2026年10月5日
「ジャンボ」はもともと「大きい」という意味の言葉ではなかった。1865年にパリから痩せ細ってロンドン動物園に来た子象が、17年かけて英国一の人気者になり、1882年にアメリカの興行師へ2000ポンドで売られた。子どもたちは嘆き、会員は裁判を起こし、新聞は「10万ポンドなら手放すか」と電報を打った。一頭の象の名前が、世界中で「巨大」を意味するようになるまでの話。
ジャンボジェット、ジャンボ餃子、ジャンボ宝くじ。日本語でもすっかりおなじみの「ジャンボ」は、ヴィクトリア朝のロンドンに実在した一頭の象の名前である。夜ごと象舎で暴れ、売られる日には地面に寝そべって動かず、海の向こうで汽車にはねられて死んだ。その象の一生を、残された記録からたどる。
1823年の俗語と、1882年の意味の転換
英語の jumbo を辞書で引くと「並外れて大きい」とある。ところが、この意味で使われるようになったのは1882年からだ。
オックスフォード英語辞典が挙げる最も古い用例は1823年。ロンドンの俗語を集めた本に、jumbo は「不器用で図体ばかり大きい男」として載っている。つまり、もとは褒め言葉ではなく、からかいの言葉だった。語源ははっきりしない。西アフリカの言葉で象を指す語から来たという説、まじないや意味のない呪文を指す mumbo jumbo の後ろ半分だという説、スワヒリ語で「首長」を意味する jumbe や、あいさつの jambo から取ったという説が並んでいる。
この言葉の意味を書き換えたのが、ロンドン動物園にいた一頭のアフリカゾウだった。誰がこの名を付けたのかも、実は分かっていない。飼育係が「のろまな大男」というあだ名のつもりで付けたのか、当時好まれたアフリカ風の響きを狙ったのか。確かなのは、この象があまりに有名になったせいで、名前のほうが普通名詞になってしまったということだ。
1882年、この象がアメリカに売られた年から、jumbo は「巨大な」という意味の形容詞として新聞に出はじめる。買い主のアメリカ人興行師は、辞書の「巨大な」「途方もない」といった言葉をすべて jumbo の一語に置き換えたい、と語っていたと伝えられる。それは果たせなかったが、1970年に就航したボーイング747が「ジャンボジェット」と呼ばれたのを見れば、かなりいいところまで行ったと言っていい。
では、その象はどこから来て、なぜ売られたのか。
1865年、ロンドン動物園と飼育係スコット
ジャンボは1860年ごろ、いまのスーダンかエリトリアのあたりで生まれたとされる。母親は狩人に殺され、子象だけが捕らえられた。商人の手を経てパリの植物園の動物園に送られ、1865年6月、ロンドン動物園にやって来た。ロンドン動物学会は、インドサイ1頭との交換でこの子象を手に入れている。
着いたときの姿はひどいものだった。肩までの高さは1.2メートルほど。痩せて汚れ、皮膚病にかかっていた。世話を任されたのは、それまでレイヨウの担当だった飼育係マシュー・スコットである。彼は後年の自伝に、初めて見た子象のことをこう書いている。
これほど惨めで、病んで、腐りかけた生き物が、神の大地を歩いたことはなかった。
スコットは子象につきっきりで看病した。妻をもたず、ほとんど象と暮らすような生活だったという。子象は持ち直し、みるみる大きくなった。1880年代の初めには肩の高さが3メートルを超え、体重は6トンを超えた。
大きくなったジャンボは、動物園の看板になった。背中に座席をのせ、子どもたちを乗せて園内を歩いた。乗った子どもは延べ数十万人と言われ、王室の子どもたちも乗ったと伝わる。気性は穏やかで、子どもに対しては「よく仕込まれたプードルのようにおとなしい」と評された。
来園者はパンや菓子を与えた。スコットはそのための丸パンを1個1ペニーで売り、売り上げを自分の懐に入れていたという。客がジャンボに与えたのは食べ物だけではなかった。のちにジャンボが死んだとき、胃の中からは英国の1ペニー硬貨、金貨や銀貨、石、鍵の束、ガラス玉、ねじ、針金、そして警官の呼び子笛まで出てきた。17年分の「人気」が、そのまま腹にたまっていた。
8インチ角の樫の柵と、2017年の骨の調査
昼は子どもを乗せる優しい象が、夜になると別の顔を見せた。
ジャンボは夜、象舎で暴れた。とりわけスコットがそばにいないと荒れ、壁に頭を打ちつけた。2本の牙はロンドンにいるあいだに両方とも折れ、生え直した牙も石の壁にこすりつけて削ってしまった。
動物園の園長エイブラハム・バートレットは、これを深刻に受け止めていた。成熟した雄の象には、繁殖期に気が荒くなる時期がある。過去にはその時期の象が人を殺し、射殺された例もあった。バートレットはのちに裁判所でこう証言している。ジャンボは「鉄で裏打ちした8インチ(約20センチ)角の樫の柵を、頭突きで叩き折った」。いまの象舎では抑えきれない、というのである。
そこへ1881年10月12日、アメリカの興行師P・T・バーナムから買い取りの申し出が届いた。値段は2000ポンド。動物園の運営を担う評議会は、これを受けることに決めた。持て余しかけていた危険な大型動物を、大金と引き換えに手放せる。園にとっては渡りに船だった。
ただ、ジャンボが荒れた本当の理由は、130年以上たってから別の形で示されることになる。2017年、英国の公共放送BBCは、博物学者デイヴィッド・アッテンボローが案内役を務める番組で、ニューヨークに残るジャンボの骨格を調べた。調査を率いたレスター大学の研究者たちが最初に目を留めたのは、歯だった。
象の奥歯は、すり減ると後ろから次の歯が押し出されてくる仕組みになっている。ところが動物園の柔らかい餌、とりわけ客が与えた甘いパンでは歯がすり減らない。古い歯が居座り、新しい歯は押し出せずに曲がって生えていた。番組は、夜ごとの荒れようは繁殖期の興奮というより、ひどい歯痛のせいだった可能性が高いと結論づけている。
子どもたちが差し出した1ペニーのパンが、象を痛めつけ、売られる理由をつくっていたことになる。
1882年、ジャンボ狂騒と法廷

売却の知らせが1882年2月に新聞に出ると、英国じゅうが騒ぎになった。
ヴィクトリア女王のもとには、ジャンボを引き留めてほしいという子どもたちの手紙が届いた。皇太子も売却を批判したと伝えられる。美術評論家のジョン・ラスキンは動物学会の会員として、評議会の決定を「残念に思うだけでなく、自分は与しないと表明する」と書いた。街にはジャンボの名を付けたネクタイ、帽子、扇子、葉巻、香水があふれ、寄席では歌手のG・H・マクダーモットが「なぜジャンボを手放すのか」という歌を歌った。別れを惜しむ客が動物園に押し寄せ、皮肉なことに園の入場料収入は跳ね上がった。
新聞デイリー・テレグラフの編集者は、バーナムに電報を打った。いくらなら売買を取りやめるか。バーナムの返信は短かった。
10万ポンド積まれても、取りやめる理由にはならない。
2000ポンドで買った象である。
ジャンボ自身も、出発を拒んだ。2月、輸送用の大きな木箱が象舎の前に据えられたが、ジャンボは入ろうとしない。スコットが園の外の通りまで連れ出すと、ジャンボは地面に伏せて動かなくなった。新聞はこれを「ジャンボはロンドンを離れたくないのだ」と書き立てた。もっとも後年の研究には、伏せる合図を教え込んでいたスコットが、象と離れたくなくて仕組んだのではないかという見方もある。バーナムはこの知らせに「好きなだけ寝かせておけ、いい宣伝になる」と返したとも伝わるが、これは確かな記録がない。
動物学会の会員の一部は、法廷に訴えた。学会の規則には動物を売る権限など書かれていない、売却を差し止めよ、という申し立てである。1882年3月7日、大法官府裁判所でチッティ判事が審理した。判事は、代金が支払われたと学会の事務局長が報告した2月22日の時点で、象はすでに売られていたと判断した。世論がどれほど嘆こうと、合法な取引を取り消す理由にはならない。申し立ては退けられた。
3月下旬、ジャンボはようやく箱に入った。馬に引かれて夜の街を東へ運ばれ、ロンドン塔のそばのセント・キャサリン・ドックから貨客船アッシリアン・モナーク号に積まれた。スコットも一緒だった。
1885年9月15日、カナダのセント・トーマス
1882年4月9日、ジャンボはニューヨークに着いた。バーナムの読みは当たった。マディソン・スクエア・ガーデンでの興行は大入りで、わずか3週間ほどで2000ポンドの買い値を取り戻したと言われる。ジャンボはサーカス列車で全米を回り、1884年5月17日には、開通したばかりのブルックリン橋を21頭の象を率いて渡ってみせた。橋が象の重さにも耐えるという宣伝である。
スコットも雇われ、ジャンボの世話を続けた。この飼育係は自分の流儀を曲げなかった。毎日ジャンボにビールを飲ませ、具合が悪いときには薬だと言ってウイスキーを与えた。禁酒主義者だったバーナムが「私の象にウイスキーを飲ませるのは反対だ」と抗議しても、意に介さなかったという。
終わりは突然だった。1885年9月15日の夜、カナダのオンタリオ州セント・トーマス。興行を終えたジャンボは、スコットに連れられて線路伝いに専用車両へ向かっていた。そこへ予定にない貨物列車が近づいてきた。線路の片側には列車が止まっていて、象が逃げられる場所はなかった。機関車はジャンボの後ろからぶつかった。頭蓋骨が砕け、ジャンボはまもなく息を引き取った。スコットはその横に這い寄り、泣いていたと伝えられる。
バーナムはこの死さえ興行に使った。ジャンボは仲間の小さな象トム・サムを救おうとして、自ら列車の前に立ちはだかったのだ——そう触れ回ったのである。実際にはトム・サムも列車にはねられて脚を折っており、英雄的な身代わりの話は作り話と見られている。バーナムはさらに、ロンドン動物園からジャンボの「妻」として雌の象アリスを買い入れ、「未亡人」として巡業に連れ回した。ロンドンにいたころ、2頭はとくに仲が良かったわけではない。
そして名前だけが言葉になった
バーナムは万一に備え、ジャンボが死んだら皮と骨を標本にする約束を、あらかじめ標本業者と交わしていた。皮は木の型にかぶせて剥製に、骨は組み直して骨格標本になり、2年間、生きていたころと同じように巡業に連れ出された。
骨格はその後ニューヨークのアメリカ自然史博物館に贈られ、いまもそこにある。剥製はバーナムが支援していたボストン近郊のタフツ大学に贈られ、学生たちは試験の前に鼻に硬貨を入れて幸運を祈った。ジャンボはいまも同大学の運動部の象徴である。その剥製は1975年4月、建物の火事で焼けてしまった。運動部の関係者が焼け跡の灰をすくって、ピーナツバターの空き瓶に入れた。瓶はいまも大学に保管されている。
スコットのその後は寂しい。ジャンボを失ってから世間を離れ、1914年、コネチカット州ブリッジポートの救貧施設で亡くなった。
ジャンボの大きさにも、ひとつ皮肉が残っている。死んだときの肩の高さは3.23メートル。バーナムは4メートル近いと宣伝していたから、だいぶ水増しされていたことになる。ところが2017年の骨の調査では、骨の端の成長が止まっておらず、ジャンボはまだ育ち盛りだったことも分かった。生きていれば、宣伝どおりの大きさに届いていたかもしれない。
ロンドン動物園には、いまは象がいない。2001年、最後の象たちは郊外のホイップスネイド動物園に移された。ジャンボが子どもを乗せて歩いた園内に、その面影はほとんどない。
それでも、ジャンボの名前は言葉として世界中に残った。「のろまな大男」という悪口だった言葉が、一頭の象のおかげで「巨大な」を意味するようになり、飛行機の名前になり、日本の宝くじの名前にまでなった。英国の子どもたちが手放したくなかったものは、結局、英国を出ていったあとに一番大きくなったのである。
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