2026年10月6日
クリスマスカードは1843年、手紙の返事を書く暇がなかったロンドンの役人、ヘンリー・コールが思いついたものだった。千枚刷って1枚1シリングで売り出したが、高すぎて売れず、子どもがワインを掲げる絵は禁酒派に咎められた。それから40年足らずで、女王までがカードの多さに音を上げるようになる。
12月になると、英国の家の棚や暖炉の上はカードで埋まる。この習慣には、はっきりした始まりの日がある。1843年12月17日の夜、ロンドンのある役人の家に、画家が一枚の図案を届けた。役人の名はヘンリー・コール。のちにヴィクトリア&アルバート博物館の初代館長になる人物である。
最初のカードは、なぜ売れず、なぜ咎められたのか。そして、発明した本人までが作った年を覚え違えていたのはなぜか。本人の日記と回想録、当時の記録からたどる。
1843年12月17日の日記と、ペニー郵便
ヘンリー・コールの日記の、1843年12月17日の欄に短い一行がある。
夜、ホースリーが来て、クリスマスカードの図案を持ってきた。
最初のクリスマスカードが形になった晩の記録である。
コールはこのとき35歳で、公文書館に勤める役人だった。ただ、本業だけに収まる人ではなかった。古文書を整理するかたわら、雑誌に美術や建築の案内を書き、自分の子どもたちのために絵本の叢書まで出していた。
コールには、郵便の大改革に関わった前歴もあった。それまでの英国の郵便は、距離と紙の枚数で料金が決まり、しかも受け取る側が払う仕組みだった。庶民には高くつく。改革を唱えたローランド・ヒルのもとで、コールは1837年から1840年まで補佐役を務め、改革を広めるための新聞を作った。
1840年1月、全国どこへでも、重さ半オンス(約14グラム)までの手紙を1ペニーで送れる「ペニー郵便」が始まった。英国内で出された手紙は、1839年の7600万通から、1840年には1億6800万通へと倍以上に増えた。
手紙が安くなれば、手紙は増える。年末の挨拶状も例外ではなかった。当時は、届いた手紙に返事を出さないのは失礼とされていた。仕事をいくつも抱えたコールには、知人ひとりひとりに季節の手紙を書く時間がない。自分が広めた安い郵便が、自分の机に返事の山を作っていたのである。
そこで彼は考えた。挨拶の文句と絵を先に刷っておけばいい。あとは宛名と署名を書き込むだけで済む。図案を頼んだのは、親しい画家のジョン・コールコット・ホースリーだった。
三つに区切った絵と、千枚の手彩色
ホースリーが描いたのは、横長の一枚を三つに区切った絵だった。大きさは縦8センチ、横13センチほどで、いまの葉書よりひと回り小さい。
中央には、食卓を囲む一家がいる。祖父母から孫までの三世代がグラスを掲げ、こちらに向かって乾杯している。描かれたのはコール自身の一家だと言われる。下に垂れた布には「メリー・クリスマス、そして新年おめでとう」の文字がある。
左右の小さな枠には、貧しい人に食べ物を分ける場面と、着る物のない人に服を着せる場面がある。どちらも聖書が説く慈善の行いである。祝宴のすぐ隣に施しを置いたところに、このカードの真面目さがある。
絵の上には「〜へ」、下には「〜より」と書き込む欄があった。宛名と自分の名前を書けば、挨拶状が一枚できあがる。いまのクリスマスカードと同じ仕組みが、最初の一枚ですでに出来ていた。
図案は石版で黒一色に刷られ、中央の場面だけを職人が一枚ずつ手で彩色した。売り出したのは、コールの絵本を出していた出版人の店で、ロンドンのオールド・ボンド・ストリートにあった。
刷られたのは千枚とされる(2回に分けて計2050枚刷ったという説もある)。コールは自分で使う分を取り、残りを店頭に出した。文芸誌に載った広告は、こう謳っている。
新刊。クリスマス祝賀カード、あるいは古きイングランドの祝宴をかたどった絵。親しき友のあいだに、懐かしい思い出をいつまでも。
値段は1枚1シリング。1シリングは12ペンスだから、ペニー郵便で手紙を12通出せる金額である。手彩色の品とはいえ、気軽に何十枚も買える値段ではなかった。
ホースリーは、自分の分の一枚をコールに送っている。署名の代わりに右下へ小さな自画像を描き込み、「1843年のクリスマスに」と添えた。この一枚は、いまヴィクトリア&アルバート博物館に収められている。
同じ月の12月19日には、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』が刊行された。英国のクリスマスにとって、1843年の暮れはそういう季節だった。
禁酒運動の時代と、40年後の画家
カードは売れなかった。ヴィクトリア&アルバート博物館の解説も、商売としては失敗だったと書いている。値段が高かったうえに、絵そのものに文句が付いたのである。
中央の食卓をよく見ると、大人に交じって小さな子どもたちもグラスを手にしている。一人はグラスを口に運んでいる。この一家団欒の絵が、子どもに酒を勧めていると咎められた。
時代が悪かった。1830年代の英国では、酒を一滴も飲まないと誓う「完全禁酒」の運動が、北部の工業の町から全国へ広がっていた。安い蒸留酒による酩酊は、貧困と家庭崩壊の元凶とみなされていた。禁酒を説く人々の目には、幼い子が祖父母と並んでワインを掲げる絵は、聖なる祝日を汚すものに映った。
この騒ぎは、半世紀後にもまだ語り草だった。1894年、美術雑誌『ステューディオ』のクリスマス特別号で、評論家のグリーソン・ホワイトはこう皮肉っている。
この幾年のあいだの酩酊の事例をすべて調べたとして、ホースリー氏のこの図案、あるいはその仲間のカードに、ほんのわずかでも原因をたどれるものが一件でも見つかるだろうか。
皮肉はもうひとつある。図案を描いたホースリーは、のちに王立美術院の会員にまで上りつめた。そのホースリーが晩年、道徳の側に立つ。1885年、美術学校で裸の人物を前に置いて写生させることに反対し、新聞『タイムズ』に投書して大論争を起こしたのである。
口の悪い人々は、物干し台を指す英語「クローズ・ホース」(直訳すると「服の馬」)に名前を引っかけて、彼を「クローズ・ホースリー」と呼んだ。人物に服を着せたがるホースリー、というわけである。
子どもに酒を飲ませたと咎められた画家は、40年後、絵の人物に服を着せろと説く側に回っていた。
バレンタインの工房と、コマドリの配達人
コールのカードは、すぐに後継を生んだわけではない。1848年に別の画家が似たカードを作るなど、いくつかの試みはあったが、どれも少数にとどまった。
クリスマスカードが本当に広まりはじめるのは、1860年代に入ってからである。1862年には、トランプの製造で知られたロンドンの会社が売り出し、ほかの業者も続いた。
先のホワイトは、このころの業者がコールのカードを知っていたかどうかは分からない、と書いている。習慣はコールの一枚から一直線に育ったのではなく、20年後に別の入口から始まり直した、というのが彼の見立てだった。
その入口のひとつが、バレンタインカードだった。ヴィクトリア朝の英国では、2月14日に恋人へ飾り立てたカードを贈る習慣がすでに盛んだった。機械で打ち抜いた紙のレース、布の貼り付け、開くと花が飛び出す仕掛けなど、技術も揃っていた。
業者にとって、クリスマスは願ってもない市場だった。バレンタインカードは一人に1枚で足りるが、クリスマスカードなら20枚は要る。初期のクリスマスカードには、文句を差し替えただけのバレンタインの意匠が多く、季節外れの花や恋人たちが平気で描かれていた。
郵便も追い風になった。1870年には半ペニーで送れる葉書が導入され、季節の挨拶はさらに安くなった。1879年には、ドイツから安いカードを輸入していた業者が、十数枚を一袋にまとめて1ペニーで売り出した。袋は生地屋やたばこ屋、おもちゃ屋の店先に並んだ。1枚1シリングだった品が、1ペニーで十数枚になったのである。
このころから、カードの絵に赤い胸のコマドリが目立つようになる。英国では、赤い上着を着た郵便配達人がコマドリのあだ名で呼ばれていた。多色刷りで鮮やかな赤が刷れるようになると、手紙をくわえたコマドリが、カードを届ける配達人に重ねられた。いまも英国のクリスマスカードにコマドリが多いのは、その名残である。
1881年のクリスマスと、郵便袋3704袋
カードが増えたことは、郵便局の数字にも表れた。郵政大臣の報告によると、1880年のクリスマスの週、ロンドンの中央郵便局を通った手紙と小包は、ふだんより1150万通多かった。翌1881年のクリスマスには、ふだんより多かった手紙がおよそ1250万通、余分に届いた郵便袋は3704袋にのぼった。
いまも「1880年に英国で1150万枚のクリスマスカードが作られた」という数字がよく引かれる。たどっていくと、おそらくこの報告に行き着く。カードの枚数ではなく、クリスマスの週にロンドンの中央局で増えた郵便物の数である。
その1881年の12月23日、ヴィクトリア女王は日記にこう書いた。
とても忙しく、送らなければならないクリスマスカードの多さに圧倒されている。
2日後のクリスマスには、子どもたちや親類、友人から多くのカードを受け取った、とも記している。
38年前、手紙の返事を書く暇がないからと作られたカードが、今度は女王の机に山を作っていた。手間を省くための発明が、それ自体ひとつの手間になる。コールの思いつきは、ペニー郵便がたどった道をそっくり繰り返したことになる。
コール本人は、その翌年の1882年に亡くなった。カードのあとも休まず働いた人だった。1851年にはハイドパークの万国博覧会を取り仕切り、1857年から1873年まで、のちのヴィクトリア&アルバート博物館の初代館長を務めた。1875年にはナイトに叙されている。日記を読むと、クリスマスの日にさえ書類を書いていた。
回想録の「1845年」と、2万ポンドの一枚

最初のクリスマスカードは、いつ作られたのか。いまでは1843年で決着しているが、19世紀の終わりには、この年がはっきりしていなかった。
コールの回想録『公務の50年』は、本人の死後に子どもたちが仕上げ、1884年に出版された。その中でコールは、自分が出したカードを「おそらく史上初めて出たクリスマスカード」と書いている。ところが、そこに付いた注では、このカードはホースリーが1845年に描いたことになっている。
1894年の『ステューディオ』は、さらに1年ずらした。ホワイトはカードを1846年の作とし、複製にも「最初のクリスマスカード(1846年)」と説明を付けた。上の写真がその複製である。皮肉なことに、同じ文章の中でホワイトは、クリスマスカードの起源は太古の霧に消えてはおらず、確かな証拠に支えられている、と胸を張っていた。
この「1846年」は、その後も長く引き写された。写真の複製を所蔵する米国議会図書館の目録にも、この年が残っている。
決め手になったのは、冒頭に引いたコールの日記だった。1843年12月17日に、ホースリーが図案を届けたと書いてある。ホースリーがコールに送った一枚にも、本人の手で「1843年のクリスマスに」と書き込まれている。発明した本人の回想録より、その晩の日記のほうが正確だった。
最初の千枚のうち、いま残っているのは十数枚から20枚あまりとされる。数え方は資料によってまちまちで、2001年の時点では12枚、2019年の展示の際には21枚と紹介された。
2001年11月24日、イングランド西部ウィルトシャー州の競売で、その一枚が2万ポンドで落札された。ギネス世界記録は、これを競売で最も高く売れた挨拶状として記録している。1シリングで売れ残った品の、およそ40万倍の値段である。
ヴィクトリア&アルバート博物館はいま、3万点を超える挨拶状を収める国の収蔵庫になっていて、その半分以上がクリスマスカードだという。英国では、いまも毎年クリスマスにおよそ10億枚のカードが買われる。
最初の一枚は、子どもがワインを掲げる絵のせいで咎められ、高すぎて売れず、発明者本人にさえ年を覚え違えられた。それでも、宛名と名前を書くだけで気持ちが届くという仕組みだけは、183年たったいまも、最初の一枚のまま変わっていない。
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