2026年10月4日
1952年12月5日から5日間、ロンドンは足元も見えない黄色い霧に包まれた。最初に倒れたのは品評会の牛で、人間の死者は公式に4,000人、のちの推計では約1万2,000人にのぼる。それでも政府は動かず、大臣は「忙しそうに見せることはできる」と書いた。世界初の本格的な大気汚染防止法が生まれるまでの4年間を追う。
「霧の都」という呼び名には、どこか詩的な響きがある。だがロンドンの霧の正体は、何百万本もの煙突から吐き出された石炭の煙だった。1952年12月、その煙が逃げ場を失った5日間に何が起き、なぜ国は動くまでに4年もかかったのか。
1952年12月5日〜9日
1952年12月4日、ロンドンの上空に高気圧が居座った。風が止み、地表近くの冷たい空気の上に暖かい空気がふたをする「逆転層」ができた。翌5日の金曜日、街は霧に沈んだ。霧の層の厚さは100〜200メートル。その下に、街じゅうの煙突の煙がそのまま溜まっていった。
その冬は寒かった。人々は暖を取ろうと、いつも以上に石炭を暖炉にくべた。英国気象庁の推計では、霧が続いたあいだ、ロンドンの空には1日あたり煤煙1,000トン、二酸化硫黄370トン、塩酸140トンが放出された。二酸化硫黄はやがて硫酸に変わり、その量は800トンに達したとされる。
ロンドン州庁舎の測定記録が残っている。月曜8日の朝までの平均で、空気1立方メートルあたりの煤煙は4.46ミリグラム。夏の平均が0.12ミリグラムだから、およそ37倍である。1953年に公衆衛生の専門誌に載った報告は「我々の記録で遡れる限り最高の数値」と書いている。
霧は黄色く、腐った卵のにおいがした。昔からロンドンっ子が「豆のスープ」と呼んできた種類の霧だ。7日の日曜日には、見通しが30センチほどしかない場所もあった。東部のドッグズ島では、自分の足元さえ見えなかったという。
街は止まった。バスの前を車掌が懐中電灯や発炎筒を手に歩いて先導し、警官は交差点で発炎筒を焚いた。線路には小さな火薬を仕掛け、その破裂音で運転士に信号を知らせた。飛行機は欠航し、テムズ川の船も動けなくなった。ふだん通り動いていたのは地下鉄だけで、切符売り場には長い列ができた。救急車は相次ぐ事故の対応に追われ、手が回らなくなった。
霧は建物の中にも入り込んだ。サドラーズ・ウェルズ劇場では、オペラ「椿姫」が第1幕で打ち切られた。客席に霧が満ちて、舞台が見えなくなったからだ。映画館でもスクリーンが見えず、上映が取りやめになった。外を歩けば顔も襟も煤で黒くなり、暗がりに乗じたひったくりが増えた。
スミスフィールド家畜品評会と、週2,484人の死者
最初に異変が表に出たのは、人間ではなく牛だった。
12月8日、西ロンドンのアールズ・コートの展示場では、伝統ある「スミスフィールド家畜品評会」が開かれていた。全国から自慢の牛が集められていたが、その牛たちが次々に呼吸困難に陥った。アバディーン・アンガス種の1頭が死に、12頭がその場で処分され、60頭が本格的な治療を、さらに100頭ほどが手当てを受けた。飼い主たちは穀物袋をウイスキーと水に浸し、牛の鼻にかぶせて即席のマスクにした。死んだ牛の肺は真っ黒だったと伝えられる。
新聞は牛の話を大きく報じた。だが同じころ、人間にも同じことが起きていた。
ロンドン州(当時の行政区画で、人口およそ330万人)で1週間に届け出られた死者数を並べると、異変ははっきりする。
| 週の終わりの日 | 死者数 |
|---|---|
| 1952年11月29日 | 853人 |
| 12月6日 | 945人 |
| 12月13日 | 2,484人 |
| 12月20日 | 1,523人 |
| 1953年1月3日 | 1,372人 |
| 1月10日 | 1,216人 |
霧が明けた週、死者はふだんの2.6倍に跳ね上がった。そして翌週以降も、元の水準には戻らなかった。
死因の内訳はさらに雄弁だ。直前3週間の平均と比べて、気管支炎による死者は10倍、肺結核は4.5倍、その他の呼吸器の病気は6倍近く、心臓と循環器の病気は3倍近くに増えた。乳児と55歳以上では死者が3倍になったが、増加はどの年齢層にも及んでいた。
当時の報告は、この週の死亡率を過去の大災害と並べている。1873年にもロンドンは大きな霧に襲われたが、1952年の増え方はそれを大きく上回り、1866年のコレラ流行の最悪の週さえ超えていた。ロンドン州議会に届いた報告について、医学誌の論説は「過去100年で、これより多くの死者を出したのは1918年11月のインフルエンザ大流行で最も死者が多かった週だけだ」と書いた。
葬儀屋の棺は底をつき、花屋からは花が消えたと伝えられている。
輸出された良い石炭と、地面を這う発電所の煙
ロンドンの空気が汚いのは、昔からのことだった。13世紀にはすでに石炭の煙が問題になっており、1661年には文筆家のジョン・イーヴリンが、ロンドンの煙を嘆く一冊『フミフギウム(煙よけ)』を国王チャールズ2世に献じている。大気汚染について書かれた最初の本とされる。
それでも1952年がこれほどの惨事になったのには、戦後ならではの事情があった。
ひとつは石炭の質である。第二次世界大戦で英国は莫大な借金を抱えた。外貨を稼ぐため、無煙炭のような質の良い硬い石炭は輸出に回され、国内の家庭には安くて硫黄分の多い粉混じりの屑炭が出回った。英国の炭鉱は1952年、年に2億2,800万トンを掘り出し、70万人以上を雇う巨大産業だった。その燃えかすを、ロンドンの家々は寒波のなかで大量に燃やしていた。
もうひとつは発電所である。ロンドン市内にはフラム、バタシー、バンクサイド、グリニッジなど、石炭を焚く発電所がいくつもあった。皮肉なのは、当時最新鋭だったバタシー発電所の事情だ。ここでは煙から硫黄を取り除くため、排ガスを水で洗う装置を備えていた。ところが洗われた排ガスは冷えて軽さを失い、煙突から高く昇らずに地面近くへ垂れ下がった。煙をきれいにする工夫が、煙を街に留める結果になったのである。
そして、長く解けなかった謎があった。二酸化硫黄が硫酸に変わるには、ふつう強い日差しや時間が要る。光の届かない冬の霧の中で、なぜあれほど速く大量の硫酸ができたのか。
答えが出たのは、64年後の2016年である。米テキサスA&M大学などの研究チームが、北京など中国の都市を覆う濃い煙霧を調べるうちに、ロンドンと同じ仕組みに行き着いた。霧の水滴の中で、二酸化硫黄が二酸化窒素と反応して、硫酸塩が次々に作られていたのだ。ロンドンの霧は水滴が大きかったため、液が酸性に傾いて反応が止まることもなく、硫酸が増え続けた。論文は米国科学アカデミー紀要に「ロンドンの霧から中国の煙霧まで続く硫酸塩の生成」という題で発表された。
インフルエンザ説と、半クラウンのマスク
霧が晴れたあと、政府が公式に霧のせいと認めた死者は約4,000人だった。しかし死者はその後も、1953年の1月から3月にかけて例年を大きく上回り続けた。政府の予備的な報告は、この上積み分をインフルエンザの流行によるものとした。
議会では追及が続いた。1953年2月、労働党のマーカス・リプトン議員は、霧による死者は6,000人にのぼり、ほかに2万5,000人が疾病手当を請求したと下院で指摘した。5月には同じ労働党のノーマン・ドッズ議員が「何千人もが窒息死した」のになぜ公的な調査が開かれないのかと問い、政府の「驚くべき無関心」をなじった。
保健大臣イアン・マクロードはこう漏らしたと伝えられる。「まったく、私が大臣になってからロンドンに霧が出始めたとでも思っているのかね」。
政府が打ち出した対策のひとつが、マスクだった。1953年11月、心臓や呼吸器に持病のある人は、医師の処方で国民保健サービスから防霧マスクを受け取れるようになった。顔の形に合わせた薄い金属板でガーゼを押さえる仕組みで、値段は半クラウン(2シリング6ペンス)、交換用のフィルターは1シリングだった。
だが効き目は、政府自身が認めるほど頼りなかった。11月18日の貴族院で、医師でもある議員は「本当に危険なのはごく小さな粒子で、それにマスクが役立つとは思えない」と疑問を呈し、政府側の答弁も「煤の粒はある程度防げるが、ガスは防げず、価値は限られる」というものだった。
まさにその日、住宅・地方自治大臣ハロルド・マクミラン、のちの首相が、閣内向けの覚え書きを書いている。そこには新たな法律は「当面必要とは考えない」とあり、委員会を作る案についてこう続いていた。
我々にできることは多くない。だが、忙しそうに見せることはできる。それが今の時代、勝負の半分なのだ。
この覚え書きが公になったのは、ずっと後のことである。
1956年の大気浄化法
マクミランの言う「委員会」は、実はすでに動き出していた。1953年7月21日、政府は大気汚染を調べる委員会を設けた。委員長は、委員長の名から「ビーバー委員会」と呼ばれることになるヒュー・ビーバー。土木技師出身で、戦時中は公共事業を担う省の事務方の長を務め、当時はビール会社ギネスの社長だった。猟場での口論をきっかけに『ギネスブック』を作らせた、あの人物である。
委員会は1953年12月2日に中間報告を、1954年11月25日に最終報告を出した。結論ははっきりしていた。霧を殺人者に変えたのは、家庭と工場で燃やされる石炭の煙である。報告は、黒い煙を出すことを禁じ、自治体が「煙の出る燃料を燃やしてはならない地区」を指定できるようにし、家庭の暖炉の改修には補助金を出すよう勧めた。費用は国が4割、自治体が3割、住人が3割を負担する。
政府はなおも腰が重かった。しびれを切らした保守党のジェラルド・ナバロ議員が、報告の内容をそのまま盛り込んだ議員立法案を提出する。政府が自ら法案を出すと約束したことで、ナバロは案を取り下げた。
こうして1956年7月5日、大気浄化法が成立した。国全体を対象にした本格的な大気汚染防止の法律としては、世界で初めてのものとされる。煙突から黒い煙を出すことが禁じられ、新しい炉は煙を出さない造りが義務づけられ、自治体は煙規制区域を指定できるようになった。家々は暖炉をガスストーブに替えるか、煙の少ないコークスを燃やすよう促された。
ただし法律は、一夜で空を変えたわけではない。事業者には最長7年の猶予が認められ、規制区域の指定も自治体ごとにゆっくり進んだ。1962年12月、ロンドンは再び濃い霧に覆われ、およそ750人が亡くなっている。1952年よりはるかに少ないが、ゼロではなかった。規制は1968年の改正法で強化された。
バタシー発電所は法律のあとも石炭を焚き続け、最後の発電機が止まったのは1983年である。廃墟になった巨大な建物はいま、商業施設として生まれ変わり、4本の煙突の1本には展望用のエレベーターが通っている。
1万2,000人という数字と、いまのロンドン
1952年の本当の死者数は、何人だったのか。
当時から、政府の4,000人という数字を疑う声はあった。研究者のE・T・ウィルキンズは、1952年12月から翌年3月までの死亡率の高止まりをグラフにし、公式の数字に8,000人を上乗せすべきだと考えた。合わせて約1万2,000人である。
この見立ては半世紀後に裏づけられた。2001年、米国の研究者ミシェル・ベルとデヴラ・デイヴィスは、汚染物質の濃度と死亡率が翌年3月まで連動して高いままだったことを示し、1952年12月から1953年2月までの超過死亡を約1万2,000人と推計した。2004年の追加研究では、この時期のインフルエンザの流行だけでは、増えた死者のごく一部しか説明できないと結論している。政府がインフルエンザのせいにした死者の大半は、霧の死者だったことになる。
いまのロンドンに、黄色い霧はない。だが空気がきれいになったわけではない。2016年の研究が明らかにした、霧の中で硫酸を作った「もう一方の材料」の二酸化窒素は、今日では主に自動車の排気ガスから出ている。無色で、においもほとんどない。
ロンドンではいまも年に約4,000人の死が大気汚染に関係していると推計されている。2020年12月には、南ロンドンの幹線道路沿いに住み、ぜんそくの発作を繰り返して2013年に9歳で亡くなった少女について、検視官が死因のひとつに大気汚染を挙げた。英国で死亡の原因として大気汚染が公式に認められた、初めての例である。
70年前のロンドンの人々は、少なくとも霧を見ることができた。煤で黒くなった襟を見て、何かがおかしいと知ることができた。いまの汚染は、目に見えない。
記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。
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