ビッグベンの鐘は1859年、鳴り始めて2か月で割れた——「ベン」の名を継いだ2代目は、ひびのまま今も鳴る
ロンドンの国会議事堂の時計塔で鳴るビッグベンは、実は2代目の鐘だ。初代は1857年の試し打ちで割れ、作り直した2代目も1859年、鳴り始めて2か月ほどでひびが入った。設計者と鋳造所は「誰が割ったか」を法廷で争い、議会は4年近く鐘を黙らせたまま議論を続けた。いま聞こえる音は、1863年に鐘を4分の1回して打つ場所を変えただけの、ひびの入った鐘の音である。

画像: Julian Herzog (Website) / CC BY 4.0, via Wikimedia Commons
ビッグベンという名前は、もともと時計塔でも時計でもなく、塔の中に吊るされた大きな鐘の名前である。名前の由来は、工事を所管した役人の名だという。だがこの鐘の歴史をたどると、出てくるのは名前の話よりも、割れた鐘をめぐる7年間の騒ぎのほうだ。議会の議事録と当時の技術誌に、その経緯がかなり細かく残っている。
1856年、16トンの鐘に付いた名前
「ビッグベン」は、ロンドンに着いた翌日の新聞に出た
国会議事堂の時計塔に吊るす鐘は、1856年8月6日、イングランド北東部ストックトン近郊の工場で鋳込まれた。注文を受けたのはロンドンのウォーナー社だが、自社の炉ではこれほど大きな型を扱えず、北の工場を使った。
計画では14トンのはずが、仕上がりは約16トンあった。鐘は鉄道で港まで運ばれ、帆船でロンドンへ向かった。途中で鐘が台から数インチずり落ちて甲板を壊し、船は修理のためにドックへ入っている。ロンドンに着いたのは10月21日。16頭の馬に引かれてウェストミンスター橋を渡り、議事堂の中庭に入った。塔はまだ完成していなかったので、鐘は中庭に組んだやぐらに吊るされ、そこで試し打ちが始まった。
名前はすぐに付いた。到着の翌日、10月22日付のタイムズ紙は、この「鐘の王」を公共事業局長官ベンジャミン・ホールにちなんで「ビッグベン」と呼ぶことが提案されている、と伝えている。ホールは1855年から58年まで、議事堂の工事を所管する長官だった。当時人気のボクサーの愛称から取ったという説もあるが、到着直後の新聞が長官の名を挙げている以上、分は悪い。つまり「ビッグベン」は、もとはこの初代の鐘に付いた名前である。
鐘の設計を握っていたのは、法廷弁護士で、趣味で時計を研究していたエドマンド・ベケット・デニソンだった。議事堂の大時計を設計した人物で、鐘についても形と厚さ、金属の配合まで指定した。長官ホールは議会で、デニソンを「おそらくヨーロッパの誰よりも鐘に詳しい人物」と紹介している。
デニソンが指定した配合は、銅22に対して錫7。鐘の鋳造で長く使われてきた「銅4に錫1」よりも、錫がかなり多い。錫が多いほど金属は硬く、もろくなる。のちに2代目を鋳た鋳造所は、この配合はもろいと警告している。騒ぎの火種は、最初から鐘の中に入っていた。
1857年10月、試し打ちの最中にひびが走った
設計では約356キロの舌が、約610キロになっていた
試し打ちは1857年のほぼ1年間続いた。10月17日の土曜日、午後1時の打鐘で音が濁り、調べると縁から長さ約1.2メートルのひびが入っていた。ひびは、鐘を打つ位置のちょうど反対側にあった。
12月10日、庶民院で議員が尋ねた。鐘が割れた原因の調査はどうなったのか、作り直しの費用は鋳造所に払わせるのか。長官ホールは自分で答える代わりに、前日にデニソンから届いた手紙を読み上げた。
手紙によれば、原因は鋳造所の側にある。鐘の胴の薄い部分が、設計より8分の1インチ(約3ミリ)厚く仕上がっていた。そのため十分な音を出すには、内側から鐘を打つ舌(ぜつ)を、予定の約356キロではなく約610キロにしなければならなかった(英国の重さの単位で、7ハンドレッドウェイトと12ハンドレッドウェイト)。鐘の縁はこの重い舌に1年近く耐えたが、ついに割れた——。
ただしデニソンは、鋳造所に作り直しの費用は求められない、とも書いている。厚さも重さも音の高さも指定とは違っていたが、重い舌で打っても割れなかったので、自分ともう一人の審査役は合格の証明を出し、代金も払ってしまっていたからだ。手紙の終わりには、こんな一節がある。
世界でいちばん良い鐘でも、気まぐれのように割れることがある。ひどく出来の悪い鐘が、しぶとく長持ちしすぎることもある。
良い鐘の例に挙げたのはリンカーン大聖堂の古い大鐘、出来の悪い鐘の例はオックスフォードの大鐘だった。割れたのは運が悪かったからだ、と言わんばかりである。
ウォーナー社の言い分は逆だった。割れたのはデニソンが重すぎる舌を使わせたからだ、という。政府は、何年かかるか分からない裁判を避けて、責任の追及をあきらめた。
1858年2月、初代ビッグベンは横倒しにされ、1トンを超える鉄の玉を約9メートルの高さから落とし続けて、2日がかりで砕かれた。
2代目は半値に近い額で鋳られ、2か月で割れた
議場に響いた「荘厳な音」
作り直しはウォーナー社にも打診されたが、見積もりが高すぎた。引き受けたのは、ロンドン東部のホワイトチャペル鐘鋳造所のジョージ・ミアーズである。技術誌『エンジニア』によれば、その額はウォーナー社の見積もりの半分をわずかに上回る程度だった。初代の金属を溶かし直し、1858年4月10日に鋳込まれた2代目は約13.5トン。初代より2トンほど軽い。
それでも塔の縦穴をまっすぐには通らず、鐘は横倒しにして、その年の10月に約30時間かけて塔の上まで巻き上げられた。重さで苦労したのは鐘だけではない。1859年7月の庶民院では、文字盤の分針が、予定では約100キロのところ、材料を変えたために重りを含めて約360キロになり、動かせないので4面ある文字盤のうち2面しか使っていない、と答弁されている。
2代目が時を打ち始めたのは1859年7月11日である。音は大きかった。翌1860年3月、グリニッジ選出の議員は議場で、前の会期中に「何度も議場に響いた荘厳な音」がこのところ聞こえないが、と尋ねている。1862年には長官が、鐘が鳴っていたころは議事が中断された、議員諸君もあの大きくゆっくりした音をまた聞きたいとは思うまい、と答弁した。
その音は長くは続かなかった。9月には2代目にもひびが見つかり、10月2日付のオブザーバー紙は「ビッグベン、最後の一打」と見出しを打った。前日の午後を最後に、鐘は鳴らなくなった。鳴り始めてから、2か月半ほどしかたっていない。
「誰が割ったか」は法廷に持ち込まれた
鋳造所は、設計者を名誉毀損で訴えた
今度もデニソンは鋳造所を責めた。鐘の表面のすぐ下に小さな気泡の穴がいくつもあり、それが白い金属で埋められていた。鋳造所が出来の悪い鋳物の穴を隠した、という趣旨の非難である。ミアーズはこれを名誉毀損だとして、デニソンを訴えた。
1860年1月6日号の『エンジニア』が、この裁判を詳しく伝えている。誌面ははっきり鋳造所の側に立った書きぶりだが、そこで示された経緯はこうだ。
- 穴を白い金属で埋めたのは鋳造所ではない。鐘はすでに鋳造所の手を離れており、議事堂の工事監督が承知のうえで埋めた。穴が割れたことに関係していたとは、いまでは考えられていない
- 鋳造所は、舌の重さを約305キロにするよう勧めた。デニソンは約356キロを譲らなかった
- その後デニソンは、舌の代わりに約380キロの鉄の塊をハンマーとして使い、33センチの高さから鐘の縁に落とすようにした
- 鋳造所は、デニソンの配合はもろいと警告していた。そのうえで、結果には一切責任を負わないという条件で配合に従った
同誌は「こうして鐘は吊るされ、こうして打たれ、こうして割れた」と書いている。
裁判は評決を待たずに和解で終わった。条件は、デニソンが鋳造所への非難と言いがかりをすべて取り消すこと。そして相手の弁護士費用に加え、技術者や専門家の証人の費用、模型や図面の代金、技術者2人のオックスフォード行きの旅費まで、残らず払うことだった。記事は「こうして2代目ビッグベンの物語は終わる。3代目があるなら、契約はミアーズに。そして彼のやり方でやらせてほしい」と結ばれている。
デニソンの喧嘩はこれで終わらなかった。20年以上たった1881年にも、同じ鋳造所の経営者から、鐘の鋳造をめぐって名誉毀損で訴えられ、今度は敗れている。
議会は4年近く、割れた鐘をどうするか決められなかった
「鐘が割れて喜んでいる」と言った伯爵
1860年3月、公共事業局長官のカウパーは庶民院で、鐘は5か所割れていて、長いひびは約30センチと約23センチある、と報告した。原因については「ハンマーが鐘の強さに対して重すぎたか、鐘がハンマーの重さに対してもろすぎたか、そのどちらかだと言ってよいだろう」。どちらにも取れる、役人らしい答えである。
政府は専門家を次々に呼んだ。金属の分析を任されたのは、ロンドンの地質学博物館の化学者ジョン・パーシーだった。このとき、ひびの部分から深さを変えて削り取った金属の削りくずは、パーシーの旧蔵品として、いまもロンドンの科学博物館に残っている。同じ年の4月には、王室天文官ジョージ・エアリーも、時計と鐘について長い報告書を出した。自伝によれば、鐘の音を調べるために職業音楽家を雇っている。
貴族院の空気はもっと冷ややかだった。1860年6月、ダービー伯爵は、時計の針は1本が消え、残る1本は12を指したまま止まっている、少なくとも12時間に1度は正しいわけだ、と皮肉った。続いて立ったグレイ伯爵——紅茶の名前で知られる2代伯爵の息子——は、自分の住むあたりの住民はみな、鐘が割れたことを喜んでいる、どうかあの昔の音で二度と鳴らさないでほしい、と述べた。
1862年4月、パーシーの最後の報告が庶民院で読み上げられた。割れた部分の金属は、鋳造所に指定された配合(銅76、錫24)より錫が約2%多く、そのぶんもろい。それでも、破片が落ちたときの簡単な備えをすれば、まだ安全に鳴らせるだろう——。長官は、ひびが広がって破片が下を歩く人の頭に落ちる危険を考えると、自分の責任では鳴らせないと答えた。
そのあいだ時刻は、15分ごとに鳴る4つの小さな鐘のうち、いちばん大きなものが代わりに打っていた。長官の説明は「ミドルセックス中には聞こえないが、議場までは十分に届く」だった。
1863年、鐘は4分の1回されて、ひびのまま鳴り始めた
割れた鐘を、割れたまま使う
結局、鐘は作り直されなかった。1863年、エアリーの提案で、鐘は吊るしたまま90度回され、ハンマーがひびを避けて別の場所を打つようにされた。ハンマーは軽いものに替えられ、ひびがそれ以上伸びないよう、小さな四角い切り込みも入れられた。ひびも切り込みも、いまも鐘に残っている。
振り返ると、どちらの言い分にも理があった。パーシーの分析では、鐘の金属は指定より錫が多かった。鋳造の側にずれがあったことになる。ところがその指定(銅76、錫24)は、デニソンの「銅22に錫7」そのもので、昔からの「銅4に錫1」よりもともと錫が多い。そこへ鋳造所が勧めたより重いハンマーを、デニソンは使った。もろい配合と、それよりさらにもろく仕上がった金属と、重すぎるハンマー。3つが重なって割れた、というのが穏当な見方だろう。
デニソンはその後も時計の世界で名を上げ、1886年には男爵(グリムソープ卿)になった。英国時計協会は彼を何度も会長に選んだが、夕食会には出席しないことが条件だったと伝わる。気難しさでも名を残した人である。2代目を鋳たホワイトチャペルの鋳造所は、その後も鐘を作り続け、2017年に東ロンドンの工房を閉じた。
同じ2017年の8月から、ビッグベンは塔の大がかりな修復のため、大晦日や戦没者追悼の日などを除いて、約5年間ほとんど鳴らなかった。修復を終えた塔で、鐘はいまも正時を打っている。名前は初代から受け継いだもので、音は163年前に4分の1回された位置から出ている。
いまロンドンで聞こえるのは、ひびの入った鐘の音である。ひびが入る前の音を聞いた人は、もういない。
参考資料
- 庶民院議事録「ウェストミンスターの鐘」(初代の鐘が割れた原因についてのデニソンの手紙)原典英国議会(Hansard)1857api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 庶民院議事録「時計塔の大鐘」(パーシーの金属分析の報告)原典英国議会(Hansard)1862api.parliament.uk(新しいタブで開きます)
- 技術誌『エンジニア』1860年1月6日号「ウェストミンスターの鐘」(ミアーズ対デニソンの名誉毀損訴訟)原典The Engineer(Grace's Guide 所蔵の誌面)1860gracesguide.co.uk(新しいタブで開きます)
- ビッグベンのひびから深さを変えて削り取った金属の削りくず(1860年)所蔵サイエンス・ミュージアム・グループ1860collection.sciencemuseumgroup.org.uk(新しいタブで開きます)
記事の主な日付・数字・引用は、上の資料と照らし合わせて確かめています(2026年10月確認)。
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