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    公開文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 2件

    暮らし・技術歴史・事件人物

    アールグレイの由来、見つかっている最初の記録は1884年の新聞広告——グレイ伯爵の死から39年後

    紅茶のアールグレイは、英国の首相だったグレイ伯爵が外交上の贈り物として受け取った茶を再現したもの——老舗のトワイニングも、英国政府の歴代首相の紹介ページも、そう伝えている。ところが古い新聞広告をさかのぼると、「グレイ伯爵の調合茶」という名前が初めて現れるのは1884年、伯爵が亡くなって39年後のことだった。それより前、ベルガモットの香りは安い茶を高級品に見せかける手口として新聞に載っていた。

    日本の喫茶店でもスーパーでもおなじみのアールグレイ。柑橘の一種ベルガモットの香りを付けた紅茶で、その名は19世紀の英国首相、第2代グレイ伯爵から来ている——たいていの解説はそう始まる。では、伯爵は本当にこの茶を飲んでいたのか。名前が生まれた時期を古い記録でたどると、話は思わぬところへ行き着く。

    「元祖」の話は三つあり、少しずつ食い違う

    中国からの贈り物、茶商への注文、屋敷の井戸水

    アールグレイの名のもとになったチャールズ・グレイは、1764年に英国北東部のノーサンバーランドで生まれ、1845年に同じ州にある一族の屋敷ハウイック・ホールで亡くなった政治家である。1830年11月から1834年7月まで首相を務め、選挙制度を大きく改めた1832年の選挙法改正と、英国の植民地で奴隷制を廃止した1833年の法律を通した。英国の政治史では、茶よりもこちらで名を残している。

    この人物と紅茶がどう結びついたのか。よく知られた説明は三つある。

    一つ目は、ロンドンの老舗茶商トワイニングの説明だ。グレイ首相が送り出した使節の一人が、中国で高官の命を救った。高官は礼として、ふだんは門外不出の茶の配合を茶葉とともに贈り、使節はそれを持ち帰って首相に届けた。1831年、首相はトワイニングに、この茶を再現してほしいと頼んだ——。別の版では、救われたのは溺れかけていた高官の息子になる。

    二つ目は、ピカデリーの老舗茶商ジャクソンズの説明である。1920年代の広告では、伯爵の求めに応じて1836年に売り出したと書いていた。のちにこれが1830年に早まり、伯爵が配合を同社の共同経営者ジョージ・チャールトンに託した、という話になる。

    三つ目は、屋敷のハウイック・ホールに伝わる話だ。中国の高官が、ハウイックの井戸水に合うよう特別に茶を調合した。水に含まれる石灰分の味を消すためにベルガモットを使った。伯爵夫人がロンドンで客をもてなすときにこの茶を出すと評判になり、やがてトワイニングが売り出した——。

    英国政府の歴代首相の紹介ページも、伯爵が残したもののひとつにこの茶を挙げ、おそらく外交上の贈り物として、ベルガモット油で香りを付けた茶を受け取ったと伝えられる、と書いている。

    だが三つの話は、年も、配合を託された相手も、香りを付けた理由もそろわない。そもそもグレイ伯爵自身は中国へ行ったことがない。そしてどの話にも、伯爵が生きていた1830年代に書かれた文書の裏付けがない。

    ベルガモットは、安い茶を高く売るための香りだった

    1824年の新聞記事と、1837年の差し止め命令

    グレイ伯爵と茶のあいだには、記録で確かめられるつながりがひとつある。伯爵の内閣のもとで1833年8月に成立した法律が、東インド会社が握っていた中国との貿易の独占を終わらせたことだ。1834年4月22日からは、東インド会社でなくても中国の茶を輸入して売れるようになった。伯爵が首相を辞める2か月半前のことである。

    とはいえ、これは茶の商いの仕組みの話で、香りの話ではない。そのベルガモットは、当時の新聞ではどう書かれていたか。

    1824年5月22日、イングランド北西部の新聞『ランカスター・ガゼット』に、「1ポンド5シリングの茶を、12シリングの茶と同じにする方法」という見出しの記事が載った。茶本来の風味にいちばんよく合う香り付けはベルガモットの油だ、という内容である。ベルガモットはイタリア南部でとれる柑橘で、皮から採る油はオーデコロンの香りにも使われる。安い茶にこれを足せば、倍以上の値の茶の風味に近づけられる、というわけだ。

    1837年5月13日の『ブリストル・マーキュリー』は、ロンドンの食料品店ブロックソップ商会が、売っていた緑茶をめぐって差し止め命令を受けたと報じた。「モウクア」という銘の小粒の緑茶で、紙面によれば、この茶は英国に入ってからベルガモットで香りを付けられていた。人工的に香りを足して、上等の品として売っていたことになる。

    当時の英国では、茶の混ぜ物は珍しくなかった。それに比べれば、ベルガモットで香りを足すのは軽い部類だったともいえる。それでも、香りでごまかした茶という印象はつきまとう。英国の語源研究家の一人は、そんな茶に貴族がわざわざ自分の名を貸すとは考えにくい、と指摘している。

    この1837年の6月には、ヴィクトリア女王が即位している。あとで見るように、この女王もアールグレイの由来話に引き込まれていく。

    新聞広告をさかのぼると、「グレイ」が先で「伯爵」は後

    2012年、オックスフォード英語辞典の呼びかけ

    アールグレイという名前がいつ生まれたのかを、本気で調べた人たちがいる。2012年10月、オックスフォード英語辞典(OED)は、この語のより古い使用例を探してほしいと一般に呼びかけた。それまで辞典がつかんでいた最も古い例は、「アール・グレイズ・ミクスチャー(グレイ伯爵の調合茶)」が1891年、「アールグレイ・ティー」が1929年の本だった。

    呼びかけに応えた人々や、英国の食の歴史を調べる研究者が、デジタル化された古い新聞を洗い直した。見つかった広告を年の順に並べると、こうなる。

    • 1852年から、ノーサンバーランドの町モーペスの茶商ウィリアム・グレイが、韻を踏んだ宣伝文句付きで「グレイの茶」の広告をさかんに出していた。ハウイック・ホールと同じ州の町だが、この店は1864年を過ぎると記録から姿を消す。名前の出どころかもしれないし、偶然の一致かもしれない
    • 1867年9月7日、ロンドンの週刊紙『ジョン・ブル』に、茶商チャールトン商会が「名高きグレイ・ミクスチャー」の広告を出した。「この上なく高貴な方々のご愛顧」をうたい、1ポンド5シリング6ペンスを4シリング6ペンスに値下げしたとある。だが、伯爵の名もベルガモットの語も出てこない
    • 1884年6月19日、日刊紙『モーニング・ポスト』で、同じチャールトン商会が「名高き茶、アール・グレイズ・ミクスチャー」を、自社が初めて売り出し、独占して扱う品として宣伝した。「伯爵」の付いた名前が確認できる最初の例である

    1884年は、第2代グレイ伯爵が1845年7月17日に亡くなってから39年後にあたる。しかもこの年、グレイ伯爵といえば存命の3代目、つまり首相の息子のことだった。広告は、どのグレイ伯爵なのかを書いていない。辞典の編集者は、もとは単に「グレイ・ミクスチャー」だった茶に、あとから伯爵の名が付いたのではないか、と見ている。

    伯爵の名が付くと、話もふくらみ始める。1890年代には、伯爵がヴィクトリア女王にこの茶を勧めた、女王はこの茶を飲んでいる、という話が活字になる。1894年の米国の雑誌は、各国の王室の料理長を紹介する記事で、女王の茶は「アール・グレイズ・ミクスチャーと呼ばれる特別なもの」だと書いた。だがヴィクトリアが即位したのは1837年6月。グレイ伯爵はその3年前に首相を辞め、ハウイックで家族と暮らす晩年に入っていた。

    伯爵が生きていたころの年を名乗る話が広告に出てくるのは、さらに後だ。前の節で見たジャクソンズの「1836年に売り出した」という広告は1928年ごろのもので、名前が初めて現れた1884年から40年以上たっている。のちに年が1830年に早まり、配合を託された相手がジョージ・チャールトンという人物になった。1867年と1884年の広告を出したのも「チャールトン」商会だったが、両者を結ぶ当時の文書は見つかっていない。

    伯爵家の屋敷では「井戸の水に合わせた茶」

    ハウイック・ホールと、箱に刷られた伯爵の署名

    ハウイック・ホールは、イングランドの北の端に近いノーサンバーランドの、海に近い土地にあり、何世紀にもわたってグレイ家の屋敷である。第2代伯爵はここで晩年を過ごし、ここで亡くなった。いまは庭園と樹木園が一般に公開され、敷地の喫茶室は「アールグレイ・ティーハウス」と名乗っている。

    伯爵の生誕250年にあたる2014年、地元の観光の宣伝文は、この茶はもともと屋敷の水に合わせて調合されたもので、本物の味を楽しめるのは世界でここだけだ、とうたった。最初の節で見た「石灰分の多い井戸水の味を消すためにベルガモットを使った」という説明も、屋敷の側から出ている。

    ただ、伯爵家の人々がいつも同じ話をしてきたわけではない。1994年、当時のグレイ伯爵は新聞の取材に、英国の使節が中国の高官の息子を救い、高官が礼として茶とその配合を送ってきた、と語っている。こちらはトワイニングの説明に近い。屋敷の水の話と、中国からの贈り物の話。一族のなかでも、由来は一つに定まっていない。

    トワイニングのアールグレイの箱には、6代目のグレイ伯爵の署名が刷られてきた。いわば一族のお墨付きである。だが、署名が保証しているのはその商品であって、伯爵が生きていた時代の出来事ではない。英国の雑誌『カントリー・ライフ』でこの茶の来歴を調べた書き手も、グレイ家とこの茶の誕生を結ぶ確かなつながりは見当たらない、と結論している。

    「元祖」を名乗った2社は、いまは同じ会社にある

    2011年、配合を変えたトワイニングに抗議が殺到した

    1830年説のジャクソンズと、1831年説のトワイニング。それぞれ「元祖」を名乗ってきた2社だが、いまジャクソンズの銘柄はトワイニングが持っている。二つの由来話は、同じ会社の中に並んでいることになる。

    もっとも、アールグレイを売っているのはこの2社だけではない。英国のスーパーの紅茶の棚には各社のアールグレイが並び、使う茶葉もベルガモットの強さもまちまちだ。決まった配合は無い。

    それでも、人々が「本来の味」にこだわらないわけではない。2011年4月、トワイニングはアールグレイの配合を変え、ベルガモットを増やしてレモンの風味を加え、名前も「ザ・アールグレイ」に改めた。より爽やかな味を求める声に応えた、という説明だった。

    客の反応は厳しかった。同社のサイトの記事には150件を超える書き込みが寄せられ、大半が否定的だった。SNSには「元のトワイニングのアールグレイを返せ」という会ができ、レモンの洗剤のような味だと書く人も、買った箱を庭の堆肥に捨てたと書く人もいた。店を回って、元の配合の箱を探す人まで出た。ある新聞は、トワイニングが「180年続いた配合」に手を入れた、と報じている。トワイニングの言う1831年から数えれば、ちょうど180年になる。

    会社は動じなかった。担当者は業界紙に、念入りな消費者調査で新しい配合のほうがはっきり好まれた、と説明している。同紙によれば、販売量は4月の約5万8000キロから、ティーバッグの値引きがあった5月には約8万7000キロに伸び、7月9日までの4週間も約6万3000キロと、変更前を上回っていた。

    180年の伝統と言われた配合も、それを生んだという「贈り物」も、伯爵が生きていた時代の記録には出てこない。新聞でたどれるのは、安い茶に香りを足す方法の記事(1824年)、伯爵の名の無い「グレイ・ミクスチャー」(1867年)、そして伯爵の死から39年後の「アール・グレイズ・ミクスチャー」(1884年)である。由来の物語は、名前のあとからついてきた。

    ロンドンで「元祖」を名乗る一方の店をのぞくなら、ストランド通り216番地のトワイニングがある。創業者が1706年に買い取ったコーヒー店の場所で今も営業していて、試飲のカウンターでは毎日4〜5種類の茶をいれてくれる。スーパーで各社のアールグレイを買って飲み比べてみると、決まった味が無いことがよく分かる。

    参考資料

    1. 歴代首相「チャールズ・グレイ(第2代グレイ伯爵)」公式英国政府(GOV.UK)gov.uk(新しいタブで開きます)
    2. アールグレイについて(トワイニングによる由来の説明)公式トワイニングtwinings.com.au(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

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