2026年9月8日
1879年、オックスフォード英語辞典(OED)の編集主幹ジェームズ・マレーは、英語を読むすべての人に「本を読んで用例を書き送ってほしい」と呼びかけた。応じた数千人のうち、20年以上にわたって最も的確な用例を送り続けた一人は、ロンドンで見ず知らずの労働者を射殺し、犯罪精神病院に無期限で収容されていたアメリカ人の元軍医だった。しかも彼の働き方は、他のどの志願者とも違っていた。よく語られる「マレーは相手が患者だと知らなかった」という劇的な逸話が、なぜ事実ではないのかも含めて辿る。

英語という言語に、初めて「全部の語を、初めて使われた瞬間から順に並べる」という辞書が与えられたのは1928年のことである。かかった年月は71年。読者から届いた用例カードは数百万枚。そのうち膨大な一束は、バークシャーの犯罪精神病院の一室から、38年間にわたって郵送されてきた。差出人は、心神喪失を理由に無罪となった殺人犯だった。
OEDという事業がどれほど無謀だったか
話の順序として、まず辞書の側から始めなければならない。ウィリアム・チェスター・マイナーという男の異様さは、彼が加わった事業の異様さと釣り合ってはじめて意味を持つからである。
1857年11月、ロンドンの言語学会(Philological Society)で、のちにウェストミンスター寺院の首席司祭となるリチャード・チェネヴィクス・トレンチが「わが英語辞書の欠陥について(On Some Deficiencies in our English Dictionaries)」と題する報告を行った。トレンチが列挙した欠陥は7つ。廃語の収録が不完全であること、同じ語族の扱いが一貫しないこと、初出年代が間違っていること、廃れた語義の歴史が省かれていること、類義語の区別が甘いこと、用例が足りないこと、無駄な紙幅が多いこと。
ここから出てきた結論が、以後70年を食いつぶすことになる。辞書は「正しい言葉」を裁く審判ではなく、「実際に使われた言葉」の記録でなければならない。ある語がいつ生まれ、意味をどう変え、いつ死んだのかを示すには、その語が使われている文そのものを、年代順に並べて見せるほかない。
そのためには、英語で書かれた本を、全部読む必要がある。
1858年1月7日、言語学会は正式に「新しい、真に網羅的な辞書」の編纂を決議した。
初代編集主幹はハーバート・コールリッジ——詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの孫である。彼は10万枚の用例カードを仕分けるための木の棚を自作し、1860年5月に編纂方針を公表した。そして1861年4月、30歳で結核により死去した。
後を継いだフレデリック・ファーニヴァルは、原資料そのものが足りないことに気づき、初期英語テキスト協会(1864年)やチョーサー協会(1868年)を作って中世英語の刊本を世に出すという、途方もない遠回りをした。この判断自体は正しかったが、肝心の辞書は進まなかった。21年間で集まったカードは2トン近く。ただし整理はされておらず、保管を任せた読者の手元でひと束まるごと行方不明になったものもあった。
1879年3月1日、オックスフォード大学出版局はジェームズ・マレー(1837–1915)と正式に契約した。条件は「約4巻、10年で完成」。
マレーはスコットランド国境地帯デンホルムの反物商の息子で、家計の都合で14歳で学校をやめている。17歳でホーイック・グラマー・スクールの教師、20歳で同地の私塾の校長。1864年からはロンドンの、スレッドニードル街にあったチャータード銀行(Chartered Bank of India, Australia and China)の行員として働き、1870年にミル・ヒル校の教師に転じた。語学はすべて独学である。
1879年4月、マレーは言語学会を通じて『英語を話し、英語を読む、英国・アメリカ・英領植民地の公衆への訴え(An Appeal to the English-speaking and English-reading Public…)』を発表した。求めたのは1000人の読者を3年間。やり方はこうである——本を読み、語の使われ方を示す文に出会ったら、6×4インチの紙片に、見出し語・年・書名・ページ・そして文そのものを書き写して、オックスフォードへ郵送する。
マレーは自宅の庭に波形鉄板の小屋を建てた。これがスクリプトリウム(Scriptorium、写字室)である。壁には1029個の仕切り棚が並んだ。1880年までに250万枚のカードが届いた。1885年、彼は一家ごとオックスフォードのバンベリー通り78番地「サニーサイド」に移り、そこの庭にもっと大きなスクリプトリウムを建て直した。
差し出す郵便の量があまりに多かったため、郵便局は家の前に辞書専用の郵便ポストを立てた。1885年設置のこのポストは、王室紋章も「POST OFFICE」の文字も入っていない「無銘」の型で、いまもバンベリー通り78番地の前に立っている。
最初の分冊「A–Ant」が出たのは1884年2月1日。352ページ、12シリング6ペンス、売れたのは4000部だった。トレンチの報告から27年が経っていた。
最後の分冊——通算125冊目——が出たのは1928年4月19日。全12巻、定義された語 414,825、引用 1,827,306。
「10年」の約束から49年、1857年から数えて71年である。着手した編集者も、途中で引き継いだ編集者も、誰一人として完成を見なかった。
被害者ジョージ・メレット、34歳、ボイラー焚き。妻と6人の子と、生まれてくる7人目
その辞書に、最も大量の用例を送ることになる男の話に移る。
1872年2月17日、土曜日の午前2時ごろ。ロンドン、ランベスのベルヴェディア・ロード——いまサウス・バンクと呼ばれる、テムズ南岸の一帯である。ハンガーフォード橋のたもと近くの通りで、一発の銃声が響いた。
『タイムズ』1872年2月19日(月)付の記事はこう始まる。「土曜の早朝、ハンガーフォード橋にほど近いランベスのベルヴェディア・ロードで、凶悪な殺人が行われた(Early on Saturday morning an atrocious murder was committed in Belvedere-road, Lambeth, near Hungerford-bridge)」。
撃たれたのはジョージ・メレット、34歳。近くのライオン醸造所(Lion Brewery)でボイラーを焚く職人だった。週給24シリング。コーンウォール・ストリートの住まいから早番へ向かう途中だった。妻イライザと6人の子がいて、妻は7人目を身ごもっていた。
タイムズの第一報は、二発が外れ、逃げるメレットに向けて放たれた三発目が首に当たった、と伝えている(この最初の記事にはさらに刃物による刺傷の記述もあるが、これは後年の伝記や公文書に基づく記述には現れない)。
拳銃を持っていたのはウィリアム・チェスター・マイナー、37歳。テニソン・ストリート41番地に下宿するアメリカ人の医師で、タイムズは「背が高く、身なりのよい、軍人風の男」と書いている。
彼はその夜、寝室の足元に人影を見た。長いこと自分を追ってきていると信じていた迫害者の一人だと思った。旅行鞄から拳銃を取り出し、影を追って通りに出た。そこにたまたま通りかかったのがメレットだった。マイナーは声をかけ、逃げる男を追い、撃った。
逮捕後、彼は首席警視フレデリック・ウィリアムソンに対し、アイルランド人の迫害を逃れるためにその土地を離れたのだ、何者かが夜のうちに自分の口に毒を入れるので胃が焼けるように痛む、と述べている。
1872年4月、サリー巡回裁判(キングストン)。裁判長は民訴裁判所首席判事サー・ウィリアム・ボヴィル。
拘置所の看守が証言した。マイナーは毎朝目を覚ますと、夜のあいだ性的に虐待されたと訴える。加害者は男も女も、ときには子どももいて、床下の空洞や壁の中、垂木に隠れているのだという。
義理の弟が出廷し、この妄想は少なくともワシントンの精神病院を出た時期までさかのぼると証言した。そして、南北戦争中にマイナーが強いられたある行為に由来するかもしれない、と述べた。法廷では、その行為は「脱走兵の顔に烙印を押させられたこと」として語られた。
この「烙印」の場面は、のちに評伝と映画によってこの物語の核心のように扱われるようになる。だが、ブロードムーアの記録を保管するバークシャー州立文書館は、彼らの伝記資料のなかで慎重にこう書いている——法廷で語られたのはこの説明だが、宣教師の家に育ったマイナーが「自分では罪深いと感じた性的な行為」に関わったと考えるほうが、おそらく実態に近い。家族が公にしたくなかったことを、別の話に置き換えた可能性がある、というのである。
加えて、彼が居合わせたとされる1864年5月のウィルダネスの戦いについて、軍の記録はマイナーがそのときニューヘイヴンの陸軍病院にいたことを示している。
陪審の評決は「not guilty but insane(無罪、ただし心神喪失)」。1800年犯罪精神障害者法により、「女王陛下の思し召しの間」——すなわち期限を定めず——拘禁されることになった。
1872年4月17日、マイナーはバークシャー州クロウソーンのブロードムーア犯罪精神病院に入所した。開設からまだ9年の施設だった。
入所時の記録、フルート、画材、そして殺した相手の未亡人が運んだ本

ブロードムーアの入所記録は、その日のマイナーをこう描写している——「痩せて青白い、鋭い顔立ちの男。明るい砂色の髪、落ちくぼんだ目、突き出た頬骨」。
妄想は活発だったが、危険性は低いと判断され、彼は施設内で最も警備の緩い第2ブロックに置かれた。
以後の38年間、彼が得た待遇は当時としても異例である。
ブロードムーアはこれを甘やかしとは考えていなかった。絵を描き、笛を吹き、貪るように本を読むことは、当時の理解では治療の一部だった。頭が仕事で埋まっていれば、不健全な考えに乗っ取られにくい——記録に残る施設側の考え方はそういうものである。
収容から10年ほど経ったころ、マイナーは施設に願い出た。自分が殺した男の未亡人に、いくらかの償いを支払いたい、と。
イライザ・メレットは受け取ることに同意した。そして、ブロードムーアに彼を訪ねた。
複数の伝記が伝えるところでは、彼女はその後、彼のもとへ本を運ぶようになった。夫を殺した男の図書室に、7人の子を抱えた未亡人が本を届けていたことになる。この経緯の細部は施設の公文書というより伝記的な記述に依っているが、彼が彼女に送金していたこと、彼女が彼を訪ねたことは、複数の系統の資料が一致して伝えている。
これだけの環境を与えられても、彼の病は一日も引かなかった。
昼のマイナーは理性的で、几帳面で、驚くほど博識だった。夜のマイナーは、何者かに部屋から連れ出され、遠い土地へ運ばれ、そこで性的な行為を強いられている、と訴え続けた。訴えの内容は年を追って詳細になり、地名まで具体的になっていった。
38年間、その二つが毎日交代した。彼が辞書の仕事をしたのは、そのうちの昼のほうである。
読者ではなく、注文に応じる資料室として働いた

1879年のマレーの呼びかけは、ブロードムーアにも届いた。おそらくは、マイナーが古書を注文していたロンドンの書店との文通を通じてである。施設は彼が参加することを歓迎した。
ここから、この物語のいちばん面白い部分になる。
数千人の志願者がやっていたのは、こういう作業である。一冊の本を割り当てられる(あるいは自分で選ぶ)。読みながら、珍しい語、面白い使われ方、古い意味に出会う。その文をカードに書き写して送る。
この方式には最初から弱点があった。集まるのは「送り手が面白いと思った語」であって、「編集部がいま困っている語」ではない。結果としてマレーの棚は、ある珍語に200枚のカードが積まれ、その隣の、誰もが毎日使うありふれた動詞には一枚も無い、という偏りを抱え続けた。マレーは繰り返し公衆に訴えている——珍しい語ではなく、ありふれた語の用例をくれ、と。
マイナーは逆をやった。
彼はまず、自分の蔵書——16世紀と17世紀を中心とする稀覯本のコレクション——を先に索引化した。どの本のどのページに何という語が現れるかを、自分で作った目録に落とし込んでいったのである。作業に何年もかかっただろうが、彼には38年分の時間があった。
そのうえで、彼はオックスフォードに手紙を書いた。「いま何の語に取り組んでいますか」
編集部が「art」「buckwheat」と答える。するとマイナーは、自分の目録からその語を引き、必要な世紀の必要な用例だけを抜き出して送り返す。
つまり彼は志願読者ではなかった。注文に応じて在庫から出荷する資料室だった。ブロードムーアの第2ブロックが、辞書編集部の外部倉庫として機能していたのである。
1888年に出た第1巻の序文は、マイナーの寄与を「5,000から8,000の引用」と記している。彼はそれ以後も、1902年に体調を崩して止めるまで、ほぼ毎週のように束を送り続けた。
マレーの孫娘K・M・エリザベス・マレーが書いた評伝『Caught in the Web of Words』は、「マイナー博士の総数を上回ったのはファーニヴァルだけだった」と記している。
マレー自身が1899年に書いた言葉が残っている。
この2年間だけで、彼は12,000にのぼる用例を送ってきた。……過去17、8年におけるマイナー博士の寄与はあまりにも膨大で、彼の用例だけで直近4世紀を難なく例証できるほどである。 (…we could easily illustrate the last 4 centuries from his quotations alone.)
念のために言えば、総枚数だけならもっと多い読者はいた。トマス・オースティンが165,000、ウィリアム・ダグラスが136,000。だがそれは長年ひたすら読み続けた結果の総量であり、マイナーの価値は量ではなく、欲しいときに欲しい語が届くことにあった。
もっとも、この協力関係はマレーにとってただの幸運ではなかった。彼が同僚の編集者W・A・クレーギーに宛てた一文が、そのことを正直に語っている。
彼の孤独で悲しい境遇では、たくさんの世話と、励ましと、ご機嫌取りが要る。私は折々ブロードムーアまで彼に会いに行かねばならなかった……彼の関心をつなぎとめておくことは、私の、知られざる、そして認められた職務のうちの、決して軽くない部分だった。
マレーが驚いたのは「相手が患者だったこと」ではない
この物語には、繰り返し語られてきた劇的な場面がある。
いわく——マレーは20年にわたって「クロウソーンのマイナー博士」と文通しながら、相手をブロードムーアに勤務する医師だと思い込んでいた。ある日ついに会いに行き、通された立派な部屋で机の向こうの紳士に手を差し出す。「マイナー博士ですね」。すると相手が答える。「いいえ、私は院長です。マイナー博士は患者でして、独房におります」——。
この場面は、1998年に出たサイモン・ウィンチェスターの『クロウソーンの外科医』(米題『The Professor and the Madman』)によって世界的に知られ、2019年には映画にもなった。
まずこの逸話はウィンチェスターの創作ではない。マレーが死んだ1915年の時点で、すでにアメリカの新聞が「アメリカ人殺人犯がオックスフォード辞典を書くのを手伝った」という見出しで、この種の話を報じている。伝説は本より80年以上古い。
そしてOEDの後継編集者たちは、この話を否定してきた。ブロードムーアの記録を保管するバークシャー州立文書館の記述はこうである。
マレーは長いあいだ、マイナーは厳重な施設のなかにいて面会できない相手だと考えていたようだ。同僚に言われて初めて、マイナーが面会を受けられることを知った。1891年の初め、当時のブロードムーア院長デイヴィッド・ニコルソンが二人を自宅の昼食に招き、これが最初の対面となった。以後も同種の機会が何度かあった。
つまりマレーが知らなかったのは「相手が患者であること」ではなく、「会いに行ってもよいということ」だった。彼は最初から、自分の最も重要な協力者が犯罪精神病院に収容された殺人犯であることを知ったうえで、20年間、手紙を書き続けていたのである。
この違いは小さくない。
伝説の版では、話の中心は「騙されていた学者の驚き」になる。実際の版では、話の中心は「知ったうえで20年つき合った編集者の判断」になる。前者は一場面の落ちで終わるが、後者は先ほど引いたクレーギー宛ての一文——「世話と、励ましと、ご機嫌取りが要る」——とまっすぐつながる。
面会に来たのは劇的な発見のためではなかった。マレーは、辞書のいちばん有能な外部協力者が壊れてしまわないように、管理のためにクロウソーンへ通っていたのだ。
彼は40年かけて、出発した病院に戻った
1902年12月3日の朝、68歳のマイナーは自分の性器の根元に止血帯を巻き、切り落とした。使ったのは、辞書の仕事のために所持を許されていたナイフだった。
理由を問われて、彼はこう答えている——「道徳のためです(In the interests of morality)」。彼は、長いこと夜ごと病院の外へ連れ出され、「レディングからランズ・エンドまで」の間で50人から100人の女性と交わることを強いられている、と証言した。
これ以後、彼の辞書の仕事は止まる。マレーの呼びかけから23年が経っていた。
ブロードムーアは、彼の家族に対して内務省へ本国送還を請願するよう勧めた。数年後、請願が出された。
1910年4月6日、35歳の内務大臣ウィンストン・チャーチルが、条件付き釈放の令状に署名した。条件は「二度と英国に戻らないこと」。
ジェームズ・マレーは、出発の前にもう一度クロウソーンを訪ねている。マイナーはティルベリー港へ護送され、義理の弟に引き渡されて、汽船に乗せられた。ブロードムーアにいた期間は38年だった。
送り届けられた先は、ワシントンD.C.の政府立精神病院——ロンドンに来る前、陸軍に精神疾患と診断されたときに彼が入っていた、まさにその施設だった(のちのセント・エリザベス病院)。彼は約40年かけて、出発点に戻ったことになる。当時の診断名はdementia praecox、今日でいう統合失調症である。
1919年11月、家族の近くで過ごせるようコネティカット州ハートフォードの施設に移り、1920年3月26日、そこで死去した。85歳。彼の死を報じ、辞書への寄与に触れた新聞は、どこにもなかった。
マレーはその5年前、1915年7月26日に胸膜炎で死んでいる。着手から36年。彼が自分で編集した分は、アルファベット全体のおよそ半分——A–D、H–K、O、P、Tである。
初版が完結したのは、前述のとおり1928年4月19日。トレンチの報告から71年、「10年で4巻」という契約から49年が経っていた。着手した編集者も、引き継いだ編集者も、最も多くの用例を送った協力者も、誰一人として完成した辞書を見ていない。
最後に、この話の痕跡がロンドンとオックスフォードに一つずつ残っていることを書いておきたい。
ジョージ・メレットが最後の朝に向かっていたライオン醸造所は、1924年に操業を終え、1949年、ロイヤル・フェスティバル・ホールの用地として取り壊された。だが、その川沿いのパラペットに載っていたコウド・ストーンのライオン(1837年、W・F・ウディントン作)は生き延びた。ウォータールー駅前を経て、1966年からウェストミンスター橋の南詰めに立っている。テムズを渡る観光客が必ず一度は写真を撮るあのライオンは、ジョージ・メレットが毎朝出勤していた建物の屋根の上にいたものである。
もう一つは、オックスフォードのバンベリー通り78番地の前に立つ郵便ポストだ。1885年、辞書の郵便量に音を上げた郵便局が、マレーの家のためだけに立てたものである。王室紋章も「POST OFFICE」の文字も入っていない、名無しのポスト。マレーがクロウソーンへ出した手紙は、この口から出ていった。その返事として、38年にわたって用例カードが届き続けた。
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