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    公開文ジャスト・ロンドン編集部参考資料 4件

    人物歴史・事件ロンドンの街

    連載「ロンドン地下鉄物語」全 3 回 の第 3 回

    ロンドン地下鉄を買い集めた米国人ヤーキーズ——議会は「たこの足」と呼び、彼は3路線の開業を見ずに死んだ 第3回

    20世紀の初め、ロンドンには許可だけ取って掘られない地下鉄の計画がいくつも眠っていた。それを買い集めて一気に掘ったのは、横領で服役した過去をもつ米国の投資家チャールズ・ヤーキーズだった。議会で「たこの足」と呼ばれた彼は、自分の3路線の開業を見ずに死ぬ。残された赤字の会社を立て直したのは、駅名の文字と赤い丸の標識、そして美しいポスターで地下鉄の「顔」をつくった、ひとりの事務屋フランク・ピックだった。

    ロンドン地下鉄を買い集めた米国人ヤーキーズ——議会は「たこの足」と呼び、彼は3路線の開業を見ずに死んだ 第3回

    画像: James Cracknell / CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

    連載「ロンドン地下鉄物語」の第3回。前回、深いトンネルを掘って電気で走らせる技術がそろった。だが技術があっても、トンネルを掘る金がなければ地下鉄はできない。今回は、その金を大西洋の向こうから持ち込んだ男と、出来上がった地下鉄に「顔」を与えた男の話である。

    シカゴを追われた路面電車王

    チャールズ・ヤーキーズという男

    チャールズ・タイソン・ヤーキーズは1837年、米国フィラデルフィアに生まれた。穀物の仲買から銀行業に転じ、若くして金融の世界でのし上がる。ところが1871年、シカゴの大火をきっかけに市場が混乱すると、資金繰りが破綻した。フィラデルフィア市の資金を預かって運用していた彼は横領の罪に問われ、7か月を刑務所で過ごしている。

    それでも10年とたたずに財産を取り戻し、1881年にシカゴへ移ると、市内の路面電車の会社を次々に買い取っていった。古くて効率の悪い路線を安く手に入れ、ケーブルや電気で動くように改め、ひとつの網にまとめ上げる。手腕は確かだったが、そのやり方は荒っぽく、市議会への買収のうわさが絶えなかった。シカゴでの評判は地に落ち、1899年、彼は持ち株を売り払って街を去る。

    彼の名前は、意外な場所にも残っている。シカゴ大学に寄付した資金で建てられた天文台は、いまも「ヤーキス天文台」と呼ばれている。そして彼の生涯は、米国の作家ドライサーの小説の主人公の手本になった。成功と醜聞のどちらにも事欠かない人物だった。

    シカゴを去ったヤーキーズが次に目をつけたのが、ロンドンだった。

    議会は「たこの足」と呼んだ

    眠っていた地下鉄の計画を買い集める

    前回見たように、1890年代のロンドンでは、深い地下鉄の路線の計画が次々に議会で認められていた。ところが許可を取っても資金が集まらず、掘られないまま放置された計画が少なくなかった。ヤーキーズは1900年ごろからロンドンに乗り込み、そうした計画をまとめて買い取る。さらに、第1回で登場した地面のすぐ下を走る古い地下鉄会社の一方、ディストリクト鉄道も手に入れ、電化を引き受けた。1902年には、これらを束ねる持ち株会社を立ち上げる。資金の多くは米国の投資家から集めた。

    議会の反応は冷ややかだった。1902年7月、北ロンドンのハムステッドへ向かう路線の法案をめぐって、ある議員はこう述べている。この路線は1893年に認められたが、これまた「ヤーキーズ氏の放置物件」のひとつで、6本もの法律が通ったのに何ひとつ掘られていない——。

    同じ年の10月には、別の米国の大資本家モルガンが後ろ盾になった地下鉄の計画も議会にかかっていた。賛成派の議員は、外国の資本を嫌って「英国の制度をアメリカ化するな」と言う人たちに反論し、この法案を退ければ、米国人のモルガンを拒んだ結果、米国人のヤーキーズの腕の中に飛び込むことになるだけだ、と言った。結局モルガンの計画は流れる。

    1903年3月、ヤーキーズの路線の法案が再び議会にかかると、反対する議員は言った。この法案がこのまま通れば、ロンドンの地下の大部分が、ヤーキーズの一派が組織し支配する独占のものになる。ロンドンは、ひとつの金融家集団の「たこの足」に締めつけられることになる——。

    3つの路線の開業を、彼は見なかった

    1905年12月、ニューヨークで

    反対を押し切って、工事は一気に進んだ。テムズ川沿いのチェルシーには、新しい地下鉄に電気を送る巨大な発電所が建てられ、1905年に動き始める。ディストリクト鉄道の電化も同じ年に進み、第1回で見た煙のトンネルは、このころようやく電車の走るトンネルに変わった。

    だがヤーキーズは、自分の地下鉄が走り出すのを見ることはなかった。1905年12月29日、彼はニューヨークのホテルで腎臓の病のため68歳で死ぬ。財産の多くは借金に消えていた。

    彼が掘らせた3本の深い地下鉄は、その死の直後に相次いで開業した。1906年3月にベーカー・ストリートとウォータールーを結ぶ路線(いまのベーカールー線)、12月にピカデリーを通る路線(いまのピカデリー線)、1907年6月にハムステッドへ向かう路線(いまのノーザン線の一部)。いまもロンドンの中心を貫く大動脈である。

    ただし、開業した地下鉄は、すぐには儲からなかった。客は予想ほど集まらず、地上では乗合自動車との競争が激しくなる。米国の投資家たちは、ヤーキーズが約束した配当が出ないことに不満を募らせた。会社を立て直す役目を負ったのは、米国から呼ばれた若い経営者アルバート・スタンリー(のちのアッシュフィールド卿)と、その下で働くひとりの英国人だった。

    事務屋フランク・ピックと「UNDERGROUND」の文字

    赤い丸の標識と、専用の書体

    フランク・ピックは1878年、イングランド東部の町に生まれた。法律の勉強をして事務弁護士の資格を取り、北部の鉄道会社に入ったあと、1906年にヤーキーズの残した会社へ移ってくる。技師でも芸術家でもない、統計と書類の仕事から出発した事務屋である。

    客が来ないのは、地下鉄がどこを走り、どうつながっているのかが分からないからだ。そう考えたピックは、宣伝を任されると、まず別々の会社がばらばらに名乗っていた路線を、ひとつの名前でくくった。1908年ごろから、駅の入口には大きく「UNDERGROUND」の文字が掲げられ、各社の路線をまとめた案内図が配られ始める。駅のホームには、駅名を書いた横棒を赤い円盤に重ねた標識が登場した。のちにロンドン交通の象徴になる、あの丸い標識の始まりである。

    ピックは文字にもこだわった。1913年、彼は書道家エドワード・ジョンストンに、地下鉄のためだけの書体を頼む。駅や掲示の文字が、街にあふれる商品の広告と見分けがつくように、という注文だった。1916年に完成した書体は、飾りのない明快な形で、そのあと標識もこの書体に合わせて描き直された。改良を重ねながら、この書体はいまも駅の案内に使われている。

    ポスターも彼の仕事だった。ピックは名の知れた画家から若手まで大勢に注文し、郊外の野原や川辺、動物園や博物館へ、地下鉄に乗って出かけようと誘う絵を駅に貼り出した。客の少ない週末や昼間に、乗る理由をつくるためである。こうしたポスターの多くは、いまコヴェント・ガーデンのロンドン交通博物館が所蔵している。のちに議会でも、ピックは絵のある広告の質を大きく引き上げた人だと振り返られている。路線図を電気の配線図のように描き直した製図工の話は別のコラムに譲るが、それを駅に貼ることを認めたのも、この会社だった。

    1933年、民間の地下鉄は公共のものになった

    年俸1万ポンドの「独裁」

    1933年、ロンドンの地下鉄、路面電車、バスは、新しくつくられた公共の機関、ロンドン旅客運輸公社にまとめられた。議会で明かされた最初の役員の年俸は、会長のアッシュフィールド卿が1万2500ポンド、専任の役員となったピックが1万ポンド。ほかの役員は非常勤で、750ポンドだった。ヤーキーズが集めた私企業の地下鉄は、こうして公共のものになった。

    ピックは、この新しい機関の仕組みを手放しでは褒めなかった。1934年2月の講演で、彼はこう語ったと議会で引用されている。この機関は運輸省にも運賃の審判所にも責任を負わない。議会に責任を負うのかもしれないが、議会が主権を取り戻すには自らの仕事を取り消すしかない。「資本家の支配から逃れようとして、我々はほとんど独裁に陥っている」——。引用した議員は、「ほとんど」という一語を除けば全面的に同意する、と皮肉った。

    公社のもとで、ピックは建築家チャールズ・ホールデンと組み、郊外へ延びる路線に、れんがとガラスの簡素で美しい駅を次々に建てた。北ロンドンのアーノス・グローブ駅(1932年)は、いまも国の重要な歴史的建造物に指定されている。1939年には、のちの副首相ハーバート・モリソンが議会で、公社の頂点に立つアッシュフィールドとピックを「並外れて有能な2人」と呼び、2人が去ったあとに同じ器の人物がいるだろうかと案じた。

    ピックの任期は1940年5月に切れた。戦争のさなか、彼は情報省の事務方の長に招かれたが数か月で退き、その後は運河の輸送の調査を任される。1941年11月、62歳で世を去った。

    そのころロンドンの地下鉄は、彼が想像もしなかった使われ方をしていた。毎晩、何万人もの市民が、空襲を逃れてホームで眠っていたのである。最終回はその話をする。

    参考資料

    1. 庶民院議事録「チャリング・クロス、ユーストン、ハムステッド鉄道法案」(「ヤーキーズ氏の放置物件」)原典英国議会(Hansard)1902api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    2. 庶民院議事録「チャリング・クロス、ユーストン、ハムステッド鉄道法案」(「たこの足」)原典英国議会(Hansard)1903api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    3. 庶民院議事録「ロンドン旅客運輸公社」(役員の年俸)原典英国議会(Hansard)1933api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
    4. 庶民院議事録「ロンドン旅客運輸公社法案」(ピックの1934年の講演の引用)原典英国議会(Hansard)1938api.parliament.uk(新しいタブで開きます)

    記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。

    この記事に出てくる観光スポット

    記事に登場した場所の見どころ・料金・アクセスは観光ガイドにまとめています。

    連載「ロンドン地下鉄物語」全 3 回

    1. 1ロンドン地下鉄は1863年、蒸気機関車で開業した——「煙を出さない機関車」は試運転で失敗していた 第1回
    2. 21890年、ロンドンの地下鉄は電気で走り始めた——グレートヘッドの「盾」と、「詰め物をした独房」と呼ばれた客車 第2回
    3. 3ロンドン地下鉄を買い集めた米国人ヤーキーズ——議会は「たこの足」と呼び、彼は3路線の開業を見ずに死んだ 第3回(この記事)

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