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    公開文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 4件

    ロンドンの街人物歴史・事件

    マウストラップ(ねずみとり)は1952年から続く——作者は「8か月」と読み、上演権を9歳の孫に贈った

    ロンドンのセント・マーティンズ劇場で、アガサ・クリスティの推理劇『マウストラップ(ねずみとり)』は1952年から休まず続き、上演は3万回を超えた。始まりは王太后の80歳の誕生日に書かれた30分のラジオ劇で、その筋の芯には1945年に英国を揺らした里子の死がある。作者が「8か月」と読んだ劇が、なぜ映画にもならず、結末も明かされないまま70年以上続いているのかをたどる。

    マウストラップ(ねずみとり)は1952年から続く——作者は「8か月」と読み、上演権を9歳の孫に贈った

    画像: Ji-Elle / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

    劇場の外に出た観客は、ひとつの約束を背負わされる。犯人を誰にも言わないこと。その約束が、いまも数え続けられている3万回以上の上演を支えている。

    王太后の80歳の誕生日に、30分のラジオ劇

    1947年5月30日、BBCの金曜の夜

    1947年5月26日、ジョージ5世の妃だったメアリー王太后は80歳になった。BBCはその週の金曜、5月30日の夜に祝いの番組を並べ、そのうち夜8時からの30分をアガサ・クリスティの新作ラジオ劇に充てた。題は『三匹の盲目のねずみ』。英国の子どもなら誰でも口ずさむ童謡から取った題である。

    誕生日に何が欲しいかと尋ねられた王太后が「クリスティの新しい話」を望んだ——クリスティ家の会社が運営する公式サイトはそう伝えている。ただ、王太后の側から言い出したという話には、作者の書誌を調べる愛好家から疑問も出ており、BBCの企画だった可能性も残る。はっきりしているのは、作者がこの仕事の報酬100ギニーを、イングランド北西部サウスポートの病院が子どもたちにおもちゃを贈るための基金へ寄付したことだ。

    放送の録音は残っていない。作者は翌1948年、この話を短編小説に書き直し、5月に米国の雑誌『コスモポリタン』に載せた。1950年には米国で出た短編集の表題作にもなっている。

    ところが英国では、この短編はいまも本になっていない。舞台版が始まるとき、作者が「ロンドンで劇が続いているあいだは、英国では出さない」と決めたからだ。結末が同じ短編が書店に並べば、劇場に来る客の楽しみを奪う。そして劇は、2026年のいまも終わっていない。

    筋の芯にあった、1945年の里子の死

    シュロップシャーの農場で死んだ12歳

    劇の舞台は、雪に閉じ込められた田舎の宿である。そこへ刑事がやって来て、ロンドンで起きた殺人が、かつて近くの農場で起きた事件とつながっていると告げる。農場に預けられた3人の子どもがひどい扱いを受け、そのうち1人が死んだ事件だ。ここまでは第1幕で明かされる話で、犯人とは関わらない。

    現実の英国では、これとよく似た事件が劇の2年前に起きていた。1945年1月9日、イングランド西部シュロップシャー州ミンスタリー近くの「バンク農場」で、12歳のデニス・オニールが死んだ。ウェールズのニューポートの役所が前年の7月、弟とともにこの農場の夫婦へ里子として預けていた。検死では、胸への重い打撃による心不全とされた。背中には棒で打たれた傷が残り、体はひどく痩せ、足の傷は化膿していた。

    議会はすぐにこの件を取り上げた。2月27日の庶民院の書面質問では、ある議員が教育相に、子どもを預けた先の学校の健康診断が、なぜ長く続いた栄養不良を見抜けなかったのかと問うている。大臣の答えは、調査を行うかどうかは里親の刑事裁判が片づいてから考える、というものだった。

    3月19日、里親の夫は故殺(殺意を伴わない殺人)で懲役6年、妻は放置の罪で6か月の判決を受けた。政府が命じた調査は4月10日に始まり、5月28日に報告を出した。里親は適否を十分に調べないまま選ばれ、子どもを送り出した側と受け入れた側の自治体のあいだで連絡も欠けていた、という内容である。この事件は、1946年の児童養護の調査委員会の報告と、1948年の児童法へつながっていった。

    作者自身がこの事件を下敷きにしたと書いた記録は見当たらない。それでも、預けられた兄弟、人里離れた農場、命を落とした子どもという骨組みはそのまま重なっており、英国ではこの事件が元になったと広く語られている。王太后の誕生日を祝う夜に流れた推理劇の芯には、戦争末期の英国が直視させられた、一人の子どもの死があった。

    題は『ハムレット』から、上演権は9歳の孫へ

    作者は「8か月くらいでしょう」

    1952年、ラジオ劇を舞台用に書き直す段になって、題を変えなければならなくなった。戦前にロンドンで同じ題の芝居を上演していた興行主が、譲らなかったのである。代わりの題を出したのは作者の娘婿で、それは『ハムレット』から取られていた。王子ハムレットは、父を殺した叔父の顔色を見るため、旅の役者に父殺しの芝居を演じさせる。その劇中劇を、王子自身が「ねずみとり」と呼ぶ。罠を仕掛けて正体をあぶり出すための芝居——推理劇にこれほど合う題はない。

    舞台の初演は1952年10月6日、ノッティンガムのシアター・ロイヤルだった。地方を回った試演の評判はまちまちで、製作者のピーター・ソーンダーズは作者と相談し、笑いを取る台詞をいくつか削った。本格の推理劇なのか、喜劇仕立ての推理劇なのか、どっちつかずになるのを避けるためだった。

    ロンドンでの初日は11月25日、ウエスト・エンドのアンバサダーズ劇場。刑事の役は若き日のリチャード・アッテンボローで、宿の若いおかみの役はその妻シーラ・シムが演じた。夫妻は出演料の一部を受け取る代わりに、興行の利益の1割を受け取る契約を結んでいる。アッテンボローは後年、この取り分を少しずつ売ってメイフェアに開いた料理店(すぐに潰れた)の資金に回し、残りは自ら監督した映画『ガンジー』(1982年)の製作費のために手放した。

    どのくらい続くと思うか。作者の自伝によれば、製作者は「14か月はいく」と言い、作者は「そんなには続かないでしょう。8か月くらいかしら」と返した。

    作者はこの劇の上演権を、9歳の誕生日の贈り物として孫のマシュー・プリチャードに譲っている。娘ロザリンドの一人息子である。クリスティ家の公式サイトによれば、少年がそのとき欲しかったのは自転車だった。作者はのちに「マシューはいつだって、一家でいちばん運のいい子だった」と書いた。

    大人になったプリチャードは1995年、劇の収入を使う慈善信託を作り、主にウェールズの芸術団体を支えている。自転車の代わりに受け取った紙の束は、70年あまりのあいだ、毎晩お金を生み続けることになった。

    隣の劇場へ、一回も休まずに

    ロビーの数字は増え続ける

    セント・マーティンズ劇場のロビーにある、上演回数を示す木の掲示板。2006年秋の撮影で、22,461回を示している。

    セント・マーティンズ劇場のロビーにある、上演回数を示す木の掲示板。2006年秋の撮影で、22,461回を示している。

    画像: User:Homonihilis / Public domain, via Wikimedia Commons

    1955年4月22日に1000回。1957年9月13日には、歌の入らない劇としてロンドンの最長記録を塗り替えた。抜かれたのはノエル・カワードの喜劇『陽気な幽霊』である。カワードは住まいのあったバミューダから電報を打った。「大変に心苦しいが、最長上演記録の更新については、やはりお祝いを申し上げねばなるまい」。

    この電報は半世紀以上たった2011年、作者が使っていた机を修理していた職人が、背板を外したときに見つけた。一緒に落ちてきたのは、作者の結婚後の姓「マローワン夫人」宛ての、下着の領収書だったという。

    翌1958年4月12日、上演は2239回に達し、歌入りの舞台も含めたロンドンの最長記録になった。それまでの記録は、第一次世界大戦中に始まった音楽劇『チュー・チン・チョウ』が持っていた。

    1974年には引っ越しがあった。3月23日の土曜にアンバサダーズ劇場で幕を下ろし、日曜をはさんで25日の月曜、隣のセント・マーティンズ劇場で幕を開けた。日曜は公演が無いので、一回も休まずに劇場を移ったことになる。上演はいまもこの劇場で続いている。

    配役は毎年入れ替わる。それでも初日からずっと「出演」している人がいる。劇中のラジオでニュースを読む声は、俳優デリック・ガイラーが吹き込んだ録音で、1999年に彼が亡くなったあとも毎晩流れている。舞台装置は1965年と1999年に作り替えられたが、居間の暖炉の上に置かれた時計だけは、1952年から使われている小道具だ。最も多く出演した俳優は、少佐役を4575回演じたデイヴィッド・レイヴンで、ギネスブックに載った。

    劇団は劇場の外にも出た。1959年3月15日、ロンドンのワームウッド・スクラブズ刑務所で、受刑者が組んだ舞台装置を使って上演したところ、その最中に2人が脱走している。

    劇場のロビーには、上演回数を示す木の掲示板がある。2006年の秋には22,461を示していた。2025年3月19日の昼の部が3万回目で、ギネス世界記録の担当者が劇団に「最も長く続いている演劇公演」の認定証を手渡した。

    「犯人を言わないでください」——映画にならない契約

    14か月の休止でも、幕は「下りて」いない

    終演後、観客は犯人の正体を劇場の外で明かさないよう頼まれる。長く続く習わしで、この劇は結末を知らない客が来てくれなければ成り立たない。

    秘密を守る仕掛けは契約にもある。1956年、映画製作者のジョン・ウルフが映画化の権利を買った。条件は「ロンドンの公演が終わり、さらに6か月がたつまで、映画は作れない」。1950年代の末には米国の大手映画会社と組んで配役まで進んだが立ち消えになり、1990年代の末には息子が脚本まで用意したものの、劇の側が認めなかった。権利を持つ側はいるのに、条件のほうが一向に満たされない。英国の外ではソ連が1990年に許可なく映画にしているが、この劇の英語の映画はいまも無い。

    インターネットの時代になると、秘密は別の場所から漏れ始めた。2010年、ネット上の百科事典ウィキペディアが記事の中で犯人を明かしていることが英国の新聞で取り上げられ、プリチャードは、結末を知ってしまえば観客の楽しみが損なわれると批判した。百科事典の側は、作品について網羅的に書くのが役目だという立場を崩さなかった。

    最大の危機は2020年に来た。新型コロナウイルスの流行で、上演は3月16日の月曜を最後に止まった。再開は2021年5月17日。14か月ぶりで、映画化の条件にある「6か月」を大きく超える。それでもこの休止は閉幕ではなく中断として扱われ、再開の夜は通算28,200回目と数えられた。映画は、いまも作られていない。

    劇場へ行くなら

    コヴェント・ガーデンの西、本の形の記念碑

    セント・マーティンズ劇場は、コヴェント・ガーデンの西側を南北に走るウェスト・ストリートにある。最寄りはレスター・スクエア駅で、歩いて数分。すぐ隣が1974年までの本拠だったアンバサダーズ劇場で、2つの劇場は1910年代に同じ建築家が設計した、兄弟のような建物である。

    ロビーに入ったら、まず上演回数の掲示板を見ておきたい。その日の数字は、自分が何回目の客なのかを教えてくれる。席に着いたら、暖炉の上の時計にも目を留めてほしい。1952年の初日から、同じ場所で時を刻んでいる。

    劇場から北へ数分、クランボーン通りとグレート・ニューポート通りが交わる角には、高さ約2.4メートルの青銅の記念碑が立っている。開いた本の形をしていて、中央に作者の胸像がはめ込まれている。初演60周年の2012年11月に、孫のプリチャードらが除幕したものだ。

    観劇前の心得はひとつだけある。あらすじを調べすぎないこと。前もって筋を検索すると、70年以上守られてきた秘密に自分から踏み込んでしまう恐れがある。英語の台詞が心配なら、人物の名前と関係だけ頭に入れておけば十分だ。上演時間・座席・予約の方法はマウストラップの作品ページにまとめてある。

    参考資料

    1. 庶民院議事録「シュロップシャーに預けられた少年」(書面回答)原典英国議会(Hansard)1945api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    2. 『ねずみとり』初演のポスター(アンバサダーズ劇場)所蔵ヴィクトリア&アルバート博物館1952collections.vam.ac.uk(新しいタブで開きます)
    3. アガサ・クリスティ公式サイト「ねずみとり」公式Agatha Christie Limitedagathachristie.com(新しいタブで開きます)
    4. アガサ・クリスティ公式サイト「三匹の盲目のねずみ」公式Agatha Christie Limitedagathachristie.com(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

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