2026年9月6日
コナン・ドイルが1887年に「221B ベーカー街」と書いたとき、その番地はロンドンに存在しなかった。ベーカー街の番地は85までしかなく、221は街路の終わりのはるか先だった。ところが1930年に街路が北へ延び、番地が虚構に追いついてしまう。そこに建った銀行は、世界中から届く手紙に返事を書くため「シャーロック・ホームズ秘書」という職を70年間置き続けた。

存在しない住所に手紙を出す人は、いつの時代にもいる。普通は宛先不明で戻ってくる。だがベーカー街221Bだけは違った。届いてしまったのである。しかも70年間、律儀に返事が来た。これは、ひとつの嘘の番地が現実の住所になり、その所有権をめぐって銀行と博物館が15年争った話である。
85で終わる街路と、消えた43番地
アーサー・コナン・ドイルが『緋色の研究』を『ビートンズ・クリスマス・アニュアル』誌に発表したのは1887年である。ワトスンとホームズは共同で下宿を借りる。住所は「221B ベーカー街」。以来この9文字は、世界でもっとも有名な架空の住所になった。
ところが当時のロンドンには、その番地は存在しなかった。
1880年代のベーカー街は、ひと続きの通りですらない。南のポートマン・スクエアからパディントン・ストリートまでが「ベーカー街」、そこからメリルボーン・ロードまでが「ヨーク・プレイス」、メリルボーン・ロードの北側は「アッパー・ベーカー街」と、三つの別々の名前を持つ通りが縦に並んでいた。地図の上では一本に見えるが、住所としては別物である。
そのうち「ベーカー街」と呼ばれる区間の番地の振り方は、いまの感覚からするとかなり変わっている。ポートマン・スクエア側の東側を1番から北へ数え上げてパディントン・ストリートで42番、そこで通りを渡って西側を44番から南へ数え下りて、ポートマン・スクエアに戻ったところが85番。つまり番地は通りを一周する形で振られていた。理由は誰にもわからないが、43番地だけがどこにも存在しない。
最大が85番。ドイルが書いた221は、その2.6倍である。街路の端よりもさらに先の、空中にあたる数字だった。
これはうっかりではない。実在の番地を小説に書けば、そこに住む本物の家に迷惑がかかる。当時の作家が「存在しえない大きな番号」を選ぶのは、電話番号を555から始めるハリウッドの慣行と同じ、ごく実務的な予防策だった。ドイルは安全な数字を選んだつもりだったのである。
そして、その予防策は40年後に無効になる。
番地が250番台まで伸びた年、ドイルは死んだ
ロンドンの街路名は、行政の都合で統合されることがある。ベーカー街もそうだった。
1921年、ヨーク・プレイスがベーカー街に併合される。続いて1930年、メリルボーン・ロードの北側にあったアッパー・ベーカー街も併合された。三本だった通りが一本になり、番地が振り直される。北を向いて奇数が西側、偶数が東側。ポートマン・スクエアからリージェンツ・パークまでの一直線になったベーカー街の番地は、最大で250番台に達した。
この瞬間、221 Baker Street という住所がロンドンに誕生した。ホームズが下宿を借りた設定の1881年から、およそ半世紀後のことである。
年号を並べると、ひとつ落ち着かない事実に気づく。コナン・ドイルが没したのは1930年7月7日。アッパー・ベーカー街がベーカー街に呑み込まれ、221番地が実在の住所になったのも、同じ1930年である。どちらが先だったかを示す日付は残っていないが、少なくとも彼は、自分の書いた番地が現実の地図に載るのを見届けないまま死んだか、見届けても何も言わないまま死んだ。
そして1932年、新しく生まれたその番地の上に、アビー・ロード・ビルディング・ソサエティ(のちのアビー・ナショナル)がアール・デコ様式の本社ビルを建てる。住所は219〜229 ベーカー街。221番地は、一社の建物の壁の内側にすっぽり収まってしまった。
架空の住所が実在の住所になり、そこに金融機関が引っ越してきた。あとは、世界中の郵便がそこを目指して動きはじめるだけだった。
月30通から始まり、70年つづいた返信
入居してほどなく、アビー・ナショナルの郵便物にホームズ宛ての手紙が混じりはじめる。当初は月に30通ほど。1985年の時点では年間700通程度が届いていた。差出人は世界中、言語も多岐にわたる。
銀行は広報部門に、返信を専門に担当する常勤職員を置いた。肩書きは冗談ではなく「Secretary to Sherlock Holmes(シャーロック・ホームズ秘書)」である。銀行の組織図に、実在しない人物の秘書という職位が70年間存在し続けた。
標準的な返信文はこうだった——ホームズ氏は現在引退し、サセックスで養蜂に従事しております。ご関心をお寄せいただき感謝いたします。
この返事は、担当者が思いつきで書いたものではない。原作に忠実な事実の報告である。1904年発表の『第二の汚点』で、ワトスンはホームズがすでにロンドンを引退し、サセックス・ダウンズで研究と養蜂をしていると書いている。1917年の『最後の挨拶』にはその著書の題名まで出てくる。『実用養蜂便覧——女王蜂の隔離に関する若干の観察を付す』。
つまりメリルボーンの銀行員は、1904年の短編に書かれた記述を、公式な近況報告として世界中に発送し続けていたことになる。
返信は型どおりではあっても、芸がなかったわけではない。ある手紙が「ホームズ氏が編纂された、葉巻と紙巻きの灰に関するモノグラフを一部いただけないか」と頼んできたとき、銀行はこう答えている——「あいにくホームズ氏は葉巻に関するモノグラフを紛失しており、ご希望に沿えません」。これも原作を踏まえた回答で、ホームズは140種の煙草の灰を見分けるモノグラフを書いたことになっている。紛失した、という一行だけが銀行のオリジナルである。
1985年、ペンギン・ブックスがこの郵便物の中から選んだ書簡集『Letters to Sherlock Holmes』を刊行した。編者はリチャード・ランセリン・グリーン。収録された手紙には、事件の相談、写真やサインの依頼、そして子どもたちの真剣な質問が並ぶ。1954年の一通は、父に『まだらの紐』を読んでもらったこと、姉妹とホームズごっこをしてダックスフントを猟犬に見立てて遊んだこと、いつかヨーロッパへ行ったらベーカー街のあなたの家を見たいことを、順番に報告している。
宛先の人物が実在しないことは、書き手の多くが知っていた。それでも彼らは切手を貼った。
239番地に立つ「221b」と、イングリッシュ・ヘリテッジが決して貼らないプレート
1990年、ベーカー街の北寄りにシャーロック・ホームズ博物館が開館する。建物は1815年築のジョージ王朝様式のタウンハウス。1860年から1936年までは実際に下宿屋として使われていた建物で、現在はグレードII指定の登録建造物である。原作の下宿を再現するには、これ以上ない物件だった。
ひとつだけ問題があった。番地である。
この建物の実際の番地は239。物理的には237番地と241番地のあいだに建っている。221とは18軒ぶんずれている。
そこでウェストミンスター区が、この建物に「221b」を掲げることを特別に許可した。1989年10月に下りた開発許可には番地の話は含まれておらず、番号の使用は開館にあわせて別に認められている。ロンドンの一区画に、実在の番地と、区が公認した虚構の番地が同時に存在することになった。
1990年3月27日、玄関の脇に青いプラークが掲げられる。除幕したのは当時のウェストミンスター区議会リーダー、シャーリー・ポーターだった。プラークには「シャーロック・ホームズ 諮問探偵 1881–1904」とある。この1904という終わりの年は、『第二の汚点』でホームズがサセックスへ引退した年にあたる。銀行が手紙で書き続けていた話と、博物館が壁に刻んだ話は、同じ短編を典拠にしている。
ただし、このプラークはイングリッシュ・ヘリテッジの公式なブルー・プラークではない。1866年に王立技芸協会が始め、1901年にロンドン州議会、のちに大ロンドン議会、1986年にイングリッシュ・ヘリテッジへと引き継がれたあの制度には、曲げられない条件がある——顕彰される人物が実在すること、そして没後20年を経ていること。ホームズは最初の条件で落ちる。博物館のプラークは私製である。
本物のブルー・プラークのほうは、ロンドンの別の場所にある。1973年に大ロンドン議会が掲げた「アーサー・コナン・ドイル」のプレートで、場所はサウス・ノーウッドのテニスン・ロード12番地。ドイルが1891年から94年まで実際に暮らした家で、ホームズをライヘンバッハの滝に突き落とした『最後の事件』(1893年)を書いたのも、この住所にいた時期にあたる。
作者の家には実在の番地に本物のプレートがあり、作中人物の家には虚構の番地に私製のプレートがある。ロンドンは両方を認めた。
15年の郵便戦争と、2002年の決着
博物館の構想に、はっきり反対した人物がいる。ドイルの末娘、ジーン・コナン・ドイル(1912–1997)である。
彼女はWRAF(女性王立空軍)に30年勤め、第二次大戦中はドイツ軍の爆撃機・戦闘機と管制のあいだの無線傍受と翻訳に携わり、最終的に女性王立空軍の最高位である航空司令官(Air Commandant)まで昇進した。兄エイドリアンが1970年に没したのち、父の著作権を管理する遺言執行者となる。
そのジーンが博物館に反対した理由は、営利でも権利でもなかった。ホームズが実在の人物だという誤解を、多くの人の頭のなかで補強してしまうから、というものである。館内に父を記念する一室を設けたいという申し出も、彼女は断った。
この拒絶は、ドイル自身の晩年をなぞっている。彼は1893年にホームズを殺し、読者の抗議に押されて生き返らせた作家であり、自分の創作物が実在の人間として扱われることに、ずっと居心地の悪さを抱えていた。娘は父が最後まで振り払えなかったものを、遺産管理人として振り払おうとしたのだった。
そして、番地をめぐる争いが始まる。
1990年に博物館が「221b」を掲げてから、アビー・ナショナルとのあいだで、ホームズ宛ての郵便物をどちらが受け取るかの対立が15年近く続いた。博物館側の主張は、自分たちのほうが問い合わせに応える設備も知識も整っている、というものだった。銀行側は、70年近く続けてきた偶発的な役目を手放したくなかった。実在しない人物に届く手紙の帰属を、金融機関と博物館が本気で争ったのである。
決着は、争いではなく引っ越しでついた。2002年、アビー・ナショナルは70年在籍したベーカー街の本社を離れ、近くのトライトン・スクエアへ移転する。宛先の建物から住人がいなくなり、ロイヤル・メールは221B宛ての郵便を博物館へ配達するようになった。
残された建物の後日談も淡々としている。旧本社は2003年12月に1,820万ポンドで取得され、1年以内に138戸の住宅への転用許可が下りた。塔と正面のファサードを残し、背後を2006年から08年にかけて建て替えて、いまは集合住宅になっている。
「シャーロック・ホームズ秘書」という職は、こうして70年で消えた。手紙のほうは、消えていない。
2004年3月27日、リチャード・ランセリン・グリーン
1985年に銀行の郵便物を書簡集にまとめたリチャード・ランセリン・グリーン(1953–2004)は、ただの編者ではなかった。世界随一のコナン・ドイル研究者と目された人物である。
7歳のときから資料を集めはじめ、初版本、ポスター、書簡、雑多な印刷物にいたるまで、個人蔵としては世界最大のドイル関連コレクションを築いた。彼の死後、その一切はポーツマス市に遺贈され、いまもポーツマス市立博物館に収蔵されている(コレクションのパトロンはスティーヴン・フライが務めている)。ドイルが医師として開業し、『緋色の研究』を書いた街である。
2004年3月27日、グリーンはロンドンの自宅で死亡しているのを妹に発見された。50歳だった。ベッドにうつ伏せに横たわり、靴紐で絞められていた。靴紐は木のスプーンの柄をねじ込んで締め上げられていた。
検死審問の結論は「オープン・ヴァーディクト」——自殺とも他殺とも断定しない、という評決である。彼が死の直前、ドイルの遺品の競売をめぐって何かに追い詰められていたこと、誰かに尾行されていると周囲に語っていたことは記録に残っているが、それが何であったかは確定しなかった。この経緯は、デイヴィッド・グラン(のちに『花殺し月の殺人』などで知られる書き手)が2004年12月13日号の『ザ・ニューヨーカー』に「Mysterious Circumstances」として詳報している。
生涯を、世界最高の探偵に宛てて書かれた手紙の整理に費やした男が、最後に、誰にも解けない一件を残した。
手紙はいまも届く。宛先は221b ベーカー街。実際には237番地と241番地のあいだに立つ、1815年に建てられた家である。玄関の階段は17段ある——『ボヘミアの醜聞』でホームズがワトスンに「君は見ているが、観察していない。あの階段は17段だ」と言った、あの段数にそろえてある。
存在しない番地に、実在の家が用意され、実在の郵便が届き、実在の人間が返事を書く。140年近く前にサウスシーの開業医が思いついた「安全な数字」は、いまや区が公認し、郵便公社が配達し、世界中から人が写真を撮りに来る住所になっている。
ドイルの娘が心配したとおりのことが、そのまま起きたわけである。
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