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    公開文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 5件

    歴史・事件暮らし・技術ロンドンの街

    イギリスの左側通行、記録に残る始まりは1722年のロンドン橋——1960年代、政府は右側への切り替えを本気で調べた

    イギリスはなぜ左側通行なのか。よく聞く「騎士が剣を抜くため」という説には、裏付けになる文書がない。記録で追えるのは、1722年にロンドン橋の渋滞に手を焼いた市の命令と、1835年の法律の「左、すなわちニアサイド」という一句だ。そして1960年代、英国政府は右側通行への切り替えにいくらかかるかを、議会で何度も答弁していた。

    イギリスの左側通行、記録に残る始まりは1722年のロンドン橋——1960年代、政府は右側への切り替えを本気で調べた

    画像: Samuel Scott / Public domain, via Wikimedia Commons

    日本と同じく、イギリスの車は道の左を走る。世界の多くの国が右側通行なのに、なぜ英国は左のままなのか。理由を探して古い記録をたどると、出てくるのは騎士の物語ではなく、橋の渋滞と、馬の扱い方と、切り替えの見積書である。

    1722年、ロンドン橋の渋滞から

    命令文に「なぜ左か」は書かれていない

    英国の左側通行の始まりとしてよく挙げられるのは、王の勅令でも議会の法律でもなく、ロンドン市が出したひとつの交通整理の命令である。

    舞台はロンドン橋。1750年にウェストミンスター橋が開くまで、ロンドンでテムズ川を歩いて渡れる橋はここしかなかった。しかも橋の上には中世から家や店が建ち並び、荷車も馬車も人も、その間に残った狭い道をすれ違っていた。南岸のサザークと市内を行き来する車が詰まるのは、毎日のことだった。

    1722年、ジェラード・コンイヤーズが市長を務めていた年に、市は手を打った。19世紀の歴史書が書き写している命令文によれば、内容はこうだ。

    • 橋には、しっかりした番人を3人置き、常に詰めさせる。1人は孤児を養う慈善学校クライスト病院の理事たちが、1人は橋のたもとの区の住民が、もう1人は橋の管理役が出す
    • サザークから市内へ入る荷車・馬車その他の車は、橋の西側を通る
    • 市内から出ていく車は、橋の東側を通る

    サザークから市内へ入る車は北へ向かう。北へ進む者にとって西は左手だ。逆に市内から南へ出ていく者にとっては、東が左手になる。つまりこの命令は、どちら向きの車にも「左を通れ」と言っている。

    ただし命令文には、なぜ左なのかが一言も書かれていない。すでに街の習慣になっていた左寄りを追認しただけなのか、片側に決めさえすればどちらでもよかったのかは、文面からは分からない。橋の上の家々は1756年の法律で取り壊しが決まり、1760年代のはじめまでに姿を消した。命令が求めたのは、狭い橋を詰まらせないための片側の約束、それだけだった。

    法律の言葉は「左、すなわちニアサイド」

    1835年、御者は車の横を歩いていた

    ロンドン橋の決まりが、全国の法律になったのは1835年である。この年の道路法は、それまでばらばらだった道路の規則をまとめたもので、第78条にこうある。

    荷馬車・荷車その他の車の御者、または荷を運ぶ馬やラバを連れた者が、ほかの車や馬と行き合ったとき、自分の車や馬を「道の左側、すなわちニアサイド」に寄せなかった場合は罰する——。

    罰金は、御者が車の持ち主でなければ20シリング、持ち主なら40シリング。同じ条には、御者が不注意で人や家畜にけがをさせた場合や、車から離れて馬を操れない場所にいた場合も並んでいる。条の見出しは「荷馬車の御者は、ほかに誘導する者がいない限り、車に乗ってはならない」。この時代の荷馬車の御者は、車に座るのではなく、馬の横を歩いて操るのが基本だった。

    興味深いのは、法律が「左」をわざわざ「ニアサイド(近い側)」と言い換えていることだ。これは馬の世界の言葉である。馬は左側から引き、左側から乗る。だから人にとって馬の左側が「近い側」、右側が「遠い側(オフサイド)」になる。1835年の立法者にとって、「左」は馬を扱う者の身体感覚で通じる言葉だった。

    この呼び方はいまも生きている。英国では、車の整備や保険の書類で車体の左側をニアサイド、右側をオフサイドと呼ぶ。そして1835年の第78条そのものも、罰金の額を今の基準に置き換えるなどの手直しを受けながら、廃止されずに現行法として残っている。

    「剣を抜くため」説は、なぜ確かめられないのか

    日本の「刀の鞘」説とよく似た事情

    英国の左側通行の理由として、いちばんよく語られるのは騎士の話である。右利きの騎士は左の腰に剣を下げる。だから馬には左から乗り、道の左端に寄って乗り降りした。すれ違う相手には、剣を握る右手の側を向けておける——。

    筋は通っている。左から乗るという馬の扱い方は、前の節で見た「ニアサイド」という言葉とも符合する。だが、この説を裏付ける中世の文書は見つかっていない。英国の記録で左側通行を定めたものとして確かめられるのは、1722年のロンドン橋の命令と1835年の法律だが、どちらも理由は書いていない。剣の話は、すでにあった習慣に後から付けられた説明だと考えるほうが自然だ。

    右側通行の国にも、似たような後付けの説明がある。たとえば米国では、大型の荷馬車の御者が左後ろの馬にまたがって操ったので、すれ違う相手の車輪を見やすいよう右を走るようになった、と語られる。これも分かりやすいが、決め手になる記録があるわけではない。

    日本の事情もよく似ている。「武士の刀の鞘(さや)が触れ合わないよう左を歩いた」という説は有名だが、やはり裏付けは乏しい。記録で確かめられるのは、明治14年(1881年)の警視庁の通達が「車馬や人力車が行き合ったときは左に避ける」と定め、大正10年(1921年)施行の道路取締令で、人も車も左側通行が全国のルールになったという経緯である。

    左か右かは、理屈から決まったというより、まず習慣があり、それを誰かが書き留めたものだ。そして一度書き留めて国じゅうの道路と車がそれに合わせてしまうと、変えるのは途方もなく高くつく。その値段を、英国政府は1960年代に実際に見積もっている。

    1962年、運輸大臣は「最大2億ポンド」と答えた

    議事録に残る、右側通行への切り替えの検討

    1960年代のはじめ、英国の議会では「いっそ右側通行に変えてはどうか」という質問が何度も出ている。大陸との車の行き来が増え、欧州共同体への接近も話題になり始めた時期である。

    1960年12月、ある与党議員が運輸大臣アーネスト・マープルズに求めた。いずれ左から右へ変える可能性を、これからの道路計画、とくに高価な立体交差やクローバー型の交差点の設計に織り込んでほしい、と。マープルズは、今のルールのまま道路を安全にするほうが大事だとしつつ、こう答えた。仮に変えると決めても、今の法律や建設中の大きな道路が深刻な障害になることはない。立体交差は、敷地が許す限り左右対称に設計している——。

    1961年11月には別の与党議員が、世界の多くの国が右側通行なのに左のままでいるのは自動車産業の輸出の足かせだ、と迫った。マープルズは、それほど重い足かせとは思わないと退けながらも、検討すべき項目を挙げている。標識、路面の白線、交差点の小さな工事、そして改造が要る7万6000台のバスなどの公共交通の車両。事故の増加も考えなければならない、と。

    1962年6月27日、マープルズは省内の調査の結果を下院で明かした。切り替えの費用は、5年前に予告するなら総額で最大2億ポンド、15年前に予告するなら3500万ポンド。ただし「留保つきで扱ってほしい」と、留保の一語をわざわざ繰り返した。死傷者は、最初の3年間は毎年1割ほど増えるかもしれない。一方で、自動車メーカーが左ハンドル車だけを作ればよくなれば、長い目で見て節約になるとも認めている。英連邦のうちインド、オーストラリア、ニュージーランドとも相談するつもりだ、とも述べた。

    反発もはっきり記録されている。ある野党議員は、2億ポンドもかかるなら、その金は全国で足りていない新しい道路に回すほうがずっと賢い、と言い、こう付け加えた。英国の暮らし方のうち、まだ残っているものまで奪うようなことはやめてほしい。

    スウェーデンは変え、英国は変えなかった

    1967年の答弁と、その4か月半後

    ロンドンの横断歩道(2005年撮影)。手前から渡る人の足元には「LOOK RIGHT」、向こう側から渡ってくる人の足元には「LOOK LEFT」と、同じ車線の両端に逆向きの文字が書かれている。

    ロンドンの横断歩道(2005年撮影)。手前から渡る人の足元には「LOOK RIGHT」、向こう側から渡ってくる人の足元には「LOOK LEFT」と、同じ車線の両端に逆向きの文字が書かれている。

    画像: Clemensfranz / CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

    検討は政権が代わっても続いた。1966年2月、労働党政権の運輸大臣バーバラ・キャッスルは、いつ右側通行にするのかと問われ、「まだ決める用意はない」と答えている。道路工事や標識の付け替えだけでも少なくとも5000万ポンド、横断歩道の設計などにも高くつく影響がある、と。

    1967年4月19日、運輸省の政務次官は、利点と欠点の検討は続いていると述べたうえで、10年前に予告した場合の費用を約3億5000万ポンドと答えた。1962年の見積もりでは、予告が5年と短くても2億ポンドだった。それより長い予告で、額は大きく膨らんでいる。議事録の見出しに「右側通行」の質問が立つのは、このあたりが最後になる。

    その4か月半後の1967年9月3日、スウェーデンが左側通行から右側通行へ切り替えた。スウェーデンも英国と同じく、国民は変えたがっていなかった。1955年の国民投票では83%が左のままを望んでいる。それでも、北欧の国々の会議や欧州評議会から足並みをそろえるよう求められ、国境を越える車も年々増えていたことから、議会は1963年5月、ほぼ6対1の大差で切り替えを決めた。費用は6億クローナ余り(当時の米ドルで約1億2000万ドル)で、ほぼ全額を政府が負担し、1964年から67年まで車の持ち主に特別の税をかけてまかなった。

    結果は、マープルズの「死傷者が1割増える」という見立てとは逆だった。切り替えに立ち会った米国の道路研究者の報告によれば、最初の2か月、事故の総数は例年並みで、死亡事故は例年のこの時期を大きく下回った。

    それでも英国は動かなかった。島国で、大陸と道路でつながっていない。予告期間を延ばすほど安くなるという計算は、裏を返せば、急ぐ理由がなければいつまでも先送りできるということでもあった。

    日本にも、逆向きの切り替えを経験した土地がある。戦後、米国式の右側通行になっていた沖縄は、1978年7月30日に左側通行へ戻った。前の晩の22時から朝6時まで緊急車両以外の通行を止め、その間に標識を掛け替えた。日付を取って「ナナサンマル」と呼ばれている。

    ロンドンを歩く日本人は、車の向きに戸惑うことはまずない。ただ、街の横断歩道の路面には「LOOK RIGHT(右を見よ)」と白く書かれた場所がある。車が来る向きを歩行者に知らせるためのもので、左側通行に慣れない大陸や米国からの旅行者には特にありがたい。一方通行の道や、バスだけが逆向きに走る車線、向こう側から渡ってくる人の足元では、それが「LOOK LEFT」になっている。日本と同じだと思い込まず、足元の文字を読んでから渡るのが、いちばん確かである。

    参考資料

    1. 1835年道路法 第78条(「道の左側、すなわちニアサイド」)原典英国政府(legislation.gov.uk)1835legislation.gov.uk(新しいタブで開きます)
    2. 庶民院議事録「通行方法」(右側通行への切り替えの費用の答弁)原典英国議会(Hansard)1962api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    3. 庶民院議事録「右側通行方式」原典英国議会(Hansard)1967api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    4. トマス・アレン『ロンドン、ウェストミンスター、サザークの歴史と古事』第2巻(1722年のロンドン橋の命令文を収録)研究タフツ大学デジタル図書館1828dl.tufts.edu(新しいタブで開きます)
    5. 「スウェーデン、右側通行へ切り替え」研究米国道路研究評議会(Highway Research Record 234)1968onlinepubs.trb.org(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

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