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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    2026年9月19日

    人物歴史・事件暮らし・技術

    ギネスブックは1951年、猟場の口論から生まれた——発端の「ヨーロッパ最速の猟鳥」は、いまも本に載っていない

    1951年11月、アイルランドの猟場でギネス社の経営トップが1羽のムナグロを撃ち損じ、「ヨーロッパでいちばん速い猟鳥はどれか」で言い争いになった。どの参考書にも答えは載っていなかった。そこから生まれた『ギネスブック』(現ギネス世界記録)は、4年後のクリスマスにイギリスのベストセラー首位に立つ。ところが、きっかけになったその問いの答えは、いまも本の中にない。

    ギネスブックは1951年、猟場の口論から生まれた——発端の「ヨーロッパ最速の猟鳥」は、いまも本に載っていない

    「世界一」を認定する本として知られるギネス世界記録は、もともとビール会社がパブに配るおまけだった。作ったのは、人類初の1マイル4分切りの場内アナウンスをしていた男とその双子の弟である。撃ち損じた1羽の鳥から、累計1億5000万部の本が生まれるまでを追う。

    撃ち損じた1羽と、答えの出ない口論

    1951年11月、アイルランド・ウェックスフォード

    1951年11月、アイルランド南東部のウェックスフォード州。スレイニー川の河口に、ノース・スロブ(North Slob)と呼ばれる平らな湿地が広がっている。19世紀半ばに防潮堤を築いて干潟を干拓した土地で、冬にはグリーンランドから渡ってくるマガンの一亜種がおよそ1万羽集まる。この亜種の世界の個体数の3分の1にあたる数で、昔からの猟場でもあった。

    この日、この猟場で銃を手にしていたひとりが、ヒュー・ビーヴァー(Hugh Beaver)である。1890年ヨハネスブルク生まれの技術者で、土木コンサルタント会社サー・アレクサンダー・ギブ&パートナーズの共同経営者を務め、第二次大戦中は新設の公共事業省で戦時の建設事業全体を取り仕切った。1946年からは、ダブリンのビール会社アーサー・ギネス・サン&カンパニーで経営の実務トップ、マネージング・ディレクターの座にあった。

    ビーヴァーは、飛び立ったヨーロッパムナグロ(golden plover)を撃ち損じた。そこから一行は、ヨーロッパでいちばん速い猟鳥はこのムナグロか、それともアカライチョウ(red grouse)か、で言い争いになった。その晩、キャッスルブリッジ・ハウスで、ビーヴァーは気づく。どちらが速いのかを、手元の参考書では確かめようがなかった。

    もっとも、この話は伝える人によって少しずつ違う。ギネス世界記録(以下GWR)の公式の説明ではムナグロとアカライチョウだが、2004年のアイリッシュ・タイムズ紙の追悼記事では「コガモ(teal)かムナグロか」になっている。日付も、10日とする資料が多い一方で、GWR自身は「11月のある日(an unknown date)」としか書いていない。世界一を正確に記録する本の出発点が、少しあいまいなのである。

    ビーヴァーが考えたのは、その先だった。狩りの席で答えが出なかったように、「どっちが上か」の言い争いは毎晩どこかで起きている。GWRの記述によれば、ビーヴァーが思い浮かべたのは当時の「ブリテンとアイルランドの8万1400軒のパブ」だった。答えを載せた本があれば口論は片づくし、それをビール会社が配れば、パブのカウンターに会社の名前が置かれる。

    ただ、この思いつきはすぐには形にならなかった。動き出すのは3年後、ギネスの工場にいたひとりの陸上選手が、双子の兄弟を紹介してからである。

    「3分……」、歓声にかき消されたアナウンス

    1954年5月6日、オックスフォードのイフリー・ロード

    ロンドン北西部にあったギネスのパーク・ロイヤル醸造所に、クリス・チャタウェイ(Chris Chataway)という若い醸造技師がいた。オックスフォード大学出身の中長距離ランナーで、醸造所で働きながら第一線で走っていた。

    1954年5月6日、オックスフォードのイフリー・ロード競技場。医学生だったロジャー・バニスターが1マイルを3分59秒4で走り、人類で初めて「4分の壁」を破った。このレースでペースメーカーを務めたのが、クリス・ブラッシャーとチャタウェイの2人である。前半をブラッシャーが引き、3周目からはチャタウェイが先頭に立ち、最終周に入ってからバニスターが前に出た。

    レースのあと、場内アナウンスが結果を読み上げた。アナウンスは、承認されればこれがトラック記録、英国記録、ヨーロッパ記録、そして世界記録になる、と記録の種類をひとつずつ並べ、最後にタイムを「3分……(Three…)」と言いかけた。そこで観客の歓声が爆発し、続きは誰にも聞こえなかった。

    このアナウンスをしていたのが、ノリス・マクワーター(Norris McWhirter)である。

    マクワーター兄弟は1925年8月12日、ロンドン北郊のウィンチモア・ヒルで生まれた双子で、弟のロス(Ross)は20分遅れて生まれた。父親は日曜紙サンデー・ピクトリアルの編集者。ノリスは戦時中、海軍予備員として大西洋の船団護衛や太平洋の掃海艇に乗り、戦後はオックスフォードのトリニティ・カレッジで法律を学んだ。短距離走者としてスコットランド代表にも選ばれている。

    陸上競技の記録と数字に異様に詳しかった2人は、1950年代のはじめ、新聞や年鑑、百科事典、広告主に「事実と数字」を売る会社をロンドンで立ち上げた。いわば調べものの請負業である。

    チャタウェイは大学時代からの2人の友人だった。ビーヴァーが記録の本の構想を持ち出したとき、チャタウェイが推したのが、この双子だった。

    取締役たちの「口頭試問」

    1954年、フリート・ストリートの2部屋

    バニスターの1マイルから4か月後の1954年9月、マクワーター兄弟はギネスに呼ばれ、記録を集めた本を出すという構想について話し合った。GWRの記録では9月12日である。

    この席で、ギネスの取締役たちは面白がって、2人に記録や珍しい事実についての質問を次々とぶつけた。双子はそれに答え続けた。GWRの言い方を借りれば、2人は取締役会を「すっかり感心させ」、その場で仕事を任された。

    同じ年の11月30日、そのための会社「ギネス・スーパーラティヴズ(Guinness Superlatives)」が設立された。superlative は英文法でいう「最上級」のことで、「いちばん○○な」ものを集める会社という名前である。事務所は新聞街フリート・ストリート107番地、ラドゲート・ハウスの最上階の2部屋だけだった。

    兄弟はここで、世界中の「いちばん」を集めた。いちばん高い山、いちばん深い海、いちばん長生きした人。情報を集め終えてから本文を書き上げるまでに13週半かかり、GWRによれば、週末も祝日も休まず週90時間働き通しだった。

    同じ1954年、ビーヴァーはもうひとつの仕事を仕上げている。1952年12月にロンドンを覆い、数千人の死者を出した大スモッグを受けて政府が設けた大気汚染委員会の委員長である。「ビーヴァー委員会」と呼ばれたこの委員会が1954年に出した報告は、1956年の大気浄化法(Clean Air Act)につながった。

    パブの口論を事実で片づける本と、煙を数字で測って法律に変える報告書。その2つが、同じ年に同じ人物の机の上にあったことになる。ビーヴァーはのちの1959年から60年にかけて、王立統計学会の会長も務めた。

    パブで配るはずの本が、クリスマスのベストセラー首位に

    198ページ、深緑の表紙に金の文字

    1955年8月27日、最初の1冊が製本された。198ページ、深い緑の表紙に金色の文字、ギネスのハープの紋章。書名は『ギネス・ブック・オブ・レコーズ(The Guinness Book of Records)』。10月には書店にも並んだ。

    もともとはパブに無料で配る販促品だった。ところがGWRの説明によれば、評判が広まるにつれて、パブに置いた本がたびたび盗まれるようになった。本は書店で売られるようになり、その年のクリスマスまでにイギリスのベストセラーの首位に立った。ビール会社のおまけが、4か月で国じゅうの本棚に入り込んだのである。

    翌1956年にはアメリカ版が出て、7万部を売った。GWRによれば1974年には「著作権のある本として史上最も売れた本」になり、いまでは100を超える国と40を超える言語で、累計1億5000万部以上が出ている。

    本が大きくなるにつれ、「何を載せないか」も編集の仕事になった。2004年のアイリッシュ・タイムズ紙の追悼記事は、ノリスが挙げた「載せないもの」とその理由を伝えている。

    • 超常現象:「幽霊のもめごとに巻き込まれるわけにはいかない」
    • 性にまつわる記録:「そういう記録なら医学文献で読めばいい。うちのは、独身のおばが姪っ子に贈るような本なんだ」
    • 犯罪:「真似されたくない」
    • マシュマロを一度に何個飲み込めるか、のような記録:「記録に挑んだ子どもが窒息しかねない。これまでに出た死者は、ビリヤードのマラソンで心臓発作を起こした男性ひとりだけだ」

    ノリスの言う「独身のおばが姪っ子に贈る本」とは、家族の誰が手に取っても困らない本、ということだ。載せる基準は「本当かどうか」だけでなく、「真似されても大丈夫か」にまで広がっていた。この線引きは、のちにもっと大きな決断につながる。

    双子の片方が撃たれた日

    1975年11月27日、ロンドン北郊エンフィールド

    1972年12月15日、BBC1で子ども向け番組『レコード・ブレイカーズ(Record Breakers)』が始まった。司会は歌も踊りもこなす芸人のロイ・キャッスル。そこにマクワーター兄弟が並んだ。スタジオの観客が記録についての質問をぶつけ、双子がほとんど外さずに答えるのが名物になった。兄弟は本の奥付の名前から、テレビで顔の知られた人になった。

    ロスは政治活動にも熱心だった。1964年の総選挙では保守党から立候補して落選している。1974年から75年にかけて、ロンドンをはじめイングランド各地では、IRA暫定派による爆弾や銃撃の事件が1年以上にわたって続いていた。1975年、ロスは犯人の有罪につながる情報に5万ポンドの懸賞金を出すと公表した。IRAの指導部はこれを自分たちにかけられた賞金とみなし、ロス自身も狙われるおそれがあることを承知していた。

    1975年11月27日の午後6時45分ごろ、ロスはロンドン北郊エンフィールドの自宅前で至近距離から撃たれ、運ばれた病院で間もなく亡くなった。50歳だった。撃ったのはIRAの4人組の部隊のうち2人である。この部隊は翌12月、ロンドンのバルコム・ストリートのアパートに住人の夫婦を人質に取って6日間立てこもった末に投降し、のちに「バルコム・ストリート・ギャング」と呼ばれる。2人は1977年に終身刑を言い渡され、1999年、北アイルランド和平合意(ベルファスト合意)に基づいて釈放された。

    ノリスは番組に残った。観客の子どもたちが記録についての質問をぶつけ、ノリスがその場で答える「ノリス・オン・ザ・スポット」というコーナーは、その後も番組の顔であり続けた。ノリスは1986年まで本の編集を続け、2004年4月19日、78歳で亡くなった。『レコード・ブレイカーズ』は2001年12月まで、29年にわたって放送された。

    答えはムナグロでも、アカライチョウでもなかった

    本が一度も載せなかった「最初の問い」

    写真は2025年、米ニュージャージー州バーニガット・インレットで撮影されたウミアイサの雄。GWRが現在「世界最速の猟鳥」としている種で、ヨーロッパにも分布する。1951年に撃ち損じられたのはこの鳥ではなく、記事冒頭の写真のヨーロッパムナグロ(2022年、ドイツ・ヴァンゲローゲ島で撮影)。Photo: Needsmoreritalin / CC BY-SA 4.0
    写真は2025年、米ニュージャージー州バーニガット・インレットで撮影されたウミアイサの雄。GWRが現在「世界最速の猟鳥」としている種で、ヨーロッパにも分布する。1951年に撃ち損じられたのはこの鳥ではなく、記事冒頭の写真のヨーロッパムナグロ(2022年、ドイツ・ヴァンゲローゲ島で撮影)。Photo: Needsmoreritalin / CC BY-SA 4.0

    では、1951年の猟場の問い「ヨーロッパでいちばん速い猟鳥は?」の答えは何だったのか。

    ムナグロとアカライチョウの二択なら、ムナグロのほうが速いとする説明が多い。ただ、どちらでもない候補がいる。現在のGWRが「世界最速の猟鳥」としているのは、ウミアイサ(red-breasted merganser)というカモの仲間だ。水平飛行での最高速度は時速130キロ(81マイル)。1960年5月には、アラスカのククプク川で飛行機に追い立てられた6羽の群れのうち1羽が、対気速度で時速約80マイル(約129キロ)をおよそ450メートルにわたって保ったという測定もある。ウミアイサはヨーロッパにも分布し、いまも狩猟の対象になることがある。

    ところがGWRは、この記録のページにこう書き添えている。本はこの最初の問いに一度も取り組まなかった。扱うのは純粋に「世界」記録だけだからだ、と。ウミアイサが最もありそうな答えだとは書いているが、本の中に「ヨーロッパ最速の猟鳥」という項目はない。GWRはやがてイギリスやイングランド、スコットランドといった国内の記録を扱うのもやめ、「絶対的な最上級」だけを記録する方針に絞った。ヨーロッパという区切りの問いは、その方針の外に出てしまったのである。

    載せない記録も増えていった。公道の制限速度を超える危険があるとして、高速走行の記録は1996年に扱いをやめた。わざと大量に食べる大食いの記録も1990年前後から受け付けなくなり、のちに「30秒で」「1分で」のように速さを競う形で復活した。「最も重いペット」の記録は1998年に廃止された。本に載りたいがためにペットに餌を与えすぎる人を出さないためで、それまでの最も重い猫は、1986年に死んだとき21.3キロあったヒミーという猫である。

    本の持ち主も変わった。ギネス社は1997年の合併で酒類大手ディアジオの一部となり、2001年にこの本の事業を4550万ポンドで売却した。2008年からはカナダのジム・パティソン・グループが所有している。書名は2000年前後に『ギネス世界記録(Guinness World Records)』に改まった。いまのギネス世界記録は、ビール会社のギネスとは資本のつながりがない。名前だけが残っている。

    稼ぎ方も変わった。すでにある記録に個人が挑戦を申し込むのは無料だが、企業や団体の挑戦は有料のコンサルティング部門が受け持ち、公式の認定員の派遣などを含むサービスとして提供される。申し込みは年に5万件を超える。米公共ラジオNPRは2020年、本の売り上げが落ちたGWRが「宣伝を売る」商売に軸足を移したと報じた。2019年には米国のコメディアン、ジョン・オリヴァーが自分の番組で、トルクメニスタンのような権威主義国家の記録づくりに協力しているとGWRを批判している。

    パブの口論を収めるために作られた本は、70年あまりのあいだに世界中の「いちばん」を載せてきた。それでも、きっかけになった口論にだけは、いまも決着をつけていない。今夜どこかのパブで、ムナグロとアカライチョウのどちらが速いかを言い争う人がいても、その議論を終わらせる本はまだない。

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