2026年8月20日
連載「ロンドン大火物語」全 3 回 の第 1 回
ロンドン大火は「パン屋の不注意」で片づけられがちだが、街を焼き尽くしたのは火そのものではなく、最初の数時間の判断だった。市長は現場を一瞥して寝室に戻り、その間に風が火を街ごと持ち上げた。九月の五日間を、時刻を追って再現する。
モニュメント駅を出て、細い路地を北へ数十メートル。プディング・レーンという、通り過ぎてもまず気づかない道がある。壁に小さな銘板が一枚あるだけで、あとはオフィスビルと工事の柵しかない。
ここが、ロンドンという都市の設計図を一度全部燃やした場所である。
1666年9月2日の未明から、9月6日まで。たった五日間で、City の四分の三が消えた。この連載では三回に分けて、この火事を追いかける。第1回は、火が広がっていく五日間そのものを。
逃げなかったメイドが、最初の犠牲者になる
火元はトマス・ファリナーという名のパン職人の家だった。プディング・レーンで店を構え、英蘭戦争のさなか、海軍にビスケット(乾パン)を納めていた業者である。つまり彼は、王室の御用達に近い立場の、それなりにきちんとした商売人だった。「不注意な町のパン屋が寝ぼけて火を出した」というイメージは、実像とだいぶ違う。
9月2日の未明、ファリナーは寝室のドアの下から煙が流れ込んでくるのに気づいて飛び起きた。階下の窯まわりが燃えていた。階段はすでに使えない。
彼は娘とともに二階の窓から隣家の屋根へ渡って脱出した。だが同じ家にいたメイドは、窓の外に出るのを怖がって動かなかった。落ちるのが怖い、と。彼女はそのまま焼け死んでいる。
これが大火の、記録に残る最初の死者になった。
ファリナー自身は、のちに「窯の火はきちんと落としてあった」と生涯主張し続けた。実際、当時の技術で本当に彼の窯が原因だったのかを確定させる手段はない。ただ結果として、彼は「ロンドンを焼いた男」として名前が残ってしまった。銘板がいまも立っているのは、その意味では気の毒な記念でもある。
この街を焼いたのは、火ではなく判断だった
当時のロンドンに消防隊は存在しない。火事が起きたら、教区の住民がフックのついた長い棒や革のバケツを持って集まる。そして最大の武器は水ではなく、**「延焼の先にある家を先回りして壊す」**という手法だった。燃えるものを物理的に断つ。これを fire break という。
ただしこの方法には政治的な問題がある。**他人の家を壊すには権限がいる。**そして City でその判断を下せるのが、ロンドン市長だった。
この夜の市長は、トマス・ブラッドワース(Sir Thomas Bloodworth)。叩き起こされ、現場まで来て、燃えている一角をひと目見て、こう言ったと伝わっている。
Pish! A woman might piss it out. (けっ。女が小便すりゃ消える程度だろう)
そして彼は寝に帰った。
この一言が、たぶんロンドン史上もっとも高くついた失言である。彼が家屋の取り壊しをためらったのには、実務的な理由もあった。壊した家の補償を誰が払うのかが不明確で、地主から訴えられるのは市長自身だったからだ。判断を先送りする合理性は、彼の側にはあった。
だが数時間が致命的だった。取り壊しがようやく本格的に命じられた日曜の夜には、火はすでに fire break程度では止まらない規模の火災旋風に育っていた。手遅れとは、こういう時間の使い方を言う。
条件が全部そろっていた
なぜここまで燃え広がったのか。運が悪かった、で済ませられない構造的な理由が三つある。
さらに悪いことに、火元はテムズ川沿いの倉庫街に近かった。そこに何が積んであったかというと、油、獣脂、石炭、木材、そしてブランデー。可燃物の見本市みたいな立地だった。
つまりロンドンは、燃えるべくして燃えた。パン屋がいなくても、遅かれ早かれ誰かの火が同じことを起こしていた可能性が高い。
日記作家サミュエル・ピープスは、この日の光景をこう書き残している。鳩たちが自分の巣を離れたがらず、窓やバルコニーのまわりを飛びまわり続け、やがて翼を焼かれて落ちていった、と。都市が燃えるというのがどういうことか、この一行がいちばんよく伝えている気がする。
国王が市長を飛び越えた四日目
市長が機能しないので、最終的に指揮を執ったのは王室だった。
国王チャールズ2世は弟のヨーク公ジェームズ(のちの国王ジェームズ2世)を消火の総指揮に据え、火の周囲に指揮所を置いて人員を配置させた。国王自身もバケツリレーに加わり、煤まみれで現場にいたと複数の記録が伝えている。この火事に関するかぎり、王室は驚くほどまともに働いた。
決定打になったのは火薬である。手作業で家を壊していては火の進みに追いつかない。そこで海軍が持ち込んだ火薬で家屋をまとめて吹き飛ばし、一気に広い空白地帯を作った。9月5日の水曜にはこれが効き始め、火勢はようやく衰えた。木曜には、ほぼ消し止められている。
ピープスはこの数日、自分の資産を守るのに必死だった。書類とワインを庭に埋め、ついでに高価なパルメザンチーズを一玉、地面に埋めたと日記に書いている。街が燃え落ちる横で、チーズを掘って埋めている官僚。この生々しさが、彼の日記が350年読まれ続けている理由だと思う。
(ちなみに彼は9月14日に「ワインを掘り返した」と記録している。チーズがどうなったかは、書いていない。)
「死者6人」という有名な数字を疑う
五日間の被害は、記録の上ではこうなる。
そして、よく語られるのが「死者はわずか6人」という数字である。これだけ燃えて6人。奇跡の火事、として紹介されることも多い。
でも、これは相当に怪しい。
理由は単純で、当時のロンドンは貧しい人間の死をきちんと数えていないからだ。教区の記録に載るのは、記録に載るだけの身分がある人たちである。加えて作家ニール・ハンソンは、実際の死者は数百から数千に及んだはずだと主張している。根拠は火の温度だ。ロンドン博物館に残る溶けたガラス、溶けた鉄、溶けた陶器の遺物が示す温度は、現代の火葬炉をはるかに超えている。
つまり、遺体が残らなかった可能性がある。数えられなかったものは、記録にはゼロとして残る。
「死者6人」はロンドン大火のもっとも有名な豆知識だが、たぶん史上もっとも成功した過小申告でもある。
——さて、これだけの被害が出れば、人は必ず犯人を探す。次回は、この火事の犯人にされて絞首刑になった、一人のフランス人時計職人の話をする。彼は無実だった。しかも、そのことは裁いた側もほぼ全員わかっていた。
第 2 回 →
裁判官も王も「無実だ」と知っていた——ロンドン大火の犯人にされたフランス人時計職人と、150年間ロンドンに刻まれ続けた嘘 ロンドン大火物語 第2回