2026年8月6日
1981年、ヴィヴィアン・ウェストウッドは初めてランウェイショーを行った。そこに破れたシャツも安全ピンもなかった。以後の十数年、彼女がやったのは、ヴィクトリア朝のクリノリンと18世紀のコルセット——フェミニズムが「女を閉じ込めた装置」として最も敵視してきた二つの衣服——を、博物館の収蔵庫から意図的に掘り起こすことだった。なぜパンクスは歴史の書庫に潜り込んだのか。全三回の第2回。

「私のアイデアはすべて、過去のアイデアを研究することから来ています。アートとファッションのあいだには繋がりがある。アートを見なかったら、私は何ひとつデザインできない」——1990年代のウェストウッドは、この一文を繰り返し語った。パンクの女王が言うにしては、あまりに古典的に聞こえる。だがこれは転向ではない。方法の一貫である。
初のランウェイと、ワールズエンド期の三年間
1981年、ウェストウッドとマルコム・マクラーレンは初めてキャットウォークショーを行った。コレクション名は「Pirates(パイレーツ)」。
出てきたのは、破れた布でも安全ピンでもなかった。18世紀の海賊の衣装、フランス革命後のパリを闊歩した奇矯な伊達者たち「アンクロワイヤブル(Incroyables)」の誇張されたシルエット、そしてアフリカのプリント地。だぶだぶの袖、サッシュベルト、非対称の裁ち。ボンデージ・パンツを作った同じ人物が、いきなり海賊のブラウスを作りはじめたのである。
これは奇行ではなく、判断だった。1981年のロンドンでは、パンクはすでに量産され、ハイストリートで買えるようになっていた。挑発が商品になったとき、挑発を続けても意味がない。彼女は路線を変えるのではなく、素材となる時代を変えた。参照先がストリートからヨーロッパの服飾史へ移っただけで、「既存の身体イメージを壊す」という目的は一ミリも変わっていない。
ここから1984年までのワールズエンド期は、恐ろしい密度で走る。
この中に、後から見ると爆弾のような一手がある。Buffalo(通称「バッファロー・ガールズ」)で、ブラジャーを服の外側に着せたのだ。1982年である。マドンナが「ブロンド・アンビション」ツアーでジャン=ポール・ゴルチエのコーンブラを着て世界を驚かせるのは、その8年後のことだ。
そして1984年、マクラーレンとのパートナーシップは終わる。第1回で見たとおり、二人の分業は「マクラーレンが挑発を考え、ウェストウッドがそれを縫えるものに変える」だった。分かれたあと、片方は音楽と話題の世界へ去り、もう片方には縫う技術だけが残った。
1985年春夏。ロッキング・ホース・シューズの誕生
1984年、ウェストウッドはほぼ無一文だった。店をたたみ、生産基盤を求めてイタリアへ渡る。この数年間、彼女はショーらしいショーを打てていない。
その谷底で発表されたのが、1985年春夏の「Mini-Crini(ミニクリニ)」である。
クリニ、つまりクリノリン。1850〜60年代のヨーロッパで女性が着用した、鋼のたがで巨大に膨らませたスカートの骨組みだ。当時から風刺雑誌『パンチ』の格好の餌食で、20世紀のフェミニズムにとっては「女性を物理的に閉じ込め、移動を妨げ、装飾品にした装置」の代名詞である。
ウェストウッドはそれを膝上丈に切り詰め、1960年代のミニスカート——女性解放の象徴とされたあの服——と接合した。バレエ・リュス『ペトルーシュカ』の舞台衣装を参照した、明るいストライプの、丸くふくらんだ小さな鐘のような形。
彼女の論は、通説を正面から疑うものだった。クリノリンは確かに巨大だが、それ以前の女性は何枚もの重いペチコートを腰に巻いて歩いていた。クリノリンはその重量から脚を解放し、骨組みの内側で脚は自由に動けた。つまりあれは「檻」であると同時に、実際には身軽さの技術でもあった——と。
さらに文脈がある。1985年のファッションといえば、パワースーツの時代である。女性が職場で権威を得るために、肩に大きなパッドを入れて男性的な逆三角形のシルエットをまとっていた。ウェストウッドのミニクリニは、その真逆を提示した。「男の形をまねること」以外にも、女の服のあり方はあるという主張である。どちらが解放かは、そう簡単に決まらない。
このコレクションのために作られたのが、ロッキング・ホース・シューズである。厚い木の台のつま先側が、揺り木馬の脚のようにぐいと反り上がっている。そしてかかとの下は、四角く木が削り取られて空洞になっている。
つまり、履いた人は立っているだけで体重を前へ、つま先側へ預けなければならない。かかとに体重をかければ、後ろに転がる。服ではなく、靴が、着る人の重心と歩き方を書き換える——第1回で見たボンデージ・パンツの「ホブル・ストラップ」とまったく同じ発想が、今度は木の彫刻としてやってきた。
ウェストウッド自身の説明はもっと素朴だ。
「小さな、子どもっぽい靴が欲しかったの。サンダルみたいで、ちょっと下駄みたいな。少し台がついていて——ちょっと揺れるやつ」
ちなみにこのロッキング・ホース・シューズは、のちに日本で独自の生命を得る。1990年代以降の原宿を中心としたストリートファッションで、ウェストウッドの靴のなかでも別格の存在になっていった。
1987年、パンクスが英国伝統の側に立つ
1987年春、ロンドンのオリンピア。ウェストウッドは2年半ぶりのショーを開いた。クラシック音楽と、伝統的なブラスバンドの生演奏つきで。コレクション名は「Harris Tweed(ハリスツイード)」。
発想源は、彼女が地下鉄で見かけた一人の少女だった。年のころ14歳ほど。髪を編んで団子にまとめ、ハリスツイードのジャケットを着て、バレエシューズの入ったバッグを提げていた。その姿の、どうしようもない英国らしさと、少女らしい真面目さ。
そこに彼女はもう一つの図像を重ねる。1930年代に撮られた、少女時代のエリザベス王女とマーガレット王女の写真である。プリンセス・コート、きちんとした襟、まっすぐな背中。
結果として並んだのは、スコットランドの手織りツイード、ソーンプルーフ(茨に耐える)の生地、ギャバジン、ニット。イングランドの毛織物工場とスコットランドの織機で作られた、雨と風の国のための服。そしてハリスツイードで作られた王冠。
「コミカルだけど、ものすごくシックでしょう」——ヴィヴィアン・ウェストウッド
このコレクションから、彼女はサヴィル・ロウのテーラリングを本格的に研究しはじめる。一度は解体し尽くしたはずの「イギリスの正統」に、今度は技術者として弟子入りしたのである。
そして皮肉なことに——というより必然的に——ハリスツイードという産業自体が、この一本のコレクションで息を吹き返した。アウター・ヘブリディーズ諸島の織り手たちが自宅の織機で織る手織り布は、1980年代には需要が細っていた。それを国際的なファッションの語彙に引き戻したのが、かつて女王の顔に安全ピンを刺したTシャツを売っていた女性だった。
同じ1987年、彼女は自身のロゴを世に出す。**オーブ(Orb)**である。
ベースは、イギリスの戴冠式で君主が手にする「ソヴリング・オーブ」——1661年、チャールズ2世の戴冠のために作られた、十字架を戴く金色の球体。そこに彼女は、土星の環を一本足した。息子が読んでいた天文雑誌が発想源だったという。
意味は明快だ。オーブ=伝統。環=軌道、未来、そしてシステムの外側を回ること。「伝統を未来へ持っていく」。パンクの記号でも王室の記号でもなく、その両方を同時に手に持つという宣言である。
(余談だが、ハリスツイード自体の品質保証マークも、1910年に登録された「オーブ」——十字架を戴く球体である。二つのオーブが同じ年に同じランウェイで交差したのは、記録上は偶然だが、できすぎている。)
1990年「ポートレート」と、コルセットの再発明
ロンドンのマンチェスター・スクエアに、ウォレス・コレクションという美術館がある。ハートフォード侯爵家が集めた18世紀フランス美術の宝庫で、フラゴナール『ブランコ』、ポンパドゥール夫人の肖像、ロココの家具が並ぶ、観光客の動線からやや外れた静かな館だ。
1980年代末から90年代にかけて、この館の常連客の一人がヴィヴィアン・ウェストウッドだった。
「私のアイデアはすべて、過去のアイデアを研究することから来ています」
1990年秋冬、その成果が「Portrait(ポートレート)」コレクションとして現れる。中心にあったのは、コルセットだった。
コルセットの前身頃には、フランソワ・ブーシェが1743年に描いた油彩画が、そのまま印刷されていた。『ダフニスとクロエ』——古代ギリシャの物語を題材に、羊飼いの青年が眠る羊飼いの娘を見つめる場面。実物はウォレス・コレクションが所蔵している(この記事の扉の絵がそれである)。同じ図像はスカーフ、ショール、ネクタイにも展開された。
美術館の壁にかかっている絵を、女性の胸の上に移す。 これは引用ではなく、位置の入れ替えである。見られる対象だった絵画が、着られて歩き出す。
そしてここが、この人が単なる挑発者ではないという証拠になる部分だ。彼女のコルセットは、18世紀の「ステイズ」の形だけを借りて、構造を全部捨てている。
歴史上のステイズは、鯨のひげや鋼を何十本も縫い込んだ剛体で、背中で紐を締め上げるものだった。19世紀末のコルセットに至っては、綿のツイルに鯨骨と鋼を仕込んでいる。呼吸と内臓を犠牲にして形を作る装置である。
ウェストウッドが使ったのは、ポリアミド、ポリエステル、そしてライクラ。骨は入れていない。伸縮する素材で細い腰と持ち上がった胸のシルエットだけを再現し、締め付けは捨てた。留め具も背中の紐ではなく、実用的に着脱できる仕様にした。
つまり、着心地のよいコルセットである。この一点で、この衣服の意味は反転する。締め付けられて形を作られる服から、自分で選んで身にまとうシルエットへ。しかも下着ではなく、上に着る。隠すためのものを、見せるためのものに置き換える。
「私はセクシュアリティという観念をいじって遊んでいるの。どんな形であれ、正統(オーソドキシー)というものが好きじゃないから」
フェミニズムが「女性抑圧の象徴」として葬った衣服を、女性が自分で構造を書き換えて着る。これに批判がなかったわけではない。だが1990年代以降、コルセットがランウェイにもストリートにも当たり前に戻ってきた出発点は、明確にここにある。
この時期、彼女は評価の面でも頂点に立つ。1990年と1991年、二年連続でイギリスのデザイナー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた(三度目は2006年)。かつて猥褻物陳列で有罪になった人物が、である。
また1980年代末からウィーンの応用美術大学で教壇に立ち、そこで一人の学生と出会う。25歳年下のオーストリア人、アンドレアス・クロンターラー。1991年に初めて共同でコレクションを作り、1993年に結婚した。以後、彼女の死までブランドの共同創作者であり続ける人物である。
1993年3月、パリ。「アングロマニア」
1993年3月、パリ。ウェストウッドの1993-94年秋冬コレクション「Anglomania(アングロマニア)」——「英国かぶれ」という意味のフランス語——のランウェイを、当時すでに世界最高峰のモデルだったナオミ・キャンベルが歩いていた。
ストライプのコルセット・ミニドレス。黒いオペラグローブ。そして足元に、スーパー・エレヴェイテッド・ギリー(Super Elevated Gillie)。
鮮やかなブルーの型押しレザー(模造ワニ革)、足首に巻きつけて結ぶシルクのリボン。原型はスコットランドの伝統的な靴「ギリー」で、18〜19世紀の靴のスタイルを参照している。そこに、約5インチ(13cm)の厚底と、約9インチ(23cm)のヒールが加わっていた。V&A博物館の記録では、靴全体の高さは28cmある。
そして彼女は、転んだ。
世界中のカメラの前で、ナオミ・キャンベルはランウェイに崩れ落ちた。そして——立ち上がりながら、笑い出した。
この数秒は、20世紀のファッション史でおそらく最も再生された数秒になった。ナオミ本人は後年、一緒に着ていたラバーのタイツが滑ったのも一因だったと語っている。
興味深いのは、この転倒が誰のキャリアも傷つけなかったことだ。むしろ双方を伝説にした。ナオミにとっては「完璧なスーパーモデル」から「転んでも笑える人間」への転換点になり、ウェストウッドにとっては、自分の服が身体に何を要求するのかを、いかなる広告より雄弁に証明する事件になった。
そもそも彼女の服は、ずっとそれをやってきた。ホブル・ストラップは歩幅を奪い、ロッキング・ホース・シューズは重心を前に倒し、この靴は人を28cm持ち上げて危険にさらす。着る人を楽にすることに、彼女はほとんど関心がなかった。 関心があったのは、着ることで身体の使い方が変わってしまうことのほうだった。
その一足は、同じ1993年のうちにV&A博物館が取得した。展示ケースの中の青い靴の中敷きには、青いボールペンで、大文字の走り書きが残っている。
NAOMI
第3回へ
第1回で見たとおり、若いウェストウッドは古着の縫い目をほどいて、平面に戻った布から型紙を起こすことで裁縫を独学した。テディボーイのドレープ・ジャケットを解体して構造を盗んだのである。
1980年代以降の彼女がやったのは、まったく同じことだ。相手が古着屋の吊るしから、博物館の収蔵品と美術館の壁に変わっただけである。18世紀のステイズを解剖し、クリノリンを解剖し、サヴィル・ロウの型紙を解剖する。構造を理解し、意味を抜き取り、別の目的で組み直す。 彼女にとって歴史とは、権威ではなく部品箱だった。
だから「パンクから伝統への転向」という説明は、たぶん間違っている。転向したのは対象であって、態度ではない。彼女はずっと、目の前にある服が「なぜこの形なのか」を疑い、分解し、答えを別の形で出し直すという、たった一つの作業をしていた。
1992年、彼女はOBE(大英帝国勲章)を受章した。バッキンガム宮殿で女王から勲章を受け取ったあと、彼女は宮殿の外で報道陣の前に立ち、その場でくるりと回ってみせた。スカートは広がり、下には何も履いていなかった。翌日の新聞は一面でそれを報じた。
そして2006年、彼女はデイム(Dame、女性のナイト相当位)に叙され、正式に「デイム・ヴィヴィアン・ウェストウッド」となる。かつて女王の肖像に安全ピンを刺したTシャツを売り、猥褻物陳列で有罪判決を受けた人物が、である。
さらにその9年後の2015年、彼女は白い戦車に乗って、時の首相デイヴィッド・キャメロンの自宅前に現れた。
最終回では、勲章と戦車のあいだにある晩年——ファッションデザイナーが本気で政治活動家になっていく過程と、彼女が2022年に去ったあとのロンドンで、私たちが実際に彼女に会える場所を追う。