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    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

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    2026年10月9日

    ロンドンの街歴史・事件人物

    連載「ビートルズのロンドン物語」全 3 回 の第 3 回

    アビー・ロードの横断歩道は1969年、10分で撮られた——6枚の写真が、41年後に国の文化財になるまで 第3回

    1969年8月8日の朝、ビートルズはスタジオの前の横断歩道を渡り、写真家は脚立の上から10分間で6枚を撮った。仮の題「エベレスト」は通りの名前に変わり、ジャケットは「ポールは死んでいる」という噂の種になり、スタジオは7年後にこのアルバムから名前をもらった。そして2010年、この横断歩道は国の文化財になった。

    アビー・ロードの横断歩道は1969年、10分で撮られた——6枚の写真が、41年後に国の文化財になるまで 第3回

    前回、レノンが勲章を宮殿に返したのは1969年11月だった。その3か月前の夏の朝、4人はスタジオの前の横断歩道を渡っている。世界でいちばん有名な横断歩道の、10分間の話である。

    「エベレスト」になるはずだったアルバム

    ヒマラヤまで飛ぶ案が、スタジオの前の道に変わった

    1969年の夏、ビートルズはロンドン北西部セント・ジョンズ・ウッドのEMIのスタジオで、新しいアルバムを仕上げつつあった。仮の題は「エベレスト」。録音技師が吸っていたたばこの銘柄で、箱に描かれた雪山の影絵を4人が気に入ったのだという。

    題に合わせて、ジャケットの写真はヒマラヤの麓まで自家用機を飛ばして撮る、という案まで出た。だが録音を終わらせたい気持ちのほうが勝った。マッカートニーが言い出したのは、ずっと手近な案である。スタジオの外に出て写真を撮り、アルバムには通りの名前をつければいい。

    こうしてアルバムの題は、スタジオの住所の「アビー・ロード」になった。アビーは修道院のこと。この道は、かつて北のキルバーンにあった女子修道院へ向かう小道だった。

    マッカートニーは構図を自分で紙に描いた。4人がスタジオから歩み去っていくところを、横断歩道の上で撮る。その絵をもとに、写真家が細かい段取りを組んだ。

    1969年8月8日、午前11時35分

    脚立の上から10分間、撮れたのは6枚

    撮影は8月8日の金曜日、午前中に決まった。4人がスタジオに来るのはふだん午後2時か3時ごろで、朝ならファンが集まっていないと考えたのである。記録では、リンゴが10時15分に、ほかの3人は11時過ぎに着いた。

    カメラを構えたのは、スコットランド東部ダンディー生まれのイアン・マクミラン、30歳。小野洋子の展覧会を撮った縁でレノンに紹介され、この仕事を頼まれた。

    マクミランは道路の真ん中に高さ3メートルほどの脚立を立てて上り、警官が車を止めた。与えられた時間は10分。4人は横断歩道を行ったり来たりし、マクミランは片道ずつ3枚、合わせて6枚だけを撮った。

    服装は、3人がサヴィル・ロウの仕立て屋のスーツ。ハリスンだけが上下ともデニムだった。マッカートニーはサンダルで来ていたが、何枚目かで脱いで、裸足で渡った。暑かったから、サンダルがきつかったから、と理由は伝わっている。

    マッカートニーは6枚を虫眼鏡で一枚ずつ見比べ、5枚目を選んだ。4人の脚がそろって大きく開き、行進するように見える唯一の1枚である。よく見ると、マッカートニーだけが踏み出す足が逆になっている。

    表の写真には、バンド名もアルバムの題も入れなかった。デザインを担当した人物は、のちに「彼らは世界でいちばん有名なバンドだった」から要らなかったのだ、と説明している。

    写真の奥、歩道に停まった警察車両の脇に、男が一人立っている。アメリカから旅行に来ていた男性で、妻には「博物館はもう十分だ。ゆっくり見ておいで」と言って別れ、警官と30分ほど立ち話をしていた。

    ふと顔を上げたら、あの連中がアヒルの行列みたいに道を渡っていた。

    髪は長いし、一人は裸足。「変わり者の集まりだと思った」という。自分の顔がビートルズのアルバムに載っていると知ったのは、帰国して半年後のことだった。2004年に名乗り出たとき、彼は92歳で、このアルバムを一度も聴いていなかった。

    「ポールは死んでいる」

    白いビートルのナンバー「28IF」

    アルバムは1969年9月26日に英国で発売された。その直後、アメリカで奇妙な噂が広がる。マッカートニーはすでに死んでいて、いまのポールは替え玉だ、というのである。

    9月に大学新聞が「ビートルのポール・マッカートニーは死んだのか?」という記事を載せ、10月12日にはデトロイトのラジオ番組に、この噂を伝える電話がかかってきた。司会者は1時間にわたってこの話をした。2日後、ミシガン大学の学生新聞が、ジャケットの「証拠」を並べた記事を載せる。書いた学生はのちに、手がかりの多くは自分の作り話だったと認めている。

    噂によれば、ジャケットの写真は葬列だった。先頭を行く白い服のレノンは天上の人。2人目、黒い服のリンゴは葬儀屋。最後尾、デニムのハリスンは墓掘り。そして、裸足で一人だけ足並みの違うマッカートニーは遺体だという。左利きの彼が右手にたばこを持っているのも、替え玉の証拠とされた。

    決め手とされたのが、写真の左に停まっている白いフォルクスワーゲン・ビートルのナンバーである。「LMW 281F」の「281F」が「28IF」と読まれ、「生きていれば(IF)28歳」の意味だとされた。実際には、撮影の時点でマッカートニーは27歳だった。「LMW」は「リンダ・マッカートニー、未亡人」の頭文字だという説まで出た。マッカートニーはこの年の3月にリンダと結婚したばかりだった。

    この車は、スタジオの向かいの集合住宅に住む人のものだった。発売後はナンバープレートが何度も盗まれた。車は1986年に競売にかけられて2530ポンドで売れ、のちにフォルクスワーゲン社が買い取って、ドイツ・ヴォルフスブルクの自社の展示施設に収めた。

    当のマッカートニーは、11月にアメリカの写真誌『ライフ』の取材に応じた。

    噂が立ったのは、僕が最近あまり新聞に出ていなかったからだろう。家族と一緒にいられて幸せだよ。

    24年後の1993年、彼はライブ盤に『ポール・イズ・ライヴ』(ポールは生きている)という題をつけた。ジャケットには、あの日の撮影で撮った写真を加工して使った。裸足だった足には靴を履かせ、ビートルのナンバーは「51IS」——いま51歳で、生きている——に書き換えてある。

    4人がそろった、最後の夏

    アルバムがスタジオに名前を与えた

    横断歩道の写真は、4人がそろって写った最後の写真のひとつになった。

    8月20日、4人はこのスタジオで、アルバムの曲順を決める作業をした。4人が同じスタジオにそろったのは、この日が最後である。2日後の22日、ロンドン西郊アスコットのレノンの家で、4人そろっての最後の写真撮影が行われた。翌年、ビートルズは解散する。

    スタジオの建物は、1831年に建てられた寝室9つのジョージ王朝様式の邸宅である。スタジオになる前、この家には一時期、モーンディ・グレゴリーという男が住んでいた。第一次世界大戦の末から1920年代にかけて、政党への献金と引き換えに爵位や勲章を斡旋し、ナイトの称号に1万ポンドの値をつけた人物である。1933年、勲章の売買を禁じた法律で有罪になり、罰金50ポンドと禁錮2か月を言い渡された。この法律で有罪になったのは、いまも彼一人とされる。前回の勲章の話と、妙なところでつながっている。

    1929年、レコード会社がこの家を買い、裏の広い庭に録音室を建て増した。1931年11月の開所では、作曲家エルガーがロンドン交響楽団を指揮している。以来、ここは長く「EMIスタジオ」と呼ばれてきた。

    名前が変わったのは1976年である。支配人が、ビートルズとのつながりを生かそうと看板を掛け替え、スタジオは正式に「アビー・ロード・スタジオ」になった。通りの名をもらったアルバムが、今度はスタジオに名前を与えたことになる。

    2010年2月、経営難のEMIがスタジオの売却を検討していると報じられた。高級マンションに建て替えるのではないかという声が上がり、政府はその月のうちに、建物を登録建造物(2級)に指定した。

    横断歩道が、国の文化財になった日

    「城でも大聖堂でもないが」

    同じ2010年の12月22日、今度は横断歩道そのものが登録建造物(2級)に指定された。歴史的建造物を所管する政府機関(イングリッシュ・ヘリテッジ)の助言を受けて、観光・文化財担当の大臣が決めた。横断歩道が文化財として登録されたのは、これが初めてだった。

    大臣の言葉はこうである。

    このロンドンの横断歩道は、城でも大聖堂でもない。だが、ビートルズと、1969年8月のある朝の10分間の撮影のおかげで、ほかのどんなものにも劣らず、私たちの文化遺産の一部だと主張できる。

    政府機関の担当者も「明らかに異例の案件だ。控えめな構造物だが、この横断歩道は世界に名を知られ、いまも大きな文化的な引力を持っている」と述べた。

    ただし、ひとつ厄介な問題が残っている。この横断歩道が、1969年と同じ場所にあるのかどうかである。地元のウェストミンスター区の担当者は指定のとき、昔の写真と地図を比べると、当時の横断歩道はもう少し北、スタジオの正面寄りにあったかもしれない、と話した。1970年代の交通整備で数メートル動いた可能性があるという。一方で、写真を見比べるとほぼ同じ位置だ、という見方もあり、指定した側も、動いたかどうかは確かめられていない。

    文化財になっても、ここは毎日車が通る公道である。スタジオの塀はファンの落書きで埋まり、3か月ごとに塗り直されている。角の建物に掛かる「アビー・ロード」の道路標識は、何度も落書きされたり盗まれたりしたため、手の届かない高さに付け替えられた。

    もうひとつのアビー・ロード

    東ロンドンの駅に立つ、ビートルズの曲名だらけの案内板

    東ロンドンのドックランズ・ライト・レイルウェイ、アビー・ロード駅の案内板。ピンクの文字がビートルズの曲名で、セント・ジョンズ・ウッド駅への行き方を案内している。2019年撮影。写真: Kiteinthewind / CC BY-SA 4.0
    東ロンドンのドックランズ・ライト・レイルウェイ、アビー・ロード駅の案内板。ピンクの文字がビートルズの曲名で、セント・ジョンズ・ウッド駅への行き方を案内している。2019年撮影。写真: Kiteinthewind / CC BY-SA 4.0

    横断歩道へ行くなら、最寄りは地下鉄ジュビリー線のセント・ジョンズ・ウッド駅である。ここから歩いて10分足らずで着く。

    気をつけたいのは、「アビー・ロード駅」を目指してしまうことだ。2011年、東ロンドンを走る新交通システム、ドックランズ・ライト・レイルウェイ(DLR)に、同じ名前の駅ができた。横断歩道から十数キロ離れた、まったく別の場所である。翌2012年、近くでオリンピックが開かれると、この駅で降りて横断歩道を探すビートルズのファンが相次いだ。近所の横断歩道で、あのジャケットのように並んで写真を撮っていく人まで現れた。

    ロンドン交通局の広報は「ときどき同じ地名があって、訪れた方が混乱されるのは残念なことです」と話した。そのうえで駅に立てたのが、写真の案内板である。

    日帰り旅行者(Day Tripper)さん、ビートルズの横断歩道をお探しですか?

    ここも、そこも、どこもかしこも(Here, There and Everywhere)歩き回って、まるでMagical Mystery Tourの気分?

    残念ながら、ここは違うアビー・ロードです。でも、一緒に解決しましょう(We Can Work It Out)。

    案内は、DLRで1駅先のウェスト・ハムで降りてジュビリー線に乗り換え、セント・ジョンズ・ウッドへ向かうように、と続く。最後は「乗るには切符(Ticket to Ride)が必要です」で締めくくられている。

    1969年の撮影では、警官が車を止めてくれた。いまはそうはいかない。写真を撮るなら、車の流れを見てから渡りたい。

    1969年8月8日の朝の10分間と6枚の写真は、アルバムに名前を与え、スタジオに名前を与え、ひとつの横断歩道を国の文化財にした。

    次回は時計を半年戻して、1969年1月30日の話をする。舞台はサヴィル・ロウ3番地、ビートルズの会社アップルの屋上。前回、レノンが勲章を返す手紙を出したのも、この建物からだった。4人が最後に人前で演奏した42分間と、止めに来た警官の話である。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    アビー・ロード(ビートルズで有名な横断歩道)|ロンドン観光スポット

    アビー・ロード(ビートルズで有名な横断歩道)

    連載「ビートルズのロンドン物語」全 3 回

    1. 1ビートルズは1962年元日、デッカのオーディションに落ちた——断った男は翌年ストーンズを獲った 第1回
    2. 2ビートルズは1965年にMBE勲章を受けた——元軍人は抗議で勲章を返し、4年後にはレノンも送り返した 第2回
    3. 3アビー・ロードの横断歩道は1969年、10分で撮られた——6枚の写真が、41年後に国の文化財になるまで 第3回(この記事)

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    ビートルズは1965年にMBE勲章を受けた——元軍人は抗議で勲章を返し、4年後にはレノンも送り返した 第2回

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