2026年8月19日
世界最古のボートレースは311年つづいている——喜劇役者が遺言で始めた「ドゲット・コート・アンド・バッジ」
1715年、ロンドンの喜劇役者が「毎年ずっとやれ」と遺言に書き残したボートレースがある。世界最古の、いまも続くレースだ。ただし「一度も途切れていない」というのは正確ではない。二度の大戦とコロナで実際には中断している——にもかかわらず優勝者名簿に空白がないのは、彼らが戦後に「借金」を返しに行ったからだ。

9月のテムズ川、ロンドン・ブリッジのたもと。平日の昼下がりに、シングルスカルが数艇だけ並んでいる。観客はまばらで、オックスフォード対ケンブリッジのボートレースのような人だかりはない。だがこの地味なレースのほうが、あちらより124年ぶん古い。そして漕いでいるのは、200年前にほぼ絶滅したはずの職業の若者たちである。
きっかけは、嵐の夜に一人だけ船を出した若者だった
1715年、ロンドン・ブリッジに貼り出された一枚の告知
トマス・ドゲット(Thomas Doggett, 1640–1721)は、アイルランド生まれの喜劇役者で、ドルアリー・レーン劇場の共同支配人まで上りつめた興行師でもある。当時のロンドンには橋がほとんどなく、彼はシティの劇場とチェルシーの自宅を往復するのに、毎日テムズ川の渡し守(waterman)の世話になっていた。
伝えられているのは、こんな話だ。ある荒れた夜、ドゲットが川を渡ろうとしたが、どの船頭も嵐を理由に断った。ただ一人、徒弟を終えたばかりの若い渡し守だけが「乗せますよ」と船を出した——この体験が彼を動かした、とされる。
ただしこの逸話、どこまで本当かは正直あやしい。「創設者の善意の原点」として後から整えられた物語の匂いがする。ドゲット本人が書き残したわけではなく、後世の記述で広まったものだ。ここは通説として押さえつつ、断定はしないでおきたい。
確かなのは日付のほうだ。1715年7月31日、ドゲットはロンドン・ブリッジに告知を貼り出した。翌8月1日は、ジョージ1世が即位してちょうど1年にあたる日だった。
賞品の上着が「オレンジ色」でなければならなかった、政治的な理由
スポーツの顔をした、露骨なプロパガンダ
このレース、心温まる恩返しの話に見えて、その実かなり政治的である。
ドゲットは筋金入りのホイッグ党支持者であり、ハノーヴァー朝の熱心な擁護者だった。彼が定めた賞品の条件を並べると、意図が透けて見える。
- レース開催日は8月1日 — ジョージ1世の即位記念日
- 上着はオレンジ色 — プロテスタント陣営の色であり、ハノーヴァー家の色であり、ホイッグ党の色
- 銀のバッジにはハノーヴァー家の白馬と、「Liberty(自由)」の一語
当時の文脈を補うと、これは相当に尖った意思表示だ。1715年といえば、スチュアート朝の復権を狙うジャコバイトの蜂起が起きた年でもある。王位の正統性が現実に争われている最中に、「即位記念日に」「党の色の服を着せて」「自由と彫った馬のバッジを配る」——要するに、川の上で毎年やる示威行進のようなものだった。
なお現在の上着は深紅(スカーレット)である。オレンジから赤へ、どの時点でどう変わったのかははっきりしない。ただ、銀バッジの「Liberty」の一語だけは、311年経ったいまも同じ位置に残っている。
「毎年、永遠に」——遺言でレースを固定した男
本人が死んでも止まらない仕組みを作った
ドゲットの本当にうまかった点は、レースを思いついたことではなく、自分の死後も続く仕組みにしたことだ。
彼は1721年に亡くなるまでの6年間、自らレースを取り仕切った。そのうえで遺言に、遺言執行者(海軍省のバート氏)へ信託を設定させ、毎年「バッジのために5ポンド」を永久に(ad infinitum)支出せよと書き込んだ。
そして1722年から、運営はフィッシュモンガーズ・カンパニー(魚商組合)——シティの由緒あるリヴァリ・カンパニーの一つ——が引き継ぐ。2019年からは水運業者の組合「Company of Watermen and Lightermen」と共同で運営している。
ここが肝で、レースの存続が個人の熱意ではなく、法的な信託と組織に預けられた。創始者のカリスマに依存する行事は、だいたい二代目で消える。ドゲットはそれを避けた。300年後にまだ動いている行事には、たいていこういう地味な設計が入っている。
コースはロンドン・ブリッジからチェルシーのカドガン・ピアまで、約4マイル5ハロン(7.44km)、橋を11本くぐる。創設時は引き潮に逆らって漕ぐ設定だった。現在は観客の都合に合わせて9月開催、上げ潮に乗る形に変わっている。
「一度も途切れていない」は、正確には嘘である
だから彼らは、戦後に8年分をまとめて漕いだ
このレースは「1715年以来、毎年途切れず開催」と紹介されることが多い。これは正確ではない。実際には、はっきり中断している。
- 第一次大戦: 1915〜1919年は開催なし
- 第二次大戦: 1940〜1946年は開催なし
- コロナ禍: 2020年の回が実施できず
では、なぜ「途切れていない」と言われるのか。ここがこの話でいちばん面白いところだ。彼らは後から漕ぎに戻ったのだ。
1920年、徒弟期間を終えていた者たちのために、2日間で6レースがまとめて実施された。第二次大戦後の1947年も同様に、中断していた8回分を2日がかりで消化している。2020年の回も、翌年にもう一つのレースとして実施された。
つまり優勝者名簿に空白がないのは、中断がなかったからではなく、中断のぶんをきっちり返済したからだ。個人的にはこの感覚がすごく英国的だと思う。記録が途切れることを、事故ではなく「未払い」として扱っている。戦争が終わって最初にやることが、5年前のレースを漕ぎ直すことだったわけだ。
ちなみに2022年には、猛暑で当日のレースが延期になっている。300年続く行事の中断理由に「酷暑」が加わったのは、なかなか現代的な出来事だった。
漕いでいるのは、200年前に用済みになった職業の若者たち
橋ができるたびに、彼らは呪いの言葉を吐いた
出場資格は昔もいまも、テムズ川の渡し守の徒弟(および徒弟を終えて間もない若者)に限られる。ここに、この行事のもう一つの顔がある。
渡し守は、かつてロンドンの基幹交通だった。橋がほとんどなかった時代、川を渡る・川沿いを移動するには彼らの船に乗るしかない。ヴィクトリア朝でも、免許持ちが約2,000人、無免許を含めれば4,000人近くが川で食っていたとされる。
その仕事を、二つの技術が削り取っていく。
- 橋: 19世紀に架橋が進むたび、客が地上に移った。記録によれば、新しい橋が架かるたび、渡し守たちは口々に呪いの言葉を吐いたという
- 蒸気船: 1819年以降、小型の手漕ぎ船(wherry)は輸送手段として用済みになった。おまけに蒸気船の立てる波は、小舟を揺らし、ときに沈めた
職業としての渡し守は、こうしてほぼ消滅した。にもかかわらず、1514年設立の Company of Watermen and Lightermen は現存し、いまも徒弟に資格を取らせている。
人数の減少はレースの規則そのものを変えた。1988年、出場者が集まらなくなったため、資格を「徒弟修了後3年以内」まで拡大している。一度負けた者が翌年・翌々年も挑戦できるようになったのは、伝統が寛容になったからではなく、単純に人がいなくなったからだ。
2026年の第312回は、9月2日にロンドン・ブリッジを13時15分発の予定である。
見に行くなら
観光名所ではない、という前提で
正直に言うと、これは「盛り上がる観光イベント」ではない。艇は数艇、観客もまばら、レース自体は30分ほどで終わってしまう。
それでも見る価値があるとすれば、目の前を通り過ぎているのが1715年から続く連番の一つだという点に尽きる。ロンドン・ブリッジ周辺かカドガン・ピア(チェルシー)側から見物できるが、コースが7km以上あるので、どちらか一方を選ぶことになる。
川沿いには痕跡も残っている。ブラックフライアーズ橋のたもとに「The Doggett's Coat and Badge」というパブがある——そう、レースの名前がそのままパブの名前になっている。レース当日でなくても、この名前を知っているだけで、テムズ川沿いの散歩の解像度は少し上がるはずだ。
最後に、この話でいちばん気に入っている事実をもう一度書いておく。このレースの優勝者名簿には、二度の世界大戦を挟んでも空白がない。戦争で中断したぶんは、戦後に漕いで埋めた。ある喜劇役者が政治的な下心から始めた思いつきを、311年かけて、誰も途切れさせなかったのである。
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