2026年10月13日文ジャスト・ロンドン編集部
イギリス国歌「God Save the King」を定めた法律は無い——1745年、劇場の幕切れに歌われた一曲から
英国の国歌「God Save the King」は、議会の法律でも国王の布告でも定められていない。王室も政府も、その地位は「慣習」から来ていると説明する。1745年、反乱軍の大勝に揺れるロンドンの劇場で歌われた忠誠の歌が、作者も分からないまま国の歌になり、海を渡って米国やドイツの歌にもなった。

サッカーのイングランド代表戦の前に、夏の音楽祭プロムスの最終夜に、王族の臨席する式典で。英国にいれば「God Save the King」を耳にする機会は多い。けれども、この歌を国歌と定めた法律は英国のどこにも無い。国王の布告も無い。1745年の秋に劇場で歌われてから280年あまり、この歌は慣習だけを支えに国歌であり続けてきた。
法律にも布告にも書かれていない
王室も政府も「慣習」と答える
英国の国歌について、王室の公式サイトはこう説明している。
国歌に正式な版は存在しない。歌詞は伝統の問題だからである。
政府の説明も同じだ。国歌を別の歌に替えよという請願が議会の請願サイトに出されたとき、受け付けない理由としてこう書かれた。
国歌の公式な地位は、慣習と使用から来ている。国王の布告や議会の法律から来ているのではない。
続けて、正式なものと言えるのは旋律のほうで、歌詞ではない、どの節を歌うかはその場に集う人が決めればよい、とも書いている。英国の国歌は、旋律だけが「決まっている」歌なのだ。
それが目に見える形で現れたのが、2022年9月だった。8日にエリザベス2世が亡くなると、翌9日、ロンドンに戻った新国王を、バッキンガム宮殿の前に集まった群衆が新しい歌詞で迎えた。同じ日、セント・ポール大聖堂で開かれた追悼の礼拝の最後に、「女王」を「王」に、「彼女」を「彼」に替えた国歌が、公式の場で初めて歌われた。歌詞が替わるのは70年ぶりである。
替えるための手続きは、何も要らなかった。歌詞はもともとどこにも書かれていないのだから、改める条文も無い。
対照的なのがオーストラリアだ。同じ歌はオーストラリアでも、国王や王族がいる場で演奏する「王室の歌」と位置づけられている(国歌は1984年に別の歌に定めた)。こちらは2022年10月27日、総督が国璽(こくじ)を押した布告を出した。1984年4月19日の布告のうち「God Save the Queen」を王室の歌とした部分を取り消し、あらためて「God Save the King」を王室の歌と定めるという内容で、首相も名を連ねている。ニュージーランドは1977年、女王の同意を得て官報に告示し、この歌と自国の歌を同格の国歌とした。本家の英国にだけ、この歌を国歌と定めた文書が一枚も無い。
政府にも、この状態を変えるつもりはないようだ。2014年、イングランド独自の国歌をつくる案はあるかと下院で問われた文化担当の大臣は、書面でこう答えた。
国歌を変えるよう女王陛下に進言する予定はなく、公式のイングランド国歌を導入する予定もない。
変えるなら議会が法律を作るのではなく、君主に進言する。この答え方に、歌の置かれた位置がよく表れている。2022年1月、国歌を歌うことを広めるよう求めた議員への答弁も、「国歌を歌うよう命じるのは政府の役目ではない」だった。
法律で定めよという声が無いわけではない。2025年9月には「国歌に法的な地位を与え、変更について国民に意見を聞け」という請願が議会に出された。半年の受付期間に集まった署名は63筆。政府の回答が得られる1万筆には遠く及ばなかった。
では、法律に頼らずに国歌になったこの歌は、どこから来たのか。始まりは、ある晩の劇場である。
1745年9月28日、ドルリー・レーン劇場
反乱軍の大勝が届いたロンドンで
1688年の名誉革命で、カトリックの国王ジェームズ2世は国を追われた。王位はプロテスタントの血筋に移り、1714年からはドイツのハノーファー家が英国の王位を継いでいる。追われたステュアート家を王座に戻そうとする人々を、ジェームズのラテン語名ヤコブスにちなんで「ジャコバイト」と呼ぶ。ここでは復位派と呼ぶことにする。
1745年の夏、ジェームズ2世の孫にあたるチャールズ・エドワード王子が、フランスからスコットランドに上陸した。高地地方の氏族を集めて南へ進み、9月にはエディンバラに入る。9月21日、エディンバラの東、プレストンパンズで政府軍とぶつかると、戦いは15分足らずで決着した。総崩れになったのは政府軍のほうだった。
知らせはロンドンを震わせた。戦いからちょうど1週間後の土曜日、9月28日の夜。ドルリー・レーンの王立劇場では、ベン・ジョンソンの喜劇『錬金術師』の幕が下りたあと、当代きっての歌手3人が舞台に進み出て、一曲の歌を歌い出した。劇場の作曲家トマス・アーンが、この晩のために編曲したものだった。アーンは5年前に愛国歌「Rule, Britannia!」を書いた人でもある。
当時の新聞はこう伝えている。
土曜の夜、ドルリー・レーンの王立劇場の観客は、劇場の紳士諸氏が「God Save our Noble King」を歌うのを聞いて、うれしい驚きに打たれた。歌は満場の喝采を浴び、歓声のなかで何度もアンコールされた。観客が、われらの妬み深い敵の横暴なたくらみをいかに正しく憎み、ローマ教皇の権力による専制の企てをいかに嫌っているかを、それは十分に示していた。
「教皇の権力」とあるのは、復位派の王家がカトリックだったからだ。プロテスタントのロンドンにとって、北から来る王子の軍勢はローマの手先だった。
ほかの劇場もすぐにならった。コヴェント・ガーデン劇場ではアーンの弟子が別の編曲を用意し、それから1か月ほど、二つの劇場でこの歌が盛んに歌われた。10月の月刊誌『ジェントルマンズ・マガジン』は、楽譜に「両劇場で歌われているとおり」と添えて載せている。王室の説明によれば、ドルリー・レーンでは「たいへんな評判を呼び、毎晩くり返された」。
復位派の軍はその後イングランドに入り、12月4日には、ロンドンまで200キロほどのダービーに達した。だが王子はそこで引き返し、翌1746年4月、スコットランド北部のカロデンで敗れて反乱は終わる。歌のほうは残った。
君主が劇場に入るとこの歌で迎える習慣が生まれ、19世紀の初めには「国歌」と呼ばれるようになっていた。終演後に国歌を流し、観客は起立して聞くという劇場や映画館の習わしは、20世紀の後半まで続いた。BBCの第1チャンネルも1997年11月まで、一日の放送を終えるたびにこの歌を流していた。この歌は劇場で生まれ、劇場の習慣で国の歌になった。法律が出てくる場面は、どこにも無い。
作者は誰も知らない
「長く」と「まもなく」、一語ちがいの忠誠
王室の説明は「歌詞も旋律も作者は分からず、17世紀までさかのぼるかもしれない」とする。いまの形に近い楽譜が初めて印刷されたのは1744年に出た歌曲集で、題には「二声のための」とあるだけだった。劇場で歌われる前の年のことだ。
作者の名乗りは、あとから次々に出てきた。1795年には、詩人で作曲家のヘンリー・ケアリーの息子が「父の作だ」と言い出し、年金を求めた。ケアリーは1743年に亡くなっており、本人がそう言った記録は無い。1822年には音楽家リチャード・クラークが一冊の本を書いて、17世紀初めの鍵盤音楽の作曲家ジョン・ブルの作だと説いた。ブルが1619年に書いた鍵盤曲に、よく似た旋律があったからだ。英国人を擬人化した「ジョン・ブル」と同じ名なのは偶然である。どの説も決め手にはならず、王室の説明はいまも「作者不明」のままだ。
もっと皮肉な話もある。この歌は、敵方の復位派も歌っていたらしいのだ。
歌詞は、王の名前を一度も出さない。「神よ、王を守りたまえ」の「王」が誰なのかは、歌う人の胸のうちにある。1745年に書かれたある手紙は、この歌はもともと、ジェームズ2世のために王室の礼拝堂で歌われたものだと伝えている。
物も残っている。復位派が亡命の王家に乾杯するのに使ったとされるワイングラスで、愛好家のあいだでは「アーメン・グラス」と呼ばれる。1740年代から1750年ごろの品で、杯の面にダイヤモンドの先でこの歌によく似た詩を刻み、最後を「アーメン」で結ぶ。添えられた「JR」の組み文字はラテン語で「ジェームズ王」、その下の「8」は、スコットランド王ジェームズ8世を名乗った亡命の王位請求者、つまりチャールズ・エドワード王子の父を指す。ヴィクトリア&アルバート博物館が持つ1点は、スコットランドのダンディーにあるV&Aの館で展示されている。
いまの歌詞は、王に「長く我らを治めさせたまえ(Long to reign over us)」と願う。グラスに刻まれた詩では、ここが「まもなく我らを治めたまえ(Soon to reign over us)」になっている。王座にいる王には「長く」を、海の向こうで待つ王には「まもなく」を。たった一語の違いで、同じ歌が正反対の忠誠を誓うことになる。
ロンドンの劇場で観客が声をそろえる一方で、杯を掲げ、別の「王」のために同じ祈りを唱える人たちがいた。
「反逆のスコットランド人を打ち砕け」
国歌の「幻の節」と、自分の歌を持たないイングランド
英国の国歌をめぐって、スコットランドでくり返し持ち出される一節がある。
願わくはウェイド元帥に、御力によって勝利をもたらしたまえ。騒乱を鎮め、奔流のごとく押し寄せて、反逆のスコットランド人を打ち砕かんことを。神よ、王を守りたまえ。
ウェイド元帥は1745年、イングランド北東部のニューカッスルに集めた政府軍を率いていた。この節は、反乱軍を討つ彼の勝利を祈るものだ。「反逆のスコットランド人を打ち砕け(Rebellious Scots to crush)」という一行のせいで、英国の国歌はスコットランドを敵とみなす歌だと言われることがある。
だが、この節がいつ生まれ、どれほど歌われたのかは、実はよく分かっていない。1745年11月の刷り物に載ったとする文献もあれば、確かな記録は1814年、先のクラークが「ときおり付け加えられた節」として書き留めたのが最初だとする見方もある。はっきりしているのは、反乱が終わるとすぐに歌われなくなったことだ。それでも1926年に出た『オックスフォード版18世紀詩選』が歌の本来の一部としてこの節を収めたこともあって、「国歌には実はこういう節がある」という話は消えなかった。
祈られた当のウェイドは、反乱軍と一度も刃を交えていない。11月、反乱軍が西のカーライルを囲むと、彼はニューカッスルから救援に出た。だが兵と大砲を通すにはあまりにひどい道で、2日かけても、ヘクサムの町から2、3キロ先までしか進めなかった。反乱軍がダービーへ南下するときも、そこから引き返すときも、ウェイドの軍は追いつけなかった。祈りは、少なくとも元帥の手ではかなわなかったことになる。
2022年9月の国葬のあとには、「女王の葬儀でこの節が歌われた」という投稿がSNSで広まった。スコットランドの事実確認の団体フェレットが調べたところ、葬儀で歌われたのは2節、埋葬の式では1節だけで、ウェイドの節はどこでも歌われていなかった。
サッカーやラグビーでは、イングランド、スコットランド、ウェールズがそれぞれ代表チームを出す。スコットランドが試合前に歌うのは「Flower of Scotland」だ。1960年代にスコットランドのフォーク歌手の二人組が作った歌で、1314年にイングランド軍を追い返した戦いを歌う。ラグビーでは1990年から試合前の歌になり、サッカー協会も1997年に正式に採用した。ウェールズの「Hen Wlad Fy Nhadau」(わが父祖の古き土地)は1856年、南部の町ポンティプリッドの父と息子が作った。1905年、カーディフでニュージーランドとラグビーで戦ったとき、相手の出陣の踊り「ハカ」に応えて観客がこれを歌ったのが、国際試合の前に国歌が歌われた最初の記録とされる。
困るのはイングランドである。自分の国歌を持たないので、サッカーでもラグビーでも連合王国全体の国歌を歌う。スコットランドとの試合では、一方が「スコットランドの歌」を、もう一方が「英国の歌」を歌うことになる。2016年1月には労働党の下院議員が、イングランド代表のための歌を定める法案を出した。下院は反対なしで第一読会を通したが、第二読会は開かれないまま終わっている。英連邦大会(コモンウェルス・ゲームズ)では、イングランドの金メダル選手を称えて2010年から賛美歌「Jerusalem」が流れる。候補3曲から投票で選んだもので、「God Save the Queen」を選んだ人は12%にとどまった。
世界をめぐった旋律
米国の愛国歌にも、ドイツ皇帝の歌にも
王室の説明によれば、この旋律を自作に使った作曲家は、ベートーヴェンやハイドンをはじめ、およそ140人にのぼる。ベートーヴェンは1803年にピアノのための変奏曲を書き、1813年には、スペインでフランス軍を破ったウェリントンの勝利を描く『ウェリントンの勝利』に、この旋律を織り込んだ。
ほかの国は、旋律ごと持っていった。プロイセン王国は1795年から、ドイツ帝国は1871年から、君主をたたえる歌をこの旋律で歌った。第一次世界大戦のあいだ、英国とドイツは敵どうしでありながら、君主をたたえるのに同じ旋律を使っていたことになる。ロシア帝国も1816年から1833年まで、この旋律の歌を皇帝の歌とした。スイスは1961年まで国歌に使い、リヒテンシュタインはいまも使っている。2003年、欧州選手権の予選でイングランドとリヒテンシュタインが2度対戦したときには、試合前の国歌の演奏で同じ旋律が二度続くことになった。
米国では1831年7月4日、ボストンの教会で開かれた子どもたちの独立記念日の集いで、この旋律に新しい詞をつけた「America」が初めて歌われた。歌い出しは「わが国よ、汝のことを、麗しき自由の地よ」。書いたのは神学生のサミュエル・スミスで、知り合いの音楽教育家からドイツの歌を集めた本を渡され、訳すか新しい詞をつけるよう頼まれたのがきっかけだった。英国の王をたたえる旋律で、王を捨てた国の自由を歌う。この歌は1931年に「星条旗」が正式な国歌になるまで、事実上の国歌として歌われた。
いちばん遠くまで届いたのは、旋律そのものより「国の歌を持つ」という発想だったかもしれない。1790年代に2度ロンドンに滞在したハイドンは、この歌を知って旋律を書き留め、ウィーンに戻ってから皇帝のための歌を作った。1797年2月12日、皇帝フランツ2世の誕生日に初めて歌われた『皇帝讃歌』である。その旋律は、いまドイツの国歌として歌われている。ただし、ハイドンが英国の国歌をうらやんで作ったという話は、50年後の1847年に出た回想が出どころで、どこまで本当かは分からない。
英国の国歌は、本国では一度も法律で定められず、オーストラリアやニュージーランドでは布告や告示で定められ、米国やドイツでは別の詞で歌われ、別の国の国歌まで生んだ。正式なのは旋律だけで歌詞ではない、という政府の説明は、案外この歌の本質を言い当てているのかもしれない。詞を替えれば、誰の歌にでもなる。1745年の劇場で忠誠を誓った観客も、グラスに「まもなく」と刻んだ復位派も、同じ旋律を歌っていた。
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