ロンドLogoJUST RONDON - ロンドン観光・旅行・現地ガイド
    ロンドLogoLive.Love.London. - 最強ロンドンガイド
    • 旅行プランを作る
    • 今週のロンドン
    お問い合わせサイト概要利用規約プライバシーポリシーTop Pageへ

    ジャスト・ロンドンは、ロンドンの深層に迫る力量も器量もない中途半端な存在ですが、旅の判断をほんの少し整える一文が紛れていれば、それだけで存在理由になります。

    1. Home
    2. /英国を読む
    3. /コラム
    4. /ロンドンの赤い電話ボックスは1924年、ある墓を真似て生まれた——設計者スコットは一度も明かさなかった

    2026年9月7日

    ロンドンの街暮らし・技術歴史・事件

    ロンドンの赤い電話ボックスは1924年、ある墓を真似て生まれた——設計者スコットは一度も明かさなかった

    ロンドンの赤い電話ボックスのあのドーム屋根には、出どころとされる場所がある。セント・パンクラス旧教会の墓地に建つ、建築家ジョン・ソーンが亡き妻のために設計した墓だ。設計者ギルバート・スコットは、競技に勝った年にソーンの美術館の理事になっている。ところが、本人が「墓を見た」と語った記録は一行も残っていない。100年間、誰も証明できないまま語り継がれてきた話を、証拠のあるところとないところに分けて辿る。

    ロンドンの赤い電話ボックスは1924年、ある墓を真似て生まれた——設計者スコットは一度も明かさなかった

    イギリスの土産物屋で最も売れている絵柄は、たぶん赤い電話ボックスである。だがあの箱は、最初から赤かったわけでも、最初から愛されていたわけでもない。設計者は銀色を提案していたし、その前の型はロンドンの区議会に「街に置くな」と拒まれていた。そして屋根の形については、100年ものあいだ決着のついていない疑問がある。

    コンクリートの箱は、ロンドンの区議会に拒まれた

    K1(1921年)——赤い電話ボックス以前

    赤い電話ボックスの物語は、失敗作から始まる。

    1921年、郵政省(General Post Office、GPO)は初めて全国標準の公衆電話ボックスを制定した。K1——Kiosk No.1、つまり「第1号ボックス」である。原型になったのは、バーミンガムで使われていた木造の小屋だった。GPOが各地の型を見比べ、「全国標準の下敷きとして最も適当」と判断したのがこのバーミンガム型で、そのため今でも資料には「バーミンガム・キオスク」の名で出てくる。

    ところがK1は木では作られなかった。第一次大戦の直後で、乾燥した良質の材木が国内にまるで足りていなかったからである。GPOは仕方なく、プレキャスト(工場で成形した)コンクリートの板を組み立てる方式を採り、扉だけはチーク材にした。塗装はクリーム色の躯体に赤い扉。頂部はピラミッド型で、全体の姿は歩哨の立つ番小屋(sentry box)に似ていた。

    これが評判を落とした。実用一点張りの外観は、当時のロンドンの街並みに置くものとして到底受け入れられないと見なされ、ロンドンの各都市区(Metropolitan Boroughs)が自分たちの街路への設置を拒み続けた。首都の目抜き通りに電話ボックスを置けないというのは、GPOにとって深刻な問題である。電話は普及しはじめていたが、公衆電話は「街角にあってこそ」の設備だった。

    つまり赤い電話ボックスは、美意識の問題として生まれた。技術でも料金でもなく、「見た目が街に合わない」という一点が、GPOに設計競技を開かせたのである。

    ナショナル・ギャラリーの裏の空き地に、5つの試作品が並んだ

    1924年の設計競技と、審査員のなかのラッチェンス

    膠着を破ったのは、**王立美術委員会(Royal Fine Art Commission)**だった。政府に対して公共の造形物の美的水準を助言するために1924年に設けられたばかりの組織である。委員会は各地でばらばらに進んでいた改良案をまとめ、「全国標準ボックス」を決める競技として仕切り直した。

    指名されたのは3人の建築家である。

    • サー・ロバート・ロリマー(スコットランドを代表する建築家)
    • サー・ジョン・バーネット(グラスゴー出身、大英博物館の増築で知られる)
    • ジャイルズ・ギルバート・スコット

    これにGPO自身の案と、バーミンガム市民協会(Birmingham Civic Society)の案が加わり、計5案が出そろった。

    審査の方法が面白い。図面を見比べるのではなく、5つの原寸大の試作品を、ナショナル・ギャラリーの裏の空き地に実際に建てて並べたのである。委員たちは実物のあいだを歩いて回った。街路に置く物は街路で判断する、という当たり前だが徹底したやり方だった。

    委員会の顔ぶれも当時の建築界そのものだった。サー・エドウィン・ラッチェンス(ホワイトホールの戦没者記念碑セノタフの設計者)、サー・アストン・ウェッブ(バッキンガム宮殿の正面を今の姿にした人物)、サー・レジナルド・ブロムフィールドらが名を連ねている。

    1925年2月、委員会はスコット案を選んだ。評言は「大きな町の繁華な街路に建てるのに適している(suitable for erection in busy thoroughfares of large towns)」。K1がまさに拒まれた場所に置ける、という選定理由である。

    このときスコットは44歳。競技のさなかの1924年7月22日、リヴァプール近郊ノーズリーでジョージ5世からナイトに叙されており、資料によっては選定時の呼称が「サー・ジャイルズ」に変わっているのはそのためだ。

    22歳で大聖堂を任され、ボドリーを付けられた男

    スコットの経歴自体が異例である。1880年11月9日ハムステッド生まれ。祖父はジョージ・ギルバート・スコット——セント・パンクラス駅前のミッドランド・グランド・ホテル(あの赤煉瓦のゴシック建築)を建てた、ヴィクトリア朝を代表する建築家だ。

    孫のジャイルズは22歳でリヴァプール大聖堂の設計競技に勝った。当時の彼はテンプル・ムーアの事務所に年季奉公中の見習いで、竣工した自分の建物は一つもなかった。しかもローマ・カトリック教徒である。英国国教会の大聖堂を建てる話だった。委員会は決定を知って動揺し、審査員の一人だった大家G・F・ボドリーを共同建築家として付ける、という条件を後から課している。

    この人が後に、バタシー発電所、バンクサイド発電所(現在のテート・モダン)、ケンブリッジ大学図書館、オックスフォードのニュー・ボドリアン図書館、そして架け替えられたウォータールー橋を手がけることになる。大聖堂と発電所と電話ボックスを設計した建築家というのは、世界を見渡してもほかにいない。

    屋根の出どころ——セント・パンクラス旧教会の墓地にあるドーム

    1816年、ジョン・ソーンが妻エリザのために建てた墓

    ではあの独特の屋根はどこから来たのか。

    キングス・クロス駅とセント・パンクラス駅のすぐ北、**セント・パンクラス旧教会(St Pancras Old Church)**の墓地に、明らかに他と様式の違う記念物が建っている。サー・ジョン・ソーンの墓である。

    ジョン・ソーン(1753–1837)はイングランド銀行の本館を設計した建築家で、ネオクラシシズムを独自に解体・再構成した作風で知られる。ホルボーンの自邸をそのまま美術館にしたサー・ジョン・ソーンズ美術館は、いまもロンドンで最も奇妙で最も愛される館の一つだ。

    この墓は、1815年に亡くなった妻エリザのために、翌1816年に建てられた。指定台帳(Historic England, リスト番号1322044)の記述はこうである——4本の飾り柱に支えられたドーム状の覆いが、イオニア式の円柱4本に載る破風付きの構造物を包む。ドームのスパンドレル(三角形の隅)は開いていて、波形の装飾がある。頂部には小さな円筒があり、尾を自分の口にくわえた蛇(ウロボロス、永遠の象徴)が帯のように巻き、その上にパイナップルが載る。

    この墓には後にソーン自身と長男ジョンも葬られた。そして——ロンドンでグレードI(最上級)に指定されている墓は、この墓とハイゲイト墓地のカール・マルクスの墓の、たった2つしかない。

    ドームの輪郭を思い浮かべてほしい。四角い平面の上に、浅く伏せた椀のような屋根が載り、四隅が切り取られて面を作る。これが赤い電話ボックスの頭部と、驚くほどよく似ている。

    しかも状況証拠がある。ギリアン・ダーリーは評伝『John Soane: An Accidental Romantic』のなかで、スコットが1925年にサー・ジョン・ソーンズ美術館の理事に就任していることを指摘し、それが「彼の設計案が選ばれたのと同じ年」であることから、「両者の結びつきは単なる偶然以上のものだったことを示唆する」と書いた。

    ただし、証拠は一つもない

    Historic Englandが100年間「unproven speculation」と書き続けている理由

    ここが、この話のいちばん面白いところである。

    スコット自身が「ソーンの墓を下敷きにした」と述べた記録は、一行も見つかっていない。

    イングランドの文化財を所管するHistoric Englandは、ギルバート・スコットを紹介する公式記事のなかで、この話をこう扱っている——スコットの設計は摂政期建築への当時の関心を反映しており、ジョン・ソーンの作風と比較されてきた、「スコットがソーンの妻エリザの墓を下敷きにしたという、証明されていない憶測がある」(unproven speculation)。

    公的機関が100年後もこの慎重な言い回しを崩さないのには理由がある。浅いドームは、ソーンが生涯くり返し使った偏愛のモチーフだったからだ。仮にスコットがソーンから借りたのだとしても、借りた先が墓であるとは限らない。候補は他にもある。

    • ピッツハンガー・マナー(イーリング)の門柱。ソーンが1800年から1804年にかけて自分の理想の住まいとして建て直した邸宅で、その門柱の頭部にも同じ浅いドームが載る。
    • ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの霊廟のランタン(採光塔)。1811年から1814年にかけてソーンが設計した世界最初期の公立美術館で、館の中に美術品の寄贈者デザンファン夫妻とサー・フランシス・ブルジョワが眠る霊廟が組み込まれている、という前例のない建物だ。
    • ソーンが同時期に描いた、実現しなかった他の墓の図面にも同じドームが現れる。

    ダリッジは特に親切である。霊廟の入口のすぐ外にK2の電話ボックスが一台立っていて、屋根とランタンを並べて見比べられるようになっている。現地に行けば、この論争を自分の目で判定できるわけだ。

    整理すると、確かなのは次の三つだけである。

    1. スコットの屋根は、紛れもなくソーン的である。
    2. スコットはソーンの美術館の理事になるほどソーンに通じていた。
    3. スコットは、どこから取ったかを一度も言わなかった。

    「墓から生まれた電話ボックス」という話が100年も語り継がれてきたのは、それが証明も反証もできないからでもある。もしスコットが手帳に「セント・パンクラスの墓を見た」と一行書き残していたら、これはただの出典表示になっていた。

    スコットは銀色を提案し、郵政省は赤く塗った

    K2(1926年)——設計者の意図が上書きされた箱

    選ばれた案は、そのまま作られたわけではない。

    スコットが想定していたのは、軽い軟鋼(mild steel)の躯体、外は銀色、内側は緑がかった青だった。落ち着いた、金属らしい箱である。

    GPOが実際に作ったのは、鋳鉄製で、赤だった。

    材料が変わったのは耐久性と量産の都合、色が変わったのは遠くからすぐ見つかるようにするためである。街のどこにあるか一目で分かることが、公衆電話にとっては装飾より重要だった。設計競技に勝った建築家の意匠のうち、いちばん有名になった部分——あの赤——は、設計者が指定しなかった色なのである。

    こうして生まれたのがK2。鋳鉄の板をボルトで締め合わせ、コンクリートの基礎に据える方式で、重量は1トンを超えた。最初の設置は1926年、ロンドン中心部のケンジントンとホルボーン。以後9年ほどで約1,700基が建てられたが、そのほとんどはロンドン市内に限られた。地方に配るには、重すぎて高価すぎたのである。

    細部にも仕掛けがある。K2の頭部には4面すべてにチューダー朝様式の王冠が付いているが、これは単なる装飾ではない。王冠は換気のために穴が開けられている。密閉された鋳鉄の箱のなかで人が電話をかけるための通気口を、王室の紋章として処理してしまったわけだ。

    1924年に審査のために作られた木製の試作品は、いまもロンドンで見ることができる。ピカデリーのバーリントン・ハウス(ロイヤル・アカデミーの建物)の入口門の西側に立っているのがそれで、審査のあと置かれた場所から一度も動いていない。木造、赤塗装、チーク材の扉。量産型と違って「TELEPHONE」の照明サインがない。1986年9月9日に指定され、*2019年12月20日にグレードII(2つ星)へ格上げ**された。街路に置かれた電話ボックスとしては破格の扱いである。

    1935年に全国へ、1980年代に絶滅寸前、そしていま

    K6からKX100まで——赤い箱が二度救われた話

    K2はロンドンの箱だった。赤がイギリス全体の記号になるには、もう10年かかる。

    番号のついた箱たち

    • K3(1929年)——スコット設計、コンクリート製の廉価版。1935年までに約12,000基。地方に広がったのはこの型である。
    • K4(1927年)——通称「ヴァーミリオン・ジャイアント(朱色の巨人)」。K3を下敷きに、背面にGRの銘の入った郵便ポストと切手の自動販売機2台を組み込んだ全部入り。夜中に切手が買えるのは画期的だったが、機械の音が通話に響き、雨で切手がくっついた。50基しか作られていない。
    • K5(1934年)——博覧会や催事用の、鋼板を貼った合板製の7枚組フラットパック。本格生産には至らず、現存する個体は確認されていない。
    • K6(1935年)——ジョージ5世即位25年(シルバー・ジュビリー)を記念してスコットが設計。K2より一回り小さく軽く安い。「ジュビリー・キオスク」と呼ばれる。「ジュビリー・コンセッション」という施策で、郵便局のある町や村が申請すれば設置してもらえることになり、これだけで約8,000基が建った。20世紀を通じて英国全土に6万基以上。あなたが思い浮かべる赤い電話ボックスは、まず間違いなくこのK6である。
    • K8(1968年)——ブルース・マーティン設計。GPOが作った最後の赤い箱で、K6の450点あった部品を183点に削り込んだ。

    K6の王冠は途中で変わっている。1955年頃まではジョージ5世のチューダー・クラウン、以後はセント・エドワード王冠。スコットランドではスコットランド王冠が使われ、1955年から65年にかけては、どちらの王冠も差し込めるよう頭部に溝を切った型が作られた。

    BTが全部捨てようとした

    1990年代のピーク時、英国には約10万基の公衆電話ボックスがあった。そして1980年代、民営化されたBTは全部をKX100に置き換えようとする。ガラスと鋼の、ほぼ無装飾で黄色い帯の入った箱だ。BTは「破壊に強く、車椅子で使える」と正当性を主張した。実際その主張自体は正しかった。

    止めたのはThirties Society(現在のTwentieth Century Society)である。彼らが採った戦術は、電話ボックスを「ミニチュアの建築物」として建造物指定(listing)にかけるというものだった。1986年、ロンドン動物園のK3が第一号として指定される。当初は「1939年以前に設置されたと証明できるもの」しか指定できなかったが、1987年にこの区切りが「30年ルール」に置き換えられ、K6が一気に対象に入った。

    結果として、いま3,000基を超えるK6がHistoric Englandの保護下にある。K2の生き残りは約200基(全生産数の1割強)で、そのほとんどがロンドンにある。

    電話としてはもう終わっている

    現実の話をすると、稼働している公衆電話は英国全体で約2万台、そのうち昔ながらの赤い箱は約3,000台にすぎない(2024年3月時点)。Ofcom(通信規制当局)は2022年に撤去のルールを定め、その地域で最後の1台であり、かつ以下のいずれかに当たる場合は撤去できないことにした——4社すべての携帯電波が届かない場所にある、事故や自殺の多発地点にある、過去12か月に52回以上の通話があった、その他必要性を示す証拠がある。この基準で約5,000台が守られる見込みとされている。

    残りはどうなるか。BTの「Adopt a Kiosk(ボックスを引き取ろう)」という制度がある。地域の団体や教区議会が1ポンドで箱を譲り受け、電話以外の何かに作り替えてよい、というものだ。7,200基以上がすでに引き取られ、AED(自動体外式除細動器)の格納庫、本の交換所、小さな図書室、ギャラリー、郷土資料館などになっている。指定建造物の場合は外観の維持が条件だが、中身の用途変更は認められる。

    電話をかけるための箱ではなくなり、人命を救う箱や本棚として残った——これはたぶん、悪くない終わり方である。

    ロンドンで実物を見るなら

    • バーリントン・ハウス(ピカデリー、ロイヤル・アカデミー):入口門の脇に、1924年の審査で置かれたままの木製試作K2。グレードII*。
    • ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー(南ロンドン):ソーンの霊廟のランタンと、その外に立つK2を並べて見比べられる。この記事の論点をその場で判定できる唯一の場所。
    • セント・パンクラス旧教会の墓地(キングス・クロス駅の北、徒歩10分ほど):ソーンの墓。ロンドンに2つしかないグレードI指定の墓の一つ。

    順路としては、セント・パンクラスで墓のドームを見てから、街角の赤い箱を見上げるのがいい。似ているか似ていないかを決めるのは、100年間そうであったように、結局のところ見た人自身である。

    ← 前の記事

    ベーカー街221Bは実在しない番地だった——銀行は70年間「ホームズの秘書」を雇い、返事を書き続けた

    感想・コメント

    この記事を読んだ感想や、関連して知っていることがあれば教えてください。

    残り2000文字

    投稿は誰でも読めます。個人情報は書かないでください。

    まだコメントはありません。最初の投稿をお待ちしています。

    ← コラム一覧に戻る