ロンドン地下鉄は1863年、蒸気機関車で開業した——「煙を出さない機関車」は試運転で失敗していた 第1回
世界で最初の地下鉄は、電車ではなく蒸気機関車が石炭を焚いて走るトンネルだった。1863年1月、ロンドンのメトロポリタン鉄道は初日に3万人を超える客を運んだが、言い出しっぺの市の法務官は開業を見ずに世を去っていた。技師が宴席で語った「煙を出さない機関車」は試運転で失敗し、煙の充満するトンネルは、それから40年以上も議会で問題にされ続けた。

画像: Percy William Justyne / Public domain, via Wikimedia Commons
ロンドンの地下鉄は160年あまりの歴史をもつ、世界でいちばん古い地下鉄である。全4回の連載で、その始まりから、深いトンネルを掘る技術、街の「顔」を作った人々、戦争中に防空壕となった日々までをたどる。第1回は、蒸気機関車が地下を走った最初の40年の話。
1863年1月9日、650人の招待客
パディントンからファリンドン通りまで
1863年1月9日の昼過ぎ、ロンドン西部のパディントンから、着飾った招待客およそ650人を乗せた列車が地下へ入っていった。行き先は、市の中心部の北の端にあたるファリンドン通りの駅。途中の駅を見物しながら進むこの試乗が、世界で最初の地下鉄、メトロポリタン鉄道のお披露目だった。
終点の駅の脇には、この日のためだけに長さ約76メートル、幅約15メートルの仮設の宴会場が建てられていた。壁は赤と白の布で覆われ、世界各国の旗が下がり、列車が着くたびに市警察の楽隊が演奏した。用意された席は700。当時の週刊の絵入り新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は、1月17日号でこの日の様子を詳しく伝えている。
一般の客を乗せ始めたのは翌10日である。同じ記事によれば、この日だけで3万人を超える人が乗り、会社の重役たちの予想を上回った。夜のファリンドン通り駅は人であふれ、会社は友好関係にあった大手の鉄道会社から機関車と客車を借りて急場をしのいだ。事故は一件もなく、乗った人々は揺れの少なさと乗り心地をほめた、と記事は書いている。
路線の長さは6キロほど。トンネルの多くは、パディントンから東へ延びる幹線道路の下に造られた。道路を掘り返して溝をつくり、れんがのトンネルを組んでから、もう一度ふたをして道路に戻す。いまでいう開削工法である。ロンドンの地下には、水道管、ガス管、下水管がすでに縦横に走っていた。記事は、それらの下を3〜4マイルにわたって掘り抜いた工事の苦労を伝えている。
この日の宴に、首相パーマストンは来なかった。79歳の老首相は「この歳になったら、なるべく長く地上にいたい」と言って招待を断った、という話が伝わっている。ただし当時の記録でこの言葉を確かめることはできず、彼に帰せられた数多い名文句のひとつと考えておくのがよさそうだ。
言い出したのは、市の法務官だった
チャールズ・ピアソンは開業の4か月前に世を去った
宴会のあいさつで、何人もの登壇者がひとりの名前を挙げて悔やんだ。チャールズ・ピアソン。ロンドン市の法務を担う役職にあった弁護士で、地下に鉄道を通すという考えを最初に唱え、粘り強く売り込んできた人物である。彼は1862年9月に68歳で亡くなっており、開業まで4か月足りなかった。
19世紀半ばのロンドンでは、地方から来る鉄道の終着駅が、市の中心部の手前で止められていた。1846年、政府の王立委員会が、中心部へ新しい線路を引き入れることを認めない方針を打ち出していたからだ。パディントン、ユーストン、キングス・クロスといった駅に着いた客は、そこから先を馬車や乗合馬車、あるいは徒歩で移動するしかなく、道路は慢性的に詰まっていた。ピアソンの構想は、終着駅どうしと市の中心部を、地面の下の鉄道で結ぶというものだった。
計画は何度も頓挫しかけた。資金集めは難航し、ロンドン市が20万ポンドを出資したことが大きな支えになった。宴会では副会長が、この出資に改めて礼を述べている。さらに1862年には、工事現場を横切る古い川を暗渠にした下水が、大雨のあとに決壊してトンネルに流れ込み、開業を遅らせた。
ピアソン自身は、会社から一銭も受け取らなかったという。副会長によれば、報酬を勧めるたびに彼は「自分はロンドン市の使用人であり、その時間と働きは市のものだ」と答えた。完成した地下鉄は、彼が最初に描いた案そのままではない。それでも新聞は、この鉄道を彼の構想から生まれた「子」と呼んだ。
「蒸気も煙も出さない」機関車
のちに「ファウラーの幽霊」と呼ばれた試作機
地下に蒸気機関車を走らせれば、トンネルは煙で満ちる。それは計画の段階から誰の目にも明らかな弱点だった。
メトロポリタン鉄道の技師長ジョン・ファウラーの答えは、火を焚かない機関車だった。1861年に造られた試作機は、ボイラーの周りに大量の耐火れんがを詰め、地上で十分に熱を蓄えておいて、トンネルの中では火を焚かずにその余熱だけで走る、という仕掛けである。吐き出す蒸気も冷やして水に戻す。開業前夜の宴でファウラー自身が、火室を持たない新しい機関車を造り、それは「蒸気も煙も出さなかった」と語っている。
ところが試作機は、1861年に大手鉄道の線路で、翌1862年にはメトロポリタン鉄道の線路で試されて、どちらでも失敗した。蓄えた熱はすぐに足りなくなり、最初の試験では圧力が上がりすぎて、あわや爆発というところまでいったと伝えられる。営業列車を引くことは一度もなく、1865年に売りに出され、のちにひっそり解体された。ファウラーはその後、この機関車について口をつぐんだ。「ファウラーの幽霊」というあだ名は、ずっと後の1901年に鉄道雑誌が回顧記事で付けたものである。
開業に間に合った機関車は、ふつうの蒸気機関車に、排気の蒸気を水槽に送り込んで凝縮させる装置を足したものだった。トンネルの中では煙突から蒸気を吐かないように切り替える。だが石炭やコークスを燃やす以上、煙と燃えかすのガスはどうしても出る。駅の天井には外へ抜ける穴が開けられ、線路の一部は屋根のない掘割にされたが、それで足りるはずもなかった。
ちなみに、開業前の1862年5月には、財務大臣グラッドストンが夫人と一緒に、屋根のない貨車に乗ってトンネルを試走している。のちに首相を4度務める政治家が、まだ煤もついていない真新しいトンネルを見た、最初の乗客のひとりだった。
労働者のための3ペンスの早朝列車
地下鉄が郊外に住むことを可能にした
開業から1年あまりたった1864年5月、メトロポリタン鉄道は、朝早くに働きに出る人のための安い切符を売り始めた。往復で3ペンス。早朝の2本の列車のどちらかに乗って出かければ、帰りはその日のどの列車に乗ってもよい、という条件だった。
この労働者向けの運賃は、会社の善意だけで生まれたものではない。路線を延ばす許可を議会に求めた際、その条件として、働く人々のための安い運賃を用意することが求められていた。1865年12月に東のムーアゲートまで線路が延びると、早朝の安い列車は法律で義務づけられたものになった。
鉄道を通すには、その上や脇に建っていた家を取り壊さなければならない。取り壊されるのは、たいてい家賃の安い労働者の住まいだった。住む場所を追われた人々が、遠くの安い家から通えるようにする。安い早朝列車は、そうした事情と表裏の関係にあった。都心で働き、郊外に住んで鉄道で通う。いまでは当たり前のこの暮らし方を、ロンドンで最初に形にしたのが、この地下鉄だったと言ってよい。
路線はその後も延び続け、1884年には、もうひとつの地下鉄会社の路線とつながって、都心をぐるりと回る環状の運転が始まる。いまの環状線(サークル線)の原型である。
煙のトンネルは40年続いた
議会で繰り返された「汚れた空気」の質問
列車が増えれば、煙も増える。19世紀の終わりには、地下鉄のトンネルの空気の悪さは、議会でたびたび取り上げられる問題になっていた。議事録には、ひとりの議員が何年にもわたって同じ問題を追及し続けた跡が残っている。
1894年7月、その議員は商務院(鉄道を監督する役所)の長官に質問した。専門家は、大きな換気扇で空気を吸い出せばトンネルの「汚れた空気」をきれいにできると言っている。ところが会社が依頼した技師の報告書は、それは実際には無理だと結論している。その報告書を議会に出してほしい——。答えは、会社によれば報告書は私的なものなので、議員が総支配人に面会を申し込めば見せる、というものだった。
1895年と1896年には、同じ議員が公衆衛生を担当する役所に、法律の力で会社に改善を命じてほしいと迫った。答えはどちらも、それは当局が介入できる事柄ではない、だった。どこに訴えればよいのかと重ねて問われても、担当者は答えられなかった。
ようやく動いたのは1897年2月である。商務院が、ロンドンの地下鉄の換気を調べる委員会を立ち上げた。委員には、鉄道事故の調査で知られた陸軍工兵出身の監督官や、炭鉱のガスや一酸化炭素の研究で名高い生理学者ジョン・スコット・ホールデンが名を連ねた。翌1898年には会社の路線に関する法律が改められ、議員の読むところでは、電気運転に切り替えるか、穴を開ける以外の方法で換気を整えるよう3年以内に求める条項が入った。
1901年3月、例の議員はまた質問している。会社には3年の猶予があったはずだ、何をしたのか。大臣は、条項の趣旨は正確にはそうではないと断ったうえで、会社が電気運転の方式を選ぶために動いているのは周知のことだ、と答えるにとどめた。都心を回る環状の運転が電車に切り替わったのは、1905年のことである。蒸気機関車が客を乗せて地下を走った時代は、開業から40年あまり続いた。
この時代の蒸気機関車のうち、いまに残るのは1866年製の1両(23号)だけである。電化のあとも線路の保守用の列車を引いて1948年まで働き、いまはコヴェント・ガーデンのロンドン交通博物館で見ることができる。
そのころ、ロンドンにはもうひとつの地下鉄が育っていた。地面のすぐ下ではなく、粘土層の奥深くに丸いトンネルを掘り、はじめから電気で走る鉄道である。次回はその話をする。
参考資料
- 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』メトロポリタン鉄道の開業(試乗と宴会、初日の乗客数)原典イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(Today in Science History の翻刻)1863todayinsci.com(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「メトロポリタン鉄道(換気)」(調査委員会の任命)原典英国議会(Hansard)1897api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「メトロポリタン鉄道の換気」(1898年法の条項をめぐる質疑)原典英国議会(Hansard)1901api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。
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