2026年9月26日
1968年、沈みかけていたロンドン橋は競売にかけられ、アメリカのチェーンソー王ロバート・マカロックが246万ドルで落札した。1万276個の石に番号を振って海を渡らせ、アリゾナの砂漠に架け直し、そのあとで橋の下に川を掘った。「石の山に100万ポンドも払う者がいるか」と笑われた一人の議員の売り込みと、半世紀消えない「タワーブリッジと勘違いした」という噂の真相。

アメリカ・アリゾナ州の砂漠の町レイク・ハバス・シティに、ロンドン橋が架かっている。名前だけ借りたレプリカではない。1831年から1968年までテムズ川に架かっていた、本物のロンドン橋の石である。ロンドンのシティは、沈みかけた橋を捨てずに「売る」ことを選んだ。言い出したのは広告業界出身の新人議員で、買ったのはチェーンソーで財を成した実業家だった。そしてこの話には、ほぼ必ず「買い手はタワーブリッジと勘違いしていた」というオチが付く。それが本当かどうかも含めて、橋が海を渡るまでを追う。
1831年の橋は、8年に1インチずつ沈んでいた
「ロンドン橋落ちた、落ちた、落ちた」——英語では "London Bridge is falling down"。日本でも歌われるこの童謡のとおり、テムズ川のこの場所には何度も橋が架かっては失われてきた。最初はローマ人が紀元50年ごろに架けた木の橋で、その後も木造の橋が火事や戦で何度も落ちている。1209年に完成した石の橋は600年以上もち、橋の上には家や店が建ち並び、南の門には反逆者の首が槍に刺してさらされた。
この中世の橋がいよいよ限界を迎えた1799年、架け替えの設計競技が開かれる。話題をさらったのは、トーマス・テルフォードが出した、川を鉄のアーチひとつ(径間600フィート=約183メートル)で跨ぐという大胆な案だった。だが両岸の建物を大きく取り壊す必要があり、採用されたのはスコットランド出身の技師ジョン・レニーによる、花崗岩の楕円アーチを5つ連ねた手堅い設計だった。
レニー本人は1821年、着工を見ずに亡くなる。工事を引き継いだのは同名の息子ジョン・レニー(子)で、1825年6月15日に礎石が据えられ、1831年8月1日、国王ウィリアム4世とアデレード王妃を迎えて開通した。新しい橋は旧橋の約30メートル上流に架けられ、役目を終えた中世の橋は取り壊された。工費はおよそ250万ポンドで、政府とシティ・オブ・ロンドン自治体が分担している。
レニーの橋はロンドンでもっとも混む橋になった。1896年には、1時間に歩行者8,000人、車両900台が渡っている。1902年から1904年にかけて、技師エドワード・クラットウェルが花崗岩の持ち送り(張り出し)を付け足して幅を13フィート(約4メートル)広げた。
これが橋の寿命を縮めた。重くなった橋は、少しずつ川底へ沈み始めたのである。しかも沈み方が均等ではなかった。1924年には、東側が西側より3〜4インチ(8〜10センチ)低くなっていた。沈下の速さは年に8分の1インチ、つまり8年でおよそ1インチ。童謡の歌詞は、比喩ではなくなりつつあった。
シティの橋を管理しているのは、900年以上の歴史をもつ「ブリッジ・ハウス・エステーツ」という基金である(現在の名称はシティ・ブリッジ財団)。1960年代、この基金の委員会は長い議論の末、修理ではなく架け替えしかないという結論に達した。新しい橋はコンクリートで造る。では、古い橋の石はどうするのか。
広告畑の新人議員、アイヴァン・ラッキン

答えを出したのは、シティの議会(コモン・カウンシル)に入ったばかりの一人の議員だった。
アイヴァン・ラッキンは1907年7月生まれ。学校を出てミッドランド銀行に入り、行内の陸上大会で1マイル走の王者になった。その後は新聞『モーニング・ポスト』に移り、戦時中は空軍予備隊でレーダーに関わったらしい。戦後は広告業界誌を経て、1950年から1958年までニューヨークの出版社フェアチャイルド・パブリケーションズのロンドン駐在員を務め、ロンドンの広告人の団体「パブリシティ・クラブ・オブ・ロンドン」の会長にもなった。つまり本職は宣伝と売り込みで、アメリカの市場を肌で知っていた人物である。
ラッキンは1964年12月、シティのキャンドルウィック区から議員に選ばれ、翌1965年の初めにブリッジ・ハウス・エステーツの委員会に加わった。そして早い段階の会合で、こう尋ねた。「古いロンドン橋を売ってはどうでしょう」。
突飛な思いつきではなかった。アメリカの新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、スペインの中世の修道院を石ごと買い取って海を渡らせている。もっと身近な前例もあった。シティのセント・メアリー・オールダマンベリー教会——大火のあとクリストファー・レンが建て直し、1940年の空襲で外壁だけになった教会——が、ちょうど1965年から石に一つずつ番号を振って解体され、アメリカ・ミズーリ州フルトンのウェストミンスター・カレッジへ運ばれようとしていた。1946年にチャーチルが「鉄のカーテン」演説を行った、あの大学である。
委員会の反応は冷たかった。ラッキンが残したメモによれば、敵意に近かったという。委員会でのやりとりが記録に残っている。
「いくらで売れると思うのかね」「100万ポンドは下らないかと」「100万ドルと言ったのかね」「ポンドです」「ラッキン君、本当にそんな額を石の山に払う者がいると思うのか」
委員長はさらに、売るなら石を一つずつ丁寧に外して番号を振り、保管しなければならず、それだけで10万ポンドかかると切り返した。ラッキンが味方の市の技師長ハロルド・キングに見積もりを取らせると、追加費用は5,000ポンドだった。
1966年の秋、話が進まないことに焦ったラッキンは、売却を扱う小委員会を作ることを提案する。委員は彼が根回しして選んだ賛成派で固めた。のちに彼はこう振り返っている。「橋を架け替える必要があるなら売ればいいと言ったとき、みんな私が完全に頭がおかしいと思っていました」。
世界中の在外公館に配ったパンフレットと、締め切り前の渡米
小委員会はすぐに動いた。ラッキンが求めたのは、世界規模の宣伝と、よくできた販売用パンフレットである。1967年の夏に刷り上がったパンフレットは、デヴォン、コーンウォール、アバディーン産の花崗岩でできた5つの楕円アーチ、全長1,005フィート(約306メートル)の橋を売り物として紹介していた。ラッキンの指示で、これが世界中の英国の在外公館すべてに送られた。
問い合わせは各地から殺到した。だが、実際に入札しようという者はなかなか現れない。締め切りは1968年3月29日(金)と決まったが、2月の小委員会では「様子を見よう」という空気が広がっていた。ラッキンは最後のひと押しとして、自分をアメリカへ行かせてほしいと説得する。
出発前、彼は橋の上で急ごしらえの記者会見を開いた。その映像はニューヨークへ空輸され、全米のテレビ局やラジオ局、新聞に配信された。24時間後にラッキンがニューヨークに着くと、記者たちが待ち構えていた。
売り込みの中身が巧みだった。彼が売ったのは19世紀の石の山ではなく、紀元1世紀のローマ人にまでさかのぼる、2000年近いロンドンの歴史だった。アメリカの子どもなら誰でも「ロンドン橋落ちた」を歌える。その橋を丸ごと手に入れられる、というわけだ。
一行はワシントンで駐米大使サー・パトリック・ディーンと会い、もう一度記者会見を開いてから、ロサンゼルスへ飛ぶ。そこで待っていたのが、マカロック石油の社長C・V・ウッドだった。ウッドはディズニーランドの建設を取り仕切った都市計画の名手で、事前に手紙で橋への関心を伝えていた。昼食のあと、一行はマカロック社の飛行機に乗ってアリゾナの砂漠の上を飛び、戻ってから会長のロバート・マカロックと夜11時まで話し込んだ。
ロバート・P・マカロックは1911年、セントルイス生まれの実業家である。1948年に自分の名を冠したチェーンソーを売り出して成功し、船外機や航空機にも手を広げていた。1963年、船外機の試験場を探してコロラド川の上を飛んでいた彼は、パーカー・ダムがせき止めてできた人造湖、ハバス湖のほとりに目を付ける。そしてアリゾナ州キングマンの郡庁舎の階段で開かれた州有地の競売で、26平方マイル(約67平方キロ)の砂漠を1エーカーあたり75ドル足らずで買い取った。同じ年にレイク・ハバス・シティが生まれ、翌1964年にはチェーンソー工場が動き出す。
問題は、砂漠の真ん中にある無名の町に、人を呼ぶ理由がないことだった。
解体費の2倍に、年齢×1,000ドル——ただし年齢が合わない
マカロックの入札額は246万ドルだった。ほかの入札を退けるには十分な額で、ラッキンの賭けは報われた。
この半端な数字には有名な由来話がある。橋の解体費の見積もりが120万ドル。その2倍で240万ドル。そこに、マカロックの年齢60歳に1,000ドルを掛けた6万ドルを足した、というものだ。ラッキンの周辺でもそう語られていたし、いまも多くの記事がこの計算を紹介している。
ただ、マカロックは1911年5月11日の生まれで、入札した1968年3月の時点では56歳だった。「60」がどこから来たのかは分からない。数字の遊びとしてはきれいすぎる話で、そのまま信じるには少し注意がいる。
ラッキン自身はこの額を、いかにも英国人らしく旧通貨のまま「102万9,400ポンド10シリング4ペンス半」と呼ぶのを好んだ。「100万ポンドは下らない」と言って笑われた男にとって、大台を超えたことが何よりの勲章だったのだろう。
売買契約は1968年4月、シティの市庁舎ギルドホールで交わされた。ロンドン市長サー・ギルバート・イングルフィールドは復活祭の休暇を切り上げて署名に駆けつけ、マカロック父子とウッド、ラッキンを公邸マンション・ハウスの昼食でもてなしている。
ラッキンにはひとつ心配があった。石をアメリカに持ち込むのに輸入許可や関税がかかるのではないか、ということだ。結果は拍子抜けだった。米国の税関は、製造から100年を超える品は骨董品とみなして関税を免除する。1831年生まれの橋はこれに当てはまった。米国税関・国境警備局によれば、通常どおり11パーセントの関税がかかっていれば、その額は27万600ドルになるはずだった。
これに気をよくしたラッキンは、旧友のノリス・マクワーターに電話をかけた。ギネスブックの編集者である。「世界最大の骨董品の売買」として載せてもらえないか。最初の返事はノーだった。載せられるのは「最も高い」「最も長い」「最も少ない」といった形の記録に限られていて、当てはまらないというのである。それでも最後はラッキンが押し切り、この売買は「史上最大の骨董品」として本に載った。
橋を先に架けて、水はあとから引いた
解体では、表面を覆う花崗岩の石材に一つ残らず番号が振られた。番号は4桁で、1桁目が何番目のアーチか、2桁目がその中の何段目か、残りの2桁が段の中の何番目かを表す。こうして記録された石は1万276個にのぼった。
アメリカへ渡ったのは、この外装の石だけである。外された石はまずデヴォン州ダートムーアのメリヴェイルの採石場に運ばれ、多くは裏側を15〜20センチほど切り落とされた。新しい橋では構造を支えるのではなく、外装として貼るだけだったからである。
石材は合わせておよそ1万トン。船はパナマ運河を抜けて約1万マイル(約1万6000キロ)を航海し、カリフォルニア州のロングビーチ港に着いた。そこからトラックで内陸の砂漠へ運ばれる。運賃だけで約24万ドルかかった。
1968年9月23日、レイク・ハバス・シティで礎石が据え直された。立ち会ったのは、ギルドホールで契約書に署名したイングルフィールド市長である。
組み立ては、1831年の工法をなぞったわけではない。施工したサント建設(Sundt)は、まず鉄筋コンクリートで現代の橋の骨組みを造り、そこに番号どおりに古い石を貼っていった。アリゾナのロンドン橋は、構造としては20世紀のコンクリート橋が、19世紀の花崗岩をまとっている姿なのである。
もうひとつ奇妙なのは、架けた場所だ。橋は最初、水のない乾いた土地の上に建てられた。湖に突き出た半島の付け根である。橋が完成してから、その下を掘り下げて湖の水を引き込み、運河を通した。これがいまのブリッジウォーター運河で、半島はこれで島になった。川があって橋を架けたのではなく、橋があって川を掘ったのである。輸送と組み立て、運河の浚渫まで含めた費用は約700万ドルにのぼった。
1971年10月10日(日)、再建された橋の開通式が開かれた。ロンドンからは市長サー・ピーター・スタッドが黒と金のガウン姿で訪れ、ロンドン市長の護衛を務める槍兵・銃兵隊が正装で付き従った。ラッキンの記録によれば、気温は華氏105度、摂氏にしておよそ40度だった。
半世紀否定されても消えない話と、ロンドンに残ったアーチ

この売買には、決まって付いてくる話がある。マカロックは、塔と跳ね橋のあるあのタワーブリッジを買ったつもりだった。届いた石を組み上げてみたら平凡なアーチ橋で、がっかりした——というものだ。
事実関係を並べると、この話は成り立たない。売りに出されたのはパンフレットで寸法まで示された一本の橋で、入札額もその橋の解体費をもとに組み立てられていた。社長のウッドはラッキンと会ってから入札しており、マカロック父子は契約のためにロンドンまで来ている。タワーブリッジはそもそも売りに出されていない。マカロックもラッキンも、この噂をはっきり否定した。
それでも話は消えなかった。ラッキンの友人の息子で、のちに同じシティの議員になったアーチボルド・ギャロウェイは、ラッキンにこの噂について尋ねたことがある。ラッキンは肩をすくめただけだったという。正しい橋を売るのに役立つなら、文句を言う理由はない——ギャロウェイはそう受け取っている。
レイク・ハバス・シティの側にも、打ち消す理由はあまりなかった。2024年10月17日、マカロックの孫マイケル・マカロックがロンドンのシティ・ブリッジ財団を訪れ、改めてこう述べている。「まったくの作り話です。祖父は自分が何を買うのか正確に分かっていました。でも、その話は何度も蒸し返されて、そのたびにタダで宣伝してくれたんです」。
皮肉な後日談がある。ラッキンはのちに、タワーブリッジを観光客に開放する際の推進役の一人になった。自分が売った橋と取り違えられ続けた橋を、今度は見せる側に回ったのである。
ロンドンでは、跡地に3径間のコンクリート橋が架けられた。工費約400万ポンドはすべてブリッジ・ハウス・エステーツが負担し、1973年3月、エリザベス2世の手で開通した。いまのロンドン橋がこれである。
ただし、レニーの橋はすべてが海を渡ったわけではない。パンフレットが売りに出したのは川に架かる5つのアーチだけで、南岸の陸の上に架かっていた6つ目のアーチは、南端の約50フィートとともにその場に残された。サザーク大聖堂の脇、モンタギュー・クロースからトゥーリー・ストリートへ抜ける薄暗いトンネルがそれで、脇の階段も1831年の橋のものだ。頭上を走っているのは新しい橋だが、足もとの石組みは、アリゾナの石と同じ橋の一部である。
一方、1970年の国勢調査で4,000人ほどだったレイク・ハバス・シティの人口は、いまでは約5万9000人(2024年推計)になった。橋はいま、アリゾナ州で2番目に人気の観光名所と宣伝されている。2024年にロンドンを訪れた市長カル・シーヒーは言った。「ロンドン橋が来る前、レイク・ハバス・シティは不毛の砂漠でした」。
ロンドン橋は落ちなかった。沈みかけたところを売られ、1万トンの石になって海を渡り、砂漠の町をひとつ作ったのである。
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