2026年8月21日
連載「ロンドン大火物語」全 3 回 の第 2 回
1666年10月27日、ロベール・ユベールという名の若いフランス人がタイバーンで絞首刑になった。ロンドンを焼いた罪である。ただし彼は火事の二日後に入国していた。裁判長は国王に「この男は無実だと思う」と伝えていた。それでも彼は吊るされた。
都市が焼けたあと、人が真っ先にやることは再建ではない。犯人探しである。
第1回では、五日間で City の四分の三が消えるまでを追った。今回はその直後、まだ煙が上がっている焼け跡で始まった犯人探しの話をする。
結論から言うと、ロンドンは一人の無実の男を吊るし、そのあと150年以上にわたって、街の真ん中に立つ石柱に嘘を刻み続けた。
外国人とカトリック、二つの都合のいい容疑者
火が消えたあと、ロンドン市民の多くは事故だと思っていなかった。
無理もない側面はある。当時のイングランドは第二次英蘭戦争のまっただ中で、オランダともフランスとも交戦状態にあった。前年にはペストで数万人が死んでいる。そこへ街の四分の三が焼ける。これを偶然の積み重ねだと受け止めるには、人々は疲れすぎていた。
街には「オランダ人が火をつけた」「フランス人が火の玉を投げ込んでいた」「カトリックの陰謀だ」という噂が一斉に走った。実際に暴徒が外国人を襲い、リンチにかけている。フランス人というだけで殴られ、身を隠した人間が大勢いた。
ここで押さえておきたいのは、この犯人探しには政治的な需要があったということだ。事故なら、責任は誰にもない。強いて言えば市長の判断ミスと、王が統治する都市の構造的な脆弱さが露呈するだけである。だが外国の陰謀なら、話がまるごと外に出せる。
そういう空気のなかに、一人のフランス人が放り込まれた。
ロベール・ユベール、ルーアンの時計職人の息子
ロベール・ユベール(Robert Hubert)は1640年ごろの生まれ。ルーアンの時計職人の息子で、彼自身も時計職人だった。
彼はスウェーデンから故郷ルーアンへ帰る途中、Maid of Stockholm というスウェーデン商船に唯一の民間人乗客として乗っていた。ところがこの船が航行中にイングランドの軍艦に拿捕され、ロンドンへ回航させられる。戦時下ではよくあることだった。
そして捕らえられた彼は、なぜか自分から放火を告白しはじめる。
供述は最初から破綻していた。彼はまずウェストミンスターで火をつけたと述べた。だが火はウェストミンスターまで届いていない。それを指摘されると、今度は話を変えた。ステファン・ペドロー(Stephen Peidloe)という共犯者と組み、火薬と硫黄を詰めた火炎手榴弾を棒の先につけて、プディング・レーンのパン屋の窓から放り込んだ——と。
供述が変わる容疑者は、それだけで信用に値しない。しかも彼の新供述には、致命的な問題があった。
証拠がことごとく無実を指していた
ユベールの自白に対して、当時わかっていた事実はこうである。
四つ揃っている。現代の法廷なら開廷十分で終わる案件である。
それでも1666年9月16日、彼は起訴された。裁判で有罪の根拠になったのは、物証でも証人でもなく、彼自身の自白ただ一つだった。告発者すら立っていない。誰一人として彼を訴えていないのに、本人が「やった」と言い張るので有罪になった。
なぜ彼が自白したのかは、いまも誰にもわからない。精神を病んでいたという見方が有力で、後述するように当時の要人もそう見ていた。
全員がわかっていて、全員が止めなかった
この事件がただの冤罪と違うのは、関係者が全員気づいていたという点にある。
裁判長は国王に対して、ユベールの話は支離滅裂であり、自分は彼が有罪だとは思わない、と伝えている。大法官クラレンドン伯もこう書き残した。裁判官も、法廷にいた者も、誰一人として彼が有罪だとは信じていなかった。彼は**「人生に疲れ果てた哀れな錯乱者(a poor distracted wretch, weary of his life)」**で、この方法で命を手放すことを選んだのだ、と。
記録に残っているのは、つまりこういう状況である。
1666年10月27日、ユベールはタイバーンで吊るされた。
終わりではない。当時の慣例で遺体は解剖のため理髪外科医組合に引き渡されることになっていたが、その受け渡しの最中に、群衆が遺体に殺到して引き裂いた。ロンドンは、自分たちが焼かれた理由をこの一人の男に押しつけ、その体を文字通りバラバラにすることで気を済ませたわけである。
無実の人間を吊るすのは、司法の失敗だ。無実だとわかっていて吊るすのは、もう失敗ですらない。それは需要に応えただけだと思う。
モニュメントは今も立っている。文章だけが消された
話はここで終わらない。ロンドンは、この犯人探しを建造物に刻んで恒久化した。
大火の記念塔「ザ・モニュメント」は火元のすぐ近くに立っている。いま登ると City の眺めが楽しめる観光名所だが、この塔にはかつて、いま読むと相当ぎょっとする碑文があった。
1681年、いわゆる**カトリック陰謀事件(Popish Plot)**の熱狂のさなかに追記された文言がこれである。プロテスタントの都市が焼かれたのは「教皇派の裏切りと悪意によって始められ、遂行された」ものだ、と。さらに「これほどの惨事を引き起こした教皇派の狂気は、いまだ鎮まっていない」という一文まで刻まれた。
事故の記念碑ではなく、特定の宗教集団を名指しで告発する石だったわけだ。
その後の扱いも露骨に政治的だった。
つまりこの嘘は、約150年ロンドンの中心に刻まれ続けた。政権が変わるたびに隠されたり彫り直されたりしながら。
ユベールが吊るされたのが1666年、碑文が削られたのが1830年。犯人探しの熱は、火よりもずっと長く燃えていたことになる。
——では、焼けた街そのものはどうなったのか。次回は、この焼け跡から生まれたものの話をする。誰が再建費用を払うのかを裁く特設法廷、二度と燃えない街を作るための法律、そして「国が助けてくれないなら自分たちで」という発想から生まれた、世界初の火災保険と私設消防隊である。焼け野原は、いまのイギリスの制度をいくつも生んでいる。
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焼け跡から保険と消防が生まれた——「燃えた家の家賃を誰が払うのか」を裁くためだけに作られた法廷の話 ロンドン大火物語 第3回(最終回)