2026年8月11日
ウェストミンスター橋からブラックフライアーズ橋まで続く、プラタナス並木の美しい遊歩道「ヴィクトリア・エンバンクメント」。ロンドンでもっとも気持ちのいい散歩道のひとつだが、その足元には下水道と地下鉄が積み重なっている。しかもこの道は、もともとテムズ川だった場所に建っている。すべての発端は、1858年の夏、国会議事堂を襲った耐えがたい悪臭だった。
ロンドンを歩いていると、たまに「この道、なんでこんなに広くて真っ直ぐなんだろう」と思う場所がある。テムズ川の北岸、ヴィクトリア・エンバンクメントもそのひとつだ。答えは単純で、この道は道として作られたものではないからである。これは下水道の屋根だ。
「大悪臭」という名前がついてしまった夏
1858年の夏、ロンドンは記録的な暑さに見舞われた。日陰でも34〜36℃、直射日光の下では48℃に達したという記録が残っている。
そして、テムズ川が発酵した。
当時のロンドンは、事実上テムズ川を下水処理場として使っていた。水洗トイレが普及しはじめたことが、皮肉にも事態を決定的に悪化させていた。それまで各家庭の汚水溜め(cesspit)に溜まっていたものが、水洗化によって一気に下水管へ、そしてそのまま川へと流れ込むようになったからである。衛生設備の進歩が、川を巨大な汚水溜めに変えたのだ。
川岸に建つ国会議事堂は、控えめに言っても最悪の立地だった。テムズ川に面した側のカーテンには、塩化石灰(chloride of lime)を染み込ませて臭いを抑える措置が取られた。効果はほとんどなかったと伝えられている。議員たちは書類を手に、鼻を押さえながら議場を移動した。
この夏は「The Great Stink(大悪臭)」として歴史に名を残すことになる。歴史的事件に「すごい悪臭」という身も蓋もない名前がついている例は、そう多くない。
自分の鼻が痛いと、政治は速い
ここからの展開が、この話のいちばん人間くさいところだ。
ロンドンの下水問題は、この夏に突然発生したわけではない。何十年も前から指摘され、何度も委員会が作られ、何度も計画が却下されてきた。金がかかりすぎる、というのが常に理由だった。コレラの大流行が繰り返されても、議会は動かなかった。
ところが1858年、議員自身が臭いに耐えられなくなった途端、話は一変する。
6月15日、当時の下院院内総務兼財務大臣ベンジャミン・ディズレーリが法案を提出する。彼はテムズ川を「言語に絶する耐えがたい恐怖を放つ、ステュクスの淵(a Stygian pool, reeking with ineffable and intolerable horrors)」と表現した。ステュクスとはギリシャ神話の冥界を流れる川である。財務大臣の議会答弁としては、なかなかの詩的表現だ。
法案は7月末に審議され、8月2日に成立した。提出からわずか18日。数十年動かなかった案件が、3週間足らずで片づいたことになる。
この法律により、メトロポリタン工事局(Metropolitan Board of Works)は300万ポンドの借入権限を得た。返済は40年かけて、ロンドンの各世帯に3ペンスの課税を上乗せする形で行われることになった。
ミアズマ説とジョン・スノウの不遇
ここに、科学史としてなかなか味わい深いねじれがある。
当時の医学界の主流は「ミアズマ説」だった。コレラやその他の疫病は、悪い空気=瘴気(miasma)によって広がるという考え方である。だからこそ「臭い」は文字通り命に関わる問題として恐れられた。1858年に議会が動いたのも、根底には「この臭いは我々を殺す」という恐怖があった。
一方、医師ジョン・スノウは1849年の時点で、コレラは空気ではなく水を介して伝染するという説を発表していた。1854年のブロード・ストリートのポンプの調査は、疫学の教科書に必ず載る古典的な仕事である。しかし当時、彼の論文はほとんど注目されなかった。
つまり1858年のロンドンは、間違った理論(悪い空気が病気を起こす)に突き動かされて、正しい対策(汚水を川から取り除く)を実行したことになる。動機は誤っていたが、結果として下水は川から遠ざけられ、飲み水と汚水は分離され、コレラは激減した。
スノウの説が広く受け入れられるのは、1866年の流行以降のことである。その流行が、まだ新しい下水網に接続されていなかった一部地域に限って発生したという事実が、決定打になった。皮肉なことに、ミアズマ説に基づいて作られた下水道が、ミアズマ説を葬る証拠を提供したのだ。
160年後まで効いた、一人の技師の判断
この工事を任されたのが、技師ジョゼフ・バザルジェット(1819–1891)である。フランスから渡ってきたユグノー(プロテスタント)の家系で、祖父はジョージ4世の仕立て屋兼金融業者だった。バザルジェット自身は鉄道の仕事で働きすぎ、1847年に神経衰弱で倒れた経歴を持つ。
彼の計画は、川に向かって流れ込んでいた既存の下水を、川と平行に走る大規模な「遮集下水道(intercepting sewer)」で横取りし、市街地からはるか東の下流まで運んでから放出する、というものだった。最終的に、82マイルの主要下水道と、街路の下の1,100マイルの下水網、そして3億1,800万個のレンガが使われた。デプトフォード、クロスネス、アビー・ミルズに揚水場が建てられた。
しかし、バザルジェットの本当の功績は規模ではなく、ある一つの判断にある。
彼は当時のロンドンの人口から必要な下水管の直径を計算し——そのうえで、その数字を2倍にした。今の人口ではなく、これから増えるであろう人口に合わせたのである。ロンドンの街がどこまで膨らむのか、誰にもわからなかった時代の判断だった。「こういうものは一度しか作れない」という趣旨のことを彼は述べたと伝えられる。
さらに彼は、断面を円ではなく卵形にすることにこだわった。卵形の断面は、水量が少ないときに流れが下部の狭い部分に集中するため、流速が落ちない。流速が落ちなければ、汚物が底に堆積しない。掃除の要らない下水道を、形状だけで実現しようとしたわけである。
加えて、当時としては高価だったポートランドセメント——水に強く、極めて硬い——を採用した。この選択が、150年後まで構造が持ちこたえる理由になる。
下水道・地下鉄・ガス管・水道管を、一度に埋める
さて、ここでようやく冒頭の散歩道の話に戻る。
低い位置を走る遮集下水道を通すには、川沿いに巨大な構造物が必要だった。バザルジェットの解決策は大胆だった。テムズ川そのものを削るのである。
川の干潟部分に仮締切(コファダム)を築いて水を排除し、その内側を埋め立てて花崗岩で固める。こうしてウェストミンスター橋からブラックフライアーズ橋にかけて、川から土地が奪い取られた。同じ手法でアルバート・エンバンクメント(1869年)、ヴィクトリア・エンバンクメント(1870年)、チェルシー・エンバンクメント(1874年)が作られている。テムズ川がこの区間で今の幅なのは、自然の姿ではなく、ヴィクトリア朝の土木工事の結果だ。
そしてこの新しい土地の中には、驚くほど多くのものが詰め込まれた。下から順に、低位遮集下水道、地下鉄(現在のディストリクト線・サークル線にあたる区間。開削工法で同時に埋設された)、ガス管、水道管、歩行者用の地下通路。その上に道路が敷かれ、並木が植えられ、庭園が作られた。ひとつの工事で、下水処理・都市交通・公共インフラ・公園を同時に手に入れたことになる。
ヴィクトリア・エンバンクメントは1870年7月13日、プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)とルイーズ王女によって開通した。工事費は約126万ポンド、これに用地買収費が約45万ポンド。
いまエンバンクメントを歩くと、イルカが絡みついた鋳鉄の街灯と、プラタナスの並木と、クレオパトラの針(1878年に立てられたエジプトのオベリスク)がある。観光客はテムズ川の眺めを楽しんでいる。その足の下、数メートルのところを、ロンドンの汚水が今も静かに東へ流れている。
2025年に稼働した「スーパー下水道」
バザルジェットが2倍にした数字は、驚異的に長く保った。
彼が1891年に亡くなったとき、ロンドンの人口は約550万人に倍増していたが、下水網はまだ余裕をもって機能していた。そして21世紀に入ってもなお、彼が敷いたレンガのトンネルの多くが現役で使われ続けている。ヴィクトリア朝の土木構造物が、そのまま現代の大都市の基幹設備として稼働しているのだ。
しかし、さすがに限界が来た。ロンドンの人口は900万人に届き、バザルジェットの想定の3倍になった。加えて彼の下水道は雨水と汚水を同じ管で流す合流式である。近年では、わずか数ミリの降雨で容量を超え、あふれた汚水が——設計上そうなるように——テムズ川へ放流される事態が、おおむね週に一度の頻度で起きていた。年間の放流量は数千万トン規模に達していた。
そこで建設されたのが、テムズ・タイドウェイ・トンネル、通称「スーパー下水道」である。ロンドンの地下深くを東西に貫く全長約25kmの巨大トンネルで、2016年に着工、2024年にほぼ完成し、2025年に本格稼働した。これにより、既存の下水網からテムズ川への汚水放流は約95%削減されると見込まれている。
興味深いのは、その基本的な発想がバザルジェットとまったく同じことだ。川に流れ込もうとするものを、川と平行な巨大な管で横取りして、下流へ運ぶ。150年以上前に一人の技師が描いた図面の論理が、そのまま21世紀の工事に引き継がれている。
エンバンクメントを散歩するとき、少しだけ足元を意識してみてほしい。あなたが立っているのは、かつてテムズ川だった場所であり、悪臭に耐えかねた議会が18日で通した法律の産物であり、間違った病気の理論から生まれた正しい都市計画であり、そして一人の技師が「念のため2倍にしておこう」と決めた判断が、160年間ロンドンを支え続けた証拠でもある。