2026年10月7日
1962年1月1日、まだ無名だったビートルズはロンドン北西部のスタジオで15曲を録音し、レコード会社デッカの審査に落ちた。「ギターのバンドはもう古い」という断り文句はロック史で最も有名な見込み違いとして語られてきたが、言ったとされた男は死ぬまで否定し続け、翌年にはローリング・ストーンズと契約している。不合格のテープはオックスフォード通りのレコード店を経てEMIへ渡り、2025年にはバンクーバーで見つかってマッカートニーの手に戻った。
ビートルズのロンドンは、アビー・ロードの横断歩道から始まるわけではない。最初の舞台は、そこから北西へ2キロほど、ウェスト・ハムステッドの裏通りに建つ赤レンガの建物である。1962年の元日、4人はここで不合格になった。この連載では、ビートルズがロンドンに残した場所を一つずつ訪ねていく。第1回は、落ちたオーディションの話から始めたい。
イングランドでは、元日はまだ休日ではなかった
始まりは1961年12月13日の夜である。リヴァプールの地下の店キャヴァーン・クラブに、ロンドンから一人の男が来ていた。レコード会社デッカで新人の発掘と録音を受け持つマイク・スミスだ。
スミスを呼び寄せたのは、地元の家業の店でレコード売り場を任されていた27歳のブライアン・エプスタインである。この年の暮れから、店の近くの地下で演奏していた4人組の面倒を見始めていた。デッカでレコードの解説文を書いていたリヴァプール近郊出身の記者に頼み込み、会社に話を通してもらったのだった。
スミスは演奏を気に入った。のちに「ビートルズは素晴らしかった」「客の反応がすごかった」と振り返っている。その場で契約とはいかなかったが、ロンドンのスタジオで正式に録音して審査する、という約束になった。日取りは1962年1月1日。
いまの感覚では奇妙な日付だが、当時のイングランドでは元日は平日だった。元日が休日(銀行休日)になったのは1974年のことである。
大晦日、4人はバンに機材を積んでリヴァプールを出た。のちに世界中が名前を覚える3人と、翌1962年の夏にバンドを外されることになるドラマーである。運転は付き人の青年が受け持った。雪の中で道に迷い、ロンドンまで10時間かかった。着いたのは夜10時。レノンはのちに「トラファルガー広場の噴水に酔っぱらいが飛び込むのに、ちょうど間に合った」と話している。泊まったのは、ラッセル・スクエア近くの「ロイヤル」という名前ばかり立派なホテルだった。
翌朝、4人が向かったのはロンドン北西部ウェスト・ハムステッドのブロードハースト・ガーデンズ165番地。1880年代に工房として建てられ、貸しホールや別のレコード会社の録音所を経て、1937年からデッカのスタジオになっていた赤レンガの建物である。
ところが、肝心のスミスがなかなか来ない。前夜の新年会の酒が残っていたうえ、クリスマスの3日前に起こした自動車事故の傷も癒えていなかったという。本人は雪のせいにした。しかも4人は、リヴァプールから運んできた自分たちのアンプを使わせてもらえず、スタジオ備え付けの機材で演奏することになった。
選曲したのはバンドではなくマネージャーだった
曲を選んだのはエプスタインである。審査のための録音は2〜5曲が普通だったが、彼は15曲を並べた。狙いは、このバンドは何でもこなせる、と見せることにあった。
並んだのは、クラブで鳴らしていたロックンロールだけではない。メキシコの歌謡曲「Besame Mucho」、ブロードウェイのミュージカル『ザ・ミュージック・マン』の挿入歌「Till There Was You」、1921年の流行歌「The Sheik of Araby」。のちのビートルズからは想像しにくい、ホテルの宴会場で歌われそうな曲が混じっている。
自作の曲は3曲だけだった。「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love of the Loved」。3曲とものちにほかの歌手に譲られ、ビートルズ自身の演奏で発売されることは、解散まで一度もなかった。
録音は一発録りで、あとから音を重ねたり差し替えたりはしていない。ビートルズの足跡を最も細かく調べてきた研究家マーク・ルイソンは、どの曲も2回目を演奏する機会はおそらく与えられなかっただろう、と書いている。
出来はどうだったのか。本人たちの評価は割れている。マッカートニーは後年こう語った。
いまテープを聴くと、デッカに落ちた理由はわかる。僕らはそれほどうまくなかった。面白くて独創的なところもいくつかはあったけれど。
レノンの見方は違った。
あれで僕なら落とさない。悪くない音だと思う。デッカは磨き上げられたものを期待していたんだろう。こっちはただの試し録りのつもりだった。
録音を終えたエプスタインは、手応えを感じていたという。スミスも乗り気に見えた。
ただ、この日スタジオで審査を受けたのはビートルズだけではなかった。同じ日、ロンドンの東の郊外ダゲナムから来たバンドも録音している。ブライアン・プールとトレメローズ。この2組が、ひとつの枠を争うことになる。
自伝に書かれた一言と、死ぬまで続いた否定
返事はなかなか来なかった。1か月あまりたった2月6日の火曜日、エプスタインはロンドンでデッカの2人と昼食の席についた。新人の発掘と録音の部門を率いるディック・ロウと、営業部長である。
エプスタインが1964年に出した自伝『地下室いっぱいの騒音』によれば、ロウはこう切り出した。
率直に申し上げます、エプスタインさん。私たちはお宅のバンドの音が好きではありません。ギターを抱えた4人組は、もう流行りません。
エプスタインはこう返したと書いている。
どうかしている。あの4人はいずれ爆発する。いつかエルヴィス・プレスリーより大きくなると、私は確信している。
ロウはさらに、リヴァプールでのレコード店の商売がうまくいっているのだから、そちらに戻ってはどうか、と勧めたという。
この場面は「ギターのバンドはもう古いですよ」という形に縮められ、ロック史で最も有名な見込み違いとして繰り返し引かれてきた。だが、出どころには注意がいる。自伝が出たのは、ビートルズが世界を制した1964年である。しかも書いたのはエプスタイン本人ではなく、ビートルズの広報を務めていた記者の代筆だった。2年前の昼食の会話を、勝った側が書き起こしたものなのだ。
ロウは1986年に亡くなるまで、そんなことは言っていないと否定し続けた。彼の言い分では、決めたのは部下のスミスだった。
どちらにするか君が決めろ、とスミスに言った。ビートルズか、ブライアン・プールとトレメローズか。彼は「どちらもいい。でも片方は地元のバンドで、もう片方はリヴァプールから来る」と答えた。地元のバンドを取るほうがいい、ということになった。ダゲナムなら一緒に仕事をしやすいし、連絡も取りやすい。
同じ日に審査した2組のうち、取れるのは1組。決め手は音楽ではなく、ロンドンからの距離だった。これがデッカ側の説明である。
ただし、デッカは扉を完全に閉じたわけでもなかった。ロウは、およそ100ポンドの経費をエプスタインが持つなら、社の制作者にシングルを1枚録らせてもよい、と持ちかけている。翌7日、エプスタインはその制作者に会った。人気バンド、シャドウズの元ドラマーである。相手は遅れて現れ、ビートルズの録音を見下すような口をきいた。話はそれきりになった。
エプスタインはこの頃、もう一つの大手EMIにも売り込んでいた。宣伝担当の幹部が社内の制作者3人にテープを聞かせたが、3人とも断った。2月の初め、ビートルズにはレコード会社の当てがひとつも残っていなかった。
1962年2月8日、録音室で盤を刻んだ技師

エプスタインの手元には、デッカで録った15曲のテープがあった。彼はこれを、売り込み先ですぐにかけられるようレコード盤に移しておくことにした。
2月8日に向かったのは、オックスフォード通り363番地のHMVである。1921年に作曲家エルガーを招いて開店した、英国を代表するレコード店だ。店内には、客が自分の演奏を録音したり、テープを盤に刻んだりできる小さな録音室があった。
盤を刻んだ技師ジム・フォイは、聞こえてくる音に興味を示した。そして、同じ建物の上の階に事務所を構える音楽出版社を紹介した。EMI傘下の会社で、レコードではなく曲の権利を扱う。
出版社が目を留めたのは、演奏ではなく曲だった。15曲のうち3曲だけ入れた自作曲、とりわけ「Like Dreamers Do」である。こうした自作曲の権利を自社で預かれるなら、と出版社の責任者はEMIの制作者への橋渡しを引き受けた。デッカの審査ではおまけのように扱われた3曲が、ここで道を開いたことになる。
紹介された先は、ジョージ・マーティン。EMIの中の小さな部門パーロフォンの責任者で、当時はコメディのレコードで知られていた。
2月13日、ロンドン中心部マンチェスター・スクエアのEMI本社で、マーティンはデッカのテープから刻んだ盤を聞いた。のちに彼はこう書いている。
控えめに言っても、録音はとても感心できるものではなかった。ただ、音に独特の質感、ある種の荒々しさがあった。試してみる価値はある、と思った。
3か月後の5月9日、マーティンは契約を申し出る。6月6日、4人はEMIのスタジオで初めて録音した。所在地はアビー・ロード3番地。元日に落ちたデッカのスタジオから、直線で2キロほどしか離れていない。
HMVの店の壁には、2000年4月26日にマーティン自身が除幕した青い銘板が掲げられている。
1962年、この店はビートルズの歩みに大きな役割を果たした。店の録音室でバンドの78回転の試聴盤が刻まれ、それがビートルズとEMIの長い録音契約につながった。
HMVはその後この建物を出たり戻ったりしたが、2023年11月24日に再びここで店を開いた。
「She Loves You」を1位から降ろした曲と、ローリング・ストーンズ
デッカが選んだトレメローズは、期待に応えた。1963年10月10日、彼らの「Do You Love Me」は全英チャートの1位になり、3週間その座にいた。1位から押し出した曲は、ビートルズの「She Loves You」だった。
ロウの方はどうか。1963年5月、彼はリヴァプールのフィルハーモニック・ホールで開かれたバンドのコンテストで、審査員席に座っていた。審査員として並んでいたのが、ジョージ・ハリスンである。ハリスンはロウに、ロンドンで見たばかりのバンドを勧めた。ローリング・ストーンズという名前だった。
ロウはロンドンに戻ると、リッチモンドのクラブへ彼らを見に行き、数日のうちにデッカとの契約をまとめた。ある音楽紙の評者はこう書いている。
ストーンズをデッカに推したビートルズは、いずれその日を悔やむことになるかもしれない。このバンドは、すぐにでも首位を争う相手になりうる。
その後もロウは、トム・ジョーンズやムーディー・ブルースなど、1960年代の英国の音楽を担う顔ぶれを次々に獲った。ブロードハースト・ガーデンズのスタジオでは、1964年に17歳のデヴィッド・ボウイが最初のシングルを録音している。
それでもロウの名前には、生涯「ビートルズを断った男」がついて回った。ストーンズのマネージャーは、自身の回想録にこう書いている。
ディック・ロウはビートルズを断った男ではない。私に大きな転機をくれた男、ストーンズと契約した男だ。
ロウは1986年6月6日、64歳で亡くなった。
4人が演奏したデッカのスタジオは、1980年代のはじめに閉じた。建物はいまロンドンの歌劇団イングリッシュ・ナショナル・オペラの稽古場になっていて、2021年8月には、国の登録建造物(2級)に指定されている。
2025年、バンクーバーのレコード店で
デッカの録音は、その後長く海賊盤で出回った。正式に世に出たのは33年後の1995年、ビートルズ自身がまとめた『アンソロジー1』に収めた5曲である。
テープそのものも、何度か表に出てきた。2012年12月には、デッカの控えのテープとされるものが競売にかけられ、日本の収集家が3万5000ポンドで落札している。ただ、これが本物かどうかは専門家の間で疑われている。入っていたのは15曲ではなく10曲で、テープも1962年の録音には使われていなかったはずの銘柄だった。
2025年3月、話は思わぬ場所から動いた。カナダのバンクーバーで1981年からレコード店を営むロブ・フリスが、何年も前に手に入れたまま眠らせていたテープを聴いてみたのだ。箱には「ビートルズのデモ」とだけ書かれていた。ありふれた海賊盤だろうと思っていたが、音が違った。
ビートルズが部屋にいるようだった。
それは元日の15曲をそっくり収めた、原盤から直接写したとみられるテープだった。たどると、地元のレコード会社の元経営者が1970年代にロンドンを訪ねた際、ある制作者から譲り受けたものだった。元経営者は、テープの扱いについてこう話している。
彼らは有名だ。正当な印税を受け取るべき人たちだ。
フリスはテープを売らなかった。2025年9月、妻と2人の息子を連れてロサンゼルスへ飛び、リハーサル中のマッカートニーに手渡した。マッカートニーは「いまどき、こんなことをする人はいない」と言い、2時間近く話し込んだうえ、翌日のリハーサルにも一家を招いた。フリスはこう振り返る。
お金以上のものをもらった。好きな音楽家に会って、思っていた以上にいい人だとわかった。それがすべてだ。
1962年の元日、雪の道を10時間かけて運ばれた15曲は、デッカでは落とされた。そのテープがオックスフォード通りのレコード店で盤になり、アビー・ロードへの道を開いた。63年後、同じ15曲は、落とされた4人のうちの一人の手に戻った。
次回は1965年、バッキンガム宮殿の話をする。4人が勲章を受けると発表されると、先に同じ勲章をもらっていた人たちから、抗議の返上が相次いだ。
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