2026年10月20日文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 4件
ガイ・フォークス・ナイトは1606年、法律で決まった記念日だった——教会で読むはずの条文は150年読まれなかった
11月5日の夜に英国各地で花火が上がり焚き火が燃える「ガイ・フォークス・ナイト」は、もとは議会が法律で国民に命じた記念日だった。1606年の法律は、毎年この日に全国の教会で感謝の礼拝を開き、牧師が条文を読み上げることまで定めた。法律は253年生き延びたが、廃止を求めた貴族院議員によれば、少なくとも最後の150年、条文はどこでも読まれていなかった。
毎年11月5日の夜、英国の空には花火が上がる。公園や広場には大きな焚き火が組まれ、てっぺんにぼろ布の人形を載せて燃やす町もある。人形の名は「ガイ」。1605年、議会を国王ごと吹き飛ばそうとした男、ガイ・フォークスのことだ。いまでは家族で花火を見に行く秋の行事だが、始まりは国が法律で命じた記念日だった。教会へ行け、神に感謝せよ、そしてこの法律の条文を読み上げよ、と。
1605年11月4日の深夜、上院の地下で
36樽の火薬と、「ジョンソン」と名乗った男
1605年11月5日は、議会の開会日だった。国王ジェームズ1世が上院の議場に臨み、上院と下院の議員がそろって国王を迎える。一年でいちばん多くの要人が一つの部屋に集まる日である。
その前夜、4日の夜遅く、国王の側近トマス・ナイヴェットが上院の建物を調べに入った。議場の真下の地下室で、彼は火薬の樽と、その番をしていた男を見つけた。男は「ジョン・ジョンソン」と名乗り、トマス・パーシーという紳士の使用人だと言った。のちに本名が分かる。ガイ・フォークスである。
下院の書記ラルフ・ユーインズは、5日の議事録の余白にこう書き込んでいる。
昨夜、上院がナイヴェット卿によって捜索された。パーシー氏の使用人で、ジョンソンなる者がそこで捕らえられた。この者は議場の下の地下室に36樽の火薬を据え、国王と一同が集まったところを吹き飛ばすつもりであった。その後、ほかにも何人もの紳士がこの企てに加わっていたことが分かった。
この書き込みは、いまも議会公文書館に残る下院の議事録の原本にある。事件の翌朝に、議会の中の人間が書いた記録だ。
計画したのは、カトリック教徒の一団だった。プロテスタントの国になったイングランドでは、カトリックの信仰は罰金や公職からの締め出しで抑えつけられていた。1603年に即位したジェームズ1世が寛大になるのではという期待が外れ、一団は国王ごと議会を吹き飛ばす道を選んだ。パーシーもその一人で、フォークスは大陸で兵士として戦った経験を買われ、地下室で火薬の番を任されていた。5日の朝、計画が露見したと知った仲間の多くは、ロンドンから逃げ出した。
知らせが広まると、ロンドンは祝いに沸いた。セント・ポール大聖堂の近くに住んでいた書簡家のジョン・チェンバレンは、その夜は盛大に鐘が鳴らされ、おびただしい数の焚き火が焚かれたと書き残している。国の側も、喜びのしるしとして焚き火を焚くよう人々を促した。ただし「危険や騒ぎのないように」という条件つきだった。
最初の焚き火は、人形を燃やす火ではなかった。国王が無事だったことを喜ぶ火である。そしてこの喜びは、すぐに法律になる。
1606年、法律が「教会へ行け」と命じた
条文の読み上げまでが、この日の礼拝だった
フォークスたちが処刑される直前の1606年1月、下院でエドワード・モンタギューという議員が一本の法案を出した。毎年11月5日に、神へ公に感謝を捧げることを定める法律である。法案は通り、のちに「11月5日を記念する法律」と呼ばれるようになる。
中身は細かい。毎年11月5日、国じゅうの大聖堂と教区の教会で、牧師は朝の祈りを行い、国王と国が救われたことを神に感謝する。前の日曜日の礼拝で、そのことを信徒に予告しておく。礼拝のあとには、この法律の条文そのものを「公に、はっきりと、分かりやすく」読み上げる。人々は全員教会に来て、礼拝のあいだは静かに、慎み深くしていなければならない。
祝い方まで国が書き込んだ法律だった。ただし、守らなかった者への罰則はどこにも書かれていない。
英国国教会の礼拝の手引きである『共通祈祷書』にも、この日のための特別な礼拝が加わった。題を訳すと、こうなる。
毎年11月5日に用いる感謝の祈り。火薬による、この上なく反逆的で血なまぐさい大虐殺のたくらみから、国王ジェームズ1世とイングランドの三つの身分が、めでたく救われたことを感謝して。
「三つの身分」は聖職者と貴族と庶民、つまり議会に集うはずだった国の全体を指す。冒頭の指示書きには、法律と同じく、前の日曜日に予告すること、礼拝のあとに法律の条文を読み上げることが念を押してある。
祈りの言葉は容赦がない。祈祷書のこの礼拝は、陰謀を企てた者たちを「教皇派の陰謀者たち」と呼び、その「ひそかな企てと地獄のような悪意」から救われたことを感謝する。教皇派とは、ローマ教皇に従うカトリック教徒のことだ。この日は、国王の無事を祝う日であると同時に、カトリックを敵として名指しする日になった。
教会は、村や町の暮らしの中心だった。この日には鐘が鳴らされ、事件を題材にした説教が行われ、夜には焚き火が焚かれた。一つの事件が、こうして毎年の行事として国じゅうの教会に組み込まれ、11月5日は全国で祝われる記念日になっていく。
燃やされたのはローマ教皇だった
人形が「ガイ」になり、「ガイ」が「人」になるまで
いまの英国で11月5日に燃やされる人形は、フォークスだ。けれども記録をたどると、焚き火に投げ込まれた人形は、長いあいだ別の人物だった。
1673年11月5日、日記作家のジョン・イーヴリンはこう書いた。
今夜、市中の若者たちが教皇の人形を燃やした。意気揚々と人形を担いで練り歩いたあとのことである。若者たちは、ヨーク公が宗旨を変え、イタリアの婦人を妻に迎えたことを快く思っていなかった。
ヨーク公は、時の国王チャールズ2世の弟である。のちにジェームズ2世として王位に就く。カトリックに改宗し、この年、イタリアのモデナ公家から15歳の王女を妃に迎えた。国王には正式な子がなく、このままでは次の王はカトリックになる。その不安が、人形の顔を教皇に変えた。11月5日は「国王が助かった日」であるだけでなく、カトリックへの反発をぶつける日になっていた。
そして1688年、この日付に二つ目の意味が重なる。その年の11月5日、オランダのオラニエ公ウィレムが、イングランド南西部のトーベイに上陸した。妻は、ジェームズ2世の娘でプロテスタントのメアリーである。ジェームズ2世は国外に逃れ、翌年、夫妻がそろって王位に就いた。ウィリアム3世とメアリー2世である。名誉革命と呼ばれる出来事だ。
祈祷書の11月5日の礼拝には、題に一文が書き足された。
あわせて、ウィリアム国王陛下がこの日にめでたくご到着になり、われらの教会と国が救われたことを感謝して。
火薬の陰謀から救われた日は、カトリックの王から「救われた」日にもなった。
フォークス本人の人形が主役になるのは、18世紀の後半である。1780年代には、フォークスをかたどった人形を担いで通りを回る姿が記録に現れる。子どもたちは古着に詰め物をして人形をこしらえ、「ガイに1ペニーを」と通行人に小銭をせがんだ。この習わしは長く続いたが、いまではほとんど見かけなくなった。
この人形が「ガイ」と呼ばれた。米国の辞書メリアム・ウェブスターによれば、フォークスの人形を指す「ガイ」の用例は1796年までさかのぼる。そこから意味が広がり、英国では妙な身なりの人をからかって「ガイ」と呼ぶようになった。海を渡った米国では、さらに意味がほどけて、ただの「男」になり、やがて男女を問わない「人」になった。英語の呼びかけ「やあ、みんな」(hey, guys)の「ガイ」は、焚き火で燃やされた人形の名前なのである。
150年、誰も読まなかった条文
1858年、貴族院に立った歴史家
19世紀に入ると、カトリック教徒を締め出す決まりは少しずつ取り払われていった。1829年には、カトリック教徒も国会議員になれるようになる。それでも祈祷書には、陰謀者の「地獄のような悪意」を語る祈りが残り、1606年の法律も生きていた。
これに手をつけたのが、スタナップ伯フィリップ・スタナップである。18世紀の英国史を書いた歴史家で、1856年には貴族院から働きかけて、国立肖像画美術館(ナショナル・ポートレート・ギャラリー)の創設を主導した人物でもある。
1858年6月28日、スタナップ伯は貴族院で、ヴィクトリア女王に祈祷書の三つの礼拝を見直すよう願い出る決議を提案した。11月5日の礼拝、チャールズ1世の処刑を悼む1月30日の礼拝、そして王政復古を祝う5月29日の礼拝である。代わりに残すのは、女王の即位の日である6月20日の礼拝だけでよい、という提案だった。
演説で彼は、11月5日の法律について一つの事実を突きつけた。法律は、礼拝のあとに条文を教会で読み上げよと命じている。それについて、こう述べたのである。
知られている限り、少なくともこの150年のあいだ、ただの一度も行われたことはないと言ってよいと思う。
スタナップ伯の言うとおりなら、法律が命じた読み上げは、少なくとも最後の150年、どこの教会でも行われていなかったことになる。法律は書物の上で生き続け、命令だけが忘れられていた。
スタナップ伯は祈りの文句にも踏み込んだ。「地獄のような悪意」という言い回しを挙げ、カトリック教徒を国王の「残忍で血に飢えた敵」と結びつける祈りは、正直で立派な人々の本当の気持ちを表していないと述べた。そのうえで、こうした礼拝は、ほかの点ではすぐれた祈祷書についた「汚点であり、しみ」であり、取り除くよう貴族院に求めた。
貴族院は決議を可決し、下院も7月13日に同じ趣旨の奉答を決めた。女王は翌1859年1月17日、三つの礼拝を祈祷書から外す命令を出し、翌日の官報に載った。最後に残った法律は議会が片づけた。1859年3月25日、「1月30日その他の日の遵守に関する法律を廃止する法律」が成立し、1606年の法律は253年の歴史を閉じた。
ちなみに、スタナップ伯が祈祷書から外そうとした礼拝の一つ、1月30日は、彼自身の誕生日でもあった。
法律がなくなっても、焚き火と花火はなくならなかった。国が命じた記念日は、命令が消えたあと、人々の祭りとして生き残った。
いまも残るもの
地下の見回り、鉄のランタン、真夜中までの花火
法律はなくなったが、火薬陰謀事件の名残は、いまも英国のあちこちにある。
いちばん目立つのは、国会議事堂だ。国王が議会の開会式に臨む日、国王の演説に先立って、国王の護衛隊(ヨーマン・オブ・ザ・ガード)が議事堂の地下を見回る。赤い制服の隊員が剣とランタンを手に一列になって、地下の通路や段差の多い階段を進み、「異状なし」を確かめてから式が始まる。議会の公式の解説は、これを火薬陰謀事件にちなむ儀式だと説明している。ただ、いつから続いているのかは、その解説にも書かれていない。
フォークスが持っていたとされるランタンも残っている。オックスフォード大学のアシュモレアン博物館にある、鉄板でできた手提げのランタンだ。中にろうそく立てがあり、扉にはかつて、動物の角を薄く削った窓がはまっていた。上の通気口を回すと、明かりを隠せる仕掛けになっている。1641年4月4日、大学の学生監督官を務めたロバート・ヘイウッドが大学に寄贈した。逮捕のもみ合いのなかで、弟のピーターがフォークスから取り上げたものと伝えられている。地下室の暗がりで火薬の番をした男の手元を、このランタンが照らしていたことになる。
焚き火の夜で最も名高いのは、ロンドンの南、サセックスの町ルイスだろう。毎年11月5日(日曜にあたる年は前日の4日)、町の焚き火協会が松明を掲げて通りを練り歩き、燃える十字架17本がその列に加わる。メアリー1世の時代の1555年から57年にかけて、この町で火あぶりにされた17人のプロテスタントを悼むものだ。カトリックとプロテスタントがぶつかった時代の記憶は、ここではいまも火の形をとって町を進む。
そして、いまの法律にも11月5日は残っている。英国政府の案内によれば、午後11時から午前7時までは花火を上げてはいけないが、11月5日の夜だけは真夜中まで許される(大晦日と、ヒンドゥー教の祭りディワリ、旧正月は午前1時まで)。登録した店が免許なしで花火を売れるのも、10月15日から11月10日までと、年末の数日などに限られる。違反すれば上限のない罰金か、最長6か月の禁錮になりうる。地域によっては、これに独自の決まりが加わる。
1606年の法律は、この日に教会へ行けと命じた。いまの法律が11月5日に与えているのは、花火を上げてよい1時間の延長である。
参考資料
- 貴族院議事録「英国国教会の政治的な礼拝——奉答の動議」原典英国議会(Hansard)1858api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 下院議事録 1605年11月5日の欄外の書き込み所蔵英国議会(議会公文書館)1605parliament.uk(新しいタブで開きます)
- ガイ・フォークスのランタン(所蔵番号AN1887.2)所蔵アシュモレアン博物館(オックスフォード大学)britisharchaeology.ashmus.ox.ac.uk(新しいタブで開きます)
- 花火と法律公式英国政府(GOV.UK)gov.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。
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