2026年9月27日
ロンドンのハイド・パーク北東の角にあるスピーカーズ・コーナーは、「何を言っても逮捕されない場所」として知られる。だが規則を読むと、王立公園では演説そのものが原則として許可制で、ここはその禁止に空けられた小さな例外にすぎない。1855年の「教会へ行け!」の大群衆、1866年に倒された鉄柵、半年で4回書き直された規則——例外が生まれるまでの経緯と、その後の150年を辿る。

日曜にマーブル・アーチ駅を出て公園に入ると、脚立や箱の上に立った人たちが、てんでに何かを叫んでいる。神の裁きを説く人、国の行く末を論じる人、それに野次を飛ばす人。ここが世界でいちばん有名な言論の場と呼ばれるようになったのは、誰かが気前よく場所を与えたからではない。政府がこの公園を閉めようとするたびに、群衆がそれを覆してきたからだ。ただし、その末にできあがったのは、多くの人が思い描くような「無法地帯」ではなかった。
王立公園で演説するには、本来、大臣の許可がいる
スピーカーズ・コーナーについては、ガイドブックや旅行サイトが繰り返し書いてきた話が二つある。ここでは何を言っても逮捕されない。そして、すぐ近くにあったタイバーン処刑場で死刑囚に最後の演説が許されていた伝統を、この場所が受け継いでいる。——どちらも、半分だけ正しい。
タイバーンの絞首台がマーブル・アーチのすぐそば、いまのエッジウェア・ロードとの交差点あたりに立っていたのは事実で、処刑の前に群衆へ向かって語る死刑囚がいたのも本当だ。だが絞首台は1783年に撤去され、処刑はニューゲート監獄の前へ移された。ハイド・パークの一角が演説の場として法の上で扱われるのはそれから約90年後で、あいだをつなぐ記録は見つかっていない。王立公園を管理するロイヤル・パークスの公式サイトも、タイバーンについては「この場所の近くで」処刑が行われていたと紹介するにとどめ、スピーカーズ・コーナーの始まりは「1800年代半ば、ハイド・パークで抗議やデモが起きた頃」としている。
では「何を言っても捕まらない」のほうはどうか。いまハイド・パークを縛っているのは、1997年の「王立公園およびその他の空地規則(The Royal Parks and Other Open Spaces Regulations 1997)」である。第4条の見出しは「公園内で書面による許可を要する行為」。国務大臣の書面による許可を事前に得ない限り、公園の利用者は次のことをしてはならない——として、楽器の演奏、掲示や広告、集会や行進の組織などが並ぶ。その第15号にこうある。
公共の演説または講演を行うこと。ただし、ハイド・パークの公共演説区域においてはこの限りでない(make or give a public speech or address except in the public speaking area in Hyde Park)
つまり順序が逆なのだ。王立公園では、演説は原則として許可制である。その原則に、ハイド・パークの一画だけが例外として空けられている。「公共演説区域」は、カンバーランド・ゲートとノース・キャリッジ・ドライブ、スタンホープ・ウォーク、グロヴナー・ウォーク、ブロード・ウォークに囲まれた範囲と定められ、条文は「スピーカーズ・コーナーとして知られる区域を含む」と書き添えている。
しかも例外になっているのは第15号、演説だけだ。同じ第4条の第10号が定める音声を増幅する装置の使用は、ここでも許可が要る。だからスピーカーズ・コーナーの話し手はマイクを使わず、脚立や箱の上から地声で叫ぶ。そして話の中身には、公園の規則ではなく、脅迫や暴力の扇動を罰するふつうの法律が、公園の外と同じように適用される。
この「禁止のなかの例外」は、誰かが善意で用意したものではない。1855年から1873年にかけて、政府と警察が群衆を公園から締め出そうとし、群衆が押し返し、そのたびに政府が引き下がった。その繰り返しが、少しずつ形にしたものである。
日曜の商売を禁じる法案と、それを見物していたカール・マルクス
1850年代のロンドンで、労働者が休めるのは日曜だけだった。その日曜を狙う法律が続いた。まず、日曜の酒場の営業を夕方の数時間に限る法律ができた。続いて1855年、ミドルセックス選出の下院議員ロバート・グロヴナー卿が、ロンドンでの日曜の商取引を禁じる法案(Sunday Trading Bill)を出した。
日曜に店を開けているのは、土曜の夜に給料を受け取った労働者が買い物をする、街角の小さな店である。法案が狙い撃ちにしているのは貧しい人々だけではないか、と批判されたグロヴナー卿は、貴族の側も日曜には使用人や馬を使うのを大いに控えている、と答えた。
6月24日の日曜、ハイド・パークのサーペンタイン池に沿った馬車道に群衆が集まった。上流階級が馬車で流すことで知られた道である。チャーティストが貼り出したビラは、「職人、労働者、そして『下層の者たち』全般」に野外集会への参加を呼びかけていた。
この日の様子を、ロンドンに亡命していたカール・マルクスがドイツの新聞『ノイエ・オーダー・ツァイトゥング』に書き送っている(6月28日付)。午後3時の時点で約5万人、最終的には「少なくとも20万人」。群衆は、馬車で通りかかる紳士淑女に向かって、はっきり聞き取れる言葉としてはただ一つを繰り返した。「教会へ行け!(Go to church!)」。馬車の婦人が祈祷書を差し出すと、返ってきたのは「馬に読ませてやれ!」だった。
そこへバンクス警部が、警棒を振るう40人の警官を率いて現れた。警部はハイド・パークが「国王の私有地」であると告げ、解散を命じた。マルクスは記事をこう締めくくっている。「我々は最初から最後まで見物していたが、イギリス革命は昨日ハイド・パークで始まった、と言っても誇張ではないと考える」。
革命は始まらなかった。だが翌週の7月1日、群衆はまた来た。その数は15万人ともいわれ、警察は104人を逮捕した。翌7月2日の下院の議事録には、短い一行が残っている。「委員会付託の命令を取り消す。法案は撤回された」。
このときバンクス警部が口にした「国王の私有地」という理屈は、あとで効いてくる。ハイド・パークは国民のものではなく王室の財産であり、だから政府は門を閉められる——少なくとも政府はそう考えていた。11年後、その門は本当に閉められる。
選挙権を求める集会、「大臣が泣いた」という話の食い違い、そして何もしなかった政府

1860年代半ばのイギリスで、下院の選挙権は一定以上の財産を持つ男性に限られ、都市の労働者の大半は投票できなかった。1865年に結成された改革同盟(Reform League)は、成人男性すべてへの選挙権を掲げ、1866年7月、ハイド・パークでの大集会を計画した。
会長のエドモンド・ビールズは法廷弁護士である。彼は書面で集会を届け出た。返ってきた書面は、政府はハイド・パークでの集会を認められないが、プリムローズ・ヒルなら異議はない、というものだった。内務大臣スペンサー・ウォルポールは、当初は集会を力ずくで止めるのは正当化できないと考えていたが、閣議に押し切られて禁止を発表した。ビールズは、公園は国民のものであり、内務大臣に締め出す権限はない、と応じた。
7月23日の月曜。行列はあまりに長く、先頭の馬車がボンド・ストリートに着いたとき、最後尾はまだホルボーンを出ていなかったと伝えられる。マーブル・アーチの門は閉ざされ、警官が並んでいた。ビールズは門の前で入場を求め、拒まれると、法を破らないよう行列の大半を率いてトラファルガー広場へ向かい、そこで集会を開いた。
ついていかなかった群衆がいた。パーク・レーンとベイズウォーター・ロードに沿って続く鉄柵は、押すと揺れた。数百ヤードにわたって柵が引き倒され、人々は公園になだれ込んだ。警棒が振るわれ、数十人が逮捕された。近衛騎兵が呼ばれたが、手を出さずに控えた。騒ぎは3日間続いた。
このとき公園のオークの木が一本、火をつけられている。黒焦げになった切り株はその後、集会の告知を貼る掲示板になり、「改革者の木(Reformers' Tree)」と呼ばれる集合場所になった。いまその跡には白黒の小石を円く敷き詰めたモザイクがあり、2000年に政治家トニー・ベンが除幕している。
7月25日、ビールズら改革同盟の代表が内務省にウォルポールを訪ねた。ビールズは、公園に残る群衆を自分が説得して引き揚げさせると申し出た。このときウォルポールが泣いた、という話がたちまち広まり、「目に涙を浮かべて、自制が最善だと同意した」といまも書かれる。だがその場にいたジョージ・ジェイコブ・ホリオークは、ウォルポールが取り乱して泣いたという話は「まったくの事実無根」だと述べている(『英国人名辞典』)。
泣いたかどうかは分からない。確かなのは、政府がこのとき、公園を力ずくで取り戻すのを諦めたことである。
翌1867年の春、改革同盟は5月6日にハイド・パークで再び集会を開くと予告した。政府は集会を違法とする布告を出した。改革同盟は5月1日、禁止そのものが違法だとするポスターを貼り出して応じた。5月4日、政府は多数の特別巡査(非常時に市民から臨時に任命される巡査)を宣誓させた。街では、政府の布告が剥がされ、集会への参加を呼びかける黄色いビラが貼られた。
そして当日、政府は最後の最後で引き下がった。『タイムズ』は、政府は集会への反対を放棄した、と報じている。集まった人数の推計は4万人ほどから20万人まで大きく開くが、演壇は10か所に立ち、警官も兵士も手を出さなかった。集会は何事もなく終わった。
世間を驚かせたのは、禁止を破った側に何の処分もなかったことだった。怒りはウォルポールに向かった。首相ダービー伯は、あれは内閣の判断だったとして責任を引き受けたが、ウォルポールは内務大臣を辞した。ただし内閣には、担当を持たない無任所大臣として翌1868年2月まで残っている。
その年の8月、1867年選挙法改正(第二次選挙法改正)が成立し、都市部で働く男性の多くが初めて選挙権を得た。ハイド・パークの集会だけがその理由ではない。だが、改革同盟が街頭で示した数の力が、議会の議論を押したことは確かである。
そして、この2年でもう一つのことがはっきりした。政府は、ハイド・パークでの集会を止める権限が自分にあるのかどうか、実は確信を持てていなかった。1866年のウォルポールがまさにそうだったように。門を閉めることはできても、閉めてよいという根拠が、法律のどこにも書かれていなかったのである。整えるべきは、法律のほうだった。
届け出を無視したアイルランド人たちの集会と、12人への呼び出し状
1872年6月27日、公園規制法(Parks Regulation Act 1872)が成立した。ロンドンの15か所とスコットランドの2か所、あわせて17の王立公園を対象に、公園の番人に逮捕の権限を与え、公園ごとに規則を定めて園内に掲示させる法律である。この法律そのものは、演説の権利について何も書いていない。中身は、その下で作られる規則に委ねられた。
その規則が迷走した。1873年3月27日の下院で、保守党議員ジェームズ・ラウザーは、わずか半年あまりのあいだに出された規則の「版」を順に読み上げている。
第3版が出てひと月後の1872年11月3日、日曜。ハイド・パークで大集会が開かれた。獄中にいるアイルランド独立派(フィーニアン)の政治犯42人の恩赦を求めるもので、当時ロンドンにいたフリードリヒ・エンゲルスの報告によれば、楽隊と旗を先頭にした二つの大行列が公園に向かい、集まったのは約3万人。その半分が、緑のリボンか緑の葉を身につけていた。
主催した委員会は、届け出の規則について「その存在を知らないかのように振る舞う」ことを全会一致で決めていた。警官は演説者の名前を書き留め、あとから治安判事への呼び出し状が届いた。11月18日、マールバラ・ストリート警察裁判所で審理が開かれる。内務大臣ヘンリー・ブルースはのちに下院で、規則違反で呼び出されたのは「12人を下らない」と述べ、規則そのものが合法かどうかは上級裁判所の判断を待つ問題になった、と説明している。
1873年2月10日、そのブルースが下院で第4版を示した。
公共の演説は、マーブル・アーチからヴィクトリア・ゲートへ、そこから火薬庫へと走る乗馬道と、火薬庫からサーペンタイン池に沿ってハイド・パーク・コーナーへ、そこからマーブル・アーチへと走る馬車道とに囲まれた、公園の開けた部分以外で行ってはならない
事前の届け出は消えていた。残った条件は、違法な内容・目的の演説をしないこと、聴衆が道をふさがないこと、集会が合法で秩序立っていること、くらいである。範囲も、境界石のまわり20ヤードから、公園の東側に広がる開けた一帯へと一気に広がった。
ラウザーはこれに反発し、王立公園での公共の演説を禁じる規則をつくるよう女王に求める動議を出した。それが3月27日の演説である。動議は否決された。
こうしてスピーカーズ・コーナーは、境界石ひとつから始まり、半年のうちに公園の東側一帯にまで膨らんだ。いまの「公共演説区域」は、そこから北東の角へと再び絞られた姿である。
ロンドンで週に100か所あった野外演説のうち、ここだけが残った
1945年12月7日、ジョージ・オーウェルは週刊紙『トリビューン』に「公園の自由(Freedom of the Park)」という短い文章を書いた。きっかけは、ハイド・パークの外で新聞を売っていた5人が、通行妨害で警察に逮捕されたことだった。売っていたのは、平和主義団体の『ピース・ニュース』やアナキストの『フリーダム』などである。
オーウェルはそこで、公園の中の集会を「世界のささやかな驚異の一つ」と呼び、そこにいる顔ぶれをこう並べた。インドの民族主義者、禁酒運動家、共産主義者、トロツキスト……自由思想家、菜食主義者、モルモン教徒、救世軍、チャーチ・アーミー、そして「多種多様な、正真正銘の変人たち(a large variety of plain lunatics)」。その全員が順番を守り、群衆からおおむね機嫌よく話を聞いてもらっている、と。
ただし彼の結論は、この場所を守っているのは法律ではない、というものだった。「多くの人が言論の自由に関心を持っていれば、たとえ法律が禁じていても言論の自由はある。世論が鈍ければ、たとえ守る法律があっても、厄介な少数派は迫害される」。
その「世論」の側に長く立ち続けた一人が、メソジストの牧師ドナルド・ソーパーである。社会主義者で平和主義者だったソーパーは、1926年からロンドン塔そばのタワー・ヒルで、1942年からはハイド・パークでも野外で説教し、1965年に一代貴族に叙されてからも通い続けた。1998年12月22日に95歳で亡くなるまで、90代に入ってもなお台に立った。彼はここで交わされるものを「論争という名の交わり(fellowship of controversy)」と呼び、こう語っている。
言いたいことをはっきり言わざるを得なくなる。立派に聞こえるだけでは通用しない。大きな違いはこれだ——テレビには言い返せない!
2013年にまとめられたオーラル・ヒストリー集『サウンズ・フロム・ザ・パーク』によれば、1885年から1939年まで、ロンドンだけで毎週100ほどの野外集会が開かれていた。公園や街角で誰かが台に乗って話し、誰かが言い返す。第二次大戦後、ラジオとテレビの普及と歩調を合わせるように、それらは消えていった。残ったのはスピーカーズ・コーナーだけである。
ここでは野次は迷惑行為ではなく、文化だ。威勢のいい言い合いほど人を集めるものはないので、話し手のほうが野次を欲しがる。何人もが交代で立つ大ブリテン社会党(SPGB)の演壇では、うまく野次が飛んでこないと、仲間に質問役を演じさせることさえあった。1950年代の終わりから野次を飛ばしてきたトム・ティッケルは、ほとんどすべての点で意見の合わない社会主義者の話し手と、互いに一目置く仲だという。先日その相手からこう頼まれた、と彼は語っている。「ひとつ頼みがある。俺に向かって怒鳴りはじめてくれないか。それで人を集めよう」。ティッケルは喜んで引き受けた。
「スピーカーズ・コーナーでも、法は他のどこでもと同じく完全に適用される」
1997年10月2日の昼過ぎ、ロンドンから遠く離れたウェスト・ヨークシャーのウェイクフィールド大聖堂の階段で、3人の女性が説教をしていた。通りがかりの二人連れから苦情を受けて巡査が来たが、人だかりはなく、巡査はそのまま立ち去った。20分後に戻ると、100人を超える人が集まっていて、なかには敵意をむき出しにする者もいた。巡査は説教をやめるよう求め、女性たちが応じなかったため、職務執行を妨害したとして逮捕した。治安判事裁判所も刑事法院も有罪とした。
その一人、アリソン・レドモンド=ベイトの訴えを審理した高等法院は、1999年7月23日、有罪を取り消した。1866年にハイド・パークの柵が倒された日から、ちょうど133年後のことである。判決を書いたスティーヴン・セドリー控訴院判事は、こう述べた。
言論の自由には、当たり障りのないものだけでなく、苛立たしいもの、論争を呼ぶもの、奇矯なもの、異端のもの、歓迎されないもの、挑発的なものも含まれる。暴力を誘発する傾向がない限りにおいて。当たり障りなく話す自由だけなら、持つに値しない。
そして、すぐ続けてスピーカーズ・コーナーの名を挙げている。
スピーカーズ・コーナー(そこでも法は、他のどこでもと同じく完全に適用される)が示しているのは、寛容である。あらゆる意見に対して法が差し伸べる寛容であり、そして、聞いたことに——たとえ強く——反対する人々の振る舞いに法が求める寛容である。
冒頭の俗説に戻ろう。スピーカーズ・コーナーは、法の外にある場所ではない。判事が括弧の中でわざわざ断っているとおり、法は公園の外と同じようにここにも及ぶ。違うのは、法がここで何を守っているのかが目に見えることだ。不快な話をする自由と、それを聞かされた側は言い返しても殴りはしない、という約束。1855年の群衆が馬車に向かって叫び、1866年の群衆が柵を押し倒し、1872年のアイルランド人たちが届け出を無視したとき、求めていたのも、つまるところそれだった。
いまも日曜になると、話し手たちはマーブル・アーチ側の角に集まってくる。マイクは使えないから、脚立を持ってきて地声で話す。聞くだけなら誰でもよく、言い返すのも自由である。
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