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    2026年10月18日文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 5件

    歴史・事件ロンドンの街王室・制度

    連載「グローブ座物語」全 3 回 の第 3 回

    取り壊されたグローブ座は、ビール醸造所の下に消えた——1909年の銘板に、学者は「場所が違う」と言った 第3回

    1642年に芝居を禁じられたグローブ座は、借地の期限が切れたあと取り壊され、跡には家が建った。最後にその姿を描いた版画は、劇場の名札を取り違えていた。やがて跡地はビール醸造所にのみ込まれ、1909年に醸造所の壁へ「グローブ座ここにありき」の銘板が掛かると、同じ年、アメリカの学者が「劇場は道の向かい側だ」と反論した。ロンドンでいちばん有名な劇場は、なぜ場所さえ分からなくなったのか。連載「グローブ座物語」の第3回。

    取り壊されたグローブ座は、ビール醸造所の下に消えた——1909年の銘板に、学者は「場所が違う」と言った 第3回

    画像: Wenceslaus Hollar / Public domain, via Wikimedia Commons

    前回は、1613年に焼けたグローブ座が瓦屋根で建て直され、1642年、内戦の始まりとともに議会の命令で芝居を止められたところまでを書いた。

    第3回の問いは、ロンドンでいちばん有名な劇場の場所が、なぜ分からなくなったのか。劇場が取り壊されたあと、跡地は家に、家は醸造所に変わった。手がかりは古い証書と、名札を取り違えた一枚の版画だけになった。

    この回の流れ

    • 1642〜1655年 芝居を禁じられ、借地も切れ、劇場は取り壊される
    • 1647年 劇場を描いた最後の版画が、名札を取り違えて出る
    • 1706〜1834年 跡地は家並みから醸造所の敷地に変わる
    • 1909年 醸造所の壁に銘板が掛かり、同じ年に場所への異論が出る
    • 1949年 アメリカ人の俳優が、その銘板を見に来る

    芝居を打てない劇場

    1642〜1655年、取り壊し

    1642年9月の命令で、グローブ座は芝居を打てなくなった。建物は残ったが、そこから入るはずの木戸銭は途絶えた。

    もうひとつの期限も迫っていた。初代のときに結んだ土地の借地契約は、その後延長を重ねてきたが、それも1644年のクリスマスで切れる。芝居を打てない劇場のために、借地を延ばす理由はもうなかった。

    議会は、さらに踏み込んでいく。1648年2月11日の条例は、役者を浮浪者と同じ扱いにした。国王の許可を持っていても関係ない。芝居をしたと証明された役者は、市の立つ町で人前で鞭打たれる。芝居を見た客は、1回ごとに5シリングの罰金を払う。治安判事には、劇場の桟敷も客席も箱席も、取り壊す権限が与えられた。芝居を一時的に休ませるのではなく、劇場という場所そのものをなくす方向へ、法律は進んでいた。

    こうした中で、グローブ座がいつ、誰の手で取り壊されたのかは、はっきりしない。日付を記した確かな記録が残っていないのだ。確かなのは、1655年の結婚の契約書に、かつてグローブ座が建っていた場所に建った「家屋」が出てくることである。遅くともこのときまでに、劇場は跡形もなくなり、その土地には人が住んでいた。

    取り壊しの日付すら残っていない。劇場の行方をたどる糸は、ここから細っていく。

    最後の肖像画は、名札を取り違えていた

    1647年、ホラーの眺望図

    取り壊される前の2代目の姿を、いちばんよく伝えるのは、ボヘミア出身の版画家ヴェンツェル・ホラーが描いたロンドンの大眺望図である。テムズ川の南岸から、川向こうの市街を見渡した横長の版画で、手前にはバンクサイドの町並みが描き込まれている。

    刊行は1647年、仕上げたのはアントワープだが、もとになった素描は、ホラーがロンドンを離れた1644年より前に描かれている。グローブ座が、まだ建っていたころの姿だ。

    ところがこの版画では、ふたつの建物の名前が入れ替わっている。2代目グローブ座には「熊いじめ」、すぐ隣の、熊いじめの見世物にも使われた別の小屋には「グローブ座」と書かれているのだ。この記事の冒頭に載せたのが、その部分である。旗を立てて「The Globe」と書かれた建物はグローブ座ではない。手前の左の、「Beere bayting(熊いじめ)」と書かれた円い建物のほうが、2代目のグローブ座だ。

    ホラーが参考にした、30年ほど前の別の画家の眺望図の名札を写し間違えたとも、刷る段階で取り違えられたとも言われる。いずれにせよ、劇場の最後の肖像画は、名札を取り違えたまま世に出た。

    劇場はなくなり、取り壊しの日付は残らず、その姿を伝える絵は名札を間違えている。グローブ座の場所を確かめる手がかりは、この時点でもう心もとないものになっていた。

    劇場の跡は、ビール醸造所にのみ込まれた

    1706〜1834年

    その後、劇場の記憶は、土地の証書の決まり文句の中にだけ残った。1706年の証書には、「かつてグローブと呼ばれた芝居小屋の建っていたところ」に建つ家屋が記されている。

    1777年、この一帯の土地を買ったのが、すぐ近くでアンカー醸造所を営んでいたヘンリー・スレイルだった。醸造所を広げるためである。スレイルは国会議員でもあり、英語辞典の編纂者サミュエル・ジョンソンの親友として知られる。ジョンソンはスレイル夫妻の家に入り浸り、スレイルが1781年に死ぬと、遺言の執行人のひとりになった。

    醸造所は売られることになった。ジョンソンの伝記作家ボズウェルは、そのときの逸話を、正確ではないかもしれないが、いかにも彼らしい話として書き留めている。ジョンソンは収税吏のようにボタン穴にインク壺とペンを差して忙しく歩き回り、売りに出す財産の値打ちを聞かれると、こう答えた。

    我々が売ろうとしているのは、釜や大樽の寄せ集めではない。欲深い者が夢に見るのをも超えて金持ちになる、その見込みを売るのだ。

    醸造所を買ったのは、スレイルの番頭と、銀行家の一族バークレー家だった。醸造所はバークレー・パーキンズ社として大きくなり、グローブ座の跡地は、その敷地の中に沈んでいく。

    1834年には、醸造所の一角、サザーク・ブリッジ・ロードに面して、8軒続きの立派な連続住宅が建った。アンカー・テラスという。のちに醸造所の本社として使われ、いまは英国の指定建造物(2級)になっている。この建物の名前は、最終回でもう一度出てくる。

    家が建ち、醸造所が広がり、その上にまた建物が載る。劇場の跡は、何層にも覆われていった。

    銘板と、「道の向かい側だ」と言った学者

    1909年〜1920年代、場所の論争

    20世紀の初め、シェイクスピアの劇場がどこに建っていたのかを、地面の上で示すものは何もなかった。手がかりは、古い証書や訴訟記録に出てくる「メイデン・レーン」という小道の名前と、そこからの位置関係くらいである。メイデン・レーンは、いまのパーク・ストリートにあたる。劇場がこの通りの南にあったのか北にあったのかが、争点になった。

    1909年10月、醸造所のパーク・ストリート側、通りの南の壁に、青銅の銘板が掛けられた。17世紀のバンクサイドの町並みを浮き彫りにし、シェイクスピアの胸像を円い枠に収めた立派なものだ。文字はこうある。

    シェイクスピアのグローブ座、ここにありき。1598年〜1613年。

    掛けたのは、ロンドンのシェイクスピア朗読協会と、イギリスとインドの寄付者たち。除幕したのは、協会の会長で、当時のロンドンを代表する俳優兼劇場主のハーバート・ビアボーム・トリーだった。

    年号に注意してほしい。始まりの1598年は、第1回で書いた、ショーディッチの劇場が解体された年。終わりの1613年は、第2回の火事の年である。銘板は、瓦屋根で建て直され、30年近く芝居を打った2代目のことを数えていない。

    場所のほうは、もっと揉めた。同じ1909年、アメリカの学者チャールズ・ウォレスが、英紙タイムズに新しい文書を発表する。第1回で引いた訴訟の証言録の多くを、ロンドンの公文書館で掘り出した人物だ。ウォレスは、グローブ座とブラックフライアーズの劇場の1599年から1616年までの来歴をたどる文書から、劇場は醸造所の側ではなく、パーク・ストリートの向かい側、つまり通りの北、テムズ川寄りにあったと主張した。

    銘板は、掛けたその年に、場所が違うと言われたことになる。論争はその後も続き、1920年代に入っても、南だという研究と北だという研究が相次いで出た。文書をいくら読み比べても、決着はつかなかった。決着をつけるには、地面を掘るしかなかった。

    1949年、煤けた銘板を見に来たアメリカ人

    1919〜1949年、サム・ワナメーカー

    40年後、この銘板の前に立ったひとりのアメリカ人がいた。

    サム・ワナメーカーは1919年6月14日、シカゴで生まれた。10代の半ば、彼はシカゴで開かれた万国博覧会を見に行き、イギリスが出展した作り物のグローブ座に心を奪われる。1936年には、オハイオ州クリーブランドの博覧会に建てられた、やはり作り物のグローブ座の舞台に、役者として立った。アメリカでは当時、グローブ座の複製を建てることが、ちょっとした流行になっていた。

    1949年、俳優になっていたワナメーカーは、イギリスで映画を撮ることになり、初めてロンドンに来た。仕事の合間に、彼は本物のグローブ座の跡を探しに、テムズ川の南岸へ出かけた。のちの宣誓供述書に、そのときの印象をこう書いている。

    驚いたことに、そこは実のところ、荒れ果てて用済みになった、川べりの工業地帯だった。

    1993年に下院でこの話を紹介した議員の言葉では、劇場の跡を示していたのは、醸造所の壁の煤けた銘板が1枚だけだった。1909年に掛けられ、場所が違うと言われ続けてきた、あの銘板である。ワナメーカーは驚き、腹を立て、ここにグローブ座を建て直すべきだと思い定めた、と議員は語っている。

    ここで第3回の問いに戻る。劇場の場所が分からなくなったのは、取り壊しの記録が残らず、最後の絵が名札を間違え、跡地が家と醸造所の建物に何重にも覆われ、文書の読み方が学者のあいだで割れたからだった。銘板は正しかったのか。劇場はどんな形をしていたのか。1949年の時点では、まだ誰にも分からなかった。

    ――次回(最終回)。ワナメーカーは、ここから44年をかけて劇場を建て直そうとする。その工事が本格的に始まった年に、本物のグローブ座が、ある駐車場の下から出てくる。

    参考資料

    1. 議会「すべての芝居と幕間劇を全面的に禁じ廃止する条例」(1648年2月11日)原典ブリティッシュ・ヒストリー・オンライン(『空位期の法令集』)1648british-history.ac.uk(新しいタブで開きます)
    2. ボズウェル『サミュエル・ジョンソン伝』(スレイルの醸造所の売却の逸話)原典プロジェクト・グーテンベルク1791gutenberg.org(新しいタブで開きます)
    3. 庶民院議事録「グローブ座計画」原典英国議会(Hansard)1993api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    4. サム・ワナメーカーとは誰だったのか公式シェイクスピアズ・グローブ2018shakespearesglobe.com(新しいタブで開きます)
    5. グローブ座の記録年表(借地の期限、跡地の証書、醸造所による買い取り)研究トロント大学「英国初期演劇記録(REED)」library2.utm.utoronto.ca(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    連載「グローブ座物語」全 3 回

    1. 1グローブ座の材木は1598年、地主の留守に運び出された——訴状には「剣と斧を持った12人」 第1回
    2. 2グローブ座は1613年、祝砲の火で焼け落ちた——ズボンの火を瓶のビールで消した男と、議会の上演禁止令 第2回
    3. 3取り壊されたグローブ座は、ビール醸造所の下に消えた——1909年の銘板に、学者は「場所が違う」と言った 第3回(この記事)

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