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    2026年9月12日

    歴史・事件人物王室・制度

    マンチェスター・ユナイテッドは鉄道工場のチームだった——1902年、破産を救ったのは迷子のセントバーナード 第1回

    世界でいちばん有名なフットボールクラブは、鉄道会社の客車工場の社内チームとして始まった。緑と金のシャツを着て、更衣室代わりのパブで着替え、化学工場に三方を囲まれたピッチで戦っていた。1902年1月9日、裁判所はそのクラブに解散命令を出す。救ったのは、バザーで迷子になった一匹のセントバーナードだった——というのが、クラブが百年語り継いできた話である。

    マンチェスター・ユナイテッドは鉄道工場のチームだった——1902年、破産を救ったのは迷子のセントバーナード 第1回

    マンチェスター・ユナイテッドの創立年は1878年、そのときの名前は「ニュートン・ヒース LYR フットボール・クラブ」。LYR は Lancashire and Yorkshire Railway、つまり鉄道会社の略称である。赤い悪魔のエンブレムも、オールド・トラッフォードも、まだ影も形もない。あるのはマンチェスター北東部の車両基地と、そこで客車と貨車を組み立てていた工員たちだけだった。

    1878年、客車工場の部署対抗戦として始まった

    記録に残る最初の試合は0対6の敗戦だった

    1878年、ランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道のニュートン・ヒース車両基地にあった客車・貨車部門(Carriage and Wagon department)の従業員たちが、フットボールのチームを作った。

    これは「クラブ創設」と呼ぶにはあまりに小さな出来事である。当初の対戦相手は、同じ鉄道会社の他の部署か、よその鉄道会社のチームだけだった。機関車部門と客車部門が、休日に空き地で蹴り合う。19世紀後半のイングランド北部には、こういうチームが文字どおり何百とあった。そのほとんどは十年ももたずに消えている。

    記録に残るいちばん古い試合は1880年11月20日。相手はボルトン・ワンダラーズのリザーブチームで、結果は0対6の敗戦だった。このとき彼らが着ていたのは、鉄道会社のコーポレートカラーである緑と金のシャツである。赤ではない。

    この「緑と金」という一点は、覚えておいてほしい。130年後、この配色はオールド・トラッフォードのスタンドに、まったく別の意味を背負って戻ってくることになる。

    クラブが鉄道会社の手を離れ、名前から「LYR」が消えるのは1892年ごろのことだ。会社の福利厚生から、独立した興行へ——この移行は、当時のイングランドのフットボールが経験していた変化そのものだった。1885年にプロ化が公認され、1888年にフットボールリーグが発足している。工員が趣味で蹴っていたものが、入場料を取り、選手に給料を払う商売になっていく。ニュートン・ヒースは1889年にフットボール・アライアンスに加盟し、1892年にはリーグ1部に迎え入れられた。

    工場チームが、全国リーグの最上位にいる。出世物語としては上出来である。問題は、このクラブが試合をしていた場所のほうだった。

    更衣室はパブ、ピッチの三方は化学工場

    遠征してきた相手が「有毒廃棄物置き場」と呼んだグラウンド

    最初のホームグラウンドはノース・ロード。車両工場のすぐ隣にあり、土地の所有者はマンチェスター大聖堂だった。鉄道会社が名目だけの地代を払って借り、クラブに使わせていた。

    このグラウンドには更衣室がない。選手はオールダム・ロードにあるパブ、スリー・クラウンズまで数百ヤード歩いて着替え、また歩いて戻ってきた。試合中は、すぐ横を走る列車の蒸気がピッチに流れこんで視界を白く濁らせた。芝の状態については当時こう書かれている——夏は凸凹の石だらけ、雨の季節には泥の深い沼。

    収容力はおよそ1万2000人。1891年に1000人ずつ収容するスタンドを二つ建てて1万5000人ほどになった。最多入場者は1893年3月4日のサンダーランド戦で、1万5000人前後とされている。

    そしてこのスタンドが、クラブの首を絞めた。鉄道会社の同意なしにスタンドを建てたことで関係がこじれ、地主である大聖堂側は地代の引き上げを求めてくる。1893年6月、立ち退き通告。建てたばかりのスタンドは100ポンドで売り払われた。

    移った先が、クレイトンのバンク・ストリートである。ここがすさまじい。グラウンドの北側にアルビオン化学工場、南側にバンク・ストリート化学工場、西側にはマンチェスター市の発電所。三方を工業施設に囲まれたピッチだった。

    1894-95シーズン、遠征してきたウォルソール・タウン・スウィフツは、この場所を「有毒廃棄物置き場」と評した。彼らは正式に主審へ抗議したうえで、しぶしぶ試合をおこない、0対14で負けた。リーグはウォルソールの訴えを認めて再試合を命じ、ウォルソールは再試合も0対9で負けた。

    ちなみにこの14得点は、非公式ながらいまでもマンチェスター・ユナイテッドの最大得点差勝利である。世界最大のクラブの歴史的大勝は、対戦相手が「こんなところで試合はできない」と抗議した末の試合だった。

    1902年1月9日、裁判所が解散命令を出した

    訴えた債権者は、クラブの会長その人だった

    1部での生活は2シーズンしか続かなかった。テストマッチ(当時の入れ替え戦)に敗れて2部へ落ち、そこから上がれなくなる。観客は減り、給料は遅れ、借金だけが積み上がっていった。

    1902年1月9日、債権者のひとりウィリアム・ヒーリーの申し立てにより、裁判所がニュートン・ヒースに対する解散命令(winding-up order)を出した。請求額は242ポンド17シリング10ペンス。当時のクラブの負債総額は2,670ポンドで、2025年の貨幣価値にしておよそ28万ポンドにあたる。

    この話にはひねりがある。訴えたヒーリーは、そのときクラブの会長だった。かつては理事として自分の名を冠したカップを寄贈するほどの支援者である。内側から金を貸し、内側から取り立て、そして内側から止めを刺した。援助と債権の境界が曖昧なまま経営されていた小クラブの末路として、これ以上ないほど典型的な光景だった。

    管財人はただちに動いた。1902年1月25日のブラックプール戦を前に、バンク・ストリートの門には錠がかけられる。ホームゲームが開催できない。収入源が物理的に閉ざされた。

    この時点で、ニュートン・ヒース・フットボール・クラブは死んでいる。24年の歴史はここで終わるはずだった。

    バザーから逃げたセントバーナード

    クラブが百年語り継いできた話と、そこに残る疑問

    破産の前年、1901年2月。クラブはマンチェスターのオックスフォード・ストリートにあるセント・ジェームズ・ホールで、4日間の資金集めバザーを開いていた。

    主催の中心にいたのがキャプテンのハリー・スタッフォードである。ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道の機関車ボイラー工として働き、1896年4月3日のダーウェン戦(4対0)でデビューし、1897年からキャプテンを務めていた。つまり彼もまた、鉄道の工員だった。

    スタッフォードは自分の飼っていたセントバーナード犬メジャーの背中に募金箱をくくりつけ、会場の露店のあいだを歩き回らせた。愛嬌のある大型犬に寄付を集めさせるという趣向である。

    バザーの収支は、当時の記録に「まったくの失敗(a rank failure)」と書かれている。そして最終日、メジャーが会場から姿を消した。

    迷い犬は、地元の醸造業者ジョン・ヘンリー・デイヴィスのもとに流れ着く。デイヴィスはこの犬を気に入り、娘のペットにしようと考えた。やがて遺失物の広告を通じて飼い主と連絡がつき、二人は対面する。デイヴィスはメジャーを買い取りたいと申し出て、スタッフォードはそれを断った。代わりに彼が話したのは、自分のクラブがいかに金に困っているかということだった。

    ——これが、マンチェスター・ユナイテッドが百年以上語り継いできた創設神話である。

    正直に書いておくと、この話を同時代の一次資料で裏づけるのは難しい。バザーが1901年2月にセント・ジェームズ・ホールで4日間開かれたことも、それが不首尾に終わったことも、スタッフォードが救済の中心にいたことも、デイヴィスが出資したことも記録にある。しかし「犬が逃げたから出資が決まった」という因果の部分は、語られるたびに細部が入れ替わる。犬を見つけたのがデイヴィス本人なのか使用人なのか、犬は売られたのか贈られたのかも、版によって違う。

    そして、デイヴィスには犬とは無関係の動機があった。彼はモス・サイドのジョン・ヘンリー・リーズ醸造所の取締役であり、ウォーカー・アンド・ホムフレイ醸造所の会長、1904年までにはマンチェスター・ブリュワリー社の会長になる人物である。妻エイミーは砂糖王サー・ヘンリー・テイトの姪にして被後見人だった。1900年前後のイングランドで、醸造会社がフットボールクラブとそのグラウンドを押さえることには、はっきりした商業的な意味があった。何千人もの労働者が土曜の午後に一か所へ集まってきて、その前後に飲む。デイヴィスがニュートン・ヒースに金を出した理由を説明するのに、本当は犬は要らないのである。

    それでも、この話は消えない。クラブの歴史というものは、帳簿より犬の話のほうが長く生き残るものらしい。

    1902年4月24日、「マンチェスター・ユナイテッド」という名前が選ばれた

    落選した候補はマンチェスター・セルティックとマンチェスター・セントラル

    1905-06シーズンのマンチェスター・ユナイテッド。デイヴィスの資金で名前も色も変えたあとの姿で、緑と金は赤に置き換わっている。『デイリー・グラフィック』紙掲載、撮影はマンチェスターのハルトン商会撮影所。本文の終盤で触れるシティからの4選手が加入するのは、この写真の翌年のことである。
    1905-06シーズンのマンチェスター・ユナイテッド。デイヴィスの資金で名前も色も変えたあとの姿で、緑と金は赤に置き換わっている。『デイリー・グラフィック』紙掲載、撮影はマンチェスターのハルトン商会撮影所。本文の終盤で触れるシティからの4選手が加入するのは、この写真の翌年のことである。

    1902年3月、ニュー・イズリントン・ホールで開かれた集会で、ハリー・スタッフォードはクラブの支援者たちに向かって、自分とデイヴィス、そして地元の実業家3人が救済を引き受けると告げた。

    出資額については記録が割れている。デイヴィスを含む5人が一人200ポンドずつ出したという記録と、4人が500ポンドずつ出したという記録があり、総額では1,000ポンドから2,000ポンドのあいだになる。当座必要とされた資金が1,000ポンドだったことを考えると、前者のほうが辻褄は合う。創設神話の細部と同じく、ここも確定していない。

    そして1902年4月24日、クラブは正式にマンチェスター・ユナイテッドとして生まれ変わる。

    名前を決める議論には、落選した候補があった。マンチェスター・セルティックは、この街の宗派対立——アイルランド系カトリックとプロテスタントの緊張は、当時のマンチェスターで現実の問題だった——の片側に寄って見えるという理由で退けられた。マンチェスター・セントラルは、同名の鉄道駅がすでにあるという理由で退けられた。鉄道会社が生んだクラブが、鉄道駅と紛らわしいという理由で名前をあきらめたわけである。

    「ユナイテッド」を言い出したのは自分だと生涯主張し続けた男がいる。ルイ・ロッカ。1882年の暮れにマンチェスターで生まれた、イタリア移民のアイスクリーム屋の息子である。一家の店はニュートン・ヒースのロッチデール・ロード64番地にあった。会議の場にいた当時、彼は19歳か20歳。ロッカの主張を裏づける文書は存在しない。ただし彼がその後クラブに残り、スカウト網を築き、1945年にマット・バスビーを監督として招き入れた当人であることは記録にある。ミュンヘンの悲劇も1968年の欧州制覇も、この元アイスクリーム屋の息子が書いた一通の手紙から始まっている。

    同時に、シャツの色が変わった。緑と金は捨てられ、赤いシャツに白いショーツになる。鉄道会社のコーポレートカラーを脱ぎ捨てることが、この改名の意味そのものだった。

    ビール会社の金が建てたオールド・トラッフォードと、2010年に帰ってきた緑と金

    クラブを救った男は追放され、色は108年後に別の意味で戻ってきた

    1903年10月、アーネスト・マンナルがクラブの秘書(実質的な監督)に就任する。この男が、以後のすべてを決めた。マンナルの指揮下でユナイテッドは1907-08シーズンに初のリーグ優勝、1908-09シーズンにFAカップ初優勝、1910-11シーズンに二度目のリーグ優勝を果たす。工場チームは10年足らずで全国の頂点に立った。

    その原資をどこから引いてきたかは、この連載の第2回で書く。手短に言えば、街の反対側にあったもう一つのクラブが、1906年に主力選手をすべて手放さざるをえなくなり、マンナルがそれを買い集めた。

    デイヴィスの金は、スタジアムにも向かった。彼はブリッジウォーター運河沿い、ウォリック・ロードの北端の土地を選び、スコットランドの建築家アーチボルド・リーチに設計を委ねる。当初の構想は10万人収容だったが、費用が膨らんで約8万人に縮小された。予算6万ポンドに対し、土地代を含めた最終的な費用はおよそ9万ポンド。

    バンク・ストリートでの最後の試合は1910年1月22日、トッテナム戦の5対0。観客はわずか5000人だった。その数日後、嵐がスタンドの一つを吹き飛ばしている。1910年2月19日、オールド・トラッフォードがリヴァプール戦で開場した。結果は3対4の敗戦。このスタジアムでの最初の得点者はサンディ・ターンブルという選手で、彼こそ1906年に街の反対側から移ってきた4人のうちの一人である。

    登場人物のその後は、必ずしも明るくない。クラブを救ったハリー・スタッフォードはピカデリー近くのインペリアル・ホテルの主人になったが、1904年12月、選手への不正な支払いと帳簿の不備を理由に、秘書のジェームズ・ウェストとともにFAから2年半の資格停止を受けた。クラブを死から引き戻した男が、そのクラブから締め出されたことになる。ジョン・ヘンリー・デイヴィスは1927年10月24日、ウェールズのランディドノで63歳で死んだ。

    マンナル自身も、1912年9月にユナイテッドを去った。行き先は、彼が選手を買い叩いたあのクラブ——マンチェスター・シティである。オールド・トラッフォードとメイン・ロード、マンチェスターの二大スタジアムの建設をどちらも動かしたのは同じ人物だったと信じられている。

    そして色の話である。2010年、グレイザー家のオーナーシップに抗議するサポーターたちは、緑と金のマフラーを巻いてオールド・トラッフォードに現れた。7億ポンドを超える負債を背負わされたクラブに対して、彼らが選んだ抗議の記号は、レバレッジド・バイアウトへの批判でも経営数字でもなかった。1878年に客車工場の工員たちが着ていたシャツの色である。

    1902年、5人の男が犬の話とともに持ち込んだ金が、緑と金を赤に変えた。108年後、その赤いスタジアムで、同じ色が「クラブは本来われわれのものだ」という主張の旗印になった。工場チームとして生まれたという出自は、百年以上たってなお、このクラブが自分自身をどう語るかを決めている。

    次回は、同じ街の東側で、まったく違う場所から生まれたもう一つのクラブの話をする。出発点は、教会である。

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