2026年8月3日
連載「クリストファー・レン物語」全 3 回 の第 1 回
セント・ポール大聖堂の設計者として名を残すクリストファー・レンは、40代になるまで建築の仕事を一度もしたことがない天文学者だった。犬の静脈に薬物を注射する実験、国王への月の模型の献上——そんな科学者がなぜ、ロンドン最大の建築プロジェクトを率いることになったのか。全3回の連載、第1回は「建築家になる前のレン」を追う。

ロンドンを歩けば、いたるところにクリストファー・レン(1632–1723)の名前が出てくる。セント・ポール大聖堂、ロンドン大火記念塔(モニュメント)、シティに点在する塔——だが彼が生涯の前半、王立協会の実験主任として犬の血管に薬物を注射し、国王に月の模型を献上していた科学者だったことは、意外と知られていない。全3回でレンの生涯をたどる連載の第1回は、彼が「建築家」になる以前の物語から始める。
オックスフォードの神童
クリストファー・レンは1632年、ウィルトシャーの牧師の家に生まれた。父も伯父も聖職者という家系で、本人も当初は聖職者になる道を歩んでもおかしくなかった。しかし少年時代のレンが夢中になったのは、数学と器械いじりだった。伝記作家によれば、17歳になる頃にはすでにいくつもの発明をしており、そのひとつが自動で気象を記録する「天候時計(weather clock)」だったという。風向きや気温、気圧の変化を歯車仕掛けで紙に記録させるという発想は、当時としてはきわめて先進的なものだった。
オックスフォードのワダム・カレッジで学んだレンは、1653年に修士号を取得しオール・ソウルズ・カレッジのフェローに選ばれる。そして1657年、わずか25歳でロンドンのグレシャム・カレッジの天文学教授に就任した。グレシャム・カレッジは当時、ラテン語と英語の両方で市民向けに公開講義を行う、いわば「開かれた大学」だった。レンはここで毎週、望遠鏡の使い方から惑星の運動まで、誰でも聴講できる講義を行っている。1661年にはオックスフォード大学のサヴィリアン天文学教授職にも就き、二つの大学で天文学を教える立場となった。この頃の彼を知る人々は、後年「大聖堂の設計者」として名を残すことになるとは、誰も想像していなかっただろう。
王立協会の「実験主任」
1660年、グレシャム・カレッジに集っていた科学者仲間の非公式な会合が、国王チャールズ2世から勅許を得て「ロンドン王立協会」として正式に発足する。レンはその創設メンバーの一人であり、後の1680年から1682年にかけては会長も務めた。当時の王立協会は、まだ「科学」という言葉すら一般的でなかった時代に、実験によって自然界の謎を解き明かそうとする急進的な集団だった。
レン自身がここで行った実験のひとつが、今日から見ても驚くべきものだ。彼はガチョウの羽軸と豚の膀胱を使って即席の注射器を作り、犬の静脈に阿片(オピウム)を注入するという実験を行っている。これは記録に残る世界初の静脈内麻酔の実験例のひとつとされ、後の輸血や静脈注射という医療技術の先駆けとなった。麻酔にかかった犬は一時的に意識を失い、しばらくすると回復したと記録されている。この実験は当時の医学界にも大きな衝撃を与え、レンの名は建築家としてよりも先に、実験科学者として知られることになった。
チャールズ2世を魅了した精密模型
レンのもうひとつの得意分野は天体観測だった。望遠鏡で月面を観察し、クレーターの陰影を精密に写し取った彼は、それをもとに月面の立体模型を制作している。平面の図ではなく、実際に凹凸のある立体模型として月を再現するという発想自体が当時としては斬新で、これが国王チャールズ2世の目に留まった。国王はいたく気に入り、レンに命じてこの模型をさらに精巧に仕上げさせ、正式に献上させたと伝えられている。
レンとチャールズ2世の関係は、実は幼少期にまで遡るという説もある。当時のイングランド宮廷とレンの家系には接点があり、後に王となる人物と少年時代を共に過ごした可能性が指摘されているのだ。真偽はさておき、少なくとも国王はレンの科学的才能を高く評価しており、この個人的な信頼関係こそが、後にレンへ莫大な公共事業を任せる下地になったと考えられている。科学者としての実績と、宮廷とのつながり——建築家になる前のレンには、すでに両方が揃っていた。
大火がすべてを変えた
1666年9月2日未明、シティのプディング・レーンにあったパン屋から出火した火は、木造家屋が密集した旧市街を4日間にわたって焼き尽くした。焼失した家屋は約1万3000戸、教会は80以上、そして中世以来ロンドンの象徴だった旧セント・ポール大聖堂も、屋根の鉛が溶けて崩落するほどの被害を受けた。シティの実に80パーセント以上が灰燼に帰したとされる、イングランド史上最大級の都市災害だった。
このとき、レンはすでに建築の世界に片足を踏み入れていた。1663年、伯父であるイーリー主教から依頼され、ケンブリッジのペンブローク・カレッジに新しい礼拝堂を設計したのが最初の建築の仕事だった。だがそれはあくまで科学者の余技であり、本業ではなかった。ロンドンが燃えたことで、この「余技」が一気に彼の人生の中心に躍り出ることになる。
幻に終わった理想都市計画
驚くべきことに、レンは大火が鎮火してからわずか6日後の1666年9月11日、ロンドンを一から作り直す都市計画案を国王に提出している。この案では、火災後の焼け跡を利用して、狭く曲がりくねった中世以来の路地を撤廃し、広い直線道路と広場(ピアッツァ)を配した幾何学的な都市を作ろうという構想が描かれていた。フリート川沿いには運河を通し、テムズ河岸には整然とした埠頭を築く——まさにパリやローマのバロック都市計画に匹敵する野心的なプランだった。日記作家として知られるジョン・イーヴリンも独自に同様の再開発案を提出しており、当時の知識人たちの間で「これを機にロンドンを近代都市に作り替えよう」という機運が高まっていたことがうかがえる。
しかし、この理想都市計画は結局実現しなかった。理由は単純で、焼け出された何千人もの地主・商人たちが、自分の土地の境界と所有権を維持したまま一刻も早く商売を再開したがっていたからだ。区画整理をして道路を通し直すには、複雑な土地の権利関係を一からやり直す必要があり、莫大な時間と費用がかかる。冬が近づく中、住居も店舗も失った市民を待たせておく余裕はなかった。結局ロンドンは、ほぼ元通りの中世以来の街路網の上に、道幅を多少広げただけの形で再建されることになる。レンの理想都市は、地図の上にしか存在しない「幻のロンドン」として歴史に残った。
第2回へ続く
壮大な都市計画こそ却下されたものの、レンの仕事はここで終わらなかった。大火で焼失した教会の再建という、もうひとつの巨大プロジェクトが彼を待っていたのだ。1669年、レンは国王直属の建築総監(Surveyor of the King's Works)に任命され、シティに散らばる焼失教会——実に50を超える教区教会——の再建設計を一手に引き受けることになる。予算も敷地の形も、教区ごとにまるで違うという制約だらけの仕事の中で、レンはロンドンの空に、誰も見たことのないスカイラインを描き出していく。次回、第2回では、この「50を超える教会」をめぐる知られざる駆け引きと、レンが編み出した塔とスパイアのデザインの秘密に迫る。
第 2 回 →
ウェディングケーキの形はセント・ブライド教会の尖塔から生まれた——レンが石炭税で51の教会を建て直した話 第2回
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