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    2026年9月13日

    歴史・事件王室・制度人物

    連載「マンチェスター二大クラブ物語」全 2 回 の第 2 回

    マンチェスター・シティを作ったのは牧師の娘か——1880年、スラムのギャング団を止めるために教会が始めたクラブ 第2回

    マンチェスター・シティの前身は、1880年に、ある教会のまわりで生まれた小さなチームである。当時の街では、少年たちのギャング団が刃物とベルトで抗争を繰り返していた。創設者は牧師の娘アンナ・コネル——と長く語られてきたが、クラブ公式の歴史家はこれをはっきり否定している。教会のチームはやがてパブで着替えるようになり、最高の世代を丸ごと、同じ街のユナイテッドに手放すことになる。

    マンチェスター・シティを作ったのは牧師の娘か——1880年、スラムのギャング団を止めるために教会が始めたクラブ 第2回

    第1回で見たマンチェスター・ユナイテッドが鉄道会社の実業団から生まれたとすれば、同じ街のもう一つのクラブの出発点は、教区の教会だった。ただし、お行儀のいい話ではない。当時その教会のまわりにいたのは、刃物と重いベルトで殴り合う十代の少年たちである。

    1865年、少年ギャングの街に建った教会

    真鍮を打った木靴と、左目にかかる前髪

    舞台は、マンチェスター東部のウェスト・ゴートン。機関車をつくる大工場が二つあり、そのまわりに労働者の長屋がびっしり並ぶ、煤けた工業地帯だった。

    1865年、この街にセント・マークス教会が完成する。最初の牧師として赴任したのが、アーサー・コネルだった。アイルランド南部の生まれで、若いころはメソジストの説教師、のちに英国国教会の牧師になったという、少し変わった経歴の持ち主である。コネルはこの教区に32年間とどまった。

    教会の外では、少年たちが殴り合っていた。

    マンチェスターの労働者街では、1870年代の初めから30年近く、スカトラーズと呼ばれる少年ギャングの抗争が続いていた。もとは「ある通りの少年たちが、別の通りの少年たちとやり合う」ことを指す地元の俗語で、やがて街区ごとのギャング団そのものを指すようになる。

    メンバーはたいてい14歳から19歳くらい。見た目は驚くほど揃っていた。先の尖った木靴のつま先に真鍮を打ち、裾が大きく広がったズボンを履き、派手な絹のスカーフを巻く。髪は後ろと横を短く刈り、前髪だけを伸ばして左目にかかるように撫でつけ、帽子は前髪が見えるよう左に傾けてかぶった。

    武器は刃物と、重い金具の付いたベルトである。ベルトには蛇やサソリ、矢の刺さったハート、女性の名前などが彫り込まれていた。相手を傷つけ、顔に痕を残すための道具だった。

    歴史家の調べでは、抗争が始まって1年ほどで、12、13歳前後の少年およそ500人が有罪になっている。1890年には、マンチェスターの刑務所にいる少年の罪状で、この抗争がほかのどの罪よりも多かった。ある事件の証人は、喧嘩があったと知ったのは「捕まった少年の弁護士代を集める福引券を買ったとき」だったと話している。街ぐるみで少年たちをかばっていたのである。

    この抗争を終わらせた一番の力は、警察でも刑罰でもなかった、とその歴史家は言う。少年たちに工作や読書、遠足、そして何よりサッカーやラグビー、クリケットを用意した少年クラブだった。街区同士の対抗心が、殴り合いから試合へと向かっていった。

    セント・マークス教会のまわりで起きたのも、その一つである。

    1879年、1000軒の扉を叩いた牧師の娘

    最初の週に来たのは3人だった

    1879年、アーサー・コネルは教区で炊き出しを始めた。同じ年、娘のアンナ・コネルが、働く男たちのための週1回の集まりを始める。

    アンナはアイルランドで生まれ、父についてこの街へ来た。研究者によれば、彼女は「この男たちが人生を無駄にしていくのを見ていられなかった」という。貧しさ、狭い家、酒、そして抗争である。

    その始め方がすごい。アンナは集まりを知らせるために、教区の家の扉を一軒ずつ叩いて回った。その数、推定1000軒。

    最初の週に来たのは3人だった。

    1000軒回って3人。普通ならここで心が折れる。アンナはやめなかった。近くの鉄工所で働く教会の役員、ウィリアム・ビーストウらが手を貸し、集まりは少しずつ人を増やして、やがて100人ほどになった。ビーストウは鉄工所で責任ある立場にいた人物で、この名前はあとでもう一度出てくる。

    この集まりは、信仰を問わず誰でも参加できた。アイルランド系の住民が多いこの街では、酒の入った喧嘩に宗派の対立が絡むことも珍しくなかったとされる。教会が開きながら信仰を条件にしないのは、その溝を越えるための工夫だった。

    そしてここから、サッカーチームが生まれた——というのが、長く語られてきた物語である。

    1880年11月の初戦と、最初のマンチェスター・ダービー

    観客が芝を荒らして、グラウンドを追い出された

    セント・マークスの名前で記録に残る最初の試合は、1880年11月13日。相手は近くの町の教会チームで、1対2の負けだった。最初のグラウンドは教会のすぐそばの空き地で、クリケットと共用。その前は、もぐりのボクシング試合に使われていた場所だという。

    翌シーズンの1881年11月12日、セント・マークスはあるチームに0対3で敗れた。相手はニュートン・ヒース。第1回で見た、鉄道会社の実業団チームである。

    これが、のちのマンチェスター・ダービーの第1戦とされる試合だ。いまでは世界中に中継され、日本でも夜更かしして観るファンが多いこのカードも、当時の地元紙が残した感想は「感じのいい試合だった」の一言だけ。両者はまだ、マンチェスター周辺に無数にあった小さなチームの二つにすぎなかった。

    雪辱は1882年3月4日。このシーズンに借りていた近くのクリケット場での再戦には5000人が集まったと伝えられ、セント・マークスが2対1で勝った。

    ところが、このクリケット場はホームで5試合使っただけで追い出されてしまう。大勢の観客とサッカーのスパイクが大事な芝を荒らしたのが理由だったとみられている。クリケットにとって、芝は命だ。

    その後もチームは落ち着かない。別のチームと合併しては分かれ、名前も変わり、数年のあいだに何度もグラウンドを移った。年6ポンドで借りた土地は地主の都合で使えなくなり、パブの裏の土地は値上げで出て行くしかなかった。

    年6ポンドの土地を借り、値上げされては追い出される。いまや世界有数の資金力を誇るクラブの、1880年代の姿である。

    「創設者はアンナ・コネル」説は本当か

    クラブ公式の歴史家が出した答え

    アンナの物語は美しい。1000軒の扉、3人の出席者、そして世界的なクラブの誕生。シティは「女性が創設した、おそらく世界で唯一のビッグクラブ」とまで言われてきた。

    ところが、マンチェスター・シティ公式の歴史家ゲイリー・ジェイムズは、これをはっきり否定している。彼の言葉はこうだ。彼女が実際にクラブを作ったという証拠は一切ない。1983年より前に、クラブ創設を彼女の功績とした出版物は一つもない。

    ジェイムズによれば、流れはこうである。教会ができて間もなく、教区にはクリケットのチームができていた。1867年の試合の記録も見つかっている。サッカーとラグビーのチームは1879年から1880年ごろ、そのクリケット仲間の若者たち自身が立ち上げた。最初のキャプテンは、近くに下宿して工学を学んでいた若者だったとされる。教会の役員ビーストウはクリケットのころから関わり、そのままサッカーの世話も続けた。

    アンナの集まりは1879年にはすでにあった。しかしそれはサッカーチームとは別の組織で、時期も先行している——というのがジェイムズの見立てだ。

    では「1000軒の扉」や「最初の週に3人」は作り話なのか。そうではない。それはアンナの集まりについての話で、集まりそのものを疑う人はいない。問題は、その集まりとサッカーチームが、どこまで直接つながっているかという一点である。

    たぶん答えは、どちらか一方ではない。1870年代のこの教区には、礼拝と慈善とスポーツと社交が入り混じった、ひとつの輪があった。そこからクリケットが育ち、クリケットからサッカーが枝分かれした。ビーストウのように、アンナの集まりにもスポーツにも関わった人もいる。アンナがその土を耕した一人だったことは疑いにくい。一方で、「アンナがサッカークラブを作った」という言い方が、100年後に生まれたわかりやすい要約だというのも、また確かなのだろう。

    アンナ自身は、サッカーとは縁のないまま生涯を終えた。父を支え、父の死後は義兄の教会を手伝い、晩年は教会で奉仕する女性たちを育てる施設で責任者を務めた。亡くなったのは1924年。自分の名前がサッカーの歴史に残るとは、おそらく想像もしなかっただろう。

    教会のチームが「ビール屋」と呼ばれるまで

    酒から若者を遠ざけるはずが、パブで着替えるクラブに

    1884年ごろのユニフォームは、黒いシャツの左胸に白い十字。教会のチームであることを示す印で、シャツを贈ったのは教会の役員ビーストウだった。絵や写真で残っている最も古いユニフォームだが、このデザインは二度と使われていない。

    1887年、ようやく腰を落ち着ける場所が見つかる。キャプテンが仕事帰りに見つけた線路脇の空き地を、鉄道会社から7か月10ポンドで借りた。ハイド・ロードである。チームはこのとき、地区の名前をとってアードウィックと名乗った。

    ここで、話はきれいにひっくり返る。

    このグラウンドにも更衣室はなかった。選手たちが着替えたのは、隣のパブである。クラブの最初の会合も、1894年に「マンチェスター・シティ」になると決めた会合も、このパブで開かれた。パブを持っていた地元の醸造会社はクラブの大きな後ろ盾となり、1888年には最初の1000人分の座席スタンドまで建てた。ついたあだ名は「ビール屋」。

    酒と喧嘩から若者を遠ざけようとした教会のまわりで生まれたチームが、10年もたたないうちに醸造会社の世話になり、パブで着替え、「ビール屋」と呼ばれるようになった。第1回で見たユナイテッドの救い主デイヴィスも、醸造業者だった。19世紀末のイングランドで、サッカーに金を出すのは、たいていビールの金だったのである。

    アードウィックは1892年、新しくできたリーグ2部に加わる。しかし2シーズンで経営が行き詰まり、選手もそろわなくなった。そこでクラブの書記が動いた。リーグを説得して席を守り、一つの地区の名前ではなく街全体の支持を集められる名前が必要だと考えて、クラブを作り直したのである。

    1894年4月16日、マンチェスター・シティが会社として登記された。同じ年の5月には、リーグへの加盟も認められる。教会の空き地で始まったチームは、14年かけて、ついに街の名前を名乗った。

    1904年の初タイトル、1906年の追放、そして火事

    教会生まれのクラブの黄金世代が、ユナイテッドの黄金期を築いた

    1903年ごろ、マンチェスター・シティのシャツを着たビリー・メレディス。ウェールズの炭鉱の町に生まれ、12歳から炭鉱で働いていた。1904年のFAカップ決勝でただ一つのゴールを決め、1906年の処分のあとユナイテッドへ移った。
    1903年ごろ、マンチェスター・シティのシャツを着たビリー・メレディス。ウェールズの炭鉱の町に生まれ、12歳から炭鉱で働いていた。1904年のFAカップ決勝でただ一つのゴールを決め、1906年の処分のあとユナイテッドへ移った。

    最初のタイトルは1904年4月23日。ロンドンで行われたFAカップ決勝で、6万人を超える観衆の前でボルトンを1対0で破った。決勝点は23分、ウェールズ出身の右ウイングビリー・メレディス。ボルトン寄りの記者はオフサイドだと書いたが、ボルトンの選手は誰も抗議しなかったという。シティにとって最初の大きなタイトルで、ユナイテッドのリーグ初優勝より4年早い。

    そして次のシーズン、すべてが崩れる。

    リーグ最終戦、優勝の望みを残していたシティはアストン・ヴィラに2対3で敗れた。試合後、ヴィラの選手が「メレディスから、負けてくれたら10ポンド払うと持ちかけられた」と訴える。メレディスは出場停止となり、サッカー協会の調べが進むなかで、彼の口からクラブの秘密が明るみに出た。シティは、週4ポンドという給料の上限を大きく超える額を、裏で選手に払っていた。

    1906年に下された処分は厳しかった。監督は永久追放、元会長も無期限の追放、役員7人が活動停止や解任。そして17人の選手が罰金と翌年1月1日までの出場停止を受け、さらに二度とシティでプレーしてはならないとされた。チームが丸ごと消えたのである。

    シティは、処分された選手たちを市内のホテルで競売にかけるしかなかった。

    その会場に、街の反対側からアーネスト・マンナルがやって来た。第1回に登場した、ユナイテッドの責任者である。マンナルはメレディスを手に入れ(500ポンドが動いたと伝えられる)、サンディ・ターンブルら3人も連れて帰った。

    この4人が、ユナイテッドを1908年のリーグ初優勝に導く。1910年、オールド・トラッフォードで最初のゴールを決めたターンブルも、その一人だ。教会のまわりで生まれたクラブの黄金世代が、実業団から生まれたクラブの最初の黄金期を築いたことになる。当時この移籍は、同じ街のクラブ同士の助け合いとして、おおむね好意的に受け止められていたという。両クラブはまだ、いがみ合う間柄ではなかった。

    その後、マンナルは1912年にシティの監督になり、メレディスも1921年、47歳でシティへ帰ってきた。最後の試合は1924年、49歳245日。いまも両クラブの最年長出場記録である。

    給料と帳簿をめぐって、このクラブがリーグ当局と向き合うのは、このときが最後ではない。2023年2月、プレミアリーグは2009年から2018年にかけての財務規定違反の疑いでシティを告発した。いわゆる「115件」の問題で、クラブは疑いを全面的に否定している。

    1920年11月、ハイド・ロードのメインスタンドが火事で焼け落ちた。木造の建物とともに、そこにしまわれていたクラブの記録も失われた。創設のころに誰が何をしたのかを、クラブ自身の書類でたどる道は、ここでほぼ閉ざされた。いまわかっている1880年ごろのセント・マークスの姿の多くは、地方紙の片隅に載った小さな試合記事を、のちの研究者が一つずつ拾い集めたものである。

    クラブは1923年、8万人収容のメイン・ロードに移った。「北のウェンブリー」と呼ばれたこのスタジアムには、1934年3月3日、8万4569人が詰めかけている。いまもイングランドのクラブのスタジアムでの最多入場記録だ。そして2003年、現在の本拠地エティハド・スタジアムへ移った。

    セント・マークス教会は1974年に取り壊され、そのあたりもいまは再開発されて住宅地になった。シティ誕生の地を示すものは、ほとんど残っていない。

    一方で、このクラブの名前は、いま日本にも届いている。シティを傘下に持つシティ・フットボール・グループは、2014年に横浜F・マリノスの株式の約2割を取得した。マリノスの前身は日産自動車サッカー部、つまり実業団である。1880年に教会のまわりで生まれたチームを中心とするグループが、日本の自動車会社の実業団から生まれたクラブの株主になっている。

    二つのクラブの物語が教えてくれるのは、たぶん同じことだ。イングランドのサッカークラブは、サッカーのためだけに生まれたわけではない。ユナイテッドは鉄道会社の職場の楽しみとして、シティは教会の若者対策として生まれた。そしてどちらも、大きくなるためにビールの金を受け入れた。名前も色も持ち主も何度も変わったが、どこから来たのかという記憶だけは、緑と金のマフラーや、アンナ・コネルをめぐる議論のかたちで、いまも残っている。

    連載「マンチェスター二大クラブ物語」全 2 回

    1. 1マンチェスター・ユナイテッドは鉄道会社の実業団チームだった——1902年、破産を救ったのは迷子のセントバーナード 第1回
    2. 2マンチェスター・シティを作ったのは牧師の娘か——1880年、スラムのギャング団を止めるために教会が始めたクラブ 第2回(この記事)

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