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    2026年8月31日

    王室・制度歴史・事件ロンドンの街

    レモン汁を配った船だけ、人が死ななかった——居酒屋で商談していた会社が、70年後に「戦争と講和の権利」を手に入れるまで 東インド会社物語 第1回

    1600年12月31日、エリザベス1世は喜望峰からマゼラン海峡までの貿易を、ロンドンの商人たちに15年間独占させる勅許を出した。彼らは自前の建物すら持たず、居酒屋で商談していた。その集団が70年後、貨幣を鋳造し、要塞と軍を指揮し、戦争と講和を決める権利を法的に手にする。全3回の第1回は、香辛料に敗れた商人たちが、なぜインドに流れ着いたのかを追う。

    レモン汁を配った船だけ、人が死ななかった——居酒屋で商談していた会社が、70年後に「戦争と講和の権利」を手に入れるまで 東インド会社物語 第1回

    東インド会社の話は、たいてい「インドを支配した会社」から始まる。でも会社のほうは、インドに行くつもりなど最初はまったく無かった。狙いは香辛料で、行き先は今のインドネシアで、インドは競争に負けた末に流れ着いた第二希望だった。しかも創業から半世紀以上、彼らは「会社」ですらない。航海のたびに出資を募り、船が帰ってきたら精算して解散する、使い捨ての投資組合だった。第1回は、その頼りない集団が「領土を得てよい、貨幣を鋳造してよい、戦争と講和を決めてよい」と紙に書いてもらうまでの70年を追う。

    1600年12月31日、住所のない会社が生まれた

    資本6万8千ポンド、独占15年、商談場所は居酒屋

    エリザベス1世が勅許に署名したのは、1600年の大晦日だった。正式名称は The Governor and Company of Merchants of London Trading into the East Indies(東インドと貿易するロンドン商人の総裁および会社)。長い。当時の人も長いと思っていたらしく、じきに「ジョン・カンパニー」と呼ばれるようになる。

    名宛人は「カンバーランド伯ジョージ・クリフォードと、215人の騎士・市参事会員・市民」。集まった資本は約68,373ポンドだった。与えられたのは、喜望峰の向こうからマゼラン海峡までの貿易を15年間独占する権利。地球のおよそ半分を、地図に定規で線を引くように配っている。実際にそこへ行けるかどうかは、また別の話として。

    そして、この会社には住所が無い。商談はビショップスゲートのナグズ・ヘッド亭で行われた。事務所はフィルポット・レーンに借り、1621年にビショップスゲートのクロスビー・ハウスへ、1638年にレドンホール街のクレイヴン・ハウスへと移る。この建物が「イースト・インディア・ハウス」の名で呼ばれるようになるのは1661年ごろ。創業から60年、会社には顔が無かったことになる。

    組織の形も、いま我々が思う株式会社ではない。1601年から1612年までは「separate voyages(個別航海)」と呼ばれる方式で、航海ごとに出資者を募り、その航海の損益だけをその出資者たちで清算する。次の航海はまた別の出資者を集める。恒久的な共同資本(permanent joint stock)が組まれるのは1657年、クロムウェルの時代だ。創業から57年間、東インド会社は「毎回組み直される期間限定のファンド」だった。世界を支配する会社どころか、続くかどうかも分からない集まりから始まっている。

    レモン汁を積んだ船だけ、人が死ななかった

    1601年、第1回航海が持ち帰った二つの教訓

    1601年4月20日、トーベイから4隻が出航した。旗艦は600トンのレッド・ドラゴン号。ほかにヘクター号、アセンション号、スーザン号。指揮官はジェイムズ・ランカスター。

    ランカスターは旗艦にレモン汁を積んでいた。ヒュー・プラット卿の勧めによるもので、202人の乗員に毎朝、空腹時にスプーン3杯ずつ与えた。他の3隻にはレモン汁が無い。

    結果は残酷なほどはっきり出た。8月1日には「全船で非常に多くの者が壊血病に倒れた」と記録されている。喜望峰のテーブル湾に着くまでに480人のうち105人が死に、そのうち80人が壊血病だった。同時代の記録者サミュエル・パーチャスはこう書いている——「この方法によって司令官は多くの部下を治し、残りを守った。彼の船では、他船ほど病人も出ず、死者も出なかった」。

    ここが恐ろしいところで、効果は同じ艦隊の中で、対照実験のように可視化されていた。それでも定着しない。柑橘と壊血病の関係が医学的に検証されるのはジェイムズ・リンドの1747年、146年あとの話だ。海軍が全面的に採用するのはさらに遅れる。人間は、目の前で結果が出ていても、理由が説明できないものを制度にしない。

    そしてもう一つ。持ち帰った積荷は胡椒およそ500トンだった。ところが4隻ともが胡椒を満載して帰ってきたため、ロンドンの相場は崩れる。利益は期待されたほど出なかった。第1回航海が会社に教えたのは、結局この二つだ。柑橘は効く(が誰も本気にしない)。香辛料はもう、思ったほど儲からない。

    オランダに追い出されて、しかたなくインドへ

    1612年の海戦、1623年の斬首

    香辛料諸島にはすでにオランダ東インド会社(VOC)がいた。資本も船も英国側より上で、しかも容赦がない。英国はじりじりと押されていく。

    そのあいだに、思わぬところで足場ができる。1612年11月29〜30日、インド西岸スーラト沖のスワリーで、トマス・ベスト指揮の英国船がポルトガル艦隊を破った。この海戦を見たムガル皇帝ジャハーンギールが、翌1613年、スーラトに商館を置く許可(ファルマーン)を出す。インドでの最初の足場は、貿易交渉の成果ではなく海戦の副産物だった。皇帝にしてみれば、ポルトガルに勝てる海軍力を持つ相手は、味方にしておく価値がある。

    1615年、ジェイムズ1世は正式な大使としてトマス・ロウをアーグラの宮廷に送る。ロウは1619年2月まで滞在した。彼が望んだ通商条約は結べなかったが、アーグラ、アフマダーバード、ブローチに商館を置く許可を持ち帰っている。

    決定打は1623年3月9日、モルッカ諸島のアンボイナ島で起きた。オランダ人総督ヘルマン・ファン・スペウルトは、英国商館長ガブリエル・タワーソンらが日本人傭兵を使ってフォート・ヴィクトリアを乗っ取る計画を立てていると断じ、拷問のうえ処刑した。斬首されたのは英国東インド会社側10人、日本人9人、ポルトガル人1人。タワーソンの首は棒に刺して晒された。

    日本人が9人混じっているのに気づいてほしい。彼らはVOCに雇われていた傭兵で、平戸をはじめとする経路でこの海域に流れてきた人々だ。17世紀初頭の東南アジアには日本人傭兵が珍しくなく、雇う側もオランダだったりスペインだったりシャムだったりした。教科書の日本史とイギリス史は別々の棚に並んでいるが、1623年のアンボイナでは同じ処刑台に並んでいる。

    この事件のあと、英国は香辛料諸島から実質的に手を引き、インドに集中する。つまり——「東インド会社」がインドの会社になったのは、戦略ではなく敗北の結果である。歴史はこういうことをよくやる。

    拠点は買ったのではない。全部、借地だった

    年600ポンド、年10ポンド、そして沼地

    17世紀のうちに、会社はインドに三つの拠点を持つ。いずれも征服ではなく、契約と金で手に入れたものだ。

    マドラス。1639年8月22日、フランシス・デイがチャンドラギリの領主ダマルラ・ヴェンカタドリと合意し、海沿いの土地を借りた。年貢は1,200パゴダ、およそ600ポンド。要塞は1644年4月23日に完成し、費用は3,000ポンドかかっている。完成した日がたまたま聖ゲオルギウスの日だったので、フォート・セント・ジョージと名付けられた。イングランドの守護聖人である。命名がやたら都合よく決まっているが、たぶん本当にたまたまだ。

    ボンベイ。1661年、チャールズ2世がポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンサと結婚した際、その持参金として英王室に渡った。ところが王室にとっては維持費ばかりかかる厄介な土地で、1668年、会社に貸し出される。賃料は年10ポンド。マドラスの60分の1である。のちのムンバイ、インド最大の商業都市が、王の家計簿では年10ポンドの雑収入として処理されていた。

    カルカッタ。1690年8月24日、ジョブ・チャーノックがフーグリー川沿いの、沼に囲まれた土地に旗を立てる。1698年には近隣三村の徴税権を購入し、1700年には管区(presidency)の格を得た。

    三つに共通しているのは、会社が土地を買っていないという一点だ。彼らは他人の土地に、地代を払って居候していた。ムガル帝国から見れば、海からやってきて港の隅を借りている外国商人にすぎない。この上下関係がひっくり返るまで、まだ100年近くかかる。

    1670年代、紙の上で会社が国家になった

    貨幣を鋳造し、軍を指揮し、戦争と講和を決めてよい

    1670年前後、チャールズ2世は五つの勅許によって、東インド会社に次の権利を与えた。

    • 領土を自らの判断で取得すること
    • 貨幣を鋳造すること
    • 要塞と軍隊を指揮すること
    • 同盟を結ぶこと
    • 戦争と講和を決定すること
    • 民事および刑事の裁判権を行使すること

    一行ずつ読み返してほしい。これは国家の定義そのものだ。会社が国家の仕事を一部だけ請け負ったのではない。国家であるための道具一式を、丸ごと渡されている。

    なぜ王がそこまでしたのか。理由は身も蓋もない。王に金が無かったからだ。地球の裏側に軍を送り、要塞を築き、守備隊を養う費用を、17世紀のイングランド王室は負担できない。費用を負担できる者に権限ごと渡してしまうのが、当時いちばん安上がりな帝国経営だった。植民地を「持つ」より「持たせる」ほうが安い。

    ただし、この時点ではまだ紙の上の話にすぎない。1670年代の会社は、権利を持っていても使う気が薄かった。彼らはあくまで商人であり、戦争は儲けではなく費用だったからだ。株主は配当を待っている。要塞と傭兵に金を吸われるのは本意ではない。

    会社が変わるのは、戦争のほうが貿易より儲かると気づいたときである。その瞬間は第2回で来る。

    ロンドンでは、女性の服が路上で引き裂かれていた

    会社が運んできた布が、議会を動かし、産業革命の下地になるまで

    ここまではインド側の話だ。同じころ、ロンドンでも別の事件が進行していた。

    会社がインドから運んできたキャラコ——捺染された綿布——が、英国で爆発的に流行する。軽い。洗える。柄が美しい。そして安い。当時のウールやシルクに勝ち目は無かった。

    反発は暴力の形をとる。1697年、ロンドンの織工が東インド会社の事務所を襲撃した。1690年代、そして1719年から1721年にかけて、ロンドン、ノリッジ、ブリストルで織工が街頭に出る。ここで肝心なのは、彼らが襲ったのは会社ではなく、キャラコを着て歩いている女性たちだったということだ。ある被害者の訴えが残っている。ホクストンのレッドライオン・フィールズで大勢の織工に襲われ、ガウンとペチコートを「引き裂かれ、切られ、力ずくで剥ぎ取られた」。彼女たちは嘲りをこめて「キャラコ・マダム」と呼ばれた。制度への怒りが、いちばん立場の弱いところに落ちてくる。300年前から人間はこれをやっている。

    議会は1700年と1721年のキャラコ法で、インド産綿布の輸入と国内での使用を禁じた。1721年3月に国王裁可が下りている。

    ただし、この禁令には抜け道が用意されていた。大西洋の植民地への再輸出は禁じられていない。会社はアジア産品の供給独占を維持したまま、英国本土の市場だけを明け渡した。禁じられたのは「イギリス人がインドの布を着ること」であって、「会社がインドの布で儲けること」ではなかったわけだ。

    そして最大の皮肉がここに残る。インド綿を国内市場から締め出した結果、国内で綿布を作る強い動機が生まれた。ランカシャーの機械化、のちに産業革命と呼ばれるものの下地の一つがここにある、という見方がある(保護政策がどれだけ効いたのかは経済史でいまも議論が続いていて、決着はしていない)。会社がインドから運んだ布が、いずれインドの綿産業を潰すことになる機械を、イギリスに準備させたことになる。

    ――次回。1757年6月23日、プラッシー。ロバート・クライヴという名の一介の会社員が、ベンガル太守の軍を破る。その8年後、会社はベンガル・ビハール・オリッサの徴税権を手に入れた。地代を払う側だった商人が、地代を取り立てる側になる。会社が国家になった日の話をする。

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