第1章 ・ 紀元43年〜410年
ローマ支配とブリタニア|ロンドンという都市が始まった場所
Roman Britain
ロンドンを作ったのはイギリス人ではなくローマ人です。テムズ川に橋を架けられる最も海寄りの地点、という土木上の理由だけで場所が決まり、約400年で城壁に囲まれた属州の首都になりました。その城壁の線が、今もシティの境界として残っています。
今のロンドンに残っているもの
なぜシティ・オブ・ロンドンの境界線は、あんなに不自然に歪んでいるのか
**ローマの城壁をなぞっているからです。**金融街シティの約1平方マイルという範囲は、2世紀末にローマ人が築いた城壁の内側とほぼ一致します。地下鉄の Barbican・Moorgate・Aldgate・Ludgate といった「-gate」で終わる駅名は、その城壁に開いていた門の跡です。2000年近く前に決まった線の上を、今日も通勤客が歩いています。
なぜイギリスの地名に「-chester」「-caster」が多いのか
ラテン語の castra(軍営) が語源です。Manchester、Winchester、Doncaster、Lancaster——どれも元はローマ軍の駐屯地でした。地図上でこれらの地名を拾っていくと、ローマ軍がどこに兵を置いたかがそのまま浮かび上がります。
イギリス史を「イギリス人の歴史」として始めると、最初でつまずきます。この島に最初に都市と道路網と文字記録を持ち込んだのは、地中海からやってきた征服者だったからです。
紀元43年、皇帝クラウディウスの命でローマ軍が上陸します。ユリウス・カエサルも紀元前55年と54年に渡ってきていますが、あれは偵察と示威に近く、恒久的な支配は残していません。本格的な征服はクラウディウスからです。
そしてローマ人は、テムズ川のほとりに補給拠点を作りました。ロンディニウム(Londinium) です。
場所の選定は、驚くほど散文的な理由でした。当時のテムズは今よりずっと広く浅い泥の川で、河口に近づくほど橋を架けるのが難しくなります。逆に上流すぎると、大陸から来る船が入れません。「木の橋を架けられて、かつ外洋船が遡上できる、最も海寄りの地点」——その一点がここでした。ロンドンは、聖地でも既存の集落でもなく、土木上の妥協点として生まれた都市です。
目次
1. ブーディカの反乱——ロンドンは一度、完全に焼かれた
60/61年
ロンディニウム建設から十数年後、この街は灰になります。
イケニ族の女王 ブーディカ(Boudica) の反乱です。夫の死後、ローマは約束を反故にして領地を接収し、ブーディカを鞭打ち、娘たちを凌辱しました。彼女が率いた蜂起軍は、まずコルチェスターを、次いでロンディニウムを、そしてセント・オールバンズを焼き払います。ローマ側の記録では、犠牲者は7万人に達したとされます(誇張の可能性はあります)。
この火事は、考古学的に確認できます。シティで地面を深く掘ると、紀元1世紀の地層に赤い焼土の帯が現れるのです。考古学者はこれを「ブーディカ破壊層(Boudican destruction horizon)」と呼びます。文献の記述と地面の証拠が一致する、珍しい例です。
反乱は最終的に鎮圧され、ブーディカは服毒したと伝えられます。しかし彼女は後世、特にヴィクトリア朝で「侵略者に抗った女王」として再評価されました。同じ名前の女王(ヴィクトリア)が世界最大の帝国を統治しながら、帝国に抗った女性の像を建てたのは、なかなか複雑な話です。その像は今もウェストミンスター橋のたもとに立っています。
補足
ブーディカ像の場所
ウェストミンスター橋の北詰、国会議事堂の対岸側に、戦車を駆るブーディカの銅像があります(Boadicea and Her Daughters, 1902年設置)。ビッグベンの写真を撮る人の多くが、背を向けて素通りしています。
2. 城壁——2000年後の地図に残った線
200年ごろ
2世紀末から3世紀にかけて、ロンディニウムは城壁で囲まれます。高さ約6メートル、全長約3キロ。ケント産の石灰岩を船で運んで積み上げた、当時としては巨大な土木事業でした。
重要なのは、この壁が中世を通じて使われ続けたことです。ローマが去ったあとも、サクソン人もノルマン人も、新しく壁を作るのではなく既存の壁を補修して使いました。結果として、市域の境界が1000年以上固定されます。
現在の シティ・オブ・ロンドン(金融街、通称「スクエア・マイル」)の行政境界は、この城壁の輪郭をほぼそのまま引き継いでいます。周辺の区が19世紀以降に直線的に区切られたのに対し、シティだけが不規則に湾曲しているのはそのためです。
地下鉄の駅名にも残っています。Aldgate(東門)、Ludgate(西門)、Moorgate(北の湿地に向かう門)、Bishopsgate、Newgate——すべて城壁の門の名前です。Newgate は後に監獄になり、その跡地に今は中央刑事裁判所(オールド・ベイリー)が建っています。
覚えておくと効くこと
- 城壁の実物は、ロンドン塔のすぐ北 Tower Hill 駅前に最も見やすい形で残っています。下部のきれいな石積みがローマ期、上部の乱雑な部分が中世の補修です。境目が肉眼ではっきり分かります。
- バービカン周辺(Noble Street、St Alphage Garden)にも壁の断片が点在しています。再開発ビルの足元に唐突に古代の石が現れる光景は、ロンドンらしい風景のひとつです。
- 「London Wall」という名前の通りが実在します。名前のとおり、城壁の北辺をなぞる道です。
3. ミトラス神殿——オフィスビルの地下に戻された神殿
1954年、戦災を受けたシティの再建工事中に、3世紀の ミトラス神殿(Temple of Mithras) が出土しました。ミトラス教はローマ兵の間で流行したペルシア由来の密儀宗教で、キリスト教のライバルだった時期もあります。
発見は当時の大ニュースになり、連日3万人が見物に押しかけました。しかし開発を止めるわけにもいかず、遺構は解体されて100メートルほど離れた場所に雑に積み直されるという、今日から見れば乱暴な扱いを受けます。
2010年代、ブルームバーグの欧州本社建設にあたって、この扱いが見直されました。神殿は本来の位置・本来の深さ(地下7メートル)に復元され、無料の展示施設 London Mudlark / London Mithraeum として公開されています。霧と光と、再現されたラテン語の詠唱の中で遺構を見る演出は、博物館というより体験装置に近い作りです。
同じ工事現場からは、ローマ期の木製書字板が405点出土しました。湿った泥に密封されていたおかげで文字が残ったもので、その中には紀元後65年〜80年ごろの借用証文が含まれます。「ブリタニアで書かれた、現存最古の手書き文書」です。ロンドンが最初期から商業都市だったことを、これ以上なく即物的に示しています。
ヒント
London Mithraeum は無料・要予約
Bloomberg SPACE(Walbrook 12番地)にあります。入場無料ですが、時間指定の事前予約が必要です。所要30〜40分ほど。書字板の実物も同じ建物で展示されています。
4. 410年、ローマは去る
5世紀初頭、ローマ帝国は本国の防衛で手一杯になります。ブリタニア駐留軍は大陸へ引き揚げられ、410年、皇帝ホノリウスは属州の各都市に「自らの防衛は自ら行え」と通告したと伝えられます。
そこから起きたのは、緩やかな衰退ではなく急激な崩壊でした。貨幣経済が消え、大量生産の陶器が作られなくなり、石造建築の技術が失われます。ロンディニウムは5世紀のうちにほぼ無人になりました。
これはヨーロッパ大陸との対比で際立ちます。ガリア(フランス)やヒスパニア(スペイン)ではローマ的な都市生活がある程度存続し、ラテン語も生き残ってフランス語・スペイン語になりました。ところがブリタニアでは、ラテン語が日常語として定着せず、都市が放棄され、文字記録が数世代にわたって途絶えます。
だからイギリスの言語はゲルマン系(英語)であって、ロマンス系ではありません。ローマは400年近くこの島を支配しながら、言語をほとんど残せなかった——次の章は、その空白に入ってきた人々の話です。
この章の年表
| 年 | 出来事 | 同じころの日本 |
|---|---|---|
| 紀元前55年 | ユリウス・カエサルがブリタニアに渡る(偵察のみで撤退) | 弥生時代 |
| 43年 | 皇帝クラウディウスによる本格的な征服が始まる | 弥生時代 |
| 47年ごろ | ロンディニウム建設。テムズ川に最初の木橋が架かる | 弥生時代 |
| 60/61年 | ブーディカの反乱。ロンディニウムは焼き払われ、住民が虐殺される | 弥生時代 |
| 122年 | ハドリアヌスの長城の建設が始まる(北の境界を固定) | 弥生時代 |
| 200年ごろ | ロンドン城壁が築かれる。この線が現在のシティの境界になる | 弥生時代 |
| 410年 | ローマがブリタニアから撤退。属州は自力での防衛を通告される | 古墳時代 |
この章に立てる場所
この時代の物証が、今も実際に見られる場所です。復元やレプリカではなく、 当時のものが残っている地点だけを挙げています。
ロンドン城壁(タワーヒル区間)
London Wall at Tower Hill
高さ約10メートルの城壁が屋外にそのまま立っています。下から約4.4メートルまでがローマ期(2〜3世紀)の石積みで、その上の粗い部分が中世の増築。ローマ期特有の赤い瓦(tile course)が水平に走っているので、境目が誰の目にも分かります。
- 最寄り駅
- Tower Hill 駅(徒歩1分)
- 見学
- 屋外・常時公開・無料。駅を出てすぐ、トラヤヌス帝の像の背後にあります。
ロンドン・ミトラエウム
London Mithraeum Bloomberg SPACE
3世紀のミトラス神殿を、発見された本来の位置・地下7メートルの深さに復元したもの。同じ建物内に、ローマ期の木製書字板(現存最古の英国産手書き文書を含む)と出土品約600点を展示しています。
- 最寄り駅
- Bank 駅(徒歩4分)/ Cannon Street 駅(徒歩3分)
- 見学
- 無料。ただし時間指定の事前予約が必要です。月曜休館。
ロンドン塔(ローマ城壁の東端)
Tower of London
城内の東側に、ローマ城壁の基礎がそのまま取り込まれています。ノルマン人が1078年に城を建てるとき、既にあった900年前の壁を土台として再利用しました。第3章の主役でもある場所です。
- 最寄り駅
- Tower Hill 駅(徒歩5分)
- 見学
- 有料。オンライン事前購入が安く、当日券は行列します。
同じころ、日本では
ローマ軍がブリタニアに上陸した紀元43年、日本は弥生時代の後期にあたります。『後漢書』に記された奴国の王が金印を授かったのが57年なので、ロンディニウムの建設と「漢委奴国王」の金印はほぼ同時期です。
ローマが撤退した410年ごろの日本は古墳時代で、大和政権が各地に前方後円墳を築いていた時代。ブリタニアが文字記録を失って「暗黒時代」に入る一方、日本はまだ本格的な文字記録に入る前でした。この島の歴史が文字で追えるようになるのは、次章の終盤、8世紀のベーダの記述を待つことになります。
よくある質問
参考・公式情報
- London Mithraeum Bloomberg SPACE(公式)
- Museum of London Archaeology — Roman London
- English Heritage — Hadrian's Wall
- British Museum — Roman Britain (Room 49)
料金・時刻・制度は変更されます。本記事は2026年8月時点の情報です。渡航前に各公式サイトで最新情報をご確認ください。
イギリスの歴史 全10章 の第1章です。