Still here today
今のロンドンに残っているもの
なぜ国王は、庶民院(下院)の議場に入ることを許されないのか
1642年にチャールズ1世が武装兵を連れて踏み込んだからです。議員5名を逮捕しようとして失敗したこの事件以降、君主が庶民院に立ち入らない慣行が確立しました。国王の議会開会演説が貴族院で行われ、庶民院議員がわざわざそちらへ「呼ばれて」聞きに行くのはこのためです。使者(Black Rod)が庶民院の扉を叩くと、扉は目の前で閉められます。開けさせてから入る——議会の独立を毎年再演する儀式です。
なぜイギリスには成文憲法がないのか
革命が一度で終わらず、そのつど個別の法律を積み上げたからです。マグナ・カルタ(1215)、権利請願(1628)、人身保護法(1679)、権利章典(1689)、王位継承法(1701)。この積み重ねが憲法の役割を果たしています。憲法典を一から書き下ろす契機——独立や敗戦や革命政権の樹立——を、結果として経験しなかった国です。
なぜロンドンには、中世の木造建築がほとんど残っていないのか
1666年のロンドン大火で、シティの家屋の約8割が焼けたからです。4日間で1万3千戸以上が焼失。以後、木造の張り出し構造が禁止され、レンガと石での再建が義務づけられました。現在のシティの街路パターンと建築様式は、この火事の後始末として生まれています。
テューダー朝が断絶し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位します(1603年)。二つの王国が同じ王を戴く同君連合の始まりです。ただし議会も法も別々で、統合はまだ100年先になります(第6章)。
このスチュアート朝の王たちが持ち込んだのが、王権神授説でした。王の権力は神から直接与えられたものであり、議会や臣民に説明する義務はない、という考え方です。
問題は、イングランドには既に課税に議会の同意が要るという数百年の慣行があったことでした。第3章で見たとおり、議会は課税承認権を握っています。金を使いたい王と、金を握る議会。ここが正面衝突します。
ジェームズ1世の息子 チャールズ1世 は、議会と対立した末に1629年から11年間、議会を招集せずに統治しました(「11年間の専制」)。船舶税など古い名目を掘り起こして議会抜きで課税し、スコットランドに国教会式の祈祷書を押しつけて反乱を招きます。その戦費のため、結局1640年に議会を呼び戻さざるを得なくなりました。
そして1642年、王は武装兵を連れて庶民院に踏み込みます。内戦が始まりました。
目次
1. 1649年1月30日——王が公開で処刑された日
内戦は7年続き、議会派が勝ちます。オリバー・クロムウェルが組織したニューモデル軍——出自ではなく能力で昇進させ、規律と給与を制度化した、事実上イングランド初の常備職業軍——が決定的でした。
捕らえられたチャールズ1世をどうするか。議会内でも意見は割れましたが、軍が穏健派議員を実力で排除し(プライドのパージ)、残った議員が王を反逆罪で裁判にかけます。
裁判はウェストミンスター・ホール(第3章で見た、あの木造屋根の広間)で行われました。チャールズは裁判の正当性そのものを否認し、罪状に答弁しませんでした。「いかなる地上の権力が、私を裁く権限を持つのか」。この問いに、法廷は答えを持っていませんでした。国王を裁く法など、存在しなかったからです。
1649年1月30日、ホワイトホールのバンケティング・ハウスの窓を壊して外に処刑台が組まれ、王は自分の宮殿の窓から歩み出て斬首されました。
その日は極寒で、チャールズは震えを恐怖と誤解されないよう下着を二枚重ねたと伝えられます。首が落ちた瞬間、群衆から上がったのは歓声ではなくうめき声だったと、目撃者ジョン・エヴリンらが記録しています。
これがヨーロッパに与えた衝撃は計り知れません。神から権力を授かったはずの王が、臣民の法廷で裁かれ、公衆の前で殺された。フランス革命の140年前のことです。

1649年1月30日、バンケティング・ハウスの窓の外に組まれた台の上。首が落ちた瞬間、群衆から上がったのはうめき声だった。
補足
バンケティング・ハウスの天井画
皮肉なことに、この建物の天井にはルーベンスが描いた「ジェームズ1世の神格化」——王権神授説を絵にした作品——が今もあります。チャールズ1世は父を讃えるその絵の下を通って、処刑台へ出ました。現在も同じ絵が同じ位置にあり、床に寝転がって見上げるためのソファが置かれています。
2. 共和政の11年——なぜクリスマスが禁止されたのか
1649〜1660年
王のいない11年間、イングランドは共和国(Commonwealth)でした。実権を握ったのはクロムウェルで、1653年からは護国卿(Lord Protector) を名乗ります。王ではないが世襲を認めさせ、議会を解散する権限を持つ——結局のところ、王とよく似た権力でした。
清教徒(ピューリタン)的な統治は、日常生活に及びます。
- クリスマスの祝祭を禁止(聖書に根拠がなく、異教的な放蕩だという理由)
- 劇場の閉鎖(グローブ座は1644年に取り壊されました)
- 日曜のスポーツ・娯楽の禁止
- 装飾的な教会美術の破壊
アイルランドでの遠征は特に苛烈で、ドロヘダとウェックスフォードの虐殺は、アイルランドで今も語り継がれる記憶です。英国本土での評価(議会主権を守った人物)とアイルランドでの評価(虐殺者)が、これほど食い違う人物も珍しく、国会議事堂前に立つ彼の像は今も論争の的です。
1658年にクロムウェルが病死すると、体制はあっけなく崩れます。息子リチャードには父の権威がなく、軍も分裂。1660年、亡命していたチャールズ1世の息子が呼び戻されました。王政復古(Restoration) です。
戻ったチャールズ2世は、劇場を再開させ、女優が舞台に立つことを初めて認め、享楽的な宮廷文化を復活させました。11年間の禁欲への反動が、そのまま文化になった時代です。
なお復古のあと、クロムウェルの遺体は掘り起こされ、死後の処刑にかけられました。頭部は20年以上ウェストミンスター・ホールの屋根に晒され、その後も転々として、1960年になってようやくケンブリッジに埋葬されています。

王ではないが世襲を認めさせ、議会を解散する権限を持った護国卿。結局のところ、王とよく似た権力だった。
覚えておくと効くこと
- 「クリスマス禁止」は英国人の記憶に残っており、今も清教徒的な厳格さを揶揄する文脈で持ち出されます。
- 王政復古期に開場した劇場のひとつ、Theatre Royal Drury Lane は現在もウエストエンドで営業中です。1663年開場、現存する建物は4代目。
3. 疫病と大火——2年でロンドンが作り替えられた
1665〜1666年
王政復古から間もなく、ロンドンは連続で災厄に見舞われます。
1665年、大疫病。腺ペストの流行で、ロンドンの人口の約4分の1にあたる10万人近くが死亡しました。感染者の家は扉に赤い十字が描かれ、家族ごと閉じ込められました。宮廷はオックスフォードへ避難します。
1666年9月2日、大火。プディング・レーンのパン屋から出火し、4日間燃え続けました。当時のロンドンは木造家屋が密集し、上階が張り出して道を覆う構造。加えてその夏は乾燥し、東風が強く吹いていました。
焼失したのは家屋1万3千戸以上、教会87、そしてセント・ポール大聖堂。シティの約8割が消えました。記録に残る死者は驚くほど少数(数名〜十数名)ですが、貧困層の死は数えられていないとする見方もあります。
そして再建が始まります。クリストファー・レンが中心となり、セント・ポール大聖堂と51の教会を設計しました。彼が提案した放射状の街路計画は、土地所有権の複雑さから実現せず、街路は中世の線をほぼ踏襲します。しかし建築規制は根本的に変わりました。
- 木造の張り出し構造を禁止、レンガまたは石を義務化
- 道幅の確保
- 火災保険会社の誕生——世界初の近代的な火災保険が、この火事の後にロンドンで生まれました
現在のセント・ポール大聖堂(1710年完成)は、この火事の産物です。そして出火地点の近くには、レンが設計したモニュメントが立っています。高さ61.5メートルは、出火した家までの距離とちょうど同じです。

4日間で家屋1万3千戸以上、教会87、そしてセント・ポール大聖堂が焼けた。シティの約8割が消えている。
ヒント
モニュメントは登れます
311段の螺旋階段を上ると展望台に出ます。入場料は数ポンドで、シャードやロンドン・アイと比べて格段に安く、シティを間近に見下ろせます。登頂すると証明書がもらえます。
4. 1688年の名誉革命——招かれた侵略
チャールズ2世に嫡子がなく、弟のジェームズ2世が即位します(1685年)。彼は公然たるカトリックでした。
議会は当初、彼が高齢で、後継者となる娘たちがプロテスタントであることから静観します。ところが1688年、ジェームズに男子が生まれました。カトリックの王朝が続く見通しが立った瞬間、政治指導者たちは動きます。
彼らはオランダ総督ウィリアム3世(ジェームズの娘メアリーの夫)に、軍を率いて来英するよう招請状を送りました。ウィリアムは1万5千の兵とともに上陸。ジェームズ2世の軍は次々に離反し、王はフランスへ亡命します(逃亡の途中で国璽をテムズ川に投げ捨てたと伝えられます)。
大きな戦闘がほぼなかったため「名誉革命(Glorious Revolution)」と呼ばれますが、実態は外国軍を招き入れた武装政変でした。アイルランドとスコットランドでは、その後も激しい戦闘が続いています。
決定的だったのは、翌1689年の権利章典(Bill of Rights) です。
- 王は議会の同意なく法律を停止・免除できない
- 王は議会の同意なく課税できない
- 王は平時に常備軍を保持できない
- 議会での言論は議会外で訴追されない(議員特権)
- 議会は頻繁に開催されなければならない
この文書によって、王は議会が定めた条件で王位に就く存在になりました。神から与えられたのではなく、議会から与えられる。第3章のマグナ・カルタから474年かけて、原則がついに強制力を持ちます。
英国の立憲君主制は、この年に事実上完成しました。今日チャールズ3世が政治的中立を保ち、議会の決定に署名するだけの存在であるのは、1649年の斬首と1688年の亡命という二度の実力行使の結果です。

1万5千の兵とともに上陸。招請状を送ったのは、英国の政治指導者たち自身だった。
画像: British (English) School, Royal Museums Greenwich (Public domain)
Timeline
この章の年表
1603年〜1714年・同じころの日本つき
1603年
スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王に(同君連合)
日本では江戸幕府が開かれた年
1605年
火薬陰謀事件。ガイ・フォークスらの議会爆破未遂
日本では江戸時代初期
1642年
チャールズ1世が庶民院に乱入。内戦が勃発する
日本では江戸時代・鎖国の完成期
1649年1月30日
チャールズ1世処刑。バンケティング・ハウスの窓の外に組まれた台の上で
日本では江戸時代前期
1649〜1660年
共和政(コモンウェルス)。クロムウェルが護国卿となる
日本では江戸時代前期
1660年
王政復古。チャールズ2世が帰還する
日本では江戸時代・徳川家綱の治世
1665〜66年
ロンドン大疫病、翌年ロンドン大火。市域の8割が焼失
日本では江戸時代前期
1688年
名誉革命。ジェームズ2世が亡命し、ウィリアムとメアリーが招かれる
日本では元禄時代の始まり
1689年
権利章典。王は議会の同意なく法を停止・課税できないと定める
日本では元禄時代
Where to stand
この章に立てる場所
この時代の物証が、今も実際に見られる場所です。復元やレプリカではなく、 当時のものが残っている地点だけを挙げています。
- 1
バンケティング・ハウス
Banqueting House, Whitehall
チャールズ1世が処刑台へ出た建物。イニゴー・ジョーンズ設計(1622年)で、ホワイトホール宮殿のうち火災を免れた唯一の部分です。天井にはルーベンスの「ジェームズ1世の神格化」——王権神授説を讃える絵——が原位置のまま残っています。
- 最寄り
- Westminster 駅(徒歩5分)/Charing Cross 駅(徒歩5分)
- 見学
有料。イベント貸切で閉まる日があるため公式サイトで開館日を要確認。所要40分ほど。
- 2
セント・ポール大聖堂
St Paul's Cathedral
大火で焼けた旧聖堂に代わり、クリストファー・レンが35年かけて建てた再建(1710年完成)。ウィスパリング・ギャラリー(囁きが壁を伝う音響)から石段を上ると外の展望へ。地下にレン自身の墓があり、「彼の記念碑を求めるなら、周りを見よ」と刻まれています。
- 最寄り
- St Paul's 駅(徒歩2分)
- 見学
有料・オンライン購入が安い。日曜は礼拝のみで観光不可。
- 3
ロンドン大火記念塔(モニュメント)
The Monument to the Great Fire of London
レンとロバート・フックの設計(1677年)。高さ61.5メートルは、出火地点のプディング・レーンまでの距離と同じです。311段を登った展望台からシティを見下ろせます。台座のレリーフには、廃墟から立ち上がるロンドンが寓意的に彫られています。
- 最寄り
- Monument 駅(徒歩1分)
- 見学
有料(数ポンド)。登頂証明書がもらえます。
- 4
ウェストミンスター・ホール
Westminster Hall
チャールズ1世の裁判が行われた広間。11世紀の建物に14世紀の木造屋根が架かる、国会議事堂で唯一中世のまま残る部分です。裁判が行われた位置に銘板があります。エリザベス2世の棺が安置されたのもここです。
- 最寄り
- Westminster 駅(徒歩2分)
- 見学
国会議事堂ツアーの一部(有料・要予約)。
同じころ、日本では
チャールズ1世が処刑された1649年、日本は江戸時代前期、徳川家光の治世です。鎖国が完成し(1641年)、島原の乱(1637〜38年)の記憶がまだ新しい時期でした。
イングランドが王を殺して共和政を試していたまさにその頃、日本は250年続く安定した幕藩体制に入っていた——同じ17世紀半ばに、両国はまったく逆方向へ進んでいます。
名誉革命の1688年は、日本では元禄元年。生類憐みの令の時代であり、井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門が活躍した元禄文化の時期です。ロンドンではコーヒーハウスが政治と商業の議論の場になり、江戸では町人文化が花開いていました。
なおロンドン大火の1666年は、江戸でも大火が多発した時代です。明暦の大火(1657年) はその9年前で、江戸の6割を焼き、ロンドン大火より遥かに多い死者(数万人)を出しています。両都市とも、木造密集都市の宿命として大火を経験し、そこから都市計画と消防制度を作りました。
よくある質問
参考・公式情報
- Historic Royal Palaces — Banqueting House
- UK Parliament — The Civil War and Interregnum
- UK Parliament — The Bill of Rights 1689
- St Paul's Cathedral — History
料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。
イギリスの歴史 全10章 の第5章です。