根は、桟敷席の上をぐるりと覆う輪になっている。そこに落ちた火が、輪に沿って回った。ウォットンが「導火線のように」と書いたのは、その燃え方のことだろう。

    火事の翌日、6月30日付で、ロンドンの聖職者が知人に宛てた手紙も残っている。「つい昨日」、バーベッジの一座がグローブ座で『ヘンリー八世』を演じているとき、祝砲を撃ったところ火が屋根の藁に燃え移り、2時間もたたないうちに劇場をすっかり焼き尽くした。客は自分の身を守るので精一杯だった、と。

    「1時間」と「2時間」の違いはあるが、豪華な演出のための祝砲と、燃えやすい藁の屋根。火事の原因については、どちらの手紙も同じことを書いている。

    焦げたのはズボン一着、笑えなかった人々

    1613年6〜7月、火事のあと

    満員の木造の劇場が丸ごと焼けたのに、死者は伝わっていない。ウォットンの手紙はこう結ばれている。

    これがあの徳高き建物の最期だった。とはいえ、失われたのは木と藁と、置き去りにされた外套が何枚かだけだ。ただひとり、ズボンに火がついた男がいて、放っておけば丸焼けになったかもしれないが、機転を利かせて、瓶のビールで火を消した。

    火事は、すぐに売り物になった。ロンドンの出版業者の組合が管理していた出版許可の登録簿には、火事の翌日、6月30日付で、川岸の名高い劇場「グローブ座」の総崩れを嘆く「悲しい歌」の出版を許した記録が残っている。

    この歌そのものかどうかは分からないが、同じころに書かれたとされる戯れ歌が、手書きの写しで伝わっている。題は「ロンドンのグローブ座の哀れな焼失によせる歌」。各連は同じ繰り返しで締めくくられる。

    ああ悲しや、哀れな悲しみ、されど、これはすべて真実。

    燃えた芝居の題『すべて真実』に掛けた洒落だ(原文は and yet all this is true)。歌の中では、看板役者のバーベッジが飛び出してきて、役者たちのかつらと太鼓が焼け、「年寄りで吃音のヘミングズ」が途方に暮れて立ち尽くす。ヘミングズは、前回書いた劇場の持ち主5人のひとりである。

    一方で、笑い話にしなかった人々もいた。火事を見ていた劇作家のベン・ジョンソンは、10年後の1623年、自宅の火事で蔵書を失ったときに書いた詩で、この日のことを振り返っている。

    川岸の誇りグローブ座が、哀れな2門の小砲に攻め落とされ、崩れ落ちるのを、私はこの目で見た。

    同じ詩によれば、「兄弟たち」——芝居を嫌う清教徒たち——は、すぐさま「あれは遊郭の名残に違いない」と触れ回った。劇場の並ぶバンクサイドは、昔から娼館が集まる土地でもあった。芝居を憎む人々の目には、火事は天罰に見えたのである。この見方は、29年後、議会の命令の文面に現れることになる。

    こんどは瓦の屋根で

    1614〜1616年、2代目グローブ座

    火事の教訓は、すぐに形になった。劇場の持ち主たちは建て直しを決め、2代目のグローブ座は、おそらく初代と同じ基礎の上に、1年ほどで建った。違ったのは屋根だ。藁ではなく、瓦で葺いた。

    1614年、テムズの渡し船の船頭で詩も書いたジョン・テイラーは、こんな警句を詠んでいる。火で試された金がよりよい金になるように、焼けたグローブ座もよくなった。前は藁の皮をかぶっていたが、いまは堂々たる劇場に変わった、と。

    評判も上々だった。手紙好きのロンドンの紳士ジョン・チェンバレンは、火事からちょうど1年と1日後の1614年6月30日、知人の女性にこう書き送っている。

    あなたのご姉妹を訪ねたら、新しいグローブ座へ芝居を見に行って留守だった。実際、この新しい劇場の評判はよく耳にする。イングランドでこれまで建ったうちでいちばん美しい劇場だそうだ。だから、あと7年も生きていれば、見に行く旅に出るかもしれない。

    ロンドンに住む人が、川向こうの劇場を見に行くことを「旅」と呼ぶ冗談である。

    ただし、建て直しは高くついた。のちの1634年、一座の役者たちは裁判で、初代を建てるのに700ポンド、建て直すのに1000ポンドかかったと述べている。初代はショーディッチから運んだ材木を使えたが、2代目はすべて新しく建てなければならなかった、という違いもあっただろう。

    この建て直しに、シェイクスピアが金を出したのかどうかは分かっていない。彼は2年後の1616年、故郷で死ぬ。残した遺言書には、家や土地、妻に遺す「2番目によいベッド」まで書かれているのに、劇場の持ち分のことは一言も出てこない。持ち分をいつ、誰に手放したのかも分かっていない。

    「悲しむべき原因が続くあいだ」

    1642年9月2日、上演禁止

    2代目のグローブ座は、28年間芝居を打ち続けた。止めたのは火ではなく、議会だった。

    1640年代のイングランドでは、国王チャールズ1世と議会の対立が深まっていた。議会では、芝居を嫌う清教徒の勢力が強かった。1642年8月、対立はついに内戦になる。その直後の9月2日、議会は芝居の上演を止める命令を出した。

    命令の理屈はこうだ。アイルランドは自らの血に浸り、イングランドは内戦の脅威にさらされている。このような公の災いのときに、気晴らしの見世物はふさわしくない。とりわけ芝居は、みだらな浮かれ騒ぎを見せることが多すぎる。だから、

    こうした悲しむべき原因と、定められた悔い改めの日々が続くあいだ、公の芝居は止め、控えること。

    29年前の火事のとき、清教徒たちが「遊郭の名残」と呼んだ劇場への目が、ここでは議会の命令の言葉になっている。

    文面の上では、一時的な措置だった。「悲しむべき原因が続くあいだ」だけ、芝居を休む。けれど、ロンドンの劇場で再び公に芝居が打てるようになるまでには、18年かかる。そのあいだに、グローブ座は消えてしまう。

    これで第2回の問いに答えが出る。初代を焼いたのは、豪華な演出のための祝砲と藁の屋根だった。2代目から芝居を奪ったのは、内戦の始まりと、劇場をみだらな場所と見る人々が力を持った議会だった。

    ――次回。芝居を打てなくなった劇場の借地の期限は、1644年のクリスマスに迫っていた。劇場は取り壊され、跡には家が建ち、やがてビール醸造所の敷地にのみ込まれる。ロンドンでいちばん有名な劇場が、どこに建っていたのかさえ分からなくなっていく。

    参考資料

    1. ヘンリー・ウォットンの甥エドマンド・ベーコン宛ての手紙(1613年7月2日付)、『ウォットン遺稿集』所収原典ロンドンで刊行(第4版)1685archive.org(新しいタブで開きます)
    2. トマス・ローキンの手紙(1613年6月30日付)とジョン・チェンバレンの手紙(1614年6月30日付)、『ジェームズ1世の宮廷と時代』所収原典ロンドンで刊行1848archive.org(新しいタブで開きます)
    3. 議会「芝居の上演を止める命令」(1642年9月2日)原典ブリティッシュ・ヒストリー・オンライン(『空位期の法令集』)1642british-history.ac.uk(新しいタブで開きます)
    4. グローブ座の記録年表(建築・借地・火災・閉鎖)研究トロント大学「英国初期演劇記録(REED)」library2.utm.utoronto.ca(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    連載「グローブ座物語」全 2 回

    1. 1グローブ座の材木は1598年、地主の留守に運び出された——訴状には「剣と斧を持った12人」 第1回
    2. 2グローブ座は1613年、祝砲の火で焼け落ちた——ズボンの火を瓶のビールで消した男と、議会の上演禁止令 第2回(この記事)

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