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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    2026年9月15日

    人物歴史・事件ロンドンの街

    くまのプーさんのモデルはロンドン動物園のクマだった——1914年、カナダ軍の獣医が駅で20ドルで買った子グマ

    1914年8月、第一次世界大戦へ向かうカナダ軍の獣医ハリー・コールボーンは、オンタリオ州の小さな駅で猟師から子グマを20ドルで買い、自分の町の名をとって「ウィニペグ」と名付けた。大西洋を渡ったこのクマは戦場へは連れて行けず、ロンドン動物園に預けられる。10年後、その檻に一人の少年が駆け込んだ。名前はクリストファー・ロビン。刊行から100年を迎えた『クマのプーさん』の「ウィニー」がどこから来たのか、そしてその由来がなぜ半世紀のあいだ忘れられていたのかを、獣医の従軍日記と動物園の記録から辿る。

    くまのプーさんのモデルはロンドン動物園のクマだった——1914年、カナダ軍の獣医が駅で20ドルで買った子グマ

    『クマのプーさん』の原題は『Winnie-the-Pooh』である。後半の「プー」は、作者の息子が餌をやっていた白鳥の名前だった。では前半の「ウィニー」は何か。答えはロンドン動物園の檻の中にいた、一頭のメスのクロクマである。そのクマはカナダの森で生まれ、戦争に向かう軍用列車に乗り、泥の演習場で兵士たちに育てられてロンドンに来た。持ち主は「いつかカナダに連れて帰る」と写真の裏に書いたが、その約束は果たされなかった。

    「Bought bear $20」——1914年8月24日、ホワイトリバー駅のホームで

    獣医の日記に書かれたのは、たった3語だった

    ハリー・コールボーンは、第一次世界大戦のあいだ手のひらに収まる小さな手帳に日記をつけていた。残っているのは6冊。その1914年8月24日の欄は、こう書かれている。

    Left Pt. Arthur 7 A.M. On train all day. Bought bear $20. (午前7時、ポート・アーサー発。終日列車。クマを買う、20ドル)

    世界でいちばん有名なクマの話は、この「Bought bear $20」の3語から始まる。もちろん、書いた本人はそんなことを知らない。

    コールボーンは1887年4月12日、イングランドのバーミンガムに生まれた。1905年、18歳でカナダに渡り、トロントのオンタリオ獣医大学を1911年に卒業する。同じ年の7月からは、中西部マニトバ州の州都ウィニペグで州農務省の獣医として働きはじめた。そのかたわら、民兵の騎兵連隊フォート・ギャリー・ホースにも籍を置いていた。

    1914年8月4日、英国がドイツに宣戦布告する。当時のカナダは英国の自治領で、外交権を持たなかったから、本国の宣戦と同時に自動的に戦争に入った。コールボーンは8月23日午後7時の列車でウィニペグを発った。行き先はケベック州ヴァルカルティエ。カナダ全土から志願兵が集められていた、急ごしらえの巨大な野営地である。騎兵隊や砲兵隊の馬を診る獣医として、カナダ陸軍獣医部隊に加わるための旅だった。

    翌24日の朝、スペリオル湖の港町ポート・アーサー(現在のサンダーベイ)を出た列車は、湖の北の森を東へ走り続け、オンタリオ州の小さな町ホワイトリバーに停まった。駅のホームに猟師がいて、子グマを売ろうとしていた。母グマは、その猟師が撃ったのだという。

    子グマはメスのアメリカクロクマで、生後7か月ほどだった。コールボーンは20ドルを払った。今日の貨幣価値に直すと500カナダドル前後になる。27歳の獣医が、戦地へ向かう途中で思いつきで出す額としては、決して安くない。

    彼はクマに、自分が暮らしてきた町の名前を付けた。ウィニペグ(Winnipeg)。縮めて、ウィニー。

    この一日のせいで、のちに「プーさんの故郷」を名乗る場所は三つになる。クマが買われた町ホワイトリバー、クマの名前になった町ウィニペグ、そしてクマが暮らし、物語が書かれた町ロンドンである。

    泥のソールズベリー平原で育った子グマ——1914年12月9日、ロンドン動物園へ

    写真の裏の「いつかカナダに連れて帰る」

    1914年、カナダ部隊の野営地で兵士の腕にじゃれつくウィニー。写真の下の書き込みは「THE PET」。マニトバ州立文書館所蔵(コールボーン・コレクション)、パブリックドメイン。
    1914年、カナダ部隊の野営地で兵士の腕にじゃれつくウィニー。写真の下の書き込みは「THE PET」。マニトバ州立文書館所蔵(コールボーン・コレクション)、パブリックドメイン。

    ヴァルカルティエの野営地で、ウィニーはあっという間に兵士たちの人気者になった。フォート・ギャリー・ホース博物館の記録によれば、1914年9月12日、ウィニーは第2カナダ歩兵旅団司令部の「員数」に加えられている。書類の上で、クマは正式に部隊の一員になったわけである。

    10月3日、カナダ第1派遣部隊を乗せた30隻あまりの輸送船団が、ケベックのガスペ湾を出航した。兵はおよそ3万人。コールボーンは馬と一緒に輸送船マニトウ号に乗り、そこにはウィニーもいた。船団は10月中旬にイングランド南西部のプリマスに着き、コールボーンは17日に港のデヴォンポートで上陸する。部隊が向かったのは、ウィルトシャーのソールズベリー平原。ストーンヘンジにほど近い、陸軍の演習地である。

    この冬、ソールズベリー平原は数十年に一度という長雨に見舞われた。ウィルトシャー・スウィンドン歴史センターの記録によると、陸軍大臣キッチナー卿は11月までにカナダ兵全員を木造の兵舎に移すよう命じたが、資材も人手も足りずに間に合わなかった。翌1915年1月になっても、兵舎はまだ建設中だった。兵士たちは泥にまみれたテントで冬を越している。

    その野営地で、ウィニーは部隊のペットだった。練乳とリンゴをもらい、夜はコールボーンのテントの簡易ベッドの下で丸くなって眠ったと伝えられる。この記事の冒頭に掲げた写真は、テントを背にしたコールボーンが、後ろ足で立ち上がった子グマに餌をやっているところである。首輪から伸びた鎖が、彼の足元に垂れている。

    だが12月に入ると、部隊がいずれフランスへ渡ることがはっきりしてくる。クマを連れて塹壕に入るわけにはいかない。日記の12月の欄にはこう書かれている。

    Took Winnie to zoo. London. (ウィニーを動物園へ連れていく。ロンドン)

    ロンドン動物学協会に残る動物記録カードにも、1914年12月9日の日付で、オンタリオ州ホワイトリバー産のメスのクロクマとして受け入れが記録されている。ちなみに戦争の最初の年、ロンドン動物園にはクロクマが何頭も寄贈されていた。ウィニーは、その中の一頭にすぎなかった。

    この時期に撮られた有名な写真の一枚の裏に、コールボーンはこう書き込んでいる。

    Myself and Winnie the bear. Winnie is now on exhibition at the zoo in London, but is coming back to Canada with me some day. (私とクマのウィニー。ウィニーはいまロンドンの動物園で展示されているが、いつか私と一緒にカナダへ帰る)

    この約束は、果たされなかった。

    前線で馬を診ていた獣医は、休暇のたびにロンドン動物園へ通った

    1915〜1919年、塹壕の馬と檻のクマ

    1915年2月、コールボーンの部隊はフランスへ渡った。そのときの日記には「海はひどく荒れ、ひどい船酔い。馬と一緒に干し草の上で横になっていた」とある。

    この戦争で獣医が担ったのは、銃を撃つことではなく馬を生かすことだった。第一次世界大戦の西部戦線では、大砲も弾薬も糧食も、そして負傷兵を運ぶ車も、その多くを馬が引いていた。馬が倒れれば、前線への補給が止まる。

    トロント・メトロポリタン大学が公開しているコールボーンの日記の書き起こしから、いくつか拾ってみる。1915年4月19日の欄。「午前、馬の繋留場を見回る。ドイツ軍が町を砲撃、グラン・プラスで兵士4人が死亡」。その3日後の4月22日、カナダ部隊が布陣していたベルギーのイーペルで、ドイツ軍は大量の塩素ガスを放った。第二次イーペルの戦いの始まりである。コールボーンは、このガス攻撃を目の当たりにしている。1917年4月の欄にはこうある。「われわれの馬にとって非常に厳しい月。多くが風雨にさらされて死ぬ」。

    その合間に、こんな欄が挟まる。1915年7月8日。

    In London all day. Visit zoo in morning and see Winnie. (終日ロンドン。午前中に動物園へ行き、ウィニーに会う)

    休暇でロンドンに出るたびに、彼は動物園に寄り、そのことを日記に書き残した。

    一方、檻の中のウィニーは、クマとしては異例なほどおとなしかった。ロンドン動物学協会のアーカイブは、ウィニーを「驚くほど気立てがよく、よく人に慣れていて、撫でたり一緒に遊んだりすることができた」と記している。飼育係は子どもたちを檻の中に入れ、ウィニーの背中に乗せたり、手から餌をやらせたりしていたと伝えられる。いまの動物園ではまず考えられない扱いだが、「中に入れるクマ」だったことが、のちに決定的な意味を持つことになる。

    1918年11月11日、休戦。コールボーンは、写真の裏に書いたとおりウィニーを迎えに行った。ところがそのころには、ウィニーはロンドン動物園でも屈指の人気者になっていて、新しい環境にもすっかりなじんでいた。もともとは、ウィニペグのアシニボイン公園の動物園に連れて帰るつもりだったという。だが彼は、クマをロンドンに残すことにした。

    1919年12月1日、ウィニーは正式にロンドン動物園に寄贈された。動物園では寄贈を記念する式典が開かれ、銘板が掲げられた。

    コールボーンは英国で王立獣医師会の研修を受けたのち、1920年にカナダへ帰る。ウィニペグのマクミラン・アベニュー377番地に動物病院を開き、1923年にクリスティーナ・マクラウドと結婚し、1925年に息子のフレッドが生まれた。写真の裏の「いつかカナダへ」は、書いた本人の手で取り消されたことになる。

    「Oh, Bear!」——ウィニーの檻に駆け込んだ少年、クリストファー・ロビン

    ハロッズのテディベアと、呼んでも来ない白鳥

    1920年8月21日、ロンドンで劇作家のアラン・アレクサンダー・ミルンに息子が生まれた。クリストファー・ロビン・ミルンである。ミルンは風刺雑誌『パンチ』の副編集長を務めたこともある、当時すでに名の知れた書き手だった。

    翌1921年の8月21日、1歳の誕生日に、ロンドンの百貨店ハロッズで買われたテディベアが贈られた。ファーネル社製とされるこのぬいぐるみは、エドワードと呼ばれていた。テディ(Teddy)は、エドワードの愛称である。1924年に出た詩集『クリストファー・ロビンのうた』(原題 When We Were Very Young)に収められた詩「テディ・ベア」でも、このクマは「ミスター・エドワード・ベア」と呼ばれている。

    まだ「プー」の名前はない。その「プー」は、同じ詩集の序文に出てくる。ミルンはそこで、クリストファー・ロビンが毎朝餌をやっている白鳥のことをこう書いた。

    クリストファー・ロビンは、毎朝この白鳥に餌をやっていて、彼に「プー」という名前を付けました。これは白鳥にはとてもいい名前です。なぜなら、呼んでも来なかったとき(白鳥はそういうことが得意なのです)、ただ「プー!」と言っただけで、べつに来てほしかったわけじゃないんだよ、というふりができるからです。

    そして1924年ごろから、ミルン親子はロンドン動物園に通うようになる。お目当てはウィニーだった。息子は3、4歳、ウィニーは10歳ほどになっていた。2年後、ミルンは『クマのプーさん』の序文で、そのときの様子をこう書いている。

    クリストファー・ロビンは動物園に行くと、ホッキョクグマのいるところへ行って、左から3人目の飼育係に何かささやきます。すると扉の鍵が開けられ、私たちは暗い通路を抜け、急な階段をのぼって、やっと特別な檻にたどり着きます。檻が開くと、茶色くてふわふわしたものがとことこ出てきて、クリストファー・ロビンは「あっ、クマさん!(Oh, Bear!)」とうれしそうに叫んで、その腕の中に飛び込むのです。このクマの名前はウィニーといいます。……でもおかしなことに、ウィニーがプーにちなんで名付けられたのか、プーがウィニーにちなんで名付けられたのか、私たちはもう思い出せないのです。前は知っていたのですが、忘れてしまいました。

    飼育係が扉を開け、幼い子を檻の中に入れていたことを、父親自身が書き残しているわけである。少年とウィニーが一緒に写った1925年ごろの写真も残っている。

    序文によれば、名前が決まった経緯はこうだ。エドワード・ベアが「自分だけの、わくわくするような名前がほしい」と言いだしたとき、クリストファー・ロビンは考えるまでもなく、すぐに「ウィニー・ザ・プー」だと答えた。動物園のメスのクマの名前と、呼んでも来ない白鳥の名前が、男の子のぬいぐるみの名前になった。

    1925年12月24日、ロンドンの夕刊紙『イヴニング・ニューズ』のクリスマス号に、ミルンの短い話が載る。「ウィニー・ザ・プー」の名前を持つクマが活字に登場したのは、これが最初だった。この話が第1章になり、1926年10月14日、ロンドンのメシュエン社から『クマのプーさん』が刊行される。アメリカのダットン社版は、その年のうちに15万部を売った。

    ただし、本の中のプーの姿は、クリストファー・ロビンのクマを写したものではない。挿絵を描いたE・H・シェパードが手本にしたのは、自分の息子グレアムが持っていたテディベア、「グロウラー」だった。

    つまり、「プーさんのモデルは何か」という問いには、答えが三つある。名前はロンドン動物園のウィニーと白鳥から。持ち主と性格はクリストファー・ロビンのぬいぐるみから。絵の姿はシェパードの息子のクマから。そのうち生きていたのは、ウィニーだけである。

    1934年5月12日、ウィニーは歯をすべて失って死んだ——そして外された銘板

    名前は世界中に広まり、名前の持ち主のことは忘れられた

    ウィニーは1934年5月12日、ロンドン動物園で死んだ。およそ20歳だった。

    死後、頭骨は王立外科医師会の歯科博物館(オドントロジカル・ミュージアム)の学芸員で歯科医のサー・フランク・コリヤーの手に渡った。コリヤーは動物の歯の変異や病気を研究しており、1936年に出版した動物の歯の病気についての著書に、ウィニーの症例を記録している。王立外科医師会の記述によれば、ウィニーは慢性の歯周炎を患っていて、死ぬまでに歯をすべて失っていた。練乳が大好物だったと伝えられ、見物客からもらう甘いものとの関係が指摘されている。この頭骨は2015年11月、同会のハンテリアン博物館で初めて一般に公開された。

    ハリー・コールボーンは1947年9月24日、ウィニペグで亡くなった。60歳だった。

    ここからしばらく、話の筋が途切れる。『クマのプーさん』は世界中で翻訳され、1960年代にはディズニーのアニメにもなった。だがその「ウィニー」がカナダの町の名前であることも、20ドルで子グマを買った獣医がいたことも、知られなくなっていった。

    1977年、コールボーンの息子フレッドが、父のクマが暮らし、死んだ場所を見るためにウィニペグからロンドン動物園を訪れた。マニトバ歴史協会の誌面に載った論考によれば、フレッドがそこで見たのは、父の寄贈をたたえた銘板が外されていたこと、そして動物園が、ウィニーは「プリンセス・パトリシア・カナダ軽歩兵連隊のマスコットだった」と説明していたことだった。父の名前も、部隊の名前も消えていたのである。

    フレッドは父の戦中日記と手紙を調べ直し、つながりを証明する材料を揃えた。1987年、彼は地元紙『ウィニペグ・フリー・プレス』とCBC(カナダ放送協会)の取材に応じる。多くのカナダ人は、ここで世界一有名なクマの名前が自分たちの町から来ていることを知った。

    その間の1981年、ロンドン動物園には彫刻家ローン・マッキーンによる子グマのウィニーのブロンズ像が据えられている。除幕したのは、61歳になっていたクリストファー・ミルンだった。台座の言葉はこうである。

    彼女は「ウィニー・ザ・プー」に名前を与え、A・A・ミルンとアーネスト・シェパードが「ウィニー・ザ・プー」を世界に与えた。

    そこから先、三つの「故郷」が次々に名乗りを上げた。1992年8月6日、ウィニペグのアシニボイン公園に、ウィリアム・エップ作のコールボーンとウィニーの像が建つ。同じ1992年、ホワイトリバーには高さ14フィート(約4.3メートル)のウィニーの像が建った。マニトバ歴史協会の論考は、このとき町が「ディズニーの弁護士ともめた」ことを記録している。1996年にはカナダ郵便が「ウィニーとコールボーン中尉、ホワイトリバー、1914年」の切手を出した。1999年5月30日には、ロンドン動物園に、コールボーンとその部隊の従軍をたたえる銘板が新たに加わった。

    2015年には、コールボーンのひ孫リンジー・マティックが、曾祖父とクマの話を絵本『Finding Winnie』にまとめた。この絵本は翌2016年、アメリカで最も権威ある絵本賞であるコールデコット賞を受けている。

    半世紀のあいだ外されていた名前を、息子とひ孫が取り戻したことになる。

    ニューヨークにいる本物のプーと、刊行100年目の2026年

    「エルギン・マーブルを返すなら、プーのことも考えましょう」

    クリストファー・ロビンが持っていたぬいぐるみ。後列左からカンガ、プー、イーヨー、前列にトラー(左)とコブタ(右)。2006年、当時の所蔵先だったニューヨーク公共図書館ドネル分館で撮影。パブリックドメイン。
    クリストファー・ロビンが持っていたぬいぐるみ。後列左からカンガ、プー、イーヨー、前列にトラー(左)とコブタ(右)。2006年、当時の所蔵先だったニューヨーク公共図書館ドネル分館で撮影。パブリックドメイン。

    最後に、もう一頭の「本物」の行方を書いておく。クリストファー・ロビンのぬいぐるみ、エドワード・ベアのほうである。

    プーと、コブタ(ピグレット)、イーヨー、カンガ、トラー(ティガー)のぬいぐるみは、1947年、ミルンのアメリカでの版元ダットン社の手に渡り、アメリカ各地を巡回する旅に出た。そのまま版元のもとにとどまり、1987年にニューヨーク公共図書館に寄贈される。カンガの子のルーだけは、1930年代にイングランドのリンゴ園でなくなっていて、この一行に加わっていない。

    1998年2月、英国労働党の下院議員グウィネス・ダニウッディが、このぬいぐるみたちを英国に返すべきだと言いだした。

    最近見てきたが、とても不幸せそうな顔をしていた。ギリシャ人がエルギン・マーブルを返してほしいのと同じように、私たちもウィニー・ザ・プーとそのすばらしい仲間たちを返してほしい。

    エルギン・マーブルは、19世紀初めにアテネのパルテノン神殿から英国に運ばれ、いまも大英博物館にある彫刻群である。ギリシャが長年返還を求めている。ニューヨーク公共図書館の副主任司書ダイアン・パワーズの返答は、その比喩をそのまま打ち返すものだった。「英国がエルギン・マーブルをギリシャに返すなら、プーを返すことも考えましょう」。

    2月5日には、ニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニがわざわざ図書館の児童室を訪れ、「何百万もの移民と同じように、ウィニー・ザ・プーと仲間たちも、よりよい暮らしを築くためにアメリカに、ニューヨークに来たのです」と述べた。市長室の発表文には、プーの談話まで載っている。「ニューヨークでとても、とても幸せに暮らしていると、英国とアメリカのみなさんに知ってほしいのです」。

    それから28年後の2026年4月29日、国王チャールズ3世とともにアメリカを国賓訪問していたカミラ王妃が、ニューヨーク公共図書館のプーたちを訪ねた。王妃が持参したのは、英国のテディベア・メーカー、メリーソート社が作ったルーの複製だった。90年ほど欠けていた一匹が、英国から届けられたことになる。

    そして2026年10月14日、『クマのプーさん』は刊行から100年を迎える。ミルンは1956年1月31日に亡くなっているので、英国ではミルンの文章の著作権が2026年末で切れ、2027年1月1日から誰でも自由に使えるようになる。ただしシェパードの挿絵は、彼が亡くなった1976年から70年後の2046年末まで保護が続く。

    ロンドンでこの話の痕跡をたどるなら、行き先はリージェンツ・パークのロンドン動物園になる。ウィニーが暮らしたのは、1914年に完成したばかりの人工の岩山マッピン・テラスで、その建物はいまも園内に残っている。園内には1981年の子グマの像と、コールボーンとウィニーの像もある。

    1914年12月、コールボーンは写真の裏に「いつか私と一緒にカナダへ帰る」と書いた。ウィニーはカナダには帰らず、ロンドンの檻の中で20年を生きて死んだ。帰ったのは名前のほうだった。2012年、ウィニペグのアシニボイン公園に「ウィニー・ザ・プー・ギャラリー」が開き、コールボーンの戦中日記や手紙、獣医の道具が並べられた。

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