公開文ジャスト・ロンドン編集部
マラソン42.195kmはウィンザー城で決まった——1908年ロンドン五輪、「王女のため」は作り話だった
マラソンの42.195kmという半端な数字は、1908年ロンドン五輪のウィンザー城〜ホワイトシティ競技場の一本の道から来ている。「王女が子ども部屋の窓からスタートを見たがったので距離が延びた」という有名な逸話は、五輪史研究者ボブ・ウィルコックが王室文書館と当時の新聞を洗い直して否定した。本当の理由は、人払いと、ロイヤルボックスの下の扉が使えなくなったことだった。

1908年2月、一人の男が歩数計を腰につけ、ウィンザーからロンドンまでの道を測った。その25マイル半が、700ヤード、1000ヤードと延び、最後にトラックの上で385ヤードに縮む。世界中のランナーがいまも走る42.195kmが、どうやってこの数字になったのかをたどる。
紀元前490年の伝令から、1921年ジュネーブの規則へ
マラトン〜アテナイ約40kmと、第5回IAAF総会・競技規則240条
マラソンの距離は42.195km。この数字を初めて見たとき、なぜ42kmでも43kmでもなく、小数点以下三桁まであるのかと思わなかっただろうか。
答えを先に書くと、この数字には陸上競技としての必然性が何も無い。1908年にロンドンで一度だけ引かれた一本の線が、13年後にそのまま世界の規則になった。それだけである。
「だいたい40km」はマラトンからアテナイまでの距離だった
そもそもマラソンという競技は、一つの地名から始まっている。
紀元前490年、アテナイ軍がペルシア軍を破ったマラトンの戦い。その勝利を伝えるため、一人の伝令がマラトンからアテナイまで走り、「喜べ、我ら勝てり」と告げて息絶えた——という伝説がある。
マラトンからアテナイまでは、約40km。この伝説にちなんだ競走をやろうと言い出したのは、フランスの言語学者ミシェル・ブレアルだった。1894年、クーベルタンに宛てて「アテネへ行くなら、マラトンからプニュクスまでの長距離走が催せないか試してみては」と書き送っている。
こうして1896年4月10日、第1回アテネ五輪でマラソンが行われた。5か国から17人が出走し、ギリシャのスピリドン・ルイスが2時間58分50秒で優勝。ブレアルは自費でパリの宝飾店に銀杯を作らせ、優勝者に贈っている。
ただし、その伝令の話にも裏が取れていない
面白いのは、出発点になったこの伝説そのものが、かなり怪しいことである。
マラトンの戦いを伝える最も古い史料は、ヘロドトスの『歴史』(紀元前440年ごろ)。戦いから50年ほどしか経っていない。そこに書かれている「走った男」フェイディッピデスの行き先は、アテナイではない。アテナイからスパルタである。開戦前、援軍を求めて片道およそ240kmを走り、出発の翌日にはスパルタに着いたとある。
そしてヘロドトスには、マラトンからアテナイへ走った話が一行も無い。
この話が初めて文字になるのはプルタルコス(46〜120年ごろ)の『アテナイ人の名声について』で、走者の名はテルシッポス、あるいはエウクレスとされる。フェイディッピデスの名は出てこない。「喜べ、我ら勝てり」と叫んで死ぬ、いちばん有名な形になるのはルキアノス(120〜200年ごろ)。戦いから600年以上あとの文章である。
つまりマラソンは、後世の創作らしい伝説にちなんで作られた競技だった。そしてこれから見るとおり、その距離のほうもまた、語りやすい作り話をまとうことになる。
1921年まで、五輪のマラソンは毎回長さが違った
出発点が「マラトンからアテナイまで、だいたい40km」だったので、初期の五輪では実際の距離が大会ごとにばらばらだった。
- 1896年 アテネ — 40km
- 1900年 パリ — 40.26km
- 1904年 セントルイス — 40km
- 1906年 アテネ(中間大会) — 41.86km
- 1908年 ロンドン — 42.195km
- 1912年 ストックホルム — 40.2km
- 1920年 アントワープ — 42.75km
これでは記録の比べようがない。1912年のストックホルムと1920年のアントワープでは、2.5km以上も違う。
第5回IAAF総会、ジュネーブ
1921年5月、国際アマチュア陸上競技連盟(IAAF、現ワールドアスレティックス)は第5回総会をジュネーブで開き、マラソンの距離を42,195メートルと定めた。競技規則240条である。1924年のパリ五輪以降、五輪のマラソンはすべてこの距離で行われている。
ではなぜ、7つの前例のうち1908年ロンドンが選ばれたのか。そして1908年のロンドンは、なぜ42.195kmになったのか。この二つは別の問いで、答えも別のところにある。順に見ていく。
歩数計で測られた「25マイル半」
ポリテクニック・ハリアーズのジャック・アンドリュー
話は1907年にさかのぼる。
1908年ロンドン五輪でマラソンの運営を担ったのは、ポリテクニック・ハリアーズという陸上クラブだった。ロンドンのリージェント・ストリートにあった労働者向け教育機関「ポリテクニック」(現ウェストミンスター大学)の運動部である。その名誉幹事を務めていたのがジャック・アンドリュー(J. M. Andrew)。この男が、42.195kmの実質的な作者にあたる。
最初の案は「競技場を出て、競技場に戻る」だった
『スポーティング・ライフ』紙は1908年7月24日、レース当日の紙面でこう振り返っている。
「最初の案は、[競技場]を発着点として、グリーンフォードとサドベリーを回って戻ってくる周回コースにするというものだった。いまや広く知られるウィンザー〜ロンドンのコースを提案したのは『スポーティング・ライフ』である。この路線が初めて世に出され、選定当局の前に置かれたのは、本紙の陸上競技欄であった」
国際オリンピック委員会と当初合意していた距離は25マイル、すなわち40km。アテネ以来の「だいたい40km」を踏襲した数字である。
歩数計で測る
コースの計測を任されたのがジャック・アンドリューだった。『スポーティング・ライフ』1908年2月20日付は、こう報じている。
「つい先日の金曜日[2月14日]、ポリテクニック・ハリアーズの精力的な幹事J・M・アンドリュー氏が、AAA(アマチュア陸上競技協会)の要請により、歩数計を用いて、当局の示したコースを計測した」
歩数計である。GPSも測量車も無い時代、25マイルを超える道路を、腰につけた機械式のカウンターで測った。
基準点にはウィンザーの二つの銅像が使われた。キャッスル・ヒルとウィンザー・ハイ・ストリートの交差点に立つヴィクトリア女王像と、そこからコースを300ヤードほど下ったテムズ・ストリートのクリスチャン・ヴィクター王子像である。
女王像を起点として測った最初のコースは、約25マイル半。前年11月の記事にはこう書かれている——「およそ25マイル半、[1906年]アテネのコースより半マイル短い」。1906年アテネは41.86kmだった。
つまりこの時点では、42.195kmになる要素はどこにも無い。
700ヤードは「王女のため」ではなかった
1907年11月8日『スポーティング・ライフ』が書いていたこと

ウィンザー城でスタートを待つマラソン出場選手。英国オリンピック協会が1909年に刊行した公式報告書『The Fourth Olympiad 1908 London Official Report』(編纂=セオドア・アンドレア・クック)に収められた図版。群衆を締め出すために選ばれたこの城内のスタート地点が、距離を700ヤード押し上げた。
ところが、スタート地点が動く。
ウィンザー城のイースト・テラス、城の東側から出発することになったのだ。これによってコースは700ヤード(約640m)延びた。
この700ヤードについて、世界中で繰り返されてきた説明がある。
王女が、子ども部屋の窓から我が子にスタートを見せたがった。だからスタート地点が城の中へ移され、距離が半端になった。
日本語でも英語でも、マラソンの雑学として何十年も語られてきた話である。
王室文書館には何も無い
だが、五輪史研究者ボブ・ウィルコックが2008年、国際オリンピック歴史家協会の『ジャーナル・オブ・オリンピック・ヒストリー』誌(第16巻1号)に発表した論考「The 1908 Olympic Marathon」は、この話を正面から否定した。
ウィルコックは英王室文書館に照会し、2004年3月22日付で文書保管官から回答を得ている。該当する記録は無い。
「王室の子どもの誕生日に合わせた」という別バージョンについても、彼はこう書く——7月24日の前後に誕生日の子どもは一人もいない。
そして決定的なのが、1907年11月8日付『スポーティング・ライフ』の記事である。
「レースをどこから出発させるかはまだ確定していないが、オリンピック協会の評議会は、ウィンザー城の敷地内から出発する許可を得るべく努力している。これは陛下による寛大な譲歩とみなされるであろう。ただし必要な許可が得られない場合、スタートはヴィクトリア女王像かクリスチャン・ヴィクター王子像のいずれかからとなる」
読めば分かるとおり、城から出発したがっていたのは主催者側である。王室が言い出したのではない。主催者が「どうか城の中から出させてほしい」と頼み込んでいる。
本当の理由は人払いだった
では、なぜ主催者は城の中にこだわったのか。当時の新聞は理由を書いている。観衆にスタートを邪魔されないためである。
「レースのスタートに絶対的に関係する係員以外は、立ち会いを許されない」
城の私有地であれば、群衆を締め出せる。1908年4月4日には、スタート地点は「城の東テラス下のイースト・ローン、またはその付近」と、国王の同意を条件に確定した。
ウェールズ公妃メアリー(のちのメアリー王妃)がこの位置取りの恩恵にあずかったのは事実だが、彼女が変更を言い出したわけではない、というのがウィルコックの結論である。
さらにもう1000ヤード。コース終盤の一部に苦情が出て迂回路が設けられ、距離はまた延びた。こうしてトラックの端までの距離は、26マイルに固まる。
385ヤードの正体——くぐれなくなった王室用の扉
586と3分の2ヤードが385ヤードに縮んだ理由
ここまでで「26マイル」。残る385ヤードは、競技場の中で生まれる。
当初の計画は「フルに1周」だった
1908年4月、本番に先立つトライアル・マラソン(4月25日開催)のプログラムに添えられた地図と距離表には、コースの全長が26マイル3分の1と印刷されている。メートルに直すと42.3795km。内訳はこうだ。
- ウィンザー城イースト・テラスから、ホワイトシティ競技場のトラック入口まで 26マイル
- 競技場のトラックを1周(3分の1マイル = 586と3分の2ヤード、約536m)
1908年2月20日の『スポーティング・ライフ』は、競技場への入り方をこう説明していた。
「……ランナーは競技場の正しい側へ導かれ、ロイヤルボックスの真下を通ってトラックに入り、3分の1マイルを1周してフィニッシュする」
ゴールは最初からロイヤルボックスの正面だった。「クイーン・アレクサンドラのためにゴール位置を動かした」という話も流布しているが、これも事実ではない。動かす必要が無い。最初からそこだったからだ。
馬車が通れるように飾りつけられていた
計画が崩れたのは、その「ロイヤルボックスの真下」が使えなくなったからである。
当時の地図に「OM」と記された王室用入口は、1908年7月13日の国王による開会式以来、馬車が乗り入れられるよう嵩上げされ、装飾されていた。馬車が通る構造になっている以上、ランナーは通れない。
もう一つ問題があった。マラソンのランナーが2時間以上その入口を使い続ければ、女王や要人が競技場から出られなくなる。
入口を動かし、走る向きを逆にした
そこで三つの変更が同時に行われた。
- マラソン用の入口を、競技場の反対側(ウッド・レーン側、地図の「QQ.RR.SS」)へ移す
- 入口までの距離が26マイルのままになるよう、手前のコースを調整する
- トラックを走る向きを時計回りに変える
三番目が効いた。反時計回りのまま反対側から入れば、観客の少ない側を走ってゴールに着いてしまう。時計回りにすれば、ランナーは両方のスタンドの前を通り、観衆の3分の2の前を走ってからロイヤルボックス正面のゴールに到達する。
こうして、1周586と3分の2ヤードの予定だったトラック上の距離は、「1周の一部」に縮んだ。その長さが——
385ヤード。
ウィルコックの結論は、一行で済む。
距離の決定に、王室の影響は無かった。
時計回りに走らされた男——ピエトリはなぜ逆へ曲がったか
1908年7月24日、気温26℃、55人が出走
1908年7月24日、金曜日。気温は華氏78度(約26℃)。16か国から55人が出走し、11か国の27人が完走した。
電気ボタンと2丁のピストル
午後2時半すぎ、ウィンザー城の東テラス。出場選手は抽選順に四列に並んだ。ドランド・ピエトリは頭に結び目をつくったハンカチを載せていた。日除けである。
スタートの手順は、いま読むと滑稽なほど手が込んでいる。
「ウェールズ公妃がテーブルの上のボタンを押すと、電気ケーブルを通じてデスバラ卿の自動車に信号が伝わった」「デスバラ卿(自動車の前席に立っていた)とジャック・M・アンドリュー氏が、それぞれピストルを発射した」「その間、スウェーデン皇太子が『ゴー』の号令をかけた」
なお「クイーン・アレクサンドラが競技場から電信でスタートの合図を送った」という話も残っているが、これも成立しない。レースが始まった午後2時半、女王はバッキンガム宮殿から競技場へ向かう馬車の中にいた。到着は2時45分ごろだったと警察の報告書にある。
プログラムの片隅の一行
問題は、走る向きを逆にした変更が、どこにもきちんと告知されなかったことである。
競技場の当日プログラムには、こう書かれていた。
「[トラック競技の]走行方向は左手内側とする。ただしマラソン競走を除く」
この例外は、陸上競技の一般規則には入っていない。マラソンのプログラムに載る「競技者への指示」にも、公式のコース説明にも書かれていない。『スポーツマン』紙が「入場後は左に曲がってトラックを半周し、ロイヤルスタンドの正面でゴールする」と書き、『デイリー・テレグラフ』がレース当日に図を載せた——確認できる告知は、その程度である。
逆へ曲がった
午後5時10分、ロケット弾が上がり、先頭が近いことが観衆に知らされた。競技場に最初に姿を現したのはドランド・ピエトリだった。イタリア・カルピの菓子店で働いていた22歳、身長159cm、体重60kg。
観衆の前に出たピエトリは、逆へ曲がった。
スタンドでそれを見ていた一人が、その瞬間を書き残している。アーサー・コナン・ドイル——シャーロック・ホームズの作者は、この日『デイリー・メール』の特派員として競技場にいた。
「彼は群衆の大きさに戸惑っているようだった。彼は逆の方向へ曲がった——間違えた者としてではなく、能力を完全に使い果たした者の、夢を見ているような様子で」
ピエトリは5度倒れた。最後の350mに10分を要した。
腕を支えたのは、コースを測った男だった
ゴールまで30ヤードの地点で倒れたピエトリを抱え起こしたのが誰だったのかは、記録に残っている。アメリカ・オリンピック委員会のメンバーはこう断言した。
「ゴールテープの30ヤード手前で倒れたドランドを抱き起こした男——あるいは二人の男——は、アンドリュー氏と、ブルガー医師であった」
ジャック・アンドリュー。歩数計でコースを測り、385ヤードを生み、テラスでピストルを撃った男が、そのゴールの手前でピエトリの腕をつかんだ。アンドリュー自身、1908年8月の『ポリテクニック・マガジン』でそれを認めている。
ピエトリの記録は2時間54分46秒。しかしアメリカチームが即座に抗議し、介助を理由に失格となった。優勝はジョニー・ヘイズ(アメリカ)、2時間55分18秒4。
写真の中の「コナン・ドイル」
ゴール手前でピエトリを支える有名な写真がある。右側に写っている恰幅のいい男が、長らく「コナン・ドイル」と紹介されてきた。
違う。腕章に「Medical Attendant(医療係)」と読める。マイケル・ブルガー医師である。コナン・ドイルはスタンドの記者席にいて、原稿を書いていた。
翌日、クイーン・アレクサンドラはピエトリに金メッキの銀杯を贈っている。
42.195kmを世界標準にしたのは、五輪ではなかった
1909〜1996年のポリテクニック・マラソン、そして重松森雄
1908年のあの午後が特別だったのは、レースが劇的だったからだけではない。この距離が生き延びたからである。
『スポーティング・ライフ』のトロフィー
ピエトリの失格が世界中で報じられた直後、コースを提案したその『スポーティング・ライフ』紙が、毎年開催の国際マラソンのために豪華なトロフィーを提供すると申し出た。
こうして1909年、ポリテクニック・マラソン——通称「ポリー」——が始まる。スタートは1908年の五輪と同じウィンザー。ゴールは時代によって変わり、スタンフォード・ブリッジ(1909〜1932年)、ホワイトシティ競技場(1933〜1937年)、そして1938年からはチジックのポリテクニック・ハリアーズ競技場だった。
重要なのは、ポリーが毎年、26マイル385ヤードちょうどで走られたことである。五輪は4年に一度しか無く、しかも毎回距離が違った。一方でポリーは毎年同じ距離で開かれ、世界の一流ランナーが集まる権威あるレースに育っていった。
1921年にIAAFが距離を決めるとき、7つの前例のうち1908年ロンドンが選ばれたのは、ポリーがその距離を13年かけて「実績のある距離」にしていたからだ、と説明されている。五輪がこの数字を世界標準にしたのではない。ウィンザーの街から毎年走り出していた一つのローカルレースが、そうしたのである。
ただし、正直に書いておくべきことがある。IAAFの議事録には、なぜ26マイル385ヤードを選んだのかという理由が記されていない。決定の場に残された言葉は、いまのところ見つかっていない。
1965年6月12日、チジック
ポリーでは8つの世界最高記録が生まれた。1952年、ジム・ピーターズがマラソンで初めて2時間20分を切っている(2時間20分42秒2)。1954年には2時間17分39秒4まで縮めた。
そして、ポリーで記録された最後の世界最高は、日本人のものである。
1965年6月12日、重松森雄が2時間12分00秒0で優勝した。前年の東京五輪でアベベ・ビキラが出した2時間12分11秒2を、11秒2上回る記録だった。ウィンザーからチジックまで、1908年に引かれた道の上で、日本人が世界記録を塗り替えたことになる。
ポリーはその後、交通事情の悪化と、ロンドン・マラソンをはじめとする大規模市民マラソンの台頭に押され、1996年を最後に幕を閉じた。
385ヤードが残したもの
いまあなたが42.195kmを走るとき、その最後の385ヤード——約352m——は、王女が窓から見たがったから生まれたのではない。
馬車が通れるように飾りつけられてしまった一つの扉がランナーには使えなくなり、入口が競技場の反対側へ移され、走る向きが逆になった。その結果としてトラックに残った半端な距離が、385ヤードだった。
1921年にジュネーブの会議室でこの数字に手を挙げた人々は、おそらくその扉のことを知らない。
この記事に出てくる観光スポット
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