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    3. 「サリズベリーの人間が買うべきだと思った」——1915年、ストーンヘンジは競売にかけられ、椅子を買いに来た男が6,600ポンドで落札した

    2026年8月27日

    人物歴史・事件王室・制度

    「サリズベリーの人間が買うべきだと思った」——1915年、ストーンヘンジは競売にかけられ、椅子を買いに来た男が6,600ポンドで落札した

    1915年9月21日、サリズベリーの劇場で「15番」と読み上げられたのはストーンヘンジだった。カタログには「隣接するダウンランド約30エーカー付き」「入場料の純収入は年平均360ポンド」と、まるで小さな商売のように書かれていた。落札したのは、数キロ先の村の鞍職人の息子。彼は3年後、その石をただで国に譲り渡す。ただし4つの条件をつけて。

    「サリズベリーの人間が買うべきだと思った」——1915年、ストーンヘンジは競売にかけられ、椅子を買いに来た男が6,600ポンドで落札した

    世界遺産を個人が所有していた時代がある。しかも、それが売りに出されたとき、値段はロンドンの家一軒ぶんにも届かなかった。石そのものより、その周りの景色のほうがはるかに高くついたという話でもある。

    「15番、ストーンヘンジ」

    1915年9月21日、サリズベリー、パレス劇場

    競売人の名はサー・ハワード・フランク。ロンドンの大手不動産競売会社ナイト・フランク・アンド・ラトリーの当主で、この日はウィルトシャーの大地主アントロバス家の所領を切り売りするために、サリズベリーのパレス劇場に立っていた。客席は買い手と見物人で埋まっていたと当時の新聞は伝えている。

    読み上げられた15番のロットは、こう書かれていた。

    Stonehenge, together with about 30 acres 2 rods 37 perches of the adjoining downland. (ストーンヘンジ、および隣接するダウンランド約30エーカー2ロッド37パーチ)

    約12ヘクタール。東京ドーム2個半ほどの草地に、あの石が立っている。カタログはさらに事務的にこう続けていた——見学には料金を徴収しており、その純収入は年平均360ポンドである。1913年古代記念物法の保護下にある、とも書き添えてあった。石は考古学の対象であると同時に、年商360ポンドの物件として売りに出されたのである。

    売買条件には、買主が「売主側弁護士の満足するかたちで西側境界にフェンスを設置し、維持すること」という項目もあった。世界でもっとも有名な先史時代の遺構を買うということは、つまり柵の管理を引き受けるということでもあった。

    フランクは5,000ポンドで口を開けた。誰も手を挙げない。

    Surely someone will offer me £5,000. (まさか、5,000ポンドも出ないということはないでしょう)

    ようやく手が挙がり、そこから2人の紳士が100ポンド刻みで競り上げていく。6,000ポンドで、また止まった。フランクはこう言った。

    Gentlemen, it is impossible to value Stonehenge. Surely £6,000 is poor bidding, but if no one bids me any more, I shall set it at this price. (皆さん、ストーンヘンジに値段をつけることなど不可能です。6,000ポンドとは情けない額だ。しかし、それ以上出ないというのなら、この値で落とします)

    「6,200ポンド、これで最後」と宣言してから、なお何度か手が挙がり、6,600ポンドで槌が鋭く落ちた。落札者として記録に残ったのは、サリズベリー郊外ベマトンの C・H・E・チャブという名の男だった。

    現在の貨幣価値に直すと、およそ58万ポンド。日本円で1億円強。ロンドンの平均的な住宅一軒ぶんに届かない。しかも年360ポンドの入場料収入がついてくるのだから、単純計算で18年ほどで元が取れる。会場に「意外だ」という空気が流れたと記録にあるのは、値がつきすぎたからではない。つかなさすぎたからである。

    12万5千ポンドでは要らない、と国は言っていた

    断り、柵を立て、裁判に勝った16年間

    なぜ、こんな値段になったのか。それを理解するには、16年さかのぼる必要がある。

    ストーンヘンジは19世紀初頭からエイムズベリー・アビーの領主アントロバス家のものだった。1899年に3代目準男爵が没し、跡を継いだ4代目サー・エドマンド・アントロバスは、周囲1,300エーカーの土地込みで12万5千ポンドで国に買い取ってほしいと持ちかけた。政府は断った。

    このとき『ザ・スペクテイター』誌は「A Reasonable Price for Stonehenge(ストーンヘンジの妥当な価格)」と題した記事で、2万5千ポンドが上限だろうと計算してみせている。土地はエーカーあたり10ポンド——なにしろ「農業的観点からすればおそらくイングランド最悪の土地」なのだから、というのがその論拠だった。国も世論も、この石にそれほどの値打ちを認めていなかった。

    事態を動かしたのは石のほうだった。1900年の大晦日、外周サーセン・サークルの立石22番が倒れ、支えていた楣石(まぐさいし)が真っ二つに折れた。新聞は遺構の崩壊寸前ぶりを書き立てた。翌1901年、アントロバスは有刺鉄線の柵で石を囲い、入場料として1人1シリングを取りはじめた。警備員を2人雇う費用が要る、というのが言い分である。

    国民は激怒した。ストーンヘンジは何世紀ものあいだ、誰でも歩いて近づける野原の石だった。写真雑誌は有刺鉄線がどれだけ構図を邪魔するかを論じ、考古学者たちは景観の破壊だと抗議した。コモンズ保存協会(Commons Preservation Society)が資金を集め、法務長官がその訴えを引き受けて、事件は高等法院に持ち込まれる。

    Attorney-General v Antrobus [1905] 2 Ch 188。結果は原告の完敗だった。ファーウェル判事は、公衆が何百年そこを歩いてきたとしても、それによって通行権が生じることはないと述べた。判決を今も英国法の教科書に残しているのは、次の一節である。

    the jus spatiandi ... was not known to our law as a possible subject-matter of prescription (そぞろ歩く権利は、時効取得の対象たりうるものとして英国法に知られていない)

    道として通り抜ける権利は時効で取得できる。しかし「そのあたりをぶらぶらする権利」は、法が権利として認識していない——だから何年続けようが権利にならない。ストーンヘンジは私有地であり、柵も料金も適法だと確定した。

    そして1914年10月24日、イーペル近郊で近衛擲弾兵連隊の中尉エドマンド・アントロバス——4代目の一人息子——が戦死する。父は翌1915年2月11日に没した。悲嘆のためだったと伝えられている。直系の相続人を失い、相続税(death duties)を課された所領は、叔父の手で分割され、競売にかけられた。

    その一片が、15番のロットだった。1899年に12万5千ポンドの値をつけた家が、16年後に6,600ポンドで石を手放したのである。

    鞍職人の息子が手を挙げた

    セシル・チャブという人物

    セシル・ハーバート・エドワード・チャブは1876年4月14日、ウィルトシャーの村シュルートンに生まれた。ストーンヘンジから数キロ、歩いて行ける距離の村である。父アルフレッドは村の鞍・馬具職人だった。

    地元の学校からサリズベリーのビショップ・ウォーズワース・スクールに進み、14歳で生徒教師(student teacher)として働きながら学んだ。そこからケンブリッジのクライスツ・カレッジに入り、自然科学と法学の両方で第一級の成績を収めて卒業する。法廷弁護士(バリスター)になり、財を成した。

    1902年にメアリー・ベラ・アリス・フィンチと結婚。1905年に妻の伯父が没したのを機に、やがてフィシャートン・ハウス精神病院の経営を引き継ぐことになる。この病院はのちにヨーロッパ最大の私立精神科病院になった。チャブはサリズベリー市議も務め、治安判事(JP)でもあり、ショートホーン種の牛を育ててもいた。

    つまり1915年9月の彼は、村の馬具屋の息子から一代でウィルトシャーの名士になった、39歳の成功者である。6,600ポンドは、彼にとって払えない額ではなかった。

    有名なのは、彼が何を買いに劇場へ来たのかという話のほうだ。妻に言われて食堂の椅子を見にきた——というのが英国遺産(English Heritage)も紹介するいちばん流布した説である。ただし出典によってその品目はカーテンになり、単に「妻への贈り物」になる。細部が語り手ごとに揺れるのは、逸話が事実そのものではなく、事実の周りに育った物語であることのしるしだ。彼が椅子を買いに来たのかどうかは、確かめようがない。

    確かなのは、彼が自分の口で述べた動機のほうである。落札直後、地元紙にこう語っている。

    While I was in the room, I thought a Salisbury man ought to buy it, and that is how it was done. (その部屋にいるうちに、これはサリズベリーの人間が買うべきだと思った。そういうことです)

    投資でも収集でもない。その場にいたからという理由である。もっとも、まったくの衝動とも言い切れない。当時、外国人の手に渡るのではないかという懸念は現実に語られていた。石が海を越えて運ばれるという想像は、20世紀初頭の英国人にとって決して荒唐無稽ではなかったのである。

    3年35日でチャブは手放した

    しつこい老人と、4つの条件

    チャブがストーンヘンジを所有していたのは、1915年9月21日から1918年10月26日まで。3年と35日である。

    彼を動かしたのは、ジョージ・ショー=ルフェーヴル、初代エヴァースリー男爵という老人だった。1865年にコモンズ保存協会を創設した初代会長であり、1882年の古代記念物法を議会に通した立役者であり、そして1905年の対アントロバス訴訟を仕掛けた側の一人でもある。つまり、前の所有者を訴えた男が、次の所有者を口説きにかかったわけだ。

    80代のエヴァースリーは1916年に『タイムズ』紙へ投書し、ストーンヘンジを1913年古代記念物法の保護下に置くために国有化せよと訴え続けた。彼が生涯苛立ち続けたのは、遺構を守るための国家の権限が、私有財産の壁の前でいつも止まってしまうことだった。

    チャブは折れた。1918年、譲渡にあたって彼はこう書いている。

    I became the owner of it with a deep sense of pleasure ... it always has had an inexpressible charm for me ... [I] contemplated that it might remain a cherished possession of my family for years to come. ... but it has been pressed upon me that the nation would like to have it for its own. (私は深い喜びとともにその所有者となった。……そこには私にとって言葉にできない魅力がつねにあった。……いずれは我が家の大切な所有物として長く残るものと考えていた。……しかし、国がこれを自分のものにしたがっている、と強く求められてきた)

    注意して読むと、彼は手放したくてたまらなかったわけではない。むしろ、家の宝として残すつもりでいたと明言している。さらに彼は、この物件が収入を生むのであって出費ではないとも書き添えた。金銭的な重荷から逃れるための寄贈ではなかったということを、彼自身が念を押しているのである。戦時中の入場料収入は赤十字に寄付するよう申し出てもいる。

    1918年10月26日、正式な引き渡し式が行われた。休戦協定の16日前である。譲渡証書(deed of gift)には4つの条件がついていた。

    1. 公衆は、1人あたり1シリングを超えない合理的な額の支払いによって、自由に立ち入れること
    2. 敷地は現状のまま維持されること
    3. 北側の「Amesbury 2」と刻まれたマイルストーンから400ヤード以内には、料金徴収小屋以外のいかなる建物も建てないこと
    4. 工務省(Commissioners of Works)は、これらの約款違反について寄贈者を免責すること

    翌1919年、チャブはロイド・ジョージ内閣によって準男爵に叙された。地元では「ストーンヘンジ子爵」と呼ばれたという。実際には子爵ではないのだが、渾名としてはこれ以上ないものだろう。

    なお、地元住民が今も無料で入れるのは、この譲渡証書の条件によるものではない。通行権(right of way)の付け替えをめぐる別の取り決めに由来する。よく混同されるので、ここは分けて覚えておいたほうがいい。

    400ヤードの外側で起きていたこと

    石は守れた。景色は買い戻すしかなかった

    チャブの条件はよく考えられていた。ただし、彼が守れたのは彼が所有していた30エーカーだけである。そしてその外側では、すでに取り返しのつかないことが進行していた。

    1917年後半、ストーンヘンジのわずか西300メートルほどの位置に、王立飛行隊の飛行場が建設された。11月に開場したストーンヘンジ飛行場は、二つの営舎あわせて360エーカーを占め、ロンドン=エクセター街道(現在のA303)をまたいでいた。北西の夜間営舎には、巨大なハンドレページ爆撃機を収める「恒久」格納庫が2棟あった。

    先史時代の環状列石の隣に、爆撃機の飛行場である。しかもそれは、チャブが所有者だったちょうどその時期に建った。彼にはどうにもできなかった。所有していたのは石とその足元だけで、地平線は他人のものだったからだ。競売のカタログが買主に義務づけていた「西側境界のフェンス」——その柵のすぐ向こうに、飛行場は来た。

    1921年初頭までに航空機は去った。だが建物は残り、一部は養豚場になり、一部は仮設住宅として使われた。世界でもっとも有名な先史遺構の隣が、豚小屋とバラックである。

    1927年8月、ストーンヘンジ保護委員会が結成され、公募による募金が始まった。目標は3万5千ポンド。飛行場の建物を取り壊し、「ストーンヘンジのスカイラインの内側」の土地を買い上げるためである。国王が筆頭寄付者に名を連ね、最初の8千ポンドが集まった時点で、同年10月に解体が始まった。1930年代初頭には建物はすべて消えた。

    最終的に、公募で買い戻された土地はおよそ1,440エーカー。ナショナル・トラストに委ねられ、今日に至る。

    ここで数字を並べてみてほしい。

    • 1899年、アントロバスが国に提示した価格——1,300エーカー込みで12万5千ポンド。国は断った。
    • 1915年、石と30エーカーの落札価格——6,600ポンド。
    • 1927年以降、周囲の土地の買い戻しに要した目標額——3万5千ポンド、面積にして約1,440エーカー。

    国は結局、1899年に断ったのとほぼ同じ広さの土地を手に入れた。ただし28年後に、飛行場を一棟ずつ壊しながら。断ったことの代償は、金額の差ではなく、その28年のあいだに石の隣に建ってしまったもののほうだった。

    一方、石そのものの手当ても始まっていた。1919年から工務省による保存工事が入り、危険な傾きの立石をフェルトで包んで木枠で固定し、ジャッキで起こしていく。古代記念物監察官チャールズ・ピアーズは、現場に対して抑制を求めている——危険なほどでなく、ただ傾いているだけの石はそのままにしておくこと。彼は遺構を「小綺麗にする(smartening up)」ことを繰り返し戒めた。並行してウィリアム・ホーリー中佐による発掘が1919年から1926年まで続いた。今日われわれが見上げるあの姿は、少なからずこの時期の判断の産物である。

    1シリングという化石

    それで、あの石は誰のものだったのか

    セシル・チャブは1934年9月22日、ボーンマスの自宅で心臓病により没した。58歳。競売の日からちょうど19年と1日後のことである。妻メアリー、息子ジョン、娘メアリーが遺された。

    彼が譲渡証書に書き込んだ「1シリングを超えない」という上限は、今となっては化石である。1シリングは10進化後の5ペンスにあたり、現在のストーンヘンジの入場料はその何十倍にもなる。物価変動を織り込まない額面固定の条項が、100年経ってどうなるかの教科書のような例だ。

    それでも、この4条項が意味をなくしたわけではない。「敷地は現状のまま維持されること」「400ヤード以内には料金徴収小屋以外を建てないこと」——寄贈者が国に対して課したこの種の約款(covenant)は、英国の遺構保護のやり方そのものを予告している。国有化して終わりではなく、所有権の移転に条件を括りつけて未来を縛る。ナショナル・トラストが今日も使っている手法である。

    そして最後に、ひとつ落ち着かない事実が残る。

    1905年の判決が確定させたのは、公衆がどれだけ長くそこを歩いてきたとしても、それは権利にならないということだった。ストーンヘンジは、4,000年以上そこに立っている。柵が立てられたのはたかだか1901年である。にもかかわらず、法の目には、私有地の所有者のほうが正しかった。

    その法的な袋小路を破ったのは、判決でも法律でもなかった。イーペルで一人の中尉が戦死し、父が悲嘆のうちに死に、相続税が所領を切り刻み、そして劇場の客席にいた鞍職人の息子が、たいした理由もなく手を挙げた。国民の遺産が国民のものになるまでの経緯としては、あまりに偶然に頼りすぎている。

    While I was in the room, I thought a Salisbury man ought to buy it.

    もしその日、彼が本当に椅子だけを買って帰っていたら、あの石は誰の手に渡っていたのだろうか。ソールズベリー平原に立つとき、思い出す価値のある問いだと思う。

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