コラム
イギリスの胸の赤いポピーは1921年、フランス人女性が持ち込んだ——造花は傷痍軍人の工場で作られた
11月11日は日本ではポッキーとプリッツの日だが、イギリスでは第一次世界大戦が終わった日で、その前の2週間ほど、首相もキャスターも胸に赤い紙のポピーを付ける。この花を戦死者を悼む印にしたのはカナダの軍医の詩と米国の教師で、英国に持ち込んだのは1921年に海を渡ってきたフランス人の女性だった。翌年からは傷痍軍人を雇う工場が造花を作り始め、スコットランドでは花びらの数まで違うものになった。
公開文 ジャスト・ロンドン編集部約11分で読めます参考資料 4件

目次
11月11日は、日本では「ポッキー&プリッツの日」として知られている。日付に並ぶ「1」を細長い菓子に見立てた記念日で、江崎グリコが1999年、つまり平成11年11月11日に始めた。同じ日、イギリスでは午前11時になると、駅でも店でも人々が2分間黙って立ち止まる。1918年のこの日のこの時刻に、第一次世界大戦の休戦が発効したからだ。日本時間では夜の8時にあたる。その前の2週間ほど、テレビに映る首相もキャスターも、街を行く人の多くも、胸に赤い紙の花を付けている。ケシの花、ポピーだ。英国らしさを絵に描いたようなこの習慣は、じつは英国の外から持ち込まれた。
01
「フランドルの野にポピーが揺れる」——1915年、カナダの軍医が書いた詩
休戦の2日前、ニューヨークで一人の教師がそれを読んだ
ポピーは、日本でヒナゲシと呼ばれる赤い一年草である。畑のふちや、掘り返された土地によく生える。第一次世界大戦の西部戦線、ベルギー西部のフランドル地方では、砲弾と塹壕で掘り返された土地に、この花が一面に咲いた。スコットランドのポピー基金は、荒れ果てた戦場で生き延びた数少ない植物のひとつで、混乱と破壊のただ中に何千と咲いていた、と書いている。
1915年5月3日、カナダ遠征軍の軍医ジョン・マクレーは、ベルギーのイーペル近くで一編の詩を書いた。前日に戦死して埋葬された友人を悼んだものだった。題は「フランドルの野に」。書き出しはこうである。
フランドルの野にポピーが揺れる 十字架のあいだに、列また列と
詩は同じ年の12月8日、ロンドンの風刺雑誌『パンチ』に載って広く読まれ、戦意を高める宣伝や兵の募集にも使われた。マクレー自身は休戦を見ることなく、1918年1月に病死している。
この詩に人生の向きを決められた人が、大西洋の向こうにいた。米国南部ジョージア州の師範学校の教師、モイナ・マイケルである。1918年、彼女は休職してキリスト教青年会(YMCA)の戦時奉仕に無給で加わり、ニューヨークのコロンビア大学に置かれた事務所で、戦死した兵士の遺体を故郷へ送る手配をしていた。
休戦の2日前の11月9日、届いたばかりの婦人雑誌でマクレーの詩を読んだ彼女は、これからは死者を忘れない印にいつも赤いポピーを付けると誓い、詩に応える一編「信義を守ろう」を書いた。そのあと百貨店ワナメーカーで絹のポピーを25本買い、職場の仲間に配っている。
戦後、ジョージアに戻った彼女は、ポピーを売って傷痍軍人を支える運動を続けた。1920年代の初めには、米国の在郷軍人会やその婦人部が、次々とポピーを正式な印に採用していく。
02
1921年8月、見知らぬフランス人女性が英国にやって来た
退役軍人会の公式の歴史に、ヘイグ元帥の名は出てこない
その女性、アンナ・ゲランは、フランスのキリスト教女子青年会(YWCA)の会員だった。英国の退役軍人会(ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン)の説明によれば、1920年に米国の在郷軍人会の大会に出た彼女は、造花のポピーを大量に売れば、戦争の後遺症に苦しむ人々、とりわけ親を失った子どもたちを支えられると考えた。フランスで布のポピーを作らせ、マイケルと組んで米国で初めての全国規模の販売を手配し、運動はカナダ、ニュージーランド、オーストラリアへと広がった。
次の目当てが英国だった。英国では、戦後に別々に生まれた退役軍人の団体が1921年5月15日にひとつにまとまり、退役軍人会が発足したばかりだった。「ロイヤル」の称号が付くのは、50周年の1971年のことである。
ここから先は、話が二つに分かれる。広く語られているのは、ゲランが会の創設者で総裁の陸軍元帥ヘイグ伯爵に会い、ポピーを会の印にするよう説き伏せた、という筋だ。ヘイグは西部戦線で英国軍を率いた総司令官で、名前に重みがある。退役軍人会自身も、この筋で紹介してきた。
ところが、会の公式の歴史にヘイグは出てこない。第一次世界大戦の英国陸軍を調べる研究者が引いているその記述によれば、ゲランは1921年8月に英国へ来て、会の事務局長に紹介された。会は彼女のことを知らず、すぐには乗らなかった。幹部をフランスへ送って確かめさせてから、ようやく注文を出した。財務委員会が認めたのは150万本分だったという。
1921年11月11日、休戦から3年目の記念日に、英国で最初の「ポピー・デー」が開かれた。米国議会図書館の法律部門がまとめたところでは、退役軍人会はフランスに100万本を発注し、英国内でさらに800万本を作らせた。不況のさなかだったが、ポピーは売り切れ、10万6000ポンドが集まった。2021年の価値に直すと、およそ540万ポンドにあたる。
最初のポピーは、花びらが絹、茎が針金、花芯が瀝青(アスファルトの一種)でできていた。値段の違う4種類があり、大きな絹の花、小さな花、木綿の花、そして子ども向けの厚紙の花が並んだ。胸に付ける花は、最初から懐具合に合わせて選べるものだった。
03
1922年、オールド・ケント・ロードの襟工場の2部屋から
傷痍軍人を雇う工場は、4年後にリッチモンドの醸造所跡へ移った

ウェストミンスター寺院の「追悼の野」(2010年11月)。小さな木の十字架の一本一本に赤いポピーが付いている。
フランスから買うより、英国で安く作りたい。退役軍人会のこの考えに応えたのが、陸軍少佐ジョージ・ハウソンだった。1917年に戦功十字章を受けた将校で、戦争で体に障害を負った元兵士を支える団体をすでに立ち上げていた。1922年5月、会は彼に2000ポンドを渡し、ポピーの工場を作らせる。ハウソンは手紙に「ポピーを作るための2000ポンドの小切手をもらった」と書き、これを障害のある男たち150人を雇う産業の始まりにしたい、と続けている。
工場は1922年6月5日の月曜日、ロンドン南部のオールド・ケント・ロード近くにあった襟の工場の、2部屋を借りて始まった。オールド・ケント・ロードは、ロンドン版のモノポリーでいちばん安い組に入っている通りである。数週間のうちに40人を超える元兵士が働き始め、3年で100人を超えた。
1926年、手狭になった工場のために、ハウソンと妻はロンドン南西部リッチモンドの、ピーターシャム・ロードにあった古い醸造所の跡地を買った。テムズ川とリッチモンド・パークに近い場所は、傷を負った兵士の回復を考えて選ばれたという。工場の隣には働く人の家族のための集合住宅が建ち、かつてはパブも映画館もあった。第二次世界大戦が始まるころ、働く人は365人になっていた。
ハウソンは、いまも続く行事をもうひとつ残している。1928年、彼はウェストミンスター寺院の外の芝地を、誰でも身内を偲んでポピーを1本植えられる場所にしようと提案した。最初は彼と工場の仲間が、戦場の十字架を1本囲み、ポピーを載せた盆を手に集まっただけだった。それでも、その年に芝生に植えられたポピーは3万本を超えた。ポピーはのちに小さな木の十字架などに替わり、いまは連隊や団体ごとに200を超える区画が並ぶ。「追悼の野」と呼ばれるこの場所は、毎年11月、追悼の日曜日の前の木曜日から10日あまり公開される。
ハウソンは1936年11月、50歳で亡くなった。リッチモンドの工場はいまも同じ場所にあり、毎年数万個の花輪を作っている。ただ、仕事の9割は、障害のある退役軍人が職に就くための支援になった。
04
スコットランドのポピーは花びらが4枚で、葉が無い
1926年、ヘイグ伯爵夫人がエディンバラの小屋で始めた
リッチモンドの工場がいくら作っても、ポピーはスコットランドまでほとんど届かなかった。イングランドでの需要が大きすぎたのである。1926年、ヘイグ伯爵の妻は、スコットランドのためだけにポピーを作る工場をエディンバラに開いた。夫のヘイグはエディンバラの生まれである。最初の工場は、旧市街を貫く大通りロイヤル・マイルの坂の下、屋敷の敷地に建つ小屋だった。
2022年当時の工場の支配人は、その始まりをこう語っている。「男が3、4人と、はさみが1丁、それにクレープ紙が少し。それが20年代の終わりには、100人を超える男たちを雇うまでになった」。
伯爵夫人が考えたポピーは、花びらが4枚で、葉が付いていない。リッチモンドで作られていたのは、花びらが2枚で、緑の葉が1枚付いたものだった。この違いはいまも続いていて、11月のスコットランドとイングランドでは、胸の花の形が違う。
なぜ4枚にしたのか。スコットランドのポピー基金の公式の歴史は、伯爵夫人が花びら4枚で葉の無い花を考えた、と書くだけで、理由には触れていない。基金の募金担当の責任者は、2022年の取材にこう答えている。「スコットランドのポピーは植物として正しい、野に咲くポピーを見れば花びらは4枚ある——というのが、この工場に伝わる言い伝えです」。そして、こう続けた。「でも、二つのポピーをめぐる言い伝えや噂はどうでもいいのです。どちらも、この100年に軍が払ってきた犠牲を表しているのですから」。
イングランドのポピーの葉にも曲折がある。退役軍人会によれば、ポピーは1987年に葉を取り戻した。一度は無くなっていたのを、葉のあるほうが好まれていると分かって戻したのだという。イングランドの葉は、植物の形ではなく、人々の好みで付いている。
エディンバラの工場はいまも、障害のある退役軍人がポピーを手で組み立てていて、その数は年に200万本とも300万本ともいわれる。
05
付けないと責められる花——2016年、FIFAはポピーに罰金を科した
赤のかわりに、白いポピーを付ける人たちもいる
11月に入ると、英国のテレビに映る人の胸には、ほぼ必ずポピーがある。ニュースのキャスターも、政治家も、司会者も付けていて、画面に出る人がポピーを付けるのは決まりごとのようになっている。民放チャンネル4の報道番組で長く看板キャスターを務めた人物は、画面では何の記章も付けないと決めていた。付けろという世間の圧力を、彼は「ポピー・ファシズム」と呼んでいる。「結局のところ、キャスターが襟に何を付けているかより大事なことが、世の中にはあるはずだ」。
サッカーでは、国際問題にまでなった。2016年11月11日、ロンドンのウェンブリー競技場でワールドカップ予選のイングランド対スコットランドが行われ、両国の選手はポピーをあしらった黒い腕章を巻いて試合に出た。国際サッカー連盟(FIFA)は、試合に政治的な象徴を持ち込むことを禁じている。ポピーはそれに当たるとして、FIFAはイングランドのサッカー協会に4万5000スイスフラン、スコットランドに2万スイスフランの罰金を科した。翌12日の試合で同じことをしたウェールズと北アイルランドも罰金を受けている。英国の各協会は、ポピーは政治的な象徴ではないと反論した。英国内の強い反発を受けて、翌2017年、FIFAは事前に認められればポピーを付けてよいと扱いを改めた。
一方で、赤いポピーに距離を置く人たちもいる。1933年、協同組合運動の女性部の会員たちが、白いポピーを作った。第一次世界大戦で身内を亡くした会員の多い会だった。白いポピーは、戦争で死んだすべての人を悼み、戦争そのものを終わらせる決意を表すものとされ、いまは1934年に生まれた反戦団体、平和誓約同盟が配っている。
06
2023年、ポピーはプラスチックをやめて紙に戻った
ロンドン塔の堀を埋めた88万8246本と、11時の2分間
胸のポピーの形は、100年のあいだに何度も変わってきた。1930年代には木綿と絹を重ねた花に、布の葉と金属の花芯が付いた。第二次世界大戦中は材料不足で種類が4つから2つに減り、厚紙だけで作った花も出た。1967年には茎と花芯がプラスチックになり、花びらは1枚の紙から作るようになった。花芯に刻まれた文字は長く「ヘイグ基金」で、1994年に「ポピー募金」に改められている。
そして2023年、退役軍人会は3年あまりかけて開発した、プラスチックを使わない紙だけのポピーを出した。家庭の資源ごみに出せる紙で、紙コップの端切れを含む再生できる繊維から作られている。黒い花芯には「ポピー募金」の文字が型押しされ、葉には折り目が付いている。
ロンドンでポピーがいちばん大きな姿を見せたのは、2014年である。英国の参戦から100年のこの年、陶芸家と舞台美術家が考えた88万8246本の陶器のポピーが、ロンドン塔の空堀を少しずつ埋めていった。1本が、第一次世界大戦で死んだ英国と植民地の兵士1人を表す。8月5日に始まり、最後の1本が植えられたのは11月11日だった。見に来た人はおよそ500万人。花は1本25ポンドで売られ、収益は軍に関わる慈善団体に回った。
11月11日の午前11時に2分間黙る習わしは、1919年、国王ジョージ5世の呼びかけで始まった。翌1920年の同じ日には、官庁街ホワイトホールの戦没者記念碑(セノタフ)が石造りで建て直され、除幕されている。いまは11月の第2日曜日、追悼の日曜日に、国王と首相がこの碑に花輪を捧げる。
日本でポッキーの日の夜8時が来るとき、ロンドンは午前11時を迎え、街が2分間止まる。その胸元にある紙の花は、カナダの軍医の詩から生まれ、米国の教師が身に付け、フランスの女性が海を越えて売り込み、英国の傷痍軍人が組み立ててきたものである。
参考資料
- スコットランドのポピー、ふたたび咲く(1930年代の「ヘイグ基金」のポピー)所蔵国立陸軍博物館(英国)nam.ac.uk(新しいタブで開きます)
- 時代ごとのポピー(1921年から2023年の紙のポピーまで)公式王立英国退役軍人会(ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン)britishlegion.org.uk(新しいタブで開きます)
- ポピー工場の沿革公式ポピー工場(ザ・ポピー・ファクトリー)poppyfactory.org(新しいタブで開きます)
- ポピーの歴史公式ポピースコットランドpoppyscotland.org.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年11月確認)。
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