連載「ロンドン地下鉄物語」全 4 回 の第 4 回
1943年、ベスナル・グリーン駅の階段で173人が死んだ——政府は報告書を伏せ、駅名も明かさなかった 第4回
第二次大戦中のロンドンで、地下鉄の駅は防空壕になった。政府ははじめ反対し、警察が人々を追い出そうとしたが、市民は切符を買ってホームに居座った。1943年3月、まだ開業前のベスナル・グリーン駅の入口の階段で、避難しようとした人々が折り重なって倒れ、173人が死んだ。政府は駅の名を伏せ、調査報告書を2年近く公表しなかった。

連載「ロンドン地下鉄物語」の最終回。蒸気の煙に始まり、電気と深いトンネル、そして統一された「顔」を手に入れた地下鉄は、戦争のなかで、誰も想定していなかった役目を負うことになる。
「警察が人々を追い出した」
1940年9月、市民は地下鉄に居座った
1940年9月7日、ドイツ軍によるロンドンへの大規模な夜間爆撃が始まった。その夜から、多くの市民が地下鉄の駅へ逃げ込んだ。
政府は、地下鉄を防空壕にすることに反対していた。トンネルが爆撃で破れれば水が入るかもしれない。駅を人が埋めれば、戦時の輸送が止まる。そして何より、市民が地下に潜ったきり地上の仕事に戻らなくなることを恐れていた。
10月10日の下院で、ある議員は政府のそれまでの姿勢をこう批判している。2年前に地下鉄の問題が持ち上がったとき、何もできないと言われた。安全ではない、水が入るかもしれない、と。ロンドンの人々は地下鉄を使うと決め、内務省は警察を送って人々を追い出そうとした。ロンドンの人々は、持ち前の気のよさと辛抱強さでこの問題を片づけ、いまもそこにいる——。
人々のやり方は単純だった。いちばん安い切符を買って改札を抜け、ホームに座り込む。切符を持った乗客を追い出す理由はない。夕方になると駅の入口には毛布や枕を抱えた家族の列ができ、ホームの白線の内側に場所取りが始まった。運輸当局の調べでは、9月27日の夜には、およそ17万7000人が地下鉄の駅で夜を明かしている。
政府は方針を改めた。駅に寝棚を据え、便所を設け、軽食を運ぶ列車を走らせ、入場券を配って人数を管理した。12月の上院の答弁によれば、それまでに20万6000人分の寝棚が据え付けられ、さらに20万人分以上が自治体に届けられていた。
沈黙が与える安全は、幻かもしれない
1940年10月、バラム駅
地下は安全だ、と誰もが思っていた。爆撃の音が届かない深いホームでは、地上の騒ぎがうそのように静かだった。
だが、深い駅も無敵ではなかった。1940年10月14日夜、ロンドン南部のバラム駅の真上の道路に大型の爆弾が落ちた。地面の下で水道管と下水管が破れ、水と土砂がトンネルに流れ込んで、ホームで眠っていた人々をのみ込んだ。60人を超える人が亡くなり、ホームの時計は8時2分で止まったと伝えられる。地上では、走ってきたバスが道路に開いた穴に突っ込んだ。
その2日後の10月16日、上院で政府の側の貴族が、ロンドンの空襲対策をこう説明している。完全に安全な避難所をつくるのは不可能だ。どんなに深い避難所でも、大きな爆弾ひとつで被害が出うる。広い地下室や地下鉄の駅は、騒音から逃れられるので大勢を引きつけるが、静けさが与える安全の感覚は「幻にすぎないかもしれない」——。
それでも人々は地下へ通い続けた。翌1941年1月には、市の中心部のバンク駅にも爆弾が落ち、大勢の犠牲者が出ている。深い地下は、絶対の安全ではなく、地上よりはましな場所にすぎなかった。それでも、毎晩そこへ降りていく以外の選択肢を、多くの人は持っていなかった。
1943年3月3日、19段の階段
まだ開業していない駅で
ロンドン東部のベスナル・グリーンには、地下鉄の駅がほぼ出来上がっていた。戦前から工事が進められていた路線の延伸のための駅で、トンネルもホームもあるが、線路が敷かれず電車はまだ一度も来ていない。戦争で工事が止まったこの駅は、そのまま深い防空壕として使われていた。
1943年3月3日の夜、空襲警報が鳴った。人々は暗い路上から、入口の階段を急いで降りていった。階段は19段で、灯火管制のため明かりは乏しかった。そこで事故が起きる。1週間後、内務大臣ハーバート・モリソンは下院でこう説明した。
大勢が急ぎ足で階段を降りていたとき、ひとりの女性が転んだ。その後ろの人々が次々に倒れ、流れが止まった。上から押し寄せる群衆の、誰も意図しない圧力によって、倒れた人々はたちまち身動きの取れない塊になり、しばらく助け出すこともできなかった。173人が命を落とし、61人がけがをして病院へ運ばれた——。
空襲の被害ではない。この夜、付近に爆弾は落ちていなかったとされる。あの夜、近くの公園から聞き慣れない新型の高射砲の発射音が響き、それが人々を急がせた、と後年の証言は伝えている。いずれにせよ、この事故は第二次大戦中の英国で最悪の、民間人の惨事とされている。
モリソンは説明のなかで、駅の名前を口にしなかった。「ロンドンの地下鉄の駅の避難所のひとつ」とだけ述べている。どこで何が起きたかを、敵に知らせないためだった。
伏せられた報告書
「結論を公表すれば、敵を利する」
政府は、ロンドンの治安判事ローレンス・ダンに調査を命じた。ただし調査は非公開で行い、結論は「安全上の配慮が許す範囲で」公表する、という約束だった。議員たちは、遺族が証言できるのか、なぜ一部でも公開にできないのかと食い下がったが、モリソンは、戦時には我々だけでなく敵にとっての教訓もあると言って譲らなかった。
1943年4月8日、モリソンは結論を公表しないと告げた。報告書は詳しく有益なものだが、安全上の理由で一部を省けば全体の釣り合いが崩れ、読む者を誤らせる、というのがその理由だった。かわりに彼は、事故は偶然の重なりによるもので、責められるべき重大な過失は原因に含まれない、と述べた。そして、街に広まっていたうわさ——事故はユダヤ人住民の恐慌が原因だ、あるいはファシストや犯罪者が仕組んだものだ——を、報告書は根拠のないものとして退けている、と付け加えた。地下鉄を運営する公社に責任はない、とも明言している。
真相を表に出したのは、遺族の裁判だった。遺族のひとりの女性が、避難所を管理する区役所を訴え、勝訴する。区は控訴したが、1944年12月、控訴院の長官はこれを退け、そのうえで、政府が裁判を非公開にさせた理由は「薄弱」だったと批判した。
1945年1月19日、政府はついに報告書を公表した。治安判事は80人の証人から話を聞き、事故の実際の原因を、何人かの人々が、とりわけ悪い場所と時に自制を失ったことにある、と結論していた。報告書には、区がすでに1941年8月に、階段を囲む木の板塀をれんがの壁に替えたいと申し出ていたのに、地域の防空本部がそれを放置していた経緯も書かれていた。政府は3月、区が負う賠償の費用を国庫で肩代わりすると決めた。
上下逆さの階段
74年後の記念碑と、地下鉄のその後

ベスナル・グリーン駅の入口の脇に立つ記念碑(2020年撮影)。上部の板に犠牲者の名前が刻まれている。
ベスナル・グリーン駅は戦後の1946年、ようやく電車の止まる駅として開業した。事故のあった入口の階段は、いまも駅の入口のひとつとして毎日使われている。
長いあいだ、この事故を記すものは、階段の脇の小さな銘板だけだった。遺族や生存者が資金を集め、2017年12月、階段のすぐ脇の公園に記念碑が完成した。階段を上下逆さにして宙に浮かべたような形で、天井にあたる部分には、亡くなった173人と同じ数の小さな光の穴が開けられている。
戦争が終わると、地下鉄は本来の仕事に戻った。蒸気機関車の煙が充満したトンネルに始まり、深い粘土層に鉄の輪で掘った「チューブ」、米国の投資家が持ち込んだ資金、ひとりの事務屋が整えた文字と標識。その積み重ねの上を、いまも毎日何百万人もの人が行き来している。
ロンドンで地下鉄に乗るとき、古い駅のタイルや、ホームの丸い標識や、深い駅の長いエスカレーターに、160年分の歴史が重なっていることを思い出してみてほしい。そしてベスナル・グリーン駅で降りることがあったら、地上へ出る階段を上りながら、あの夜の19段のことも。
参考資料
- 庶民院議事録「地下鉄の避難所の事故(調査)」(内務大臣の説明、死者173人)原典英国議会(Hansard)1943api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「地下鉄の避難所の事故(調査報告)」(結論を公表しない決定)原典英国議会(Hansard)1943api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「ベスナル・グリーンの避難所の事故」(報告書の公表)原典英国議会(Hansard)1945api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「空襲対策」(地下鉄の避難をめぐる政府批判)原典英国議会(Hansard)1940api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。
連載「ロンドン地下鉄物語」全 4 回
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