2026年8月15日

    歴史・事件ロンドンの街王室・制度

    トラファルガー広場の教会に、木片が2本ガラスケースで飾られている——8月15日にロンドンで祝われた勝利と、「忘れられた軍隊」が帰ってくるまでの3か月

    ロンドンのトラファルガー広場に面した教会、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ。その壁に、何の変哲もない木片が2本、ガラスケースに収められて掛かっている。ただの古材に見えるそれは、泰緬鉄道の枕木だ。1945年8月15日、この教会のすぐ外では人々が紙吹雪を投げて戦争の終わりを祝っていた。しかし、その勝利をもたらした兵士たちの多くは、まだ帰ってきていなかった。彼らは自らを「忘れられた軍隊」と呼んだ。なぜ勝った側の軍隊が、自分たちを忘れられたと呼ばなければならなかったのか。

    トラファルガー広場の教会に、木片が2本ガラスケースで飾られている——8月15日にロンドンで祝われた勝利と、「忘れられた軍隊」が帰ってくるまでの3か月

    8月15日は日本では終戦記念日だが、イギリスでは VJ Day(Victory over Japan Day)と呼ばれる。同じ日を指しながら、名前も、意味も、そして「その日をどう覚えているか」も、両国でまるで違う。今日はロンドンの真ん中にある小さな記念碑を入口に、イギリス側から見た8月15日をたどってみたい。観光ガイドには載らないが、トラファルガー広場に立ち寄ることがあれば、5分だけ寄り道して確かめられる場所の話でもある。

    ナショナル・ギャラリーの隣、ほとんどの人が素通りする壁

    ガラスケースの中の、2本の木片

    トラファルガー広場の北東の角に、白い尖塔を持つ教会が建っている。セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ(St Martin-in-the-Fields)。18世紀の建築家ジェイムズ・ギブズの設計で、正面にコリント式の柱が6本並ぶこの教会は、アメリカ植民地時代の教会建築の原型になったことでも知られる。地下のカフェ「Café in the Crypt」——文字どおり墓所を改装したカフェで、床には昔の墓石がそのまま敷かれている——や、無料の昼のコンサートを目当てに入る観光客も多い。

    その教会の壁に、一見すると何なのか分からないものが掛かっている。ガラスケースに収められた、2本の木片だ。色あせた、ざらついた、ところどころ欠けたチーク材。装飾も彫刻もない。何の説明もなければ、改修工事で出た古材を記念に取っておいたのかと思うような代物である。

    しかしこれは、泰緬鉄道(たいめんてつどう)の枕木だ。第二次世界大戦中、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶために、連合軍の捕虜とアジア各地から集められた労働者の手によって敷かれた、あの鉄道の。英語では Burma-Siam Railway、そして通称 "Death Railway"(死の鉄道) と呼ばれる。

    背後の壁には銘板があり、1941年から1945年のあいだに日本軍の手中で捕虜あるいは民間抑留者として亡くなった人々、そしてその後、抑留中に受けた苦しみが原因で亡くなった人々を記憶するために捧げられている、と記されている。この「その後」という一言が、この記念碑の性格を決定づけている。戦死者だけでなく、生きて帰ってきたのに、帰ってきた後で死んでいった人たちも、ここでは数に入っているということだ。

    毎年8月15日、この場所に献花が行われる。国立 FEPOW フェローシップ(National FEPOW Fellowship Welfare Remembrance Association)——FEPOW とは Far East Prisoners of War、極東捕虜のこと——が主催する追悼式である。ナショナル・ギャラリーを出て広場を横切る何万人もの観光客のほとんどが、その壁の存在に気づかないまま通り過ぎていく。

    1945年8月15日、教会の外で起きていたこと

    深夜0時の放送と、2日間の祝日

    その同じ場所で、1945年8月15日に何が起きていたか。

    日本の降伏の報は、イギリスでは8月14日から15日に日付が変わる深夜0時、首相クレメント・アトリーのラジオ放送によって公式に伝えられた。アトリーは7月の総選挙でチャーチルを破ったばかりの新首相である。彼の言葉はこう始まった。

    "The last of our enemies is laid low."(我々の敵の最後の一つが、いま打ち倒された。)

    この「最後の(the last of)」という言い方に、イギリスにとっての8月15日の位置づけがそのまま表れている。ヨーロッパでの戦争はすでに3か月前、5月8日の VE Day(Victory in Europe Day)で終わっていた。イギリス本土の人々にとって、爆撃は止み、灯火管制は解け、戦争は事実上「もう終わったこと」になっていた。8月15日はその追加分、積み残しの決着だったのだ。

    それでも、街は沸いた。政府は2日間の祝日を宣言。ピカデリー・サーカスやトラファルガー広場、そしてセント・マーティン教会の目の前を通るストランド通りに人が溢れ、リージェント・ストリートのオフィスの窓からは、細かく破いた書類が紙吹雪のように投げ落とされた。当時のカラー映像も残っていて(帝国戦争博物館が公開している)、水兵と見知らぬ女性が抱き合い、山高帽を振り回す姿が映っている。バッキンガム宮殿のバルコニーには国王ジョージ6世と王妃が姿を見せた。

    この記事の上に掲げた写真も、まさにその日、この教会から歩いて2分のストランド通りで撮られたものだ。ニュージーランド海軍の水兵が山高帽を掲げ、アメリカ兵とイギリスの女性たちが笑っている。

    祝っている人々の中に、極東で戦った兵士はほとんどいなかった。彼らはまだ、地球の反対側にいたからである。

    「忘れられた軍隊」——勝った側が、自分でそう名乗った

    ビルマ戦線と、ヨーロッパに向いていた視線

    ビルマ戦線で日本軍と戦ったイギリス・インド軍を主体とする第14軍は、自らを "The Forgotten Army"(忘れられた軍隊) と呼んだ。これは後世の歴史家が付けたあだ名ではない。戦っている当人たちが、戦争中から自分たちをそう呼んでいたのである。

    理由は単純で、そして残酷だ。本国の新聞の一面も、ラジオのニュースも、国民の関心も、ノルマンディー上陸作戦やアルデンヌの戦い、ベルリン陥落といったヨーロッパ戦線に向いていた。ジャングルとモンスーンの中で、マラリアと赤痢と補給不足に苦しみながら4年間戦い続けた部隊のことは、ほとんど報じられなかった。自分たちの戦争が、故郷では存在していないに等しい——その感覚が、この自嘲的な名前になった。

    さらに事情を複雑にしたのが、この軍隊の構成である。第14軍はイギリス兵よりもインド兵・グルカ兵・アフリカ兵のほうがはるかに多かった。イギリス史の中でも、そして戦後インドが独立したことによってインド側の記憶からも、この軍隊は落ちこぼれやすい位置にいた。どちらの国史にも、きれいに収まらないのだ。

    そして5月8日の VE Day。ヨーロッパが終わり、ロンドンの街が歓喜に沸いたとき、ビルマではまだ戦闘が続いていた。自分たちの戦争が続いている最中に、故郷が「戦争は終わった」と祝っている。この落差が、8月15日を単純な祝日にしなかった。イギリスにおける VJ Day の記憶が、VE Day のそれと比べてどこか複雑で、影のあるものになっているのは、この構造のせいである。

    近年、イギリスではこの不均衡を意識的に埋めようとする動きが続いている。ロンドンの国立陸軍博物館(National Army Museum)が VJ Day 80周年に合わせて「Beyond Burma: Forgotten Armies」という展示を組んだのも、その一環だ。80年かけて、ようやく「忘れられた」という自称に本国が応答し始めた、と言ってもいい。

    枕木1本につき、1人——数字が語る泰緬鉄道

    壁のチーク材が何を代表しているのか

    では、教会の壁のあの木片は何を代表しているのか。数字を並べると、その意味が見えてくる。

    泰緬鉄道は全長約415キロ。タイのノーンプラードックからビルマのタンビュザヤまでを結ぶために、1942年から1943年にかけて建設された。連合軍捕虜6万人以上が動員され、そのうち1万2000人以上が建設中に死亡した。およそ5人に1人である。

    だが、より苛烈だったのは捕虜ではない。日本軍はアジア各地から約20万人の労働者を集めた。日本語で「労務者」と呼ばれたこの人々——英語文献でもそのまま rōmusha と表記される——のうち、7万5000人から10万人が死亡したと推定されている。記録がまともに残されていないため正確な数は今も分からないが、動員された人のほぼ半数が死んだ計算になる。捕虜の死亡率5分の1に対して、労務者は2分の1。同じ工事現場で、これほど違う死に方をしていた。

    そして、この鉄道について語られるとき、必ず出てくる比喩がある。「枕木1本につき、少なくとも1人が死んだ」。区間によってはこれが誇張ではなかったという。

    セント・マーティン教会の壁のガラスケースに、木片が2本入っている理由は、ここにある。あれは記念品ではない。単位なのだ。1本が1人分。だから2本以上でも以下でもなく、あの数で、あの形で、装飾もされずに置かれている。

    イギリス人捕虜全体の統計も、この鉄道の異常さを裏づけている。日本軍の捕虜となったイギリス兵の死亡率はおよそ25%。同じ戦争で、ドイツ・イタリアの捕虜となったイギリス兵の死亡率は4%強だった。6倍の開きである。この数字が、戦後のイギリスにおける対日感情を、他のどの要素よりも長く、深く規定することになった。

    3か月遅れの帰還、そして「その話はしないでくれ」

    祝祭が終わったあとに帰ってきた人々

    8月15日、日本の降伏によって解放されたイギリス人 FEPOW は3万7500人あまり。だが、彼らがすぐに帰国できたわけではない。収容所の場所は東南アジア全域に散らばり、多くは輸送手段のない僻地にあった。栄養失調で歩けない者も多く、まず現地で最低限の治療と体力回復を行う必要があった。

    結果として、大半が帰国したのは11月。ロンドンの街から紙吹雪が掃除され、2日間の祝日がとうに終わり、人々の関心が仕事探しや配給や住宅不足といった戦後の現実に移りきったあとだった。自分の勝利を祝う祝祭に、当事者だけが間に合わなかったのである。

    帰ってきた彼らを待っていたのは、さらに奇妙な状況だった。当時の記録によれば、第14軍の帰還兵や FEPOW の多くが、自分の戦争について語らないよう促された。悪意からではない。本国の人々には本国の戦争体験——空襲、疎開、配給、身内の戦死——があり、誰もが前を向きたがっていた。ジャングルと収容所の話は、居場所を見つけられなかった。

    加えて、捕虜になったこと自体への屈辱と罪悪感があった。降伏して捕虜になったという事実、そして何より、自分は生きて帰り仲間は帰らなかったという事実。医学的にも、帰還後の彼らはマラリアの再発、慢性の下痢、栄養失調の後遺症に長く苦しみ続けた。現在ならPTSDと診断されるであろう症状は、当時それを呼ぶ名前すら持たなかった。

    沈黙は数十年続いた。1990年代以降、当事者が高齢化してようやく、証言や日記が世に出るようになる。COFEPOW(Children and Families of Far East Prisoners of War)という団体は、1997年、キャロル・クーパーという女性が亡き父の日記を発見したことをきっかけに設立された。娘は、父が生きているあいだ、その話を聞かされたことがなかったのである。

    イギリス政府が元 FEPOW とその家族に1人あたり1万ポンドの見舞金(ex gratia payment)の支給を決めたのは、2000年。戦争が終わってから55年後のことだった。

    同じ日を、違う名前で覚えている

    終戦記念日と VJ Day のあいだ

    日本では8月15日を終戦記念日と呼ぶ。「終戦」——戦争が終わった日。主語のない、静かな言葉である。イギリスでは同じ日を VJ Day、Victory over Japan Day、日本に対する勝利の日と呼ぶ。勝者と敗者が、同じ24時間に別々の名前を付けて、80年間それぞれに記憶してきた。

    ただ、イギリスにおける VJ Day も、単純な戦勝記念日ではない。5月8日の VE Day が国民的な祝祭の記憶として残っているのに対して、8月15日はどこか静かで、追悼の色が濃い。ロンドン中心部で行われる公式行事も、パレードよりは礼拝と献花が中心になる。祝うべき勝利が、祝いそこねた勝利でもあったからだ。

    そして興味深いことに、日付そのものも国によって違う。イギリスと日本は8月15日(玉音放送と降伏受諾の日)を採るが、アメリカは降伏文書が東京湾のミズーリ艦上で正式に調印された9月2日を V-J Day とすることが多い。同じ戦争の終わりに、3つの日付が並立している。

    トラファルガー広場を訪れる機会があれば、ナショナル・ギャラリーを出たあと、5分だけ北東の角の教会に寄ってみてほしい。地下のカフェに降りる前に、壁を探せばいい。装飾も、彫刻も、格調高い碑文もない、2本のざらついたチーク材がガラスの向こうにある。

    ロンドンには壮麗な戦争記念碑がいくらでもある。ホワイトホールのセノタフ、ハイド・パーク・コーナーの砲兵記念碑、無数の彫像。だがこの記念碑は、現場から持ってきた材木をそのまま置いた。加工も理想化もしていない。それは、この出来事が理想化を許さない種類のものだったから、という以外に説明のしようがない。

    8月15日、日本で黙祷が捧げられているのとほぼ同じ時刻に、ロンドンのこの壁の前でも花が置かれている。同じ日を、違う言葉で、違う立場から。それでも同じ木片を見つめながら。

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